kengan

忘獣存人

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 加納アギトが人の言葉を口にし、庇護者である片原滅堂を対象物ではなく一個の人間として認識出来るようになり、人は己を殺すためではなく語りかけるために動いているのだと理解し始めた頃、滅堂はアギトに一つの細工物を預けた。螺鈿細工の箱で、アギトの両手に乗るくらい、中には絵を撮った写真が納められていた。初めて印画紙に触れたのかアギトは絵の印刷された表面を白い指先で何度もなぞり、しばらくしてようやく、絵の内容を食い入るように見つめた。
「すぐに解らんでもよい、よい。これが何か解ったなら、儂に教えておくれ」
 老人のどこか悪戯っぽい皺だらけの顔をじっと見つめたアギトはひとつ頷き、細工の箱を部屋──狂獣を収める檻同然の四畳間に持ち帰った。それは、アギトが初めて滅堂の働きかけに対して反応した日となった。
 その日を境に、アギトは誰彼区別無く飛びかかろうとするのを止め、檻に訪れる者の言葉に黙って耳を傾けるようになった。恐ろしく口数が少ないのは語彙に乏しいからか、言葉を発する術を忘れてしまったのかは、解らない。アギトは長い間、自ら喋り出さずに語りかけられる言葉を聞くだけの、白い貌をした不気味な少年だった。
 だが、ある日、読み書きを教えに来ていた教師役の護衛者に、滅堂から貰った写真を差し出して、
「これはどんな絵だ」
 そう問うた。
 一年以上黙りだったアギトが突然声を発したので、護衛者は驚きのあまり腰を浮かせて、そのまま滅堂に報告しに屋敷へ駆け戻ってしまった。
 アギトが喋ったと聞いた滅堂は、顎髭を撫でてウンウンと頷き、アギトを檻から出すことにした。人を見て、人として対話を求めるのなら獣ではない。アギトは屋敷に連れ帰られて以来、ようやく「地上」に戻って来た。
 人としての生活が始まると、アギトはめざましい早さで「人間」のかたちを取り戻していった。生存本能、闘争心が並外れているはもちろんのこと、それ以上の才能がアギトの中には眠っていた。何事か習得し、適応し、極める、このサイクルの異常なまでの早さ。アギトの強さの源が適応力にあると見た滅堂は、すくすくと育つ若芽を夢中で育てるかの如く、ありとあらゆる教養を施し始めた。
 日々、ひとつ何かを学ぶたび、アギトの顔には理知と生気が宿り、求道者としての野心が萌芽し始めた。
 頃合いを見計らったように、滅堂はある日、アギトに「渡した写真を交換しよう」と告げて、絵の写真を別の写真に取り替えた。その頃のアギトは見た絵の内容を説明するのに十分な語彙も論理的思考力も兼ね備えていたので、「前に渡された絵の続きだ」「何かを探している人の絵だ」と見たままを語り、伝えた。
 滅堂は答えを聞き、
「それならもう一枚も渡しておこうかの」
 そう言って、別の絵の写真を手渡した。受け取ったアギトはようやく、何かひと繋がりの出来事を表す絵であること、古めかしい着物の人物は野山で獣を探しているらしいこと、を読み取った。
「賢いお前は、この意味にもうすぐ気付くじゃろ。問題は、その先なんじゃ」
「気付いた先……」
 やっと、学校に通いやんちゃをする年頃の護衛者たちと同じに、制服を着て外の世界に触れる機会を与えようかと打診され始めた頃、アギトは朝に夜に、滅堂から受け取った絵の意味を説き明かそうとし始めた。

