Teardrop on the fire,
Of a confession,
Fearless on my breath
(疲れた……)
デスクでPCを前にして呆然としていた南方は、長いため息とともに、肘をついて項垂れた。
夜は立会人の仕事でほぼ徹夜、そんなときに限って朝から外せない会議が重なった。捜査本部を割り当てられなかったのは良かったが、南方が庁内にいると知って、いわゆ事務仕事が次々に舞い込んだ。いまだに紙媒体文化の機関とはいえ、画面を見る作業が主体になりつつある。寝不足、疲労、紙と画面で文字を追う作業、仮眠する隙なくやってくる部下や同僚からの連絡。最後に、南方の二足わらじを知らない上司から飲み会の声がかかったところで、南方は体調を理由にきっぱり辞退した。
警察組織で上司の誘いを断るのは、よっぽどの場合だ。濃い隈を作ってげっそりした顔色の南方を見て、上司も本当に体調が悪いと考えたのか、あっさり解放された。
失点ではあるが、南方の籍は警察組織の上に覆い被さる倶楽部賭郎に置かれている。拙い立会をやらかすのに比べれば、上司の失点くらいなんということはない。
ようやく帰り支度を始められるところまで辿り着いたのに、南方はにわかに立ち上がれなかった。目の奥が尋常ではなく痛む。寝不足と眼精疲労の限界に、浅いため息をつく。
(こんなんで、やっていけるのか? いや、こなしていくしかないんだが)
椅子と同化していた体を引き剥がして立ち上がり、コートと鞄を持つ。と同時に、ドアがノックされて、南方の返事を待たず、秘書役の巡査長が入ってきた。
「参事官、今よろしいですか」
「……ああ」
明日にしてくれ、の一言をどうにか飲み込んで頷く。巡査長は南方の顔色を観察しつつ、茶封筒に入った所轄署からの書類を提出した。中身を改め、急ぎでないことだけ確認すると、書類ケースに置く。
「明日朝、処理する。ご苦労だった」
「あの、お送りしましょうか」
「いや、いい」
「でも、あまり顔色が良くないです。無理なさっているのでは?」
完全に善意からの提案に、南方は一瞬、眉尻を上げそうになった。
部下に労われるのを良しとする関係もあるだろうが、この若い巡査長とは、階級的にも立場的にも、もっと距離がある。南方の感覚からすると、目下に己の弱さを見抜かれた屈辱がどうしても先に来る距離だ。しかし巡査長は、南方の一瞬の苛立ちに気づかず、「すぐ車を回しますので」と前のめりに告げる。
「本当に大丈夫だ。君も自分の仕事があるだろう」
「私の仕事は、まず参事官の補佐ですので」
遠回しに放っておけと言っても伝わらない相手に、南方は面倒くさくなってしまい、首を振った。
「車を回してくれ。すぐ下りる」
巡査長は意気揚々と退室しようとしてから、部屋を出る前に南方を振り返った。
「良ければ薬局で目薬を買ってきましょうか? 自分もドライアイに悩んでて、よく効く目薬を知っているんです」
「いいから、車を回してくれ」
通じない時はとことん通じないものらしい。自分の気遣いに、少し酔っている雰囲気さえある。南方が鬱陶しさを隠さず先に行くよう顎をしゃくると、短くお辞儀して小走りに出て行った。
あの調子だと、頼んでもいない目薬を買ってきそうな勢いだ。
(目薬か……)
買ってきてもらっても、その場では差せない。南方は昔から、目薬を差すのが苦手なのだ。
車を回してきた巡査長は、南方の予想どおり、途中のドラッグストア前で勝手に停車した。
「ちょっと買ってきます!」
そう言って、お勧めの目薬とやらを買いに走っていった。
もはや南方は何も言わず、目を閉じて好きにさせておいた。「もらえるもんは、もろうておけばええ」と同居人の悪い笑顔が、閉じた瞼の裏に浮かんで消える。
南方が後部座席で目を閉じて腕組みしていると、ほどなくして、巡査長が戻ってきた。運転席に乗り込み、後部座席を振り向いて、「南方参事官」と抑え気味に声をかけてくる。南方は目を閉じたまま、短く肯く。
