檜佐木が、午後から編集室で自分の作業をしていると、ノックなしに引き戸を開けて六車が入ってきた。
「修兵。この書類、判子足りてねえぞ」
「え、本当ですか?」
編集机にかじりついていた檜佐木は、六車の声に顔を上げる。六車が持って来た書類をぺらりと翻し、空いている椅子を引きずって檜佐木の隣に腰かけた。編集室は、隊舎より天井の低い離れを使っている。六車も檜佐木も、立って並ぶと頭上に天井が迫って息苦しいので、お互い座って用件を済ませがちだ。
隣から書類を差し出され、檜佐木は原稿用紙を横に避ける。
「あ、本当ですね。紫崎のやつ、捺印ちゃんと確認しろっつったのに……」
書類回収の担当だった男の名前を口にしつつ、檜佐木は引き出しから自分の印鑑を取り出した。訂正の斜線の上から、自分の印鑑を押して修正を済ませる。
六車が書類を受け取ろうとすると、「待ってもらえますか」と制止した。六車は伸ばした手を引っ込め、腕を組んで大人しく待つ。檜佐木は、他に抜け漏れがないか頭から書類の内容を再点検しはじめた。原因は部下の確認漏れだが、それを見逃して隊長に提出してしまった自分の責任を感じてるのだろう。
(真面目なヤツ)
腕組みして隣で待つ六車は、退屈さを引き結んだ口の中に隠して、檜佐木の真剣な横顔を見守った。
別に、六車が訂正印を押して手続きを進めても良かったのだが、今日の六車は普段より暇で、檜佐木は編集と通常業務を並行する日で、忙しくしていた。朝の定例会以降、編集室のある離れに引っ込んだきり、昼休憩を取ったかもあやしい。
副隊長の通常業務は、六車の方で勝手に引き取って午前のうちに済ませておいた。しかし、瀞霊廷通信に関する作業は、檜佐木でないと解らない。
編集業務についても、おいおい引き継いで手伝ってやりたい気持ちがある。同時に、今まで檜佐木が築いてきた領分に口出ししたくない気持ちもある。六車にしては珍しい、どっちつかずの心持ちで見守っているところだった。
(コイツの場合、楽すると所在なくなる、損な性分だしな)
もし九番隊と編集の仕事に縛り付けておかなければ、他隊からの頼み事や、先輩後輩の無茶振りに振り回されてあちこちするだろう。いろんな人々にとって都合のいい〝檜佐木修兵〟になるのは、目に見えている。
自分はともかく、と六車は己の横暴を棚上げして、思い浮かべた仮定の想像に怫然とした。
(他の連中にいいようにされるコイツを見るのは我慢ならねえ)
檜佐木は、確認作業に没頭している。六車が見つめているのに気づく様子もない。
(俺がこんなくだらねえ事を考えてるとか、思いもしないんだろうな)
檜佐木の視線が紙面の下半分に移動して、やや伏し目がちになる。頬骨のあたりに六九を刻んだ横顔は、文字が表す隊の気風と反対に、静謐で沈着だった。仕事にひたむきな檜佐木の横顔からは、清廉な品位が漂ってくる。六車が不在だった頃、身につけただろう品位が、ひんやりと六車の目に染みた。
(コイツのこういうところ、俺と似ても似つかねえな)
六車は内心で呟いてから、おかしくなった。似るも似ないも、檜佐木とは他人だ。歳も、これまでの経歴も、なにもかも違う。
なのに、似ていない部分があると驚いている自分がいる。
(リサの話を真に受けてんのか?)
