持ち分に釣り合わない勝負の代償は、自分自身も含めて天秤に載せたすべての「財産」だ。
ギャンブルに狂う常人は、そんなことをすぐに忘れてしまう。載せた代償を支払う覚悟が本当にあるのか、ろくに自問自答せず、易々と賭けてしまう──誰も何も、勝利を確約していないのにだ。
男は、現金化できる資産と、自分自身と、最後には家族まで、賭けのテーブルに置いた。そして、負けた。始める前から決まっていたも同然の負けだった。
「娘が、待っているんだ」
臨時で男の立会人になった亜面は、本当に良いのか、三度確認した。避け得る悲惨な結果は避けたいという、彼女なりの気遣いを、男は三度とも無下にし、結果、全てで支払う羽目になった。
門倉は男が転落する様を、淡々と見ている。相手が梶だったら、せめて家族くらいは助けてもらえたかもしれない。しかし、男が勝負した賭郎会員は、他人の人生に一切斟酌しない人間だった。
勝負は勝負。負けは負けだ。門倉からすると、なんの面白みもない、ただ胸糞が悪くなるだけの勝負だった。
「勝者は確定しました、後ほど賭け金の取立をさせていただきます」
門倉の宣言に、相手方の立会人となった亜面は目を伏せた。彼女の沈痛な面持ちを、若さゆえの弱さと言い捨てるのは難しい。男が賭け金代わりにした娘は八歳、彼女の人生が狂わされたのと同じ歳だ。門倉でも、心中察するところがある。
この場で諸手を挙げて、男の破滅を愉しむ人間は、賭郎関係者にはいない。男の自業自得に巻き込まれる人間たちに、大なり小なり、同情していた。
「なぁ、あんたら、あんたらも人の子だろ? 家族を賭けたのは、間違いなんだ。そう、金だ。金があればいいんだろう? 金は、なんとか……なんとかする、せめて家族は、娘だけでも、見逃してくれ、頼む」
男が椅子を蹴ってその場に土下座した。亜面を見上げ、彼女の足下に額を打ち付ける。なんの応えもないと判ると、今度は門倉の足元に転び寄った。どうやら、門倉が取立の決定権を持っていると勘違いしたらしい。革靴のつま先に額をこすりつけて、家族の命だけは、としゃがれ声で訴え始めた。
門倉は無言かつ不動だった。男の家族には同情するが、男の愚かさには何の感情も沸いてこない。昔はこういう愚かさを嘲笑する事もあったが、ギャンブルの深淵を間近で見た後では、皮肉な笑いさえ浮かべられない。
善悪の話ではない。膨大な熱量を無為に消費し、転落していく様に、ただただ心が冷めるのだ。
静まりかえった部屋に、男のひきつった呼吸音だけが響く。
ここまで無言だった勝者の会員が、ふと息を吐く。
絶望のあまり地べたに這いずっている相手に、下卑た笑みを浮かべたのだ。ゴリゴリと音をさせて床に頭を擦りつける姿を、さらに無言で眺めてから、門倉を顧みた。
「門倉立会人、こんなに頼んでいるんだ。数日、猶予を与えたらどうかね?」
「ご厚意のみ頂戴させていただきます。ですが、取立については賭郎立会人の領分ですので」
門倉は会員を一瞥し、慇懃に提案を断った。対面に立つ亜面が一瞬、顔を強ばらせてすぐ無表情になる。ほんの一瞬だったので、会員は見逃しただろう。
(七號立会人の意地だな。こんな奴に素顔を見られたくない気持ちは、ようく分かる)
亜面だけではない。この場の誰もが、会員の意図を即座に察していた。家族の人数分──いや、娘一人分の負債ですら、数日で工面できないのは、火を見るよりも明らかだ。会員はただ、敗北者が己を弱さと愚かさを呪いながら、娘を助けようと足掻く数日を眺めて、愉しみたいのだ。
男は、会員の嗜虐に気づいていない。そんな余裕はない。助けてくれ、娘だけでも、その言葉を繰り返し、額を打ち付けて嘆願する生き物になってしまっている。
門倉は冷徹に見下ろしたまま、微動だにしない。
こういう敗者を見るたびに、覚悟もなく自滅する愚者への憤りがこみ上げる。
