本庁の残業を終えて帰路につくと、外はまだじっとりと蒸していた。
深夜ともなると暑さもだいぶマシに感じられるようになってきたが、スーツのジャケットを着て平気なほどの涼はない。湿度から逃げるように、タクシーを拾った。
だが、マンション近くでタクシーを降りてから部屋までの徒歩距離で、シャツの背中はすっかり汗ばんでしまった。
玄関のドアが閉めると同時に、リビングからのしのしとやってくる足音がした。門倉が来ているのだ。
「遅かったのぉ」
ドアを開けて姿をみせた門倉は、俺のクローゼットから拝借しただろう、無地のシャツとアンクル丈のパンツをだるんと着ている。今日は、表の仕事も賭郎の用事もなかったらしい。眼帯もせず、完全にオフの格好だ。
「できる人間にばかり仕事が回ってくるもんでな」
靴を脱ぎつつ適当な軽口で返すと、鼻で笑う息遣いが聞こえた。振り向くと、門倉はわざわざ出迎えてやったと言いたげな、恩着せがましい表情を浮かべて見下ろしていた。壁に半身もたれて腕組みし、玄関をあがってすぐの廊下に立ちはだかっている。ちょっとした通せんぼの格好だ。
面倒な絡み方をされそうな予感に、辟易した声が出る。
「なあ、わしもう風呂に入って寝たいんじゃが……」
一応、口に出してみたが、門倉は頷きながら聞いていない顔をする。
そして、おもむろに両腕を広げてみせた。
「ほれ」
疲れているなら早くしろ、という顔でハグを促してくる。仕方なく、ジャケットのまま門倉の腕に収まる。門倉は加減せず、ぎゅっと抱きしめてきた。
体熱が籠もっているうえに、汗臭いだろう男の体を抱きしめて何が楽しいのか。そう思うが、俺も俺で、一日寛いでいただけの温くて力の抜けた門倉の手応えを、快く感じている。どっちも案外、似たり寄ったりなのだろう。
門倉が、鼻先をシャツの襟口あたりに押しつけてきた。そのまま、すうー……と深く息を吸い込む。匂いを嗅がれている。
こうなるとわかっていて腕に収まっているのだが、改めて気まずさを覚える。
賭郎入り以前から、香水をつけてはいた。門倉のように己の存在感を飾り立てる意味ではなく、仕事柄、身だしなみの一環としてごく薄くまとう程度だ。受けの良い相手のときは、はっきり解る付け方をするが、喧しいお歴々の前では控えていた。
だが、賭郎に入り、立会人となり、別の立場を得て、表の仕事での控えめなファッションに留まらない、付けるべき理由を得てから変わった──門倉雄大の拾陸號を継いだ者と主張する必要性を、感じたのだ。
付け方を変えたのを誰より先に見抜いたのは、他でもない門倉だった。見抜かれた日のことは、未だに覚えている。
その日も今日のように、残業あとに深夜の立会を終え、疲れた体で帰宅した。やはり今日のように、門倉が訪ねてきていた。
帰ってきた俺を見た門倉は、しばらく俺の周囲を凝視し、矯めつ眇めつ眺めまわしてから、呟いた。
『おどれ、そがぁな色じゃったか?』
『色?』
門倉が、頭の傷が元で共感覚を得ていると知ったのは、この後のことだ。
まじまじ見てくる門倉に、香水の付け方を変えたと話すと、端整な顔が台無しになる、例の失敬な笑顔を浮かべてみせた。
『それはええこと聞いた』
以来、門倉は自分の都合で勝手に俺の部屋に来て、俺が表の仕事から帰ってくると、こうして抱きしめ、朝つけた香りの残り香を嗅ぐようになった。
臭いと言われたなら、そりゃそうだろうと言い返すだけだ、三十路も半ばの男から、香しい匂いなんてしやしない。
だが、こうして匂いを嗅ぐ門倉から、皮肉や軽口でも、揶揄する言葉は出てこない。曰く、いい色で、いい匂いだという。色の話は理解しようがないが、いい匂いと言われて悪い気はしなかった。臭いと言われるよりマシだ。
この習慣が始まった頃は、まだ肌寒い春先だったので気にしなかった。だが、梅雨入りして、真夏になっても続けているので、ちょっと閉口している。ここひと月くらいは特に、大の男に抱きしめられて快適な季節とは言い難い。
だが、項に顔を埋めて深々と匂いを吸い込む門倉を抱きしめていると、まんざらでもない気がしてくる。この奇妙な習慣を、自分にだけしていると思うと、独占欲が満たされ、意味もなく優越感を覚える。それで、結局好きにさせてしまう。
門倉が、満足げな吐息を溢すのが聞こえた。もういいか、と聞くかわりに身じろぎする。だが、門倉の腕はがっちり体を締め上げていて、びくともしない。まだ嗅ぎ足りないらしい。
「別に、毎度嗅がんでもええじゃろ。毎回、同じ香水やぞ」
