夕立に うたるる犬の あわれかな
門倉は南方の部屋で、長い夕暮れを肴に、早すぎる晩酌をきめていた。テーブルには、すでに空き缶が三本並んでいる。
時計を見ると、部屋に来てそろそろ二時間になる。かなりスローペースで飲んでいるつもりだったが、思ったより時間が経っていた。
リビングから見える南向きの大きな窓。その西側に立ちこめた雨雲が、足下にわっと夕立をふるい落としているのが見えた。あの雨雲がじきに、この部屋のあたりにもやってくる。
門倉は愉快な気持ちになる。
今日は珍しく、夕方前に賭郎の用件も本業の予定も終えた。
本業のビルを出ると、梅雨らしく蒸していたが、一応晴れていた。明るく晴れた東の空と夕立を連れてきそうな濁った西の空とが、門倉の頭上でぱっかり二つに分かれており、曇天が優勢だった。
その空模様を見て、急に南方の部屋に寄る気になった。
暑かったが、いい気分だったので最寄りの一つ手前からぶらぶらと歩いていった。
駅から部屋に向かう途中、すれ違う地元の住民からは、あからさまに遠巻きにされた。立会で着るロングジャケットではなく、半袖のいかにもな柄シャツに無地の綿パンで、財布以外何も持っていない。おまけにサングラスだ。門倉としては、眼帯でないだけマシ、と言いたかった。行儀の良い風体でないのは解っている。解っていて、この格好のまま来たのだ。
南方は新築高層マンションが並ぶ、いかにもエリート官僚が住んでいそうな地区で暮らしている。
最初、部屋の住所を聞いた時、門倉はギャグかなにかかと思って吹き出した。世間体という言い訳が南方の口から出てきて、相手の背中を叩いてさらに大笑いした。南方恭次の世間体。昔、あの町にいた時には逆立ちしても出てこなかった言葉だ。
初めて通る道の途中で、気取った都市部では絶滅したかに思われた、個人経営の八百屋を見つけた。表に立派な枝豆が並んでおり、気が向いたので買うことにした。門倉の風体を見た八百屋の主人はニカッと笑い、空豆をおまけしてくれた。門倉は、代金には少し多い紙幣を渡し、主人は顔をしわくちゃにして笑いつつ、黙って受け取った。堅気らしからぬ、心得たやりとりだった。
枝豆の柄が飛び出した安っぽいビニール袋をぶらぶらさせながら、道なりに歩き続け、お上品なオートロックのマンションに辿り着いた。
家主不在の部屋に勝手に上がると、エアコンは付けっぱなしになっていた。まるで、門倉が来るかもれないと思っていたかのような室温に、うだる暑さで汗した門倉はうっとり息をつく。ひとごこちついてから、勝手に着替えを拝借し、シャワーを浴びた。汗を流すと、エアコンの効いた部屋は限りなく快適で、さらに機嫌がよくなって、ぶら下げてきた枝豆と空豆を、やっつけようかという気になった。
勝手に台所で豆を茹で、茹でている間に、冷蔵庫に詰め込まれたビールを一缶空けた。途中、携帯にメールが来たが、無視しておいた。
そうしてすっかり支度を整えて、家主を待たず、ひとりで晩酌している。
門倉は、南方との関係を、来る来ないの連絡をいちいち取り合う間柄と思っていない。自分は好きなときに来て、ここで好きなように過ごす。南方が寄越した合鍵は、そういう意味だと受け取った。
のんびり空豆を剥いていると、ばたばたばた、と窓の方から音がした。さっき見たとき、まだまだ遠くにあったように見えた曇天が、もうマンション周辺まで迫ってきて、大粒の雨が窓を叩いていた。
「こりゃあ、ひどいのう」
まばらに降り始めた雨は、すぐにエンジンがかかったように、ざあっと音を立てて一気に降り出した。抱え込んだ湿度をすべて、ここでふるい落としてやろう、そんな意志を感じる勢いだ。くぐもった雷の音、来る途中はまだまだ明るかった空が一気に暗くなる。
夏の風物詩を眺めつつ、門倉は新しいビールを取り出そうと席を立つ。
「なんじゃ。もう無いんか」
まだあったと思ったビール缶は、一本も残っていない。めんどくさ、と言いながら、勝手知ったる足取りで横の棚を開けて、ストックのビールを勝手に持ち出し、六本ほど適当に見繕って全部、冷凍庫に入れた。
テレビを付ける。夕べ、南方がつけていただろうチャンネルは、夕方のニュースを流している。
「マスコミが大衆向けに編集した現実が面白いんか?」と聞いたとき、南方は「庶民の肌感は大事やろ」と真面目くさって言い返してきた。まともな返事にびっくりして黙り込むと、驚いている自分を見た南方は、気恥ずかしそうに口を尖らせた。
『わしは、これでも警察官やぞ』
自分の選んだ道に難癖をつけられたと勘違いして不貞腐れる南方に、門倉は笑ってしまった。妙な愛嬌覚えよって、と笑って口の端に噛みついた。
別の選択をして同じ場所に辿り着いた南方が、今は、同じ場所から別の方向を見ている。この事実は、門倉の胸を快くくすぐった。
自分たちが抱く悪辣なノブレス・オブリージュを、仁義や責務と堅苦しく発することもできるだろう。しかし、始まりは十六の悪ガキが無能な大人に喧嘩をふっかけた、あの心意気から大して変わっていない。
