usgi

Don’t you dare close eyes.

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 その日、門倉は梶の賭郎勝負に立ち会っていた。
 相手は、ある物件の抵当権を賭けて梶に勝負を挑んだ。賭郎会員ではない。鞍馬組にコネがあり、蘭子の専属立会人である最上立会人を召喚した。
 会員外の人間が、鞍馬蘭子の縁故を頼って最上立会人を召喚するケースは、これまでも何度かあった。賭郎がこのイレギュラーを認めるのは、鞍馬蘭子が賭郎会員の中でも特に影響力を持っているからだ。
 こういう場での最上は、蘭子からの依頼で来ているだけなので、純粋に立会のみに徹するのが常だ。勝負にアレンジを加える可能性はない。おまけに、男はギャンブラーとしての実力は素人並、梶を相手に勝てる見込みはなかった。
 勝負が面白くなる可能性が皆無と見抜いて、門倉は早々に厭きてしまっていた。
 手堅い勝負をしようとする梶に、身の程知らずの相手を徹底的にへし折ってしまえ、と唆したかった。しかし、最上は梶と面識があり、どんな人物かおおよそ心得ている。今回は、最上の裁量で勝負の方針を決定したため、門倉の意図は試す前にあっさり逸らされてしまった。
 ポーカーをベースにした五セットのゲームは、二対二で進み、最終ゲームに到達している。
 五分五分の勝負になったのは、梶の采配による。相手の損失をコントロールして軟着陸させようと、危なげない範囲で自分のゲームを落としたのだ。
 それは、慈悲という名の傲慢だ。門倉はそう思いながら、控えた後方から梶の後ろ姿を冷ややかに見下ろしていた。梶がその判断をした理由には察しがついている。梶は相手をギャンブラーとみなしていないのだ。素人相手に、なるべく傷浅く、かつ、賭郎から遠ざける形で決着しようと試みている。
 門倉や最上の軽蔑を買うと分かっていながら、その選択したのも、両立会人を意識している視線の動きから察せられる。
 相手の実力を測る眼力だけは、門倉も評価した。同じ土俵に立つ相手かどうか客観的に見定める──ここまでは正しい。その後の判断は、まったく話にならないが。
 最終ゲーム開始の準備が整い、場を仕切る最上が両名を見やった。
「では、最終ゲームです。お二人とも、タイムアウトは無しでよろしいですね?」
「ま、待ってくれ、考えを整理したい」
 このゲームでは、一回だけ長考のためのタイムアウトが許されている。男はタイムアウトを宣言し、最上を振り向いた。
 考えを整理するのに付き合ってくれ、と懇願され、最上は承諾した。泣き言を聞いてくれと言われたに等しい。
 だが、最上は嫌な顔ひとつせず、わざわざ梶や門倉の目に触れないよう、別室に移動するよう勧めた。もちろん、イカサマはできない。最上が立会人として完全な中立を担保するからには、何か見つかればその場で粛清される。男も、ルールの説明は事前に受けて了承している。妙な動きはしないだろう。
 最上は、自分の黒服を場に待機させ、男と共に別室に移動した。
 相手が離席すると、梶は緊張を解いて長いため息をついてから、呟いた。
「落ち着いて考えて、勝負を下りてくれるといいんですけど……最上さんも親切ですよね。聞き役になってくれるなんて」
「それはどうでしょう」
 門倉は梶に応えつつ、内心でニタリと笑う。
 最上は、男が長考の末にどうやっても負けるという結論に達し、絶望する様を近くで鑑賞したいのだ。男は次の勝負に負けると、抵当権どころか財産のほとんどを失う。社会的死は免れても、今までの生活は捨てざるを得ない。だが、これくらいの損失なら安い方だろう。梶が手加減しなければ、命で購う羽目になっていた。
