bleach

Ragione d’Essere

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 深夜、周囲が寝静まった時間マンションから一人の青年が出てくる。
 色素の薄い髪をした、どこか異国風の顔立ちに、医療用の眼帯をし、パーカーにダウンを着て防寒している。物静かで誠実そうな整った顔は、ほぼ無表情といってよかった。吐く息が白い。慣れた足取りで階段を下りると、人気の無い深夜の路地に急ぎ足で繰り出した。
 マンションに面した細い通りは、三ブロック先の大通りに続いている。青年は、大通り沿いにあるコンビニを目指しているようだ。
 大通りの車は、この町など景色の一部とばかり速度を出して通り過ぎていく。後ろからやってきて追い越していく車は、ほとんど運送業のトラックで、大きな車体が巻き起こした風が、青年の薄い亜麻色の髪を掻き乱す。
 地方の中核都市として栄える空座町の一帯から外れた、小規模で閑静な町。
 そこが、テスラとノイトラが流れ着いた先だった。
 どういう経緯で自分たちが現世に溢れてしまったのか、テスラにもよく分かっていない。ただ、虚圏が忌まれた魂の終着点だと信じて、破面の生を全うしたテスラたちには、まだ続きがあったのだ──その名を地獄という。
 テスラは、地獄での記憶も曖昧だ。
 孔に満ちた死は外へと溢れ出て、死は新たに、自由で伸びやかな形を得た。そうした感覚に浸された覚えはある。だが地獄での詳細な出来事は、現世に来てから曖昧として思い出せずにいる。
 地獄から現世にあふれ出たのは、ノイトラもだ。気がつくと、孔も角もない、人により近い姿で、しかし地獄の破面の霊圧は残したまま、存在していた。
 地獄から放逐され(ノイトラが現状を「追い出された」と表現したので、テスラも放逐された認識でいる)現世に流れ着いたものの、その後の去就は何一つ決められなかった。
 人型を模しているが破面でもなく人間でもない二人は、人間社会に居場所を持つ必要がない。彷徨い歩き、何者でもなく流浪する選択もありえた。だが、目的地も信条もない流浪がいかに無為かは、破面だった頃に嫌というほど味わっている。
 地獄において、ノイトラは死への絶望から逸脱したはずだ。──魂の欠落を示す孔を失ったからには、欠落は埋められたと想像するのが妥当だろう、しかしテスラは自分の憶測に懐疑的だ。もし欠落を埋め合わせるなにかを得ているなら、自分はノイトラに囚われていないはずだ。彼の行く末を見届けなくては、という執念に似た義務感から解放され、文字通り生きるも死ぬも、好きに選択できているはずなのだ。
 つまり、破面の頃にあった孔は埋め合わされたのではなく、顕れ方が変化したに過ぎない。
 地獄は霊子の終着点ではなく、新しい懊悩の起点に違いない。
 テスラは、現世を彷徨う間につらつらと考えた自分の推察をノイトラに話していない。話したところで、居場所も行くあてもないのだ。
 今の住まいはテスラが用意した。
 彷徨う魂魄やうろつく虚を食いながら宿無しで過ごすことしばらく、テスラはとあるマンションの大家だという老人と遭遇した。衝動的に生きた人間を害しに出かけたノイトラを待って、人気の無い公園のベンチにいたところを、散歩中だという老人に話しかけられたのだった。
 老人は挨拶もそこそこに、話し相手に飢えていた様子で、自分の身の上話を始めた。テスラは相手を無視していたが、ノイトラを待っている以上は公園を立ち去るわけにもいかない。自然、相手の話を聞く格好になる。
 老人は、親身な態度で話を聞いてくれる若者にすっかり気を良くしたようだった。生活のあてがあるのか、仕事は見つかりそうなのか、など老人はあれこれと詮索する。テスラは静かな面持ちで相手を見つめて、「相談に乗って欲しい」と答えた。
 ノイトラが町に戻ってくる頃には、テスラは老人が所有していたマンションを実力行使で譲り受けていた。贈与の手続きが完了した老人は、テスラの手で「終了」された。その後、無念のためか虚となり、その霊子はノイトラの腹に収まった。
 住まいと生計をまとめて獲得したテスラとノイトラは、あてどない生活を始めた。
 突然始まり、終わりがいつか解らない日々。
 どこか、虚圏での日々に似た、無味乾燥した味わいのある時間。
 しばらくして、テスラは怪訝に思うようになる。
 人の形を摸しているとはいえ、人間ではない。死神や破面に近い何かである自分たちには、現世の人間では持ち得ない霊圧が備わっている。実際、霊圧に惹かれて虚が襲ってきたのは一度や二度ではない。
 普通なら、ただならぬ霊圧を関知して、管轄の死神が飛んでくるはずだ。
 だが、なにか事情があるのか、この町の死神はノイトラもテスラも放置していた。マンションを乗っ取って半年、監視の気配が皆無な現状から、テスラは空座町でただならぬ惨事が起きていると悟った。
 死神たちは、自分たち、はぐれ者の異分子に手勢を割く余裕がないのだ、おそらく。
 テスラにとって、空座町がどうなっているか、死神や現世の人間がどうしているのかに、関心はない。
 結界で綴じているのか、空座町方面から巨大な霊圧が響いてくることはなく、テスラたちがいる町は、物理的にも霊的にも、静まりかえっていた。静かすぎるくらいだ。巨大な圧に、細々した霊力はねじ伏せられて活動できなくなっていると察せられる。
 確かにテスラも、ある時を境に霊的なプレッシャーを微かに感じていた。その原因が空座町にあるのだとしても、テスラは関知しないと決めて、意識の外に追いやっている。
 それは、ノイトラも同じはずだ。
 テスラより霊圧への感度が高いノイトラは、この町に流れ着いた後しばらくは、細かな魂魄の気配を鬱陶しがり、自分たちの現状に対する不可解さに苛立っていた。やがて、ノイズに似た霊圧を意識から締め出し、よく分からないまま辿り着いた現世で、自堕落な生活に耽るようになった。
 ある意味、新たな絶望に足を取られたと言えた。
 テスラは、破面だった頃と変わらず、ノイトラの自堕落と自暴自棄を後ろからただ見ているしかなかった。
 今のノイトラは、過去にも現状にも関心がない。日々、緩くとりとめない怠惰と刹那的な快楽衝動に身を任せ、覇気のない佇まいで過ごしている。
(現世のものを、ずいぶん嗜むようになった)
 幅広い車道を渡る長い横断歩道の前で立ち止まり、テスラは足下に視線をやる。