門倉は、本物のギャンブラーを知っている。その男は、すべてを賭けのテーブルに置く狂人だった。己自身のみならず、己が信じる者と、己を信じる者と、紡いだ縁に至るまで、勝負の生け贄にした。
無論、勝ち筋のために、あらゆる事象を計算する。周到に計算し尽くしてなお残る、いちかばちかに、ありったけを賭けてしまう──その業からけして逃れられない、自分自身を理解していながら、勝負を捨てられない男。
嘘喰い。斑目貘。当世の怪物。
これまでその怪物の前に、多くの者が斃れた。
門倉も、その怪物に絡め取られて、一度は死んだ。
(賭郎勝負の本質を体現できるのは、お屋形様たち──この世の怪物だけなのかもしれん)
救いを求めて縋る男から足先を引き、門倉は小さくため息を付いた。あと何回、今回のような形ばかりの賭郎勝負を見届けなくてはならないのか。
(だいたい、こんな賭けをわざわざ賭郎勝負に仕立てるところから、何も解っていない)
賭郎は、権力中枢も含む社会の裏側で行われる賭博を見届け、取立を行うために在る。勝負はルールに則って行われなくてはならず、取立は立会人により過不足なく行われなくてはならない。不足はもちろん、過剰であることも許されない。
会員の下卑た提案は、取立と関わりない過剰な暴力だ。
そもそも、立会人を呼ぶに値すると判断したこの会員の存在が、新しい賭郎に相応しくないとも言える。
組織が新生したのに、旧い価値観の会員が権利を持ち続けていること事態、バランスが悪いのだ。
「おい」
門倉は、絶望に喘ぐ男を別室に連れ出すよう、黒服に命じた。亜面立会人が厳しい表情で一瞥してくる。しかし、目を合わせるとすぐに毅然とした面持ちになった。これ以上敗者を踏みつけにするのは「過剰」と、門倉が判断したのに気づいたのだ。
男の取立自体は、行われなくてはならない。彼女も七號をいただくだけあって、己の立場をわきまえていた。
諸々の手続きのため、黒服たちと共に別室に向かう。呻く男の姿がドア向こうに消えると、会員は不服そうに門倉を見やった。あえて目を合わせず、門倉は淡々と応じる。
「賭け金の支払いについては、追ってご連絡いたします」
「振込はいつもの手順でいい。それとは別に、彼と彼の家族がどうなったのかは、後日報告してほしいねぇ。賭郎に、追加で支払いをしてもいいぞ」
会員は、組み合わせた手を握り込み、脂ぎった嗜虐の表情を浮かべながら言い添えた。
門倉は男の顔を顧みず、勝負の場となった部屋を見据える。イカサマや不正はないが、価値のある熱量を一切生み出さなかった空間は、がらんとして、乾いていて、温かった。
脳裏に、地下迷宮の空気が蘇る。
あの緊迫。あれを生み出した者たちの、命のせめぎ合い。誰も彼も誰かを凌駕しようと、門倉の生み出した迷宮を彷徨い、苦しみ──思いがけない干渉も含めて、すべてが最高潮に達した、先にあった死の手触り。
あんな場は二度と訪れないと確信させる、空気のぼやけた空間に憎悪する。
「お支払いを頂かなくとも、取立の結果は報告させていただきます」
門倉は答えると、表情が見えないほど深々と一礼した。伏せた顔を覗き込める者がいたら、その顔に浮かんだ鋭利な静けさにゾッと身震いしただろう。
(この男の悪趣味は、倶楽部賭郎への侮辱だ。賭郎への侮辱は、お屋形様への侮辱である)
賭郎のなにかを損なうケースを、見逃すか見逃さないかは、立会人の判断に委ねられている。今この瞬間に、会員は賭郎に徒なす者と見なされ、会員権の剥奪と侮辱に対する断罪が決定した。
門倉が、弐號立会人としてそのように解釈したのだ。異議を申し立てる者はいなかった。
うやうやしく下げた頭を起こすと、淡々とした無感情な面持ちで会員を見下ろす。
「確認ですが、賭け金の支払いはいつもの口座でよろしいのですね?」
「そう言っただろう」