(その程度のダメージで折れてしまうメンタリティのくせ、賭郎勝負を持ちかけたのだから、自己評価の高さだけはずば抜けている)
 門倉は嘲笑するのを通り越して、静かな憤りすら覚えた。向こう見ずな弱者ほど、厄介な連中はいない。
「梶様。待っている間に、なにかお召し上がりになりますか?」
「そうですね。じゃあ、飲み物だけもらおうかな」
 門倉は、勝負の会場に待機している最上の黒服たちを一瞥する。女達は門倉と目も合わせない。女王の臣下は女王の命令しか聞かないのだ。
 仕方なく、自分の黒服に顎をしゃくった。
 梶の好意で、場の黒服たちにも飲み物が振る舞われる。といっても、ペントハウスに備え付けの冷蔵庫にあるミネラルウォーターだ。梶の好意を無下にしないため受け取ったが、黒服の誰も口を付けなかった。
 黒服の入れた紅茶を飲んでリラックスしている梶の後ろで、門倉も普段に比べてずっと気を抜いていた。黒服たちにも、休めの姿勢を許している。最上の黒服たちも同じようで、立ってはいるものの、完全に休憩時間のノリだ。
 やがて、最上の黒服たちが小声でお喋りを始めた。
「ねぇ、貴女。妙子様からご褒美のキスをいただいたことある?」
「あるわよ」
「目、閉じる派? 閉じない派?」
「えぇ~……閉じない派かな」
「うそ、それって妙子様に対して無礼じゃない」
「じゃあアンタ、妙子様のまつげを至近距離で見つめられる瞬間、諦められるわけ?」
「それは~……」
「だいたい、アンタはどっちなのよ」
「閉じない派」
 ほらぁ! と歓声が上がる。かしましい声に梶がこそっと笑い声を洩らす。
 門倉がちらりと右目を向けると、気づいた一人が話し相手を小突き、二人揃って口を噤んだ。元の澄まし顔に戻る。
 最上立会人の黒服たちは、主人といてもいなくても、勝負の時間以外はだいたいかしましい。門倉は何度か、自分の黒服を躾けろと苦言を呈したが、今のところすべて無視されていた。小鳥のさえずりぐらい、なんてことないでしょ。最上はそう嘯き、続けた。
『あの子たち、TPOは弁えてるもの。喋っているとしたら、勝負をしてない時だけよ』
 最上は立会人の中にあって、號に強さの意味を持たない特別な存在だ。彼女が女王で居続ける限り、九拾壱は特別な意味であり続ける。女王の治世では女王の秩序が絶対──彼女の黒服たちがかしましくしていても、見た目や制服の改造ポイントで張り合っていても、賭郎勝負に支障をきたさない限り、誰も咎められない。
 門倉が自分の黒服を統べているのと、理屈としては同じだった。立会人として、違う秩序で自分の領域を持つ最上に、門倉は共感と反発を抱いている。実力に開きはあるが、スタンスの点では好敵手といえる。
 一度黙った最上の黒服たちは、静寂がよほど退屈なのか、梶に手を振って気を引きはじめた。梶が振り向くと、こそこそと問いかける。
「梶様。昨日、キスの日だったんですけど、梶様はどなたとキスしました?」
「勝負の験担ぎにしてそうですよね~って話してて」
 ニコニコとからかってくる黒服たちに、梶が肩をそびやかす。
「へっ? し、してないですよ! というか、そんな日があるんですね」
「知らないんです? じゃあ、損したかもしれませんね」
「損?」
「勝負が昨日だったら、女王が梶様の勝負をお褒めになれば、私達からキスを進呈してたかも」
 微笑む黒服たちにからかわれ、梶は困ったようなちょっと嬉しいような苦笑を返す。
「それは残念だなあ~……」
(立会人の黒服に舐められとるて気づいとらんのか、コイツは)
 からかわれて照れる梶に、門倉は内心で呆れた。彼女らが唇を許す相手は、最上だけだ。梶をからかっているのである。
 ひりつく勝負では度胸良さを発揮するくせ、こういう場ではいかにも一般人──かつ童貞だ、間違いなく──の顔になる梶を、門倉は面白くないと思う。もっと面白い男にならんのか、と物足りなさを覚えるが、梶をこの世界に引き入れた斑目貘を思うと、ああなってもらうのは、それはそれで困る、などと思ってしまう。