「目薬はありがたく貰っておこう、鞄のあたりに放り投げてくれ」
「えっ、……あの、では、失礼します」
上司に向かって物を投げるのに抵抗があったのだろう。戸惑った返事のあと、ぽす、と鞄に紙袋が投げ置かれる音がした。
南方は、ズキズキと痛む瞼を開いて紙袋を一瞥すると、手を伸ばさずに再び目を閉じた。
「いつもの場所で下ろしてくれ。着くまで眠る」
「はい」
巡査長は静かに応答し、そっと車を発進させる。
この巡査長は、南方の運転手に徹して一年弱、運転については申し分ない腕前だ。交通課にも褒められるような安全運転をする。悪い人間ではないし、警察官として必要な素質を備えた若手だった。しかし今日のように、噛み合わない時は絶妙に噛み合わない。忖度と腹芸が身につけば、この組織で出世できるだろうが、そこまでの賢しさはまだ身についていない。
彼は近く、賭郎に通じる同階級の人物とポジションを交代する予定になっている。本庁から人事異動の報せを受けたとき、彼はこの日のやりとりをしくじりと思うのかもしれない。そうではない、これは賭郎と暗謀の都合で行われる人事で、彼に落ち度はないのだ。
しかし、南方から伝える時は、けして来ない。
「目薬、わざわざすまなかったな。助かる」
それは、南方警視正として要らぬ罪悪感を抱えたくないエゴから出た謝意だった。南方の静かな謝意に、運転席から微笑の息づかいが聞こえた彼は点数を稼げたと思っているだろう。
残酷な真似だったろうか、と考える。
(歯車は、ふさわしい場所に収まってこそ価値がある……お前は、もう少し善良な場所にいた方がいい。多分な)
僅かな罪悪感は、疲労からくる頭痛に塗りつぶされて、すぐ形が解らなくなった。南方は目を閉じたが、眠らなかった。瞼の裏で明滅する痛みが続いている。車を追い抜く音と道路から伝わる緩い振動が、休まらず火照った脳をゆらゆらと規則的に揺らした。
マンションから通りいくつか離れた場所で停車し、同時に南方は目を開く。鞄と目薬の紙袋を掴んで降車すると、ドアを閉める前に運転席を覗き込む。
「明日の迎えはいい。遅れて出社するかもしれん」
「了解しました。お大事になさってください」
南方は静かにドアを閉め、車が来た道を引き返すのを見届けた。
住まいを特定させないのは、賭郎に入る前からの習慣だったが、以前と別の理由で、絶対に必要な習慣になっている。賭郎と関わりない警察関係者は、プライベートに近づけられない。南方の庁内での立場はもちろん、彼らのためにもだ。世の中、知らなければ巻き込まれずに済む事は多い。
ほんの数十メートルの徒歩距離が、限りなく億劫だったが、これは南方が警視正と立会人を共存させるために必要な境界線であり、儀式でもあった。
部屋に辿り着くと、玄関に鞄とコートを放り出す。ばさばさと派手な物音に、今日は終日部屋にいた門倉が「なんじゃあ」と、鬱陶しそうな声を上げる。
「疲れて動けん」
素直に弱音を吐き、革靴を脱ぎ捨てて放り出し、玄関に座り込む。そのまま転がってしまいたい気持ちを、どうにか我慢した。思い切り唸ってから立ち上がり、鞄とコートを雑に掴む。
リビングでは、キッチンテーブルで門倉がビール片手に、買い込んだ雑誌類をめくっている。経済誌、週刊誌、趣味系の専門誌もあった。次の立会に必要な情報収集をしているらしい。南方を一瞥もせず、皮肉に笑って告げる。
「おーおー。お巡りとの二足わらじはえらいじゃろ」
「徹夜の立会が堪えてのぉ……」
「あぁー……」
南方の予定を把握しているのか、門倉はふと笑い、雑誌から目を上げた。
「判事に宛てにされると、とことんこき使われるけぇ、覚悟しときんさいね」
「もう知っとる。じゃけん、いくらなんでも人使いが荒すぎんか?」
「今更」