 深夜、熟睡していたテスラをノイトラは足蹴にして叩き起こした。熟睡といっても、人間のように眠っているわけではない。意識を緩めて揺蕩わせていただけだった。テスラが起き上がると、その顔に紙タバコの空箱が飛んで来た。ぽす、と額に当たって落ちる。
「買ってこい」
「他に何か要るものはありますか?」
「ねぇ」
 テスラは人型の体では寒く感じる室温に気づき、エアコンと加湿器を入れる。人のような暮らしに慣れたテスラに対して、ノイトラはそうした家電類を頭から拒否していた。人間のつもりかよ、と嘲笑するノイトラに、テスラは「快適であった方がいいかと思いまして」と言い返した。テスラは嗅覚が覚えている虚圏の空気に似せて、室内の空調を整える。その気遣いがノイトラには煩わしいようで、テスラがエアコンのリモコンを操作するのを見て、忌々しげに舌打ちした。
「寒かろうが暑かろうが、関係ねえだろ。俺らには」
「しかし、実際にお寒いのでは」
 ノイトラはベッドの上で、全裸のまま、分厚い羽毛布団と毛布を羽織っている。胡座をかいて布団からはみ出している足先は、いかにも寒そうだった。もしすかるとノイトラは、現世に快適さを見いだしたくないのかもしれない。だが、とテスラは口に出さず反論した。何事も不快よりは快適な方がいいはずだ。
 布団にくるまったノイトラは、はみ出た長い足でテスラの腰を軽く蹴っ飛ばし、悪態をついた。
「そんなにニンゲンになりてえのか?」
「そういうわけでは」
 テスラは即座に否定する。なりたいものなどない。
 テスラは、人間にも虚にもなりたいと思わない。破面に戻りたいとも思わない。ノイトラと同じ存在になれたら、という薄氷のような望みがあるだけだ。自我を得、ノイトラと出会った後から一貫するテスラのカタチ。絶望による死へと緩慢に確実に歩むノイトラの足取りと同じで、そのような生き物として生じたのだ。
 ノイトラも理解している。ノイトラは、テスラの存在意義をこの世の誰よりも理解している。彼が受容したから、テスラはこのカタチを得たのだ。
「さっさと行けよ。あと、酒も見繕ってこい」
「承知しました」
 慇懃に頭を下げるテスラに、ノイトラが呆れた鼻息を洩らして呟いた。
「いつまで従属官気取りなんだよ、テメーは」
 ここは虚圏じゃねえ、とノイトラが独り言めいて呟く。テスラは身支度をしつつ、内心で小さく驚いていた。あてどなく停滞するだけに見えた時間に、ちゃんと変化が生じようとしている──良い兆候か、不穏な前触れかは、テスラにも判らない。