 自分が専属となった会員の梶孝臣は知っていても、斑目貘の右腕である梶孝臣のことは、なにも解らない。
 梶孝臣、そして斑目貘。この二人に対する所感は、門倉の中で未だに固まっていなかった。
 長考はまだ続いている。門倉は暇を持て余して、唇を引き結ぶ。許されるなら、一服吸いたい間だ。
(……キスの日なぁ)
 最上の黒服たちの会話を聞いた門倉は、そういえば、とふと思った。
 去年頃、恋人と言えそうな間柄になった男の顔を思い浮かべる。
 南方とは、酒の弾みでセックスした後に、一ヶ月ほど肉体関係のある友情めいた期間を経てから、きちんと付き合うとなった。
 当時、付き合うもなにも、と門倉は内心でせせら笑っていたが、恋人と定義して以降、南方はよくキスをしてくる。そのスキンシップは恋人の範疇、とでも言いたいらしい、おかげで門倉の唇は、煙草と同じくらいの頻度で南方の唇に触れている。
 昨日も、この勝負の前準備で本部に立ち寄った際、廊下でたまたま出くわした南方に、人気のない部屋に引っ張り込まれて、だいぶしつこくキスされた。急ぎの用はなかったので好きにさせていたが、あまりにしつこいので、途中で足を踏みつけて下がらせたくらいだった。
 その場では、何日か生活がすれ違っていたせいかと思っていたが、最上の黒服たちの話を聞いたあとだと、違う理由が持ち上がってくる。
(日付にちなまんとキスもできんのか、アホが。どんだけ腰抜けなんじゃ)
 内心では辛辣に吐き捨てるが、口の端は小さく吊り上がっていた。日付ことを打ち明けてからしたいと言われたなら、好きなだけさせてやったのに、などと思う。
 南方はキスしている間、たいてい目を閉じている。これまではそういうものかと思って気にしていなかったが、改めて考えると、なぜ閉じるのだろうと疑問が湧く。いい歳した男が今更、羞じらっているとも思い難い。
(脂ぎったあばた面のオッサンならともかく、ワシやぞ)
 門倉は自分が、至近距離でも鑑賞に耐えうる顔立ちをしている自覚があった。それに南方は、ベッドでの睦言で「おどれの顔も好きじゃ」などと抜かしていた。
 礼儀として閉じている説は大いにある。南方はああ見えて、世間一般でいうところの常識を身につけ、堅気の世界に身を置く警察官僚である。
(由緒正しいお嬢サンとお付き合いするのに、行儀よくしとったんじゃろうのう)
 ならば、自分にも行儀よく振る舞っていることになる。
 それは、なにか面白くなかった。
「梶様」
「はい?」
「梶様はキスする時、目を閉じる派ですか?」
「えっ」
 唐突に、それも門倉から、浮いた話を振られて、梶が目を丸くする。最上の黒服たち、門倉の黒服までも、ぎょっとしている。うち一人は「雄大クン!?」と小声だったが悲鳴を上げた。
「ど、どうかな……閉じちゃうかな……多分ですけど」
「なせです? 彼女たちも言っておりますが、相手の顔をまじまじ見られる機会でしょうに」
「それは多分、目が合うとすごく照れるから、……かな?」
「相手が自分の好意を把握していても、ですか」
「していても、です。だって、目を見られると分かっちゃうじゃないですか、いろいろと」
「いろいろと?」
 梶が強くうなずく。問答を聞いていた最上の黒服たちは、その観点は抜けていたと言いたげに目を見開いてから、女王とのひとときを思い出して、今更、羞じらいはじめた。
 目を見れば相手が解るという説は、門倉の中でもしっくりくる。相手の面と目を見れば器や程度が推して知れる理屈と同じだ。ただ、梶の話は度量を図る云々ではない、もっと感傷的で繊細な何かを示唆している。あるいは恋人にありがちな後ろめたい隠し事云々かもしれない。