会員は、慇懃に確認する門倉を振り仰いで、煩わしげに手を振った。値踏みする目つきで、眼帯をした白い顔をじろじろと眺める。
「そういえば、君。なんでも頭をやられたそうじゃないか。人の話を、ちゃんと覚えていられなくなったんじゃあるまいな?」
徐々に口元をやに下げると、横柄な態度で小馬鹿にしてきた。
門倉は眉一つ動かさなかった。しかし、後方に控える黒服が、剣呑な気配に包まれる。会員は色めき立った黒服を威圧する目で睨み、門倉に視線を戻す。
途端、嘲笑った口元が恐怖に引きつった。
「……っ!?」
門倉の全身が膨れ上がったように見えた。いや、確かに膨れ上がった。怒気をはらんだ相手が膨張したような錯覚を覚える──そんな、生易しいものではない。門倉の存在感が空間を押し包み、会員は部屋のいたるところから、門倉のはっきりした敵意を感じた。
会員は門倉をぎくしゃくと振り向く。
門倉は頭を上げており、勝負の経過を監視していた時同様、感情のない目で、片付けられるのを待つテーブルを見下ろしている。片目が動いて、会員を捉えた。
眼帯の下にある確かめようのない片目が、ぎょろりと矮小な姿を値踏みして見下ろしてくる。実際に大男だが、会員の目には、外から部屋を小箱でも覗くように見下ろす巨大な存在に見えていた。一呼吸の間に、白手袋をした手が椅子ごと体を握りしめ、魂をむしり取っていく。
なすすべなく心身を握りつぶされる心地に、会員の男は脂汗を浮かべて喉を鳴らした。金や権力が届かない、純粋な暴力の予感。門倉の醸し出す暴の兆しに、圧倒され呑まれてしまう。会員は死を予感した。自分には無縁の概念が、スーツを着て、斜め後ろから睨め下ろしていると、ようやく気づいた。
ハッ、と息を吐く。一瞬だったのか数秒だったのか、門倉の敵意が緩んで呼吸を許される。門倉は慇懃な態度で、会員の顔を横から窺い見た。
「如何なさいましたか?」
会員は、慌てて首を振った。
「……もういい、私は帰るぞ」
勝ちの余韻に浸る気は失せていた。席を立つと、門倉の黒服たちが心得た動きで部屋の外に案内していく。この場所は秘匿情報なので、帰りは目隠しのうえ、賭郎が所定の場所に送り届ける手はずになっているのだ。
会員が部屋から出ていくと、門倉は残った黒服に部屋の片付けを任せて、敗者が連れて行かれた部屋に向かう。大きな物音がしていないので、亜面はまだ、今後の換金手順を説明しているはずだ。
門倉は別室のドアを開けた。振り向いた亜面は、立会人に必要な冷徹を覚悟した面持ちをしていた。同時に、足元にうずくまる男に、相当困り果てているようにも見えた。一通りの説明は済んでいるらしい。
「亜面立会人。申し訳ないが、私の部下を手伝っていただけますか?」
「まだ、換金後の事後処理について、説明が終わっていないのですが」
苦い表情で答える亜面に、門倉は頷いた。
「そちらは私が代わります。向こうをお願いします」
言いながら、入ってきたドアを押さえて半身引く。早く出ていけと促すと、亜面は一瞬、不服そうに目を細めたが、聞き分け良く頷いた。
亜面が退室すると、門倉はドアを後ろ手に閉め、這いつくばる男の前に仁王立ちする。呪詛か嘆願か、口の中でぶつぶつと唱え続ける男は、もはや会話が成立しなさそうに見えた。門倉は、壁側に避けてある椅子を引っ張ってきて、どっかと腰を下ろすと、虚ろな男の目を見下ろした。
「じゃあ、アンタの死後の相談、しようない」
立会に必要な業務をすべて終え、会場だった建物から出ると、夕暮れだった。日の長い、初夏の夕暮れだ。時計を見ると十九時を回っている。日が長いせいで、うんざりするような一日も間延びして感じられた。
門倉は送迎車に乗る前の一服をする気になれず、運転係が来るとすぐさま車に乗り込んだ。
都内に戻る車中で、南方に電話をする。南方はコール三回で応答した。
『南方だ』
「ワシじゃ。今ええか?」