軍勢の仲間は、六車と檜佐木の関係をそれとなく知っている。特に矢胴丸リサは出歯亀根性を一切隠さず、デリカシー皆無の質問をしては六車に黙殺されている。もちろん、冗談の範疇に留めている。(それでも、きわどい質問だらけなのは間違いない。)
そんなリサから言われた言葉が、ここしばらく、ずっと胸の内に張り付いて離れない。
──上手ういっとる連れ合いちゅうのは、だんだん相方に似てくるものや。好みとか、考え方とか、自分のもんか相手のもんか、わからんくなっていく。つまり、セックスと同じってことや。
平子はバカにして目を細めていたが、六車は案外言い得て妙だと思っていた。ただし、似てきている、というのは檜佐木が自分に似せてきている状況を指している、と六車は受け止めていた。最近だと、髪型を変えて長めだった襟足を短くした。
六車は、檜佐木の長めの襟足を逆向きに撫で上げるのが気に入っていたので、寂しくなった襟足を見るたびに、バカヤロウ、と思っている。
(テメェはテメェのままでいろっつうんだよ。俺に似せていって、どうしたいっつうんだ)
檜佐木が確認を終えて、書類から目を上げた。振り向いた目が見つめていた六車の視線に気づいて見開かれ、一呼吸して、微かに俯く。
晴れた庭に、ふと雲間の影が落ちるような、沈黙の空隙。
檜佐木の勤勉さに差し込まれる微かな私情が、清々しい品位に一条の不埒をもたらす。
六車は、手の甲で檜佐木の頬を撫でた。檜佐木は、直に触れる体温に流されてしまう自分にはにかみ、気まずさ唇の端で噛みしめてみせた。数字の刻まれた頬を、六車にしか伝わらないほど僅かな動きで、すりよせる。
珍しくはっきり甘えてみせる檜佐木に、六車は釣り込まれるように、顔を傾げて唇を啄んだ。
「……!」
一度触れると、もう一口、と喉から欲望が溢れる。檜佐木の手が、くっと書類の端を握りしめそうになり、ぱっと開いた。意識が逸れたその一瞬に、六車は身を乗り出して上体を寄せる。口を開き、唇を甘噛みして舌でこじ開ける。
短い口づけで満足して薄目を開いた檜佐木が、びっくりしたように目を見開いた。
至近距離で視線を合わせたまま、六車は口づけをやめない。吐息に熱が入り混じりはじめたところで、分別を弁えた檜佐木の両手が、迫る六車の体を押し返した。
六車は聞き分けよく、浮かせた腰を椅子に据え直す。顎先をくすぐる手つきで撫でてから、まじまじ見つめてくる檜佐木の顔をじっと観察する。
「お前、キスしたあと鼻に皺寄せる癖あるな」
「……っ、びっくりしてるからですよっ。なんでこう、急なんです」
顔を紅潮させつつ、唇を突き出して小声で抗議する檜佐木に、六車がムッとして言い返す。
「合図してくるのは、いつもお前だろ」
合図、と檜佐木が復唱した。何を言われたのか解っていない顔をするのを見て、六車は憮然とした口調で言いやった。
「接吻したいとき、変な間で黙り込むじゃねえか。違うか?」
六車がズバリと指摘する。図星を指された檜佐木は、見合っていた視線をうろんに泳がせ始める。
「……っ、そ、んなはず、ないと思います、ケド……?」
「筒抜けだ、バカ。往生際悪ィな」
「いや、絶対、アンタの気のせいですって! だって今、俺まじめに仕事してませんでした!? してましたよね!?」
「してたな」
「そう! 仕事してたんですよ! ……って、あれ?」
「仕事中にちょっとキスされてえ、とか雑念が過っただろ。解んだよ、こっちは」
「!!」
檜佐木は今し方を思い返してから、言葉に詰まった。一呼吸の間もない隙をすくい取られた、それほど見つめられていた、六車の静かな執心を実感し、檜佐木の顔がじわじわと赤らんでいく。
六車は、耳の後ろまで真っ赤になって何も言い返せない檜佐木をじっくり眺めてから、無くなった襟足をくすぐるように片手で撫で上げた。
檜佐木が「ひゃっ」と肩をそびやかして、次の予感に目をじる。
六車はふと短く微笑すると、首をすくめた檜佐木の頭を、昔したように、雑にかいぐりしてやった。訂正の済んだ書類を回収して椅子から立ち上がる。
「邪魔したな」
檜佐木が恨めしげな目で見上げてきた。ひどいひとだ、と言いたげな表情に愛おしさを再確認すると、部屋を後にする。
六車が引き戸を閉めるのを見届けて、檜佐木は長いため息と共に、編集机に突っ伏した。顔を覗き込んできたときの六車の目を思い出して、唸る。
「マジで、狡いっスよ。あんな顔するのはさぁ……」
お前は俺のものだ、と檜佐木のすべてを全肯定する力強い眼差し。それが、沈黙のうちに柔らかくほどけて、普段の不器用さから想像もつかない甘やかな表情を見せる。
眼差しだけで合図される瞬間、逆らいがたい情愛に心身が、とけて、落ちていく。あの、酩酊感。
(……やっぱり、好きだなあ……)
檜佐木は突っ伏したまま顔だけ横向かせると、六車の触れた自分の頬をそっと擦った。