「確かに隠し事はバレてしまうかもしれませんねぇ」
 門倉の言葉に、梶は短く首を振った。はるか頭上の門倉を見上げて、照れくさそうに訂正する。
「目を開けてキスできるのは、相手に何もかも委ねてるか、すごく度胸があるかの、どっちかな気がするんですよね。でも、そうなるまでには時間が要るかなって、思って」
 梶の説に、門倉より先に最上の黒服たちが何度も強く頷いた。
「わかる、私達、妙子様になにもかも委ねてるから……」
「そういうことよね。梶様、とても含蓄あるお話ですわ、胸に迫りました」
「え? あ、あはは……そうかな……」
 可愛らしいタイプとクールな美人タイプの二人から褒めそやされて、梶が表情を緩ませる。美人に褒められて素直に鼻の下を伸ばす様を睨め下ろしつつ、門倉はもう一度、南方の顔を思い浮かべた。
 門倉は最初から最後までほとんど目を開けているので、南方の瞼をさんざん見つめてきた。情動にかられた瞼、愛おしさがだだもれの瞼、独占欲に震える瞼。こうしてみると、薄皮一枚下の目にどんな色が宿っているのかは、一つも知らない。
 急に、面白くない気分になった。気づかなくて良かったことに気づいてしまった、厄介な感傷が頭の傷を疼かせる。勝負がつまらないのと相まって、それは門倉の神経をちくちくと逆撫でしてくる。
 門倉は梶の背後に一歩進み出ると、その肩に手を置いた。びくっと背中を伸ばした梶が振り向く前に、ずいと上体を屈めて耳元で囁く。
「このゲーム、早く仕上げてしまいましょう。梶様が貴重な時間を割くほど、価値ある相手ではない」
 早く幕引きしろと促すと、梶は驚いたように息を呑んだ。門倉を振り向くのはどうにか堪えて、小声で答える。
「もともとそのつもりでしたけど、……いいんですか?」
「ええ。我々としても、このゲームから得られるものは、大してありませんので」
 囁き終えた門倉が、ゆっくり身を引く。梶はちらっと肩越しに仰ぎ見てきた。門倉が退屈していると確認すると、納得したように正面に向き直る。
 長考を終えた男が青ざめた顔で、最上を従えて別室から戻ってきた。最終ゲームの後、自分がどうなるのかを理解し、戦意喪失している。自暴自棄になって暴れるのは寿命を縮めるだけだと、最上から説得されたに違いない。あとは最終ゲームを通じて、梶の裁定を待つだけだ。
 哀れな男は、目を伏せたまま席につく。梶は項垂れた相手をまっすぐ見て、挙手した。
「あの。これは提案なんですが。貴方がこの勝負を捨てる気なら、僕の不戦勝にしてもいいんじゃないでしょうか」
 相手が顔を上げる。
「最低Betで、僕の勝ちとして、貴方は手続きを済ませて無事にここから帰る。倶楽部賭郎のことも、ギャンブルも、何もか忘れる。それで決着。どうですか」
「しかし……」
「この期に及んで、僕の目を真っ向から見られない、そんな貴方には僕と勝負する価値はありません」
 梶が真正面から介錯の一太刀を振り下ろす。梶のまっすぐな背中に、この勝負そのものに倦厭ぎみだった門倉が片眉を上げた。門倉好みの方向性ではないが、勝負を下りろと迫るのも、一つの度胸である。容赦ない慈悲だった。
 男は、項垂れたまま頷いた。結局、この男は一度も、梶の顔をまっすぐ見ようとしなかった。
「どうでしょうか。最上さん、門倉さん」
「ご本人が承諾されたのでしたら、私からは何もありませんわ」
 梶の提案に、最上は静かに頷く。梶が拳を握り、門倉を振り向いた。身構え、強ばった表情をしている。軽蔑されるか不興を買うか、そう考えていたのだろう。門倉は満面の笑みを浮かべた。不気味なほどにこやかな表情に出くわした梶が、逆に怯えて肩をそびやかす。
「私からも特に、異議はありません。良い幕引きかと思います」
「それじゃあ、僕の勝ちを宣言してください。門倉さん」