「おどれのくたびれ具合で、塩梅が変わるんよ。こき使われてくたびれてるほど、好きな匂いになる」
「……」
つまり、今日の俺の匂いは大変お気に召しているらしい。しかし、俺が疲労困憊するのを歓迎されているのは、どうもやりきれない気がした。
甘い匂いじゃ、とからかう声にぞわりと体の芯が震える。今すぐ門倉を押し倒してやりたい。だが、今日ばかりはその余力がない。
せめてジャケットを脱がせてほしいと、軽く身じろぎして抵抗する。そんな俺を門倉はもぞもぞするなとばかり、ますます抱きすくめてくる。
たわんだ門倉の髪が顔に触れ、重さの薄れた柔らかなラストノートが鼻先を掠めた。門倉が纏う支配者の匂い。その余韻は、門倉が身内に見せる寛容を思わせる。
鼻先をそのまま髪に押し付けると、門倉が低く囁いた。
「のう。南方、気づいとるか?」
「なに……」
香水と体臭の入り混じったにおいで嗅覚を、内緒話の潜めた声で聴覚を刺激されて、疲れと相まって頭がじいんと惚けていく。惚けたまま聞き返すと、門倉は吐息交じりの声で低く耳打ちしてきた。
「最近、おどれの匂いがワシのに似てきとるんよ。ワシの色に染まっとるみたいで、ええ気分じゃ」
「……は?」
愛おしむ声で傲慢に宣言されて、思わず門倉の髪に埋めた顔を離す。
「そんなつもりはないんだが」
うっとりした心地から一転、舐められた屈辱で、喉から唸り声を上げていた。確かにコイツを認めてはいる。門倉のものになってやってもいい。だが、門倉と同化したいわけではない。
俺が唸ったのを聞いて、門倉がようやく項から顔を上げて腕をゆるめた。俺が、本能的な怒りで顔をしかめているのを見ると、そうかよと言いたげに薄く目を細めて、顎先を上げる。メンチを切られて、俺も顎を引いて睨み据える。
隙間なく触れ合っていた肌の間に、ようやく空気が通る。角を突き合わせる緊張感を涼しいと感じたのは一瞬で、すぐに物足りない感傷に追いつかれた。
やっぱり、門倉の体温をもっと感じていたい。
俺を己の一部と慢心しているなら、それがどんなに重たく熱いものか、思い知らせてやりたい。
そんな衝動が強烈にこみあげてきて、肩を掴もうと手を伸ばす。
だが、その手はすげなく払いのけられた。さっきまで好きなだけ密着してきたくせに、こちらから仕掛けるとこうだ。さすがにムッとして不機嫌な声で言い返す。
「好き勝手すぎんか、おどれ」
苦い視線を向けると、門倉は一瞬キョトンとした。すぐ、有無を言わさぬ力で顎を掴んで、鼻先に引き寄せる。
眼帯を外した左の裸眼に、憮然とした俺の顔が映り込んでいる。俺の視界には、こっちの腹の底まで見抜きそうな瞳が迫っている。物怖じを知らない門倉の目。見るたびに、惹き寄せられてしまう。
そのまま睨み合っていたが、門倉の方が表情を崩し、笑みを溢した。
「嬉しそうな顔で言うても、説得力ないよ」
「誰が喜んでるって?」
不機嫌に、憮然と、納得のいかない口調で、ハッキリ言いかえしてやる。
だが、門倉は俺の言葉より、目の端に見えている色を見ているらしかった。こっちの意地の先を見通すように──耳の後ろあたりをじっと見ていた目が、俺の視線を向く。
「嬉しいじゃろ。ワシの隣におれて」
「……」
こう言われたら、俺は降参するしかなかった。
賭郎まで追いかけてきた身で、そんなわけないと否定するのは無理がありすぎる。なにもかも、門倉の言うとおりだ。抱きしめられるのも、似た匂いがすると言われるのも、悔しいと思いながら、どこか喜び浮かれている自分がいる。
卑怯な言い回しをしよって、と内心で歯噛みしてしまう。門倉はこういう時だけ、狡い男になるのだ。
こっちにも意地があるので、否も応も返さず黙り込んだが、沈黙で肯定したも同然だった。笑みを浮かべている門倉に、内心で舌打ちする。
些細なことで勝ち誇った笑顔を見せる気やすさは、距離の近さの表れだ。この距離感で接している人間は、おそらく俺の他にいないだろう。
それが解ってしまうと、憎たらしさが消えてしまう。隣にたどり着けた幸福に目が眩む。
だから、俺はどうあっても門倉に勝てないのだ。
俺を黙らせて気を良くした門倉は、俺のジャケットを掴んではだけると、体熱といっしょに籠もっていた匂いを吸い込んだ。ネクタイを引っ張って頭を抱き寄せながら、仏頂面で尻尾を振ってしまっている俺に、褒める調子で耳打ちしてきた。
「今日は一段と、ええ匂いさせとるよ。南方」
[了]
Beautiful Burnout
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