 

 横断歩道を渡る間、たった一人の歩行者のために待たされているトラックたちからは、無言の圧が浴びせかけられる。テスラは別に焦らず、悠々と渡った。一番近いコンビニエンスストアが大通りの対岸にあるので、この信号を渡るのには慣れていた。
 広々とした駐車場に対して、コンビニエンスストアの建物はこぢんまりとして、おもちゃめいて見える。乗用車とバンが一台ずつ駐車されており、寒い夜にもかかわらず店外でタバコを吹かす若者がたむろしていた。
 彼らを無視して店内に入る。過剰な暖房で空気が重たく乾いている。人間の安心のために煌々と明るい店内には、テスラ一人しかいなかった。表でたむろしていた若者らは、店内に入るつもりがないらしい。
 テスラは酒の味が分からない。美味かどうか判断できないので、いまだにノイトラが好む銘柄を曖昧にしか覚えていなかった。蒸留酒で、虚圏でよく見かけた石柱に似た、四角いボトルだ。
 酒類の棚をすべて確認したが、ノイトラが一番好きな酒はなかった。以前、このコンビニエンスストアで買ったのでいつでも置いてあると思い込んでいるが、もう仕入れていないのかもしれない。ノイトラの吸うタバコは、このコンビニエンスストアでしか手に入らないのにだ。
 テスラは無軌道に、買い物カゴの中へ酒類を投げ込んでいった。ビール、サワー、ワイン、日本酒。どれが良いかまるでわからない。以前──虚圏で従属官として仕えはじめた頃、ノイトラの真意を測りかねると、舌がもつれるような焦りを覚えた。今は、自分の推し量れないノイトラが存在することに、安堵に似た悦びを感じている。手当たり次第に酒を買って帰ったとして、呆れられるか、罵倒されるか、関心を持たれないか、テスラは想像できない。自分が変わったのか、ノイトラが変わったのか。確かに、お互いの距離と思惑は以前から変化し続けている。
 テスラには、現状がそのように見えていた。
 レジに向かうと、かなり待たされた。倉庫から出てきた店員はいかにも怠そうに、無言で、テスラの持って来た買い物カゴの中身をレジに通していく。
「タバコ。五番」
 ノイトラがタバコを吸うのは、破面を噛み砕いたときの苦みに似ているから、と言っていた。テスラも試してみたが、ノイトラのいう味わいはなく、喉に絡みつく煙をうっとうしく感じただけだった。銘柄の違いを、ノイトラは把握していない。かつての序列と同じ番号のタバコを、惰性で買い続けている。
 すべての買い物を終え、かなり重たい袋を下げてテスラは店を出た。
 さっきたむろしていた若者はおらず、車もいなくなっていた。
 あたりはしんとしている。コンビニエンスストアの表は、さっき渡った二車線の幹線道路で、どんな深夜でも車が完全に絶えることはない。なのに、一台も通り過ぎる気配がない。
 テスラは店の出口に立ち尽くしたまま、耳をそばだてた。がさがさしたノイズに似た、低級虚や遠くで彷徨う整の魂魄の霊圧がある。それだけだ。だが、明らかに違和感を覚えていた。
「なにが──」
 突然、プレッシャーがテスラの両肩を押さえつける。横を振り向く。
 駐車場エリアに設置された鉄製の丸いバーに、軽く腰かける姿が目に飛び込んでくる。
 白くゆったりとだぶついた服装に、独特の形をした剣。波立つエメラルドの髪。
「久しぶりね。テスラ」
「……ネリエル様」
 一瞬、テスラの中で事務的な敵意と戦意が漲った。だが、相手が霊圧でプレッシャーをかけてきたのは、呼び止める代わりに過ぎなかったらしい。ネリエルは、破面の姿のまま溢れる霊圧を押し込めると、テスラを振り向いた。
「貴方に頼みがあって来たの」