「ではこの賭郎勝負、勝者は梶様。ここまでの賭け金相当の財産は、我々の方で回収させていただきます。最上立会人、手続きを」
 速やかな手続きを促す門倉に、黒服たちが男を連れ、さきほどの別室に向かう。最上の黒服は、勝負のために広げられたトランプや什器を片付けにかかる。
 梶が、へなへなと背もたれに寄りかかり、詰め込んだ空気が抜けていくような、長いため息をついた。
 門倉は、胸をなで下ろしている梶に、寸評を述べた。
「今日の梶様は、冴えてらっしゃる。お屋形様のおっしゃる『キモ冴えてる』の意味が、私めも少しばかり理解できた気がします」
「そうですか? 及第点なら、良かったです、けど」
 答える梶の顔がギクシャクと引き連れる。門倉はもはや取り繕うことなく、不埒なニタニタ笑いを浮かべていた。
(目を真っ向から見られん奴に、勝負する価値はない。本当に、その通りじゃ)
 梶の言葉を反芻しながら、門倉は南方の澄ました顔を思い浮かべていた。南方にこの言葉を浴びせ、ぐうの音も出ないほど叩きのめすところを想像するだけで、今し方までつまらない勝負への鬱憤が吹き飛んでいく。
 その後、門倉は自分の黒服たちに現地解散を告げると、梶を最寄り駅まで送り届けた。立会人の業務をすべて終えると、自宅と別方向に向けて車を発進させた。
 
 
 賭郎本部に戻ってきた門倉は、通用口からビルに入った。上階のフロアに向かう。
 エレベーターホールは消灯していたが、立会人の事務作業スペースがある部屋だけ、こうこうと電気がついていた。門倉はドアの覗き窓から室内を見回した。窓から、南方が座っているのが見えた。机も椅子も、南方の体格からすればこぢんまりとしているので、どこに座っていてもひと目で分かる。(これは門倉にも言える)パーテーションからはみ出した頭は、ぐらぐらと船を漕いでいる。
 ここ最近の南方は、来週の立会準備に追われていた。もちろん、本職をおろそかにできないので、警視庁の仕事を終えてから本部に立ち寄り、深夜まで残業する。警察官は体力が資本だ。これは、現場に出ないキャリアも同じである。並の人間と比べて相当タフネスな南方だが、賭郎立会人との二足わらじは堪えているようだった。
 入室した門倉は、すぐさま歩み寄らず、室内にある自販機に立ち寄った。缶飲料が落ちてくるガコンという音が、無音のオフィスでやたら大げさに響く。
 居眠りしていた南方が顔を上げ、物陰に見切れる門倉に気づいた。
「なんじゃ、来とったんか」
「ちょうど、今な」
 他に誰もいないオフィスだ。離れた場所から遠慮ない声で応じる。南方のデスクに向かうと、デスク回りは彼にしては珍しく、資料のファイルや書籍でごちゃごちゃに散らかっていた。日中、さんざん飲んだろうコーヒーを差し入れるのはどうかと思い、炭酸飲料を選んでみたのだが、正解だったようだ。机にはすでにコーヒーの空き缶が何本も並んでいる。
 コーラの缶を手渡すと「麦のジュースがよかったのう」などとぼやくので、門倉は黙って後ろ頭を軽く引っ叩いた。口をつけようとしていた南方は、叩かれても平気な顔で、もらったコーラを半分ほど飲み干す。
 一度、大きく伸びをして、首や肩を回してストレッチした。
 姿勢を正し、ディスプレイに向き直った南方だが、表示されている資料類を睨むと、難しい顔で腕組みする。情報に目を通すだけでなく、調べ物もしているようだ。
「手こずっとるのう」
「会員がな。オトモダチを破滅させたいそうじゃ。そいで、双方の裏取りするのんに時間取られとる。本職の方からアプローチしたんが、成果がなくてのぉ……」
「賭郎、知り合い沈めるんが流行っとるんか?」
 門倉は近くの椅子に腰掛けて、隣に寄った。南方の肩越しに画面を覗き込む。