この感慨を等身大で理解できるのは、残念ながらこの世に南方しかいないらしい。
それを、案外悪くないと思ってしまっている。
ニュース番組が天気予報のコーナーになり、今まさに猛烈な夕立に襲われるこの一画が映し出される。
と同時に、玄関のドアが叩きつけられるように開いた。
「あークソ、なんなんじゃ、こん雨はぁ……」
忌々しげに怒鳴り散らす南方の声が響く。その声がすんと止んで、ばたばたと足早にリビングに向かってくる。
ドアを開けて慌ただしく入ってきた南方は、キッチンテーブルで寛ぐ門倉を見つけてほっと息をつく。ずぶ濡れのなりのまま、隠しきれない嬉しさを滲ませた表情を浮かべた。
「来とったんか。メール見たんか?」
「見とらんよ」
「なんじゃ、見とけや。……いや、別にいい。ただ、今日来るんじゃあないかと思うとったから」
南方はそこで口を噤む。嬉しい、の一言を飲み込んだ顔をしている。門倉は、南方の顔に出さない喜びようを目の端で確かめて、そっけないふりでうそぶいた。
「夕立来そうじゃのお思うて、寄ったんじゃ」
夕立の空を見たとき、きっとこうなるだろうと予感がしていた。南方が帰り道に降られて、ずぶ濡れで帰ってくる予感。門倉はそれを楽しみに待っていた。
テーブルに用意しておいた大判のタオルを持って、南方に歩み寄る。温い雨に濡れた頭をくるむと、がしがしと力任せに拭いてやった。
「うわっ!?」
突然もみくちゃにされた南方が、何か言い返そうと呻く声が聞こえたが、門倉は取り合わなかった。自分の手に、されるがままになっている南方の無様に、口元をほころばせる。行き場無く上げた両手が、いかにも間抜けだ。そうして、気が済むまで南方の頭を引っかき回す。
「っ、待っ、……っ、待たんか、服っ、スーツ脱がせえ」
「ワシに脱がせろ言うてる?」
「違うわ、こがぁに頭ァ振り回されとったら、脱げんじゃろ」
どうにか門倉の腕を掴んで止めさせた南方が、頭全体を包むタオルを振り払って、はあ、と息をついた。
改めて、門倉のいたキッチンテーブルを振り向く。空き缶や、盛られた枝豆や空豆を見て、ああー、と天を仰いだ。
「わしのエビスが……」
日中、仕事に追われている間から、帰ってすぐ飲むビールに思いを馳せていたに違いない。夕立に降られて散々だったところに、連絡も寄越さず上がり込んだ門倉がビールを飲み尽くしたと知って、南方は憤懣より哀愁に満ちた表情を浮かべた。
門倉も、蒸し暑い梅雨時、仕事明けに飲むキンキンに冷えたビールがどれだけ美味いか、よく知っている。
「そがぁな顔せんでも、冷凍庫に補充しとるから」
「エビスを?」
「そこまでは知らん」
門倉がきっぱり言い返すと、南方は苦笑いした。そんなことだろうと思った、と言いたげな顔をしている。南方が見せる、この解ったような顔を見ると、門倉は「なに知ったふうな顔しとる」と言いたくなる。
あの町を離れた後の自分を、南方はまだ半分も知らずにいる。自分の元にいる古参の黒服たちの方が、まだ詳しいくらいだ。
だが、門倉が見ようとした景色を理解っているのは、南方だけなのだ。
濡れて重たくなったジャケットを脱ぐ南方を眺めて、小さく含み笑いを洩らす。
「口惜しいのお」
「なに?」
門倉は機嫌良く目を細めた。南方の、だいぶ乾いて逆立った髪をわしわしと掴んでから、ネクタイを解いてやる。結び目を解いていると、見つめていた南方が軽く傾けた顔を寄せようとした。
鼻先が擦れ合う距離まで近づくのを許してから、囁いてやる。
「冷凍庫のビールが破裂しても知らんよ」
南方は答えずに、ひとり晩酌でほんのり寄った門倉の唇を何度かついばむ。門倉は、いかにも美味そうに口づける南方の、緩んだ眉間を間近に見つめた。薄く開いた目が、幸福に酔った色で覗き込んでくる。門倉は伸ばした舌で、南方の茹だった熱い舌を舐め取り、ホップの香りがする息を吹き込んでやる。仕事明けのビールの代わりとして、十分なキスになったはずだ。
南方が、湿ったシャツのまま体を押しつけてくる。肉づき良い体は、降られて冷えたのではと思っていたが、暑さのせいか、冷房で冷えた門倉の体より熱かった。
門倉の唾液と吐息からビールの名残を満喫して、南方が小さく喉を鳴らす。そうして、ひとまず満足したのか、ゆっくり唇を離した。まっすぐ見つめてくる険しい目に、門倉はニタリと笑ってみせる。
「なあ。ワシが全部飲み尽くしといて、正解やったろう?」
ビールの後味が香る口づけを堪能した南方は、否とは言えない苦い顔でむすっと口を尖らせる。門倉は得たり顔で、口の端を吊り
上げた。
「おどれの、その顔が見たかったんじゃ」
まだ釈然としていない南方の頭を抱き寄せつつ、門倉は寄せた口先で囁いてやった。
[了]
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