門倉は頬杖をついたまま鼻で笑い、南方の顔をもう一度見やる。今度はまじまじ観察する目つきで見てから、「ひどい顔色じゃのぉ」と苦笑いした。
「部下にまで顔色が悪い言われた。なんで、上司の誘いも断って帰ってこれたんやが」
門倉に答えながら、ジャケットやらスラックスやらの装備品を、ぽいぽいと床に脱ぎ捨てていく。風呂に、と思ったが眉間にぴりぴりと走る痛みに負けて、唸りながらソファにどっかと腰掛けた。そのまま項垂れて黙り込む。
ネクタイを緩めてシャツ一枚になった南方に、門倉がキッチンからやって来て、ソファの背もたれ越しに見下ろしてきた。
「ぶちたいぎいそうじゃのう」
「目がな、いけん。眼精疲労じゃな」
「はぁん。もう老眼始まっとるんか?」
「抜かせ。弥鱈も、ゲームのしすぎかなんかで目が疲れる言うじゃろ。アレとおんなじじゃ」
「弥鱈のは不摂生のしすぎやけど、お前のは働き過ぎとちがう?」
絡む門倉を、南方は適当にあしらおうとしたが、門倉は気に留めず突いてきた。からかっているのか、心配しているのか判らない門倉の態度に、南方は項垂れた頭を起こして、整った顔を振り向いた。
見下ろす門倉の顔は、普段の冷淡と辛辣が嘘のように穏やかだ。
「寝たら?」
「目の奥がチカチカして、眠ろうにも眠れん」
「目薬差したら? 弥鱈もよく差しとるじゃろ」
「そう。それ、貰うてきたんじゃ、帰りに部下が買うてきて……」
言いながら、南方が投げ置いたコートを指さす。ポケットにねじ込んだ目薬を取りに行こうとすると、門倉がコートを拾い上げてきた。
ばさばさと叩いて、ドラッグストアの紙袋を見つける。外箱を裏表ひっくり返してから、さっさと開ける。「四十からの疲れ目に、って書いてあるでぇ」と笑いの滲んだ声で読み上げられ、南方は「もうなんでもええよ」と力なく言い返した。眉間を押さえて、手を伸ばす。門倉がその手に、目薬を握らせてくる。
心底、憂鬱だった。ため息をついてから目薬を構える。
昔からそうだったように、上向くと自然と口が開いてしまう。なのに、瞼はちゃんと開けられない。指で押さえて点眼してみるが、ほとんど目に入らず、反射で閉じた瞼の上に落ちた。手で拭ってもう一度試みるが、やはり上手く差せない。
見ていた門倉が、逆に感心したような声を上げた。
「目薬差すの下手すぎんか?」
「せせろーしいわ」
言われると予感していたので、南方は腹も立たなかった。
なんでも、努力と負けず嫌い根性でねじ伏せてきた南方だったが、目薬だけはどうにも上手くできなかった。難なく差せている連中は、体のつくりが違うんじゃないかと思えるくらい、瞼の筋肉が意のままにならない。
南方は早々に諦め、上手く差せなかった目薬をぽいと投げ置いた。指で、眉間をもみほぐす。背もたれ越しに身を乗り出した門倉が、投げ捨てた目薬を拾い上げる気配がした。
差してくれるのか、などと淡い期待をしたが、そんなわけはなく、ふとキッチンに戻ってしまう。
手を洗う水音がする。少しして、門倉は背後に戻ってきた。
「南方、顔上げえ」
言われるがまま、見下ろす門倉を再び見上げようとする。が、眼窩の奥を差す痛みのせいでちゃんと見つめられない。門倉の上体が照明を遮って影になっているのに、眩しい光源を直視するような痛みがあった。堪らずぎゅっと目を閉じる。
すると、しかめた目元を門倉の大きな片手が包み込んだ。お湯で温めたらしい温かい手は、南方の目元を包み込んでから、ゆっくり鷲掴みにしていく。片手で顔を掴んで持ち上げる手つきで、こめかみに軽く指をめり込ませてくる。ツボを刺激しつつ、手のひらで目の筋肉を緩ませようとする門倉に、南方は小さく笑った。
「なんじゃ、殴られて頭掴まれて持ち上げられる、あの心地じゃのお」
「優しゅう握っちゃってるやろうが」
心外だと言わんばかりの門倉の口調に、南方は瞼の裏で、口を尖らせて拗ねる門倉の顔を思い浮かべた。目元をほぐそうとする門倉の手を掴み、そっと引き剥がす。