 今日の立会が蘭子の口利きだったのを思い出す。だが、画面の資料をざっと見て、鞍馬組に関連しそうな情報はない。
 横から覗き込んできた門倉に、南方が視線だけ振り向かせて聞いてきた。
「仕事あって寄ったんと違うんか」
 門倉はちらりと南方の横顔をみやった。疲労の色がだいぶ濃い。至近距離で見ると、もみあげから顎にかけてのラインに、髭を剃り残していた。南方は、立場もあって、普段から身だしなみには気をつけている。そこまで気が回っていないのだろう、門倉は勤勉ゆえのほころびを、手袋をしたまま手の甲で撫で上げた。
「まあな。用事はある」
「ほうか。どうせわしの方が時間かかる、用事が済んだら退館手続きせんで、帰ったらええよ」
 撫でてきた門倉を振り向きもせず、南方が観念した口調で呟いた。意識が仕事から離れない様に、門倉はにんまりと笑った。
 南方の後頭部を掴む。ぐいっと、強引に振り向かせると、首を伸ばして鼻先の触れあう距離まで迫り、キスの仕草をしてみせた。一瞬、驚いたように目を開いた南方が、慌ただしく瞼を閉じようとする。
 律儀に作法を守ろうとする南方に、門倉は短い後ろ髪を握りしめ、毟らんばかりの勢いで引っ張った。
 南方が呻いて目を開ける。
「違うたか?」
 怪訝そうに見返す南方に、門倉は鋭い目つきで覗きこむ。
「なんで目ェ閉じるんじゃ」
「なに?」
 南方は、訳が分からんと書いたような表情を浮かべ、眉をひそめた。門倉は、さっと話の通じない相手に舌打ちし、後頭部を握る手に力を込める。
「だから。なんで目ェ閉じるんじゃ。開けとってええじゃろ」
「そりゃお前。キスちゅうのは、そういうもんじゃろが」
 常識やぞ、と返す南方に、門倉が頬を引きつらせて笑う。
(やっぱり、どこかのお嬢サンとおんなじ扱いしとるんか。コイツ……ワシはおどれの鼻っ柱ぶち折った男やぞ? わかっとんのか)
 推測が確信になり、門倉は腹正しさに引き連れた嗤いを浮かべた。むしゃくしゃした感慨を口にせず、南方の勘違いした態度を馬鹿にして、鼻で笑う。
 南方の表情も、訝りから苛立ちに変わった。なに、と睨む南方に、門倉は嘲笑ったまま低く凄む。
「おどれ、ワシを堅気の女扱いしとんのか? おん? 売っとんのか?」
「あ? そがいなわけあるか、ボケ! なんなんじゃ、急に……」
 南方が、嘲笑する門倉に食ってかかった。ほどけた甘い空気が一転、殺伐としてくる。
 門倉は口を歪めたまま、隣からさらに身を乗り出した。両手で肩から押さえ込み、上から被さる格好になって顔を寄せる。
 喧嘩をふっかけておいて、もう一度キスしようとする門倉に、南方は戸惑いがちに両腕を広げて受け入れた。抱きしめていいのか迷って、やり場のない両手を彷徨わせる。門倉の息づかいを唇に感じると、ごく自然に目を閉じようとした。
 門倉は肩を掴む手に一層、力を込める。無言のまま、視線だけで「閉じるな」と伝えた。閉じかけた瞼がピクリと引きつれ、南方の目がこれ以上ない至近距離まで近づく。収縮する瞳孔が見える。南方の目は、普段の印象よりもう少し色味が薄かった。新鮮な発見に、門倉は愉快な気持ちになる。
 唇が触れ、呼吸が溶け合っても、南方は目を閉じなかった。
 南方が薄く開いた目で、門倉の右目を見返す。口を塞がれて何も訊けない舌が、門倉の舌先をくすぐって問いかけてくる。門倉は、その舌に吸いついて応え、自分の口腔を舐るように促した。
 耳の後ろから、舌を噛み合い舐め合う音が聞こえる。門倉は、南方の下唇に吸いついて、唇から派手なリップ音をさせた。
 長いキスの間、門倉はひたすら南方の目の中を覗き込んでいた。
 自分と違い無傷の目は、白目部分の濁りもなく美しいまま、眼窩にはめ込まれている。薄い茶色の虹彩と、忙しなく収縮する瞳孔が、生き生きと息づき、興奮でかすかにきらめいている。この冷徹な印象を与える細い目が、昔から気に入らなくて、好きだった。
