ノイトラが服を汚して帰ってきた。
「おかえり、……」
同室のテスラは白い制服のあちこちに汚れをつけ、長い髪の乱れたノイトラにぎょっとして、息を呑む。
「ザエルアポロのヤロウ、楽しい会合とか抜かして人を駆り出しやがった」
舌打ちして、椅子にどっかりと腰を下ろす。ノイトラに似合うといってテスラが買い与えた椅子。背もたれがつるりと丸く、座高が低く、ノイトラが長い両足を持て余すデザインをしている。テスラが買い与えた物で、今でも壊されず、捨てられず、生き残っている数少ないオブジェだ。
「グリムジョーたちの喧嘩に呼ばれたのか」
「ツラ貸してやっただけだ。スタークやらアスキンやら、顔だけ見せてとっとと帰りやがったからな。黒崎を何発か殴って引き上げた、無様な泥仕合はオレの趣味じゃねえ」
「殴り合いはしたのか」
だから制服が汚れているのか、とテスラは納得した。ザエルアポロが面白がって観戦したなら、グリムジョーは当然いる。黒崎一護たちと張り合ったなら、派手な乱闘になっただろう。OBのスタークまで呼ばれたあたり、向こうもOBを引っぱってきたのかもしれない。
「着替え、用意しようか」
テスラの提案に、ノイトラは鬱陶しげに手を振ったきりだった。机に投げ置いてあった煙草に手を伸ばす。ルームシェアを始めるとき、事務手続きは残らずテスラが行った。賃貸なので室内は禁煙、とルールを決めたが、それはノイトラが苛ついているとき無視される。テスラは仕方なく、窓を開け、換気扇を回す。外は気持ちの良い天気で、確かに力を持て余した後輩たちには喧嘩日和だったのだろう。
そこに、ノイトラが加わっていたことが、テスラにはとても奇妙に思えた。
ノイトラは粗暴な男だ。傲慢不遜で傍若無人。暴力を是とし、実力のない者を等しく無能と言って憚らない。教師を前に礼節を取り繕う狡さを理解しているが、実践するのは気まぐれだ。
ノイトラの見る世界は、彼自身か、彼より格上しか存在しない。その他は、路傍の石にすらなれない有象無象だ。その点で、テスラも路傍の石に等しい。
──オマエは、石ころにしちゃ目障りすぎんだよ。
自分を見下ろすノイトラの冷淡な台詞を、テスラは今でも思い出せる。テスラはそもそも、出会ったときからノイトラに降参していた。ノイトラの強さを遮らないために己を磨き、有能であろうとしてきた。その努力と献身をノイトラが評価しなくても、テスラはまったく構わなかった。傍らで拝跪する資格を得られればそれで良かった。
この関係性を、グリムジョーが奴隷だと揶揄したことがある。端から見てテスラの報われない献身は、同情か苛立ちのどちらかをかき立てるらしい。グリムジョーは苛立ちを駆り立てられて痛罵し、ノイトラに渾身の平手を食らった。
『オレの持ち物に、気安く話しかけてんじゃねえ』
剣呑なやり取りを遠巻きに見守っていた周囲の人々は、ノイトラがテスラを庇った、と声もなく驚いていた。そうではないことをテスラは知っていた。ノイトラは所有物に泥を引っかけられたので、グリムジョーを殴ったに過ぎない。テスラの矜恃や献身に関心はなかった。
「襟元に血痕がついてる、洗った方がいい」
「アァ?」
「血の汚れは染みになると落とせなくなる。黒崎たちに構って怪我をした、なんて言われたくないだろう」
ノイトラが怜悧な目で冷たく一瞥してきた。答えず、ジャケットを脱ぐ素振りもなく、スマホを手に取る。テスラはその場に佇んで、しばらく待った。
テスラはよくノイトラに忠告する──もとい、諫言する。テスラがノイトラに注意を促すとき、どんなに親密な口調でも、腹心が恭しく耳の痛い進言をする慎重さが含まれている。テスラからノイトラに投げかける言葉はどれも、届くかわからない祈りに似ている。テスラの目には、うっすらとした憂うつを孕んで苛立ち憤るノイトラの姿は、祈るにふさわしい像をしていた。
だから、テスラはしばらく、祈祷の時間が終わるのを待つ静けさを保って、ノイトラの返事を待っていた。微かに目を伏せ、視線も気配も殺して、面倒ごとに巻き込まれたノイトラの神経に障らないように息を潜める。
スマホ画面をタップしていたノイトラの手が止まり、鋭い舌打ちが聞こえた。
「……うるせえな。勝手にしろ」
呟いて、椅子から立ち上がる。背もたれでたわんだ長い髪がするするとほどけ、天井に届きそうな長身がすっくとテスラの目の前に立つ。
「ありがとう、助かるよ」
テスラが上着を受け取ろう手を差し出すと、テスラは黙って片腕を差し出した。脱がせろ、と促してくる。テスラは戸惑ったが、すぐに恭しい手つきでノイトラから上着を脱がせた。袖を掴み、襟を引く。ノイトラは不動のまま、棒立ちだった。近づいて、抱きつくような姿勢を取らざるを得ない。テスラは自我を殺して事務的に、手早く、ノイトラの両腕からジャケットを引き抜こうとした。
突然、ノイトラが腕を曲げた。あとは袖を抜くだけだったテスラが、驚いて見上げる。無関心な表情を浮かべて、ノイトラの白い貌がある。けして傷つかない肌に、不快感の皺が寄っている。温度の低い片目に見下ろされ、テスラは微かに奥歯を噛みしめた。自分の、無粋で不躾な熱がノイトラの肌を温めてしまうのではと、息を殺す。
「……腰抜けが」
ノイトラが押し殺した不機嫌な声色で吐き捨てる。腕を下ろすと、自分から服を脱ぎ捨てた。テスラの手には振りほどかれたジャケットが、抜け殻のようにわだかまった。テスラに背中を向け長い髪を縛ってまとめると、机に置いたスマホ画面を確認する。
「出かける」
淡泊に告げ、別のモードなジャケットを掴んで羽織る。それは、OGのネリエルがノイトラに贈った服だ。
部屋に戻ったばかりのノイトラは、またすぐにテスラと暮らす部屋から出て行った。ドアが閉まるのを見届けから、テスラはソファ代わりにしている自分のベッドに腰を下ろす。
──腰抜け。
(とっくに、忘れたのだと思っていた)
ノイトラを初めて抱いたときにも、同じ台詞を言われた。二人の間で、一夜の過ちとして封じた話だ。テスラは、熱い薄氷のような思い出を大事に抱きしめ続けていたが、ノイトラの方はすぐに忘れたようだった。テスラにはそのように見えていた。
あの踵で踏み散らして、全部なかったことにしたのだと、信じて、疑いもしなかった。
ノイトラの美しい眼窩にも、あの記憶は留まっていた。それを実感し、テスラは身震いする。神に直視されても、もう少し心穏やかだろう。
(君の言うとおりだ。僕はいつだって、君を直視すまいと目を逸らしてばかりで……)
テスラは、丈の短い白のジャケットに視線を落とすと、苦い微笑を浮かべた。つま先に額づく仕草で、ジャケットに額を押し当てて項垂れる。布地からノイトラの涼しい体温はすり抜けて、残骸がかすかに残るのみだ。それも、テスラの複雑な情念が籠もった熱い溜息で上書きされて、ただの汚れた上着に成り下がってしまった。
[了]