「……」
「一護と、私たちと、死神たちは、これから溢れた地獄を閉ざす戦いに臨む。途方もない乱戦になるでしょう。今までは結界で空座町と外を切り離していたけれど、それも限界が来た」
「その戦いに干渉するなと?」
「横やりを入れられても、誰も、構ってあげられる余裕はないと言ってるのよ」
「今までの不干渉に免じて、ということですか」
「そう捉えてもらって構わない」
 ネリエルは苦い表情になり、強ばった声で続けた。
「私とハリベルは、貴方たち地獄から溢れたかつての破面について、死神たちに処遇を一任した。今、虚圏で過ごす破面たちとは無関係な存在だから、どのようにしても、関知しないと」
「そうですね」
 今も虚圏にいる破面とは無関係。このくだりに、テスラは大いに同意だった。きっぱりと肯く。ネリエルは、幼さと愛嬌を残した美貌を冷ややかに強張らせ、体ごとテスラに向き直った。厳しい表情で更に言い募ろうと口を開く。
「だから、ノイトラを……」
「貴女の存在を感知しなければ、ノイトラ様はここに留まる」
 テスラが先に言い放った。淡々としているが力強い拒絶に、ネリエルが微かに目を見開く。虚圏で、ネリエルとこんな強い口調で話したことはなかった。たじろぐネリエルに、テスラは勢いを緩めず続ける。
「私に忠告し来たことすら、迂闊だったと思って欲しい。貴女が姿を見せなければ、ノイトラ様は干渉しない」
「……私も、ノイトラには二度と関わりたくない。だから、貴方に会いに来たの。ノイトラの手綱を握っておいてほしいから」
「まるで私がノイトラ様を御せているかのような言い方だ」
「違うの?」
 テスラは押し黙った。
 ネリエルに対してこれといった感情を抱いてこなかったテスラだが、今、はっきりとした憤りを抱いた。ノイトラの絶望に志向性を持たせた存在。その彼女が示す無理解の残酷さに、ぞわぞわと吐き気を催しそうになる。端整な顔は表情に乏しいまま、かすかに見開いた片目と引き結んだ口元が、ネリエルの残酷さを糾弾する。
 テスラの無言の憤怒に、初めて私情らしい私情をはっきり感じ取ったネリエルは、動揺を殺そうとして、剣の柄を握りしめた。
「テスラ、貴方」
「ここから立ち去ってください。貴女がノイトラ様を必要としないように、今のノイトラ様も貴女を必要としていない」
「……そうね。そうあってほしいわ」
 ネリエルがテスラから視線をそらす。背後、空座町の方向を振り向くと、丸い鉄柵の上に飛び乗った。
「貴方になら話が通じると思って、見逃していたのだから。……お願い、一護の邪魔だけはしないで」
 ネリエルは言い残して、星のない夜空の暗闇へ軽々と飛翔し、そのまま飛び去っていった。
 周囲を取り巻いていた霊圧が薄れ、ざわざわとした夜の空気が戻ってくる。テスラの意識が遠ざかるネリエルから逸れて、身の回りに引き戻される。気づくと、コンビニエンスストアの駐車場に新たな車が入ってくるところだった。静まり返っていた車道では、大型車がスピードを出して行き交っている。
 おそらく、数分にも満たない会話だった。しかし、テスラは現世に来てはじめて、心肝の震える心地がしていた。
 ネリエルがいると知ったら、今のノイトラがどうするのか、テスラには予想できない。もはや過去の傷でしかないと、とりあわないかもしれない。
 それでもやはり、存在を無視できないのではないか、という不安が拭えなかった。
 テスラはノイトラの待つ部屋へ、ゆっくり歩き出した。来るときに引っかかった信号が運悪く青で、テスラの思案がまとまる前にマンションに着いてしまいそうだった。