 覗き込む門倉の目をしっかりと見返す視線には、負けん気が漲っている。目を合わせて口づけるのを、挑まれたのだと思っているのだと伝わってくる。
 門倉は押しつけた唇を離し、顔の角度を変えて、すぐにまた押しつけた。
 生理反応で細かく動く眼球の上を、様々な感情がよぎり、滑り落ちていく。急にやって来た門倉に対する親しみ、間を置かず顔を合わせられたことへの喜び、突然の不機嫌に対する困惑、長い口づけを交わそうとする門倉への、愛おしさの発露。
 門倉はそれを一つ一つ、視線で拾い上げていく。
 のし掛かってくる門倉の背中を、南方が抱き留めていた片手で撫でて、押されっぱなしだった上体を起こした。椅子から腰を浮かせた門倉を、逆に椅子に押しつける。二人の体重が移動して、椅子の背もたれが悲惨な軋みを立てる。
 南方の目は忙しなかった。最初は驚きや戸惑いだった色が喜びに、喜びの色が深い愉悦に、深まる愉悦が更に色を増して赤黒い独占欲に、変わっていく。場所が本部だとか、門倉の意図だとか、そういう雑念を全部払いのけて、ただ門倉の息づかいに集中していく。
 南方が自分に向かって転がり落ちてくる感覚に、門倉は目眩を覚えた。目まぐるしい南方の情緒すべてが、自分だけに向けられている実感。それは、門倉の支配欲を満たし、優越感をくすぐった。
 この男は文字通り、自分以外は眼中にないのだ。そんなにも追い詰めてしまったのか、と口づけを続ける舌を震わせて、笑う。
 憐憫はない。むしろ、ここまで追いすがってきた相手を褒めてやりたい気持ちだ。
 満たされた征服欲が、門倉の瞼を重くした。堪らなくなり、うっとりと瞼を閉じかける。
 すると南方が、唇を柔らかく甘噛みして愛撫していた切歯で、強かに噛みついてきた。
「んぅっ!」
 痛みに瞼を開くと、ぎらついた両目が「閉じるな」と圧をかけてくる。おどれが開いとれ言うたんじゃろうが、そう言いたげだ。険しい視線に凄まれ、門倉は含み笑いの呼吸で喉を膨らませた。唇に歯を立てたくせに、南方の両手は優しく門倉の頭を支えている。その手が、耳をくすぐり、眼帯の紐を外して塞がれた左目を露わにした。
 天井の蛍光灯が傷ついた眼に刺さり、門倉は瞼を震わせた。傷んだ門倉の左目に、白熱灯は刺激が強い。目を瞬かせると、すぐさま南方の手が門倉の左視野を遮って、蛍光灯から傷ついた眼を庇った。おのずと顔が離れ、唇も遠ざかる。
 自然な動きで守られて、門倉は妙な心地がした。他人に庇われる経験など、ほとんどない。そんな真似が出来る人間自体、南方の他に思いつかない。思わず苦笑いが洩れる。
(こういうところ、本当にコイツはなぁ……)
 やがて、門倉の左視界から痛みが消えた。しかし、左の特異な視覚は感覚を色に置き換えて差し挟んでくる。門倉の視界は、余計に混沌とした。意図して視野を狭めて、南方の目の中だけを見つめる。
 離れた唇を追いかけようとすると、先に南方の方から強く口づけてきた。目は閉じていない。まっすぐ、門倉を見つめたままだ。
 南方の目は、興奮と憐憫がない交ぜになっていた。門倉の左目は傷の後遺症があり、どうやっても、覗き込む南方の視線とは噛み合わない。粗暴なようでいて優しい男は、それを痛ましく思っているのだ。
(本当に、阿呆な男じゃ)
 門倉は、手袋をしたままの手で南方の頬を撫で、シャツの襟から覗く首筋を撫で、首裏を掴む。南方は、性感の兆しにぞくりと身を震わせた。ふっと瞼を閉じそうになり、瞬きしてこらえる。
 下顎がくたびれてくるほど長いキスが続いて、門倉は背中に回した手でタップして、離れるように促した。そろそろ、胸いっぱいに息を吸い込みたかった。南方が、渋々といった様子で口を離す。