『ああ、構わん。……悪いが少し外す』
南方の背後からは、多人数ががやがやと話し合うさざめきが聞こえた。庁内の会議室か、所轄に出向いているのかもしれない。だいぶ間を置いて、物音が聞こえない場所まで来ると、『どうかしたのか』と落ち着いた声で話を促してきた。本庁にいるときの南方は、深くて落ち着いた声色をしている。
「ちぃと頼みたいことが出来てのぉ。直接話したい、今夜どこか空けられんか?」
『ええよ。今夜なら空けられる。そうじゃな……前に行った、○○通りの商店街、わかるな? 入り口あたりで落ち合おう』
「わかった。今からやと、多分……」
門倉が言葉を切る。運転席の黒服がすぐに「一時間くらいです」と応えた。
「一時間くらいで着くそうじゃ」
『解った』
用件が済むと、向こうから電話を切った。警視正として警察組織で奮闘しているだろう南方の気配に、ふと口元が緩む。自分と同族のくせに司法側に己のテリトリーを求めた南方とは、やはり決定的な部分が違う。久しぶりに確かめられて、胸くそ悪い顛末でむかつきを覚えていた胸あたりが、いくらかせいせいした。
座席にもたれて頬杖をつく。疲労はあるが、眠気はまったなくない。町の外れの景色がどんどん郊外のごちゃごちゃした街並みになり、テールランプのひしめき合う幹線道路に合流する。まだ夕方に見えた空は、やっと暮れなずもうとしていた。
「夏やのう」
ぽつりと呟く。何の気なしの言葉だったが、運転席の黒服が「祭りの季節ですね」と答えた。最古参の黒服が東京でスカウトした若手で、広島出身だという。門倉と話すときの敬語に、うっすら訛りがある。
「立会人は、どこか祭りやらに、行かれるんですか?」
「そうじゃのう」
門倉は生返事で応じる。
門倉にとって、祭りはヒトやモノを動かして誰かと争ったり何かを稼いだりする場だ。もうずっと、十代の頃からそうだった。誰かと楽しむための祭りが、わからない。
門倉の生返事を聞いた運転係は、話題を選び損ねたと悟ったのか、その後はずっと黙りのまま、車を走らせ続けた。
運転手の予想通り、一時間ほどで目的地の近くまで来た。下道に入り、ゆるやかな渋滞に巻き込まれ始めたのを見て、門倉は車を停めさせた。
「ここから歩く、お前は上がっていい」
「はい。失礼します」
門倉はジャケットを脱いで、混み合う道を歩き出す。
湿度はマシだが、それでも日中の熱が路上に立ちこめている。途中、地下鉄の入り口がある十字路を渡ると、商店街の入り口が見えてきた。通りから斜めに伸びるY字路の三角地は、広めに整地され、ちょっとした休憩所になっている。
休憩所のベンチに、ジャケットを脱いだ南方が腰掛けていた。こちらに気づいておらず、ペットボトル片手にぼうっとしている。気の抜けきった顔を見て、門倉は自然と頬が緩むのを感じた。
歩み寄っていくと、南方が振り向く。労働でくたびれた顔が、見るからに明るくなった。
「待たせたか?」
「ついさっき来たところじゃ」
そういう南方だが、額に流れるくらい汗が浮かんでいる。門倉は肩をすくめると、商店街の中へと顎をしゃくった。
「ともかく、どっか入るか。暑くてかなわん」
「この間の店が、もう開けとるじゃろ。行くか」
南方が立ち上がり、ペットボトルの中身を飲み干して、きちんとリサイクルボックスに投げ捨てる。ハンカチで汗を拭うさまは、外回りから直帰したサラリーマンに見えなくない。
惣菜屋や弁当屋はタイムセール中で、客が引いては集まるのを繰り返している。日用品の店が慌ただしく閉店準備している隣で、客で混み合った居酒屋からは賑やかな物音が漏れ出している。暑気の残る空気に、宵の口の賑わいが気持ちよく溶けている。
堅気の空気を纏った南方と、立会帰りの門倉とは、妙な取り合わせに見えた。一見、異業種の知り合いに見えるかもしれないが、それにしてはお互いがお互いに馴染み過ぎている。勘の良い商売人は、南方がただのサラリーマンではないと気づくに違いない。どちらかというと、門倉の正体よりも、南方の別の顔が透けて見えてくる。