 加納が屋敷から引き取る私物はバックパックひとつに収まるほどしかなく、一番大きな荷物は鷹山ミノルから譲り受けたバイクだった。バックシートに荷物を縛り付けていると、数日前に「名馬」の鍵を渡した鷹山が姿を見せた。見送りではなく、初心者では持てあましかねないバイクをどれだけ乗りこなせるか、冷やかしに来た態度だった。が、加納アギトは異質な適応力を誇る闘技者、五代目・滅堂の牙だった男だ。エンジンに振り回される無様は晒さない。
 エンジンをふかして屈強な体で振動を受け止め、どこか満足げな加納の様子を面白く無さそうに眺めていた鷹山は、バックシートのちっぽけな荷物を一瞥して、ずっと気になっていたある事について尋ねた。
「そう言や、お前。御前からたまに、写真を貰ってたな。ここを出て行くと決めた後も渡されてたが。ありゃあなんだ?」
 家族写真、という言葉は加納にも鷹山にも縁遠い。しかし、滅堂が庇護し、滅堂の下で忠誠を尽くす仲間は家族のような何かであったし、加納にとって片原家の人々は紛れもなく家族だったろう。旅立ちの日に手渡されるなら一同と映した一枚でもおかしくない。
「見るか?」
 アイドリングしていたエンジンを停めて、加納はバックパックを開いて、彼の手には不似合いなほど繊細で小さく、白い貌によく似合いの螺鈿細工を施された箱を取り出した。ためらいなく蓋を開けると、古びたものから最近のデジタルプリントで出力したらしいものまで、数枚の写真が出てきた。
 一番新しい一枚を鷹山に差し出す。古びてくすんだ紙を写したかのような、無地で、何も写っていないように見える写真だった。てっきり、アルバムめいた何かを想像していた鷹山は、白紙同然の一枚を見せられて、マスク下の顔を苦く歪めた。
「なんだよ、こりゃあ」
「これが、御前からの餞別だ」
「御前からの?」
「私はこの絵の意味を説き明かさねばならないんだ。解ければ、自ずからここへ戻ってくるかもしれない」
 加納が無地の写真を指して「絵」と呼ばわったので、鷹山もそれが何も描かれていない古紙の写真だと解った。が、それが加納の餞別になる道理がさっぱり解らない。鷹山には解らない事が加納には解っているようで、納得している、どこか嬉しげにさえ見える面差しに、複雑な心持ちがした。
「……テメェの事を理解りたいとは思っちゃいねえが。一回、すっからかんになったら、気が済むだろ」
 気が済んだら戻ってこい、とはけして口に出したくない、鷹山の意地が続きを言わせなかった。しかし、お互いの意地と命を張り合った間柄だ、含みある言葉尻を捉えるのは容易い。加納は眉間を広げてふと笑う。
「案外、お前はとっくに答えを得ているのかもしれないな」
「答えって、なんのだよ」
 鷹山はじろりと睨めつけたが、加納は穏やかに微笑んだきりで、何も言わなかった。そしてふと思いついたように、鷹山に箱ごと写真を押しつけた。
「預かっていてくれ。いつか、答えあわせをしよう」
 無邪気に一方的な約束をしてくる加納の、見たことのない晴れやかな表情に鷹山は何も言い返せずに、押しつけられた箱を受け取った。加納は再びバイクに跨がると、今度こそ、発進する意志をこめてエンジンを駆り立てる。ヘルメットを被る前に一度だけ鷹山を振り返った加納は、別れの挨拶も出発の言葉もなくただ視線を合わせて、そして前に向き直った。
 鷹山の皮膚にも耳にも馴染んだエンジン音と共に、加納を乗せたバイクは走り出して、見る間に、公道に続く邸内の道の向こうへと遠ざかっていった。とうとう旅立ってしまった加納の姿をしばらく眺めていた鷹山は、預かってしまった箱の中身を改めてみる。
 数枚の写真は、野山で何かを探す人物の絵に始まる、ひと繋ぎの物語を表していた。獣を尋ね、獣を得て、共に往き、共に帰り──鷹山にはそれが、加納の軌跡のようにも、自分の軌跡のようにも思えるのだった。

──騎獣已得到家山。
──獣也空兮人也閑。
──紅日三竿猶作夢。
──鞭繩空頓草堂間。

【了】

※タイトルと末尾の詩は、十牛図・第七「忘牛在人」を書き換えました。獣→牛に置き換えると原文ママです。

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