痛みが引いて、上から覗き込む門倉の顔がちゃんと見えるようになっていて、南方は頬を緩めた。門倉は拗ねてなどいなかった。どちらかというと、呆れ顔だ。温めた手の次は、冷やした方の手が視界を覆う。アイアンクローよろしく南方の頭を掴んで、じんわりとツボを押し込んでくる。
指圧の気持ちよさと、両手を温冷で準備してきた門倉の気遣いとに、思わずうっとりしたため息が洩れる。
「オヤジくさいため息つきよる」
「ええ気持ちじゃ……」
門倉の揶揄に構わず、本音を溢す。門倉の手を感じているだけで、回復していく気がする。瞼を押さえる門倉の手に手を重ねると、門倉が頭蓋を鷲掴みにした手を離した。
もう終わりか、と思って瞼を上げると、見下ろしていた門倉の顔がさらに近づいてきた。指先が下瞼と目尻を軽く押さえてくる。
「口は開けんでええよ」
ふと思い出した顔で、可笑しそうに言う。門倉の露わになった左目が、疲れて掠れた視界に収まっていた。その上から、ぴとん、ぴとんと冷たい目薬がしたたり落ちてくる。咄嗟に閉じそうになった瞼は、門倉の指先が絶妙な力加減で押さえつけて、阻んだ。じわ、としみる薬に、反射反応の涙が溢れてくる。清涼感と薬効成分が視神経に染み渡る感覚。
南方がきつく目を閉じようとすると、門倉は指を離して「反対」と呟いた。
「殴られる時は開けてられるのに、目薬はいけんのやね」
「わしにも解らん、子供(ガキ)の頃からこうじゃ」
からかう門倉に、南方は憮然と言い返した。もう一度、自分を覗き込む門倉を見上げる。
揶揄っていたくせ、垂れた髪に隠された顔は、不思議と真摯な表情を浮かべていた。傷んだ南方の視界を取り戻してやるのだ、と心に決めたような表情。かと思えば、からかいを含んだ笑いを浮かべているようにも見える。南方には、どちらも正解に思えた。
冷たい方の指が上下の瞼を押さえて、ごわごわになった眼球に、冷たい目薬が滴り落ちてきた。今度は強く瞬きせず、涙が流れるに任せる。滲んだ視界で、門倉の輪郭がぼやけて飽和し、あふれ出した。目薬と涙でくすんだ視界を綺麗に拭われ、小さく笑う門倉の顔がより鮮明に見えた。微かに引き攣った左目は南方の感情を、右目は顔色を、愛でる目つきで観察している。
門倉は両方の目尻をそれぞれの親指で拭ってから、さらに顔を近づけてきた。上下あべこべのまま、南方の下唇を上唇で食み、切歯の間で噛みしめる。柔らかく、硬く、湿った感触に、南方は両手を伸ばして逆さまの頭を撫でた。あべこべのまま、唇を食みあい、舌を絡ませる。
目薬の効き目のせいか、興奮のせいか、南方の目尻から涙が溢れた。それを、頬を挟んだ門倉の手が拭う。暖かい手と冷たい手に顔を撫でられ、南方は愛おしさを殺しきれず、合わせた唇の間からため息をついた。
南方の頬を撫でた温かい手が、伸び上がった喉仏をくすぐってから、離れる。冷えた手は、耳をくすぐりつつ離れる。唇が離れ、整った顔が離れ、下りた髪の帳が上がり、南方の視界は途端にあかるくなった。
痛みの引いた視界は、なにもかもがはっきり見えるようになっていた。そして、門倉は揶揄めいた笑いではなく、邪気のないにこりとした微笑を浮かべているとはっきり見えた。
南方は瞬きした。疲れ果てた目のせいで、そもそもの最初から門倉の表情を正しく見られていなかったと判って、思わず腕を掴む。
「本当にわしを心配しとったんか?」
腕を掴まれた門倉は、南方の手をやんわりほどいて目薬を握らせる。真剣な面持ちで見上げる南方に、門倉は子供のつたなさを笑う柔らかな微笑を見せてから、可笑しそうにからかってきた。
「だってお前、目薬を口に垂らしそうじゃったんだもの」
[了]
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