実際、店の軒先に出ている老齢の店主からは、南方の方が警戒した目で、やぶにらみされていた。
「お前、外面つくろうの得意やったのになあ」
「なに?」
「最近、柄悪うなったて言われとらん?」
「いいや、別に」
自分に引っ張られる形で、本来の性分が滲み出ている自覚のない南方に、門倉は含み笑いを浮かべる。バランスを語った南方が、今この場で一番アンバランスになっているのだ。それを、自分だけ解っている。良い気分だった。
門倉は、あの会員を社会的に葬るため、南方の手を借りるつもりでいた。賭郎の搦め手を正式に動かすつもりはない。弐號立会人としてではなく、警察と懇ろな一事業主として、司法の力を借りようとしている。
賭郎会員をやっていて、叩いて埃の出ない人間はいない。会員が賭け金を受け取る口座は、会員の後ろ暗い付き合いでも使われている。これは門倉が個人的に把握していた。自分の仕事に不利益な人物の、違法な金の流れを警察関係者にリークするだけ──表から正式な圧力をかけ、法的な弱みが出来てしまえば、会員権を手放すまでの段取りは、門倉が心得ている。
勝者が会員権を失えば、取立の内容は賭郎預かりとなる。対処を決めるのがどちらのお屋形様でも、亜面立会人が憂慮していたような事態にはならないだろう。
この始末について、南方に仔細を説明し、了解を得る必要は無い。南方はただ、警察の仕事をしてくれればいいだけだ。
商店街内の十字路まで来て、南方がふと立ち止まった。進行方向とは別に、もう一本の通りに抜ける小径がある。向こうにも、喫茶店や飲み屋や商店が数軒並んでいた。どちらの通りだったか、考えあぐねているようだ。
「どの店でもええけど」
「いや……この通りであってるはずだ」
言いながら、南方は七夕飾りの出ている雑貨屋を振り向いた。
「ああ、あの店の先じゃ」
昨日で七夕が終わったのに、南方の指さした雑貨店だけ、店先に笹を立てて飾り付けしてある。
ちょうど店頭に出てきた女主人が、いかにも億劫そうに、飾り付けた笹を取り外すところだった。色紙で手作りした飾りと、願い事の書かれた短冊がひらひらと揺れる。女主人は、誰の願い事なのか、何が書いてあるのか無関心な様子だった。飾り付けや短冊がぱらぱらと外れて零れ落ちるのに頓着せず、店内に引きずっていく。
路地に落ちた短冊の一枚が、通り過ぎようとした門倉の足先まで、ひらひらと飛んでくる。拾い上げると、子供の字で「家族で海に行けますように」と書かれていた。丸めて捨てるのは気の毒に思えて、折りたたんでポケットにねじ込む。
横目で見ていた南方が呟いた。
「七夕なんて、したことないな」
「子供の頃にはしたんと違うん?」
「さあな。ガキの頃から、アレは女子の行事て思うとったから、無視しとった気がする」
「正月の絵馬みたいなもんじゃろうに」
「正月の絵馬は願掛けじゃろ。短冊に書くんと気合いが違う」
「論理と合理の警察官僚の口から、気合いなんちゅう言葉が出てくるとはのお」
揶揄った門倉は、南方を振り向いた。
「今のお前なら、短冊になんて書く?」
ふと、他愛ない問いが口をついて出る。南方の横顔を見ていたら、急に聞きたくなってしまったのだ。南方が振り向いて怪訝な顔をしたが、門倉と目が合うと、照れくささを噛み殺した苦い顔になり、「なんも」と呟いた。
「特に、なんも無いわ」
意外に無欲な答えが返ってきて、門倉はきょとんとする。
南方恭次という男は、己の非凡さをよく自覚している。人並み以上に、自己顕示欲も出世欲もある。実力者として然るべき立場に立つべきという傲慢がある。凡庸な人間を啓蒙し、統括する不遜な義務感も抱いている。その点で、門倉の思想とどうしても衝突せざるを得ないのだ。