 離れた南方は、まだ、門倉の両目を覗き込んでいた。お互いの唇に伝う唾液の糸を見て、小さく喉を鳴らす。無言のまま、鼻先が触れるか触れないかの距離で睨み合っていたが、南方の方が急に照れた笑みを浮かべた。
「?」
「この距離で面ァ付き合わせても、目は合わせんかったからのう」
 怪訝な顔をする門倉に、南方がはにかんだ顔で理由を明かす。門倉も、確かにと思った。
 高架下で殴り合った時から、憎たらしい相手と見定めて、至近距離で睨み合っていた。あれは、言わばチキンレース、相手と殴り合える距離で見下し牽制する度胸試し──ある種の儀式だった。儀式である以上、定められた手順がある。見つめ合う手順は、存在しなかった。
 付き合うようになっても、なぜか儀式のルールが変わらなかったのは、可笑しな話だ。今回は、常識というくくりに縛られて、目を覗き合わなかった。
 敵対者から恋人まで、関係も立場も天地真逆になったというのに、至近距離で目を合わせたことがなかったことが、滑稽に思えてくる。自分たちらしいと言えば、そうかもしれない。肩肘を張り、見栄と面子で向き合うのを、どうしてもやめられない。
 別に特別、意識しているわけではない。だが、南方がいつ見ても惚れ直すような男であろうとは、しているかもしれない。その意地を、世の中では何と呼んでいるのか。門倉は、深く考えないようにした。
 南方も同じ思いなのか、気恥ずかしそうに肩をすくめる。
「目は口ほどにちゅうことじゃ。わしの腹のうちが筒抜けになるんが、こそばゆうてならんけぇ、目ぇ合わせられんかったのかもしれんの」
「なんじゃ。おどれ、付き合う前も後も腑抜けなんか? 骨の髄までワシに負け越しておいて、今更、探られて困る腹もないじゃろうが」
「せせろーしいわ。……じゃが、こうしてみたらいろいろ解った」
「なにが」
「お前の腹の内がのう。ずっと、覗き見てるみたいで、ええ気分じゃった。もっと早くに目ぇかっ開いておけば、よかったんじゃのぉ」
 そう言って、南方がつくづくと門倉の顔を眺めてから短く口づけ、すぐ顔を離した。露わにした門倉の左目まわりを、開いた傷口に触れる用心深さで触れてから、だらしのない笑みを浮かべる。
 南方の、てらいない喜びを間近で見て、門倉の視界が彩度の高い色合いでチカチカと瞬いた。
 梶の言葉が脳裏を過る。
 ──目を開けてキスできるのは、相手に何もかも委ねてるか、すごく度胸があるかの、どっちかな気がするんですよね。
(なんじゃ。ワシの手のひらがそがぁに気持ちええんかよ。阿呆)
 門倉は内心で舌打ちすると、まだ自分から手を離さない南方に、体ごと迫る。軽く首を傾げただけで、南方の方から唇を重ねてきた。
 熱い息づかいと一緒に貪ってくる舌先をいなしながら、見つめてくる目をもう一度、覗き込む。全部わかっていると言いたげに頷く気配を読み取って、門倉はむかっ腹が立った。南方が自分に訳知り顔してみせるほど、癪に障ることはない。甘やかに舌で愛撫しあいながら、鳩尾を軽く拳で殴りつける。
 躾の殴打をされても、南方の目は笑っていた。
 やがて、目まぐるしい感情と興奮に押し潰されたように、ゆっくり目を閉じてしまう。
 門倉の呼吸を貪るのに夢中になってしまった南方の手応えに、門倉は気が抜けていくのを感じた。くたびれた体で自分を求めてくる、南方の甘えた手応えが、瞼に重たくのしかかってくる。門倉も、恍惚感に負けて、目を開けていられなくなっていった。
(……度胸あるんがどっちで、委ねてるのがどっちか、わからんわ。こんなもん)
 門倉は胸の内で吐き捨てると、両腕で南方の体をしっかり抱き留める。閉じた瞼の裏で、好きだと訴えてくる南方の視線が、残光のようにチカチカと閃いていた。
 
 
[了]

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