 

 部屋に戻ってくると、玄関と廊下がひんやりとしていた。暖房が切られている。ノイトラがエアコンを嫌って切ったのだろう。寝室に入ると室温は一層下がった。
 ベッドの上で布団が丸くなっている。頭を半分だけ出して横たわるノイトラの姿に、テスラは枕元に膝をついてそっと呼びかけた。
「タバコと酒を買ってきました」
 ノイトラは布団をかぶったまま寝返りを打ってから、顔を見せた。首筋から剥き出しの肩まで、布団からはみ出る。ノイトラは全裸のままだった。
「遅ぇぞ、グズ」
「申し訳ありません、あと、酒類は適当に見繕ってしまいました」
「タバコよこせ」
 飢えをしのぐかのように、テスラが置いた袋の中をあさって、タバコの箱を取り上げる。パッケージを雑に剥くと、うつ伏せになって口先にくわえた。寝煙草はやめるようテスラが何度も諌めているが、ノイトラは寝転がって煙草を吸いたがる。気分がいいのだという。
「ちんたらしてやがったな、ついでの用事でも済ませてきたのか?」
「いや、……酒を選ぶのに手間取りました」
「そうかよ」
 ノイトラが興味なさげにビニール袋を探って、手の触れた酒の缶を開けた。果実系サワーの甘酸っぱい香りがあまりに漂う。
 テスラは当然、コンビニエンスストアで起きた事を自分の口から伝えるつもりはない。
同時に、抑えていたとはいえ、ネリエルの霊圧に気づかないノイトラではないと確信もあった。つまらない隠し事をするな、と打擲されてもおかしくない状況だ。
 ノイトラがタバコを咥えたまま、テスラを振り向く。火を点けるよう促す仕草に、テスラは無駄と思いつつ、「せめて起き上がってください」と忠告する。
「うるせぇ家主だぜ」
 悪態をついたノイトラは果実サワーの缶を片手にのそりと起き上がった。ひんやりと冷え込んだ部屋に、ノイトラが布団の中に溜めていたなけなしの温もりが四散していく。ひょろりと長い手足を折りたたむように、片腕で膝を抱え、壁にもたれて座ると、テスラを振り向く。
 黙ってタバコの先を突きつけてくるノイトラに、テスラは慌ててヘッドボードに置きっぱなしの安物ライターで火をつける。
 シュッ……と灯った火を吸い込むように紫煙をゆっくり肺に入れたノイトラは、吸い込んだ煙をテスラの鼻先に吐きかけた。
 テスラがむせる。短く咳き込みつつ、枕元から立ち上がろうとすると、その腕をノイトラの石のように冷えた手が掴む。
「ツラぁ貸せって言ってんだよ」
「……! それはもう、さっき、散々……」
 数時間前の、捕食のような情事を指してテスラが抵抗する。ノイトラはわずかな抵抗を無視し、テスラの体をベッドに引き倒した。着ている服に手をかけると、背中から脱がそうと乱暴に引っ張る。
「ノイトラ様!」
 うつ伏せに引き倒されたテスラが叫び、肩越しにノイトラを振り向く。唇の先に、ふわ、とタバコの煙が漂い、苦く、涼しく、薄甘い香料の香りがした。続けて、ノイトラの薄い唇と切歯の感触。
 噛まれる、とテスラが身構えるより先に、ノイトラの歯がテスラの下唇を噛みちぎった。
「……ッ」
「コソコソすんのは昔からの性分だろうから大目に見るがなァ……」
「ノイトラ、」
「言ったよなァ。つまらねえ生き方するくらいなら、無意味に大暴れしてくたばる方がマシだって」
 ノイトラが低く唸る。怒りと悔しさにひずんだ声を聞き、テスラは戦慄した。血の滴る口元を押さえながら、上手く動かせない唇でノイトラの名を呟く。
(私は、いつの間にか曇っていた、ノイトラ様の絶望が埋められて、別の形になるわけがなかったのに)
 ノイトラが吸いかけのタバコを、ヘッドボードに押しつけて揉み消す。空いた手でテスラの髪を鷲掴みにすると、その顔を自分の眼前まで引っ張り上げた。暗い室内で爛々とするノイトラの隻眼には、弱者への憎悪が戦意となって渦巻いている。
 ネリエルが健在で在り続ける限り、弱者にはノイトラも含まれ続ける。死の先に行き着き、そこからも放逐され、何者でもなくなったノイトラに唯一残った存在意義は、完全体のネリエルを凌ぐことなのだ。
 外にあふれ出した絶望は孔を埋めたかもしれないが、それによって渇きをより鮮烈に、明確に、自覚的にした。
(彼女に遭遇したとき悟ったはずなのに。……気づかないフリをしていれば、君の絶望を二度見ずに済むなどと思った、……)
「……私の考えが、愚かでした」
 爛々と、ネリエルへの殺意に煌めくノイトラの片目を見つめ返し、テスラは視線を伏せて詫びる。ノイトラは、テスラの髪を鷲掴みにした手を放して、そのまま喉を掴んで締め上げる。唇から血を滴らせ、悔悛で表情を曇らせ沈黙するテスラをギラギラと睨みつけたノイトラは、冷たい火を吐くのに似た潜めた声で、テスラの口先に囁きかけた。
「解ったんなら、二度と俺に隠し事するんじゃねえ。俺の後ろで、俺が──に辿り着くまで、黙って見てろ」
 ノイトラの宣告に、テスラから紡ぎ出せる言葉は、ひとつしかない。
「……承知しました、ノイトラ様」

[了]

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