門倉はてっきり、賭郎でも立会人として成り上がる野心を抱いているとばかり、思っていた。
「本当に、なんもないんか」
「……無いな」
「はー、公務員らしく将来に希望のない答えじゃのう」
揶揄した門倉が、口角を意地悪く歪ませる。
南方が立ち止まり、そこじゃ、と暖簾のかかった店先を見やった。磨りガラス越しに店内を窺うと、かなり混雑した様子だ。
「やかましい店の方が、都合がええんじゃろ」
「まあな」
空き席があるかを確かめに、南方が先に戸口をくぐった。大男が二人並び立てる入り口ではない。門倉が後ろに引いて待っていると、店主とやり取りした南方が振り向いて首を振った。隣に戻ってくると、「少し待たんといけん」と告げる。門倉は頷いた。今から、別の店を探してうろつくのも面倒だ。それに、大して楽しい話でもない。
シャッターが下りている対岸の店まで下がり、並んで待つ。門倉が煙草に火を点けると、南方が「一本だけじゃぞ」と渋い顔をした。その視線の先に、喫煙禁止区域の張り紙がある。
見逃してもらった一本をしみじみと吸っていると、南方がぽつりと呟いた。
「さっきの話」
「おん?」
「おどれに遭うて、わしの悲願はほとんど叶っとる。……短冊に書くことが無いっちゅうのは、そういうことじゃ」
言い終えると、南方は視線を明後日の方向に泳がせる。
紫煙をくゆらせていた門倉は、思わず吸い口を噛みしめた。笑いそうになってから笑い事じゃないと思い直す。
南方の、悲願の先にいるのは自分だと門倉も嫌というほど解っている。これまで、態度で、視線で、肉体で、散々訴えられている。
しかし、悲願を成就させたのは、天でも運でも、まして門倉でもない。南方の揺るぎない一念が、今この瞬間に繋がっているのだ。確かに、星に託すような話ではない。
南方の生き様と一途を通り越した執念を改めて見直してから、真新しい気持ちで呆れてしまう。
感慨深く思っていると気取られないよう、門倉は軽口を叩いた。
「そがぁなちっさい野心で、ようキャリアになれたのお」
「キャリアをなんじゃ思うとる。そこらへんの頭の出来じゃ、なれんのやぞ。まぁ、わしにはその実力があったわけじゃが」
自信過剰な口調で得意げに語る南方に、門倉は黙って足を軽く蹴っ飛ばした。半分も吸っていない煙草を携帯灰皿に押しつけて消し、横目で見やる。なにするんじゃ、と言い返しながら、南方はいかにも満ち足りた笑みを浮かべている。悲願を成就した人間の顔だった。
(悲願、なあ)
二度立ちはだかり、挫折してなお、肩を並べようとし続ける男。ひれ伏すのではなく、見上げてくるのではなく、ひたむきに、門倉の視座を知ろうとする男。
この男の願いの先に、自分はいるのだ。
当然だという自負と共に、己が南方の誇りたりえる者かという自問が浮かぶ。
門倉は南方から目をそらし、内心で己を嗤った。
(こんな男を飛び道具代わりにしようなんぞ、目が曇っとるどころの話やない。門倉雄大ともあろう男が……)
店の戸口が開いて、顔を見せた店員が短く会釈した。席が準備できたらしい。
シャッター前から店に歩き出した南方に、門倉が呼びかけた。
「南方」
振り向いた南方を見据えると、通る声で言い放つ。
「おどれとワシの間に、立場の裏も表もない。そうじゃろう。……じゃけえ、ワシの片棒を担ぐと、約束せえ」
南方は少し目を見開いた。だが、立会人の佇まいで見つめてくる門倉の面持ちに、真剣な表情で黙ってひとつ頷いてみせた。答えはそれだけで、充分だった。
隣に歩み寄った門倉は、そのまま南方を追い越して先に行く。それを見届けた南方が、当たり前のように後から着いていく。二人の足取りは、同僚でも旧知でもない、共犯者の密度で繋がっていた。
奥の座敷席で薄暗い企みを囁き交わす二人を、勘の良い誰かが見たなら、人目を憚る逢瀬のたぐいと確信しただろう。。
[了]
