吹き抜ける空っ風より翻るくちびるをよぎる君の息つぎ
檜佐木は、本当の意味でジャーナリズムを体現している死神だった。
瀞霊廷通信に関する仕事は、隊舎の中だけで完結しない場合がほとんどだ。取材は瀞霊廷・流魂街・ときには現世に及び、行く場所により会う人物も多岐にわたる。
取材の資料は隊舎の編集室だけでなく、檜佐木の自室にも積まれている。生活に仕事を持ち込むな、と六車はたびたび苦言を呈してきたが、檜佐木修兵にとって瀞霊廷通信はライフワークだった。それを認めてからは、以前にも増して、口を挟むのを止めた。
檜佐木が六車の屋敷で同居すると決めたのは、一年ほど前。復興が本格的になり、瀞霊廷の枠組みも緩やかにだが大きく変わろうとし始めた頃だった。
引っ越し荷物の他に、取材資料を満載した荷車をバイクで牽引してきた。私物より、取材資料の方が多いくらいだった。六車は仁王像よろしく門前に立ち、遺憾の意をこめた怒りの形相を浮かべて出迎える羽目になった。
檜佐木は、申し訳無さそうに謝りつつも、全部まだ必要な資料なので、と一歩も譲らなかった。同居を提案したのは六車の方だったので、捨ててこいとは言えない。幸い空き部屋はいくつもあり、空いている四畳間を資料置き場にした。部屋から溢れて、檜佐木の部屋まで占拠し始めるのに、一年もかからなかったが。
そんなわけで、檜佐木は非番の休日にも関わらず、今の机に原稿用紙と綴じた取材メモの束、新型伝令神機を置いて、頬杖をついている。原稿用紙は白紙だ。ついでに、隣に引っ張ってきたくずかごには、折りたたんで反故にした用紙が何枚か投げ込まれている。
昼食を作りに隊舎から戻ってきた六車は、進捗が芳しくない檜佐木を見るや、顎をしゃくった。
「飯作るから片付けな」
「あっ、ハイッ。すんません、広げちまって」
「そりゃあ構わねえが、捗らねえならキッチリ休んだらどうなんだ」
「そうなんすよね~……でもこう、原稿まとめなきゃなあ、って頭ん中にずっと居座ってて落ち着かなくて」
綴じた書付や原稿用紙の束をバサバサまとめて、卓袱台の下に避ける。六車は支度のために手袋を外し、羽織を脱いでエプロンをつける。
卓袱台の上を片付けようとした檜佐木だが、置いた書付をふと手に取ると、ぱら、ぱらり、とめくり始めた。そのまま、あぐらの姿勢で猫背気味になり、うーん、と唸る。再び記事をひねり出す作業に引き戻されてしまった檜佐木に構わず、六車は台所に向かった。場所さえ空けてくれれば問題ない。それに時間も限られている。隊長といえども、内勤の際は決まった昼休憩時間に収めなくてはならない。
六車は現世から取り寄せた食材の箱を開けた。
瀞霊廷でも、現世でお馴染みの食材が流通し始めているが、総量はまだまだ少なく限りがある。今のところ、貴族やコネのある護廷隊士の間でだけ持て囃されている。六車は、矢胴丸リサを通じて、浦原商店経由よりは安く食材だけをまとめ買いしていた。もちろん、リサにはマージンを払っている。リサは隊長職に就いたあとも、貸本業──いわゆるレンタル屋を続けている。その仕入れにあわせて、六車のおつかいもしてくれるのだ。
百年間、同じ釜の飯を食った仲、何がどれくらい要るか、ざっくり伝えただけでしっかり把握してくれる。持つべきものは仲間である。
新しい藤製のかごを開けると、さまざまな加工食品やら乾物やらと合わせて、洋物ポルノ雑誌と、メモが同封されていた。
『今月の新刊!修兵に渡しとき』
「あのアホ……」
六車が低く唸る。リサと檜佐木のどちらに向けたものか、六車自身も良くわかっていない。あるいは両方かもしれない。
雑誌を食品類の下に敷き、パスタとソーセージ、ケチャップと中濃ソースにマッシュルーム缶を取り出す。今日は檜佐木が非番なので昔懐かしのナポリタンにするのだ。ウインナーを山ほど入れるのが、檜佐木が非番時の特別レシピだった。
鍋を沸かし、手早く食材を下ごしらえしていく。適当な束で掴んだパスタを投げ込み、フライパンを熱する。先に具材を炒めてから、茹で上がったパスタを掬い上げ、鍋にざっと放り込む。ケチャップとソース、隠し味に醤油を加えると、ケチャップの焦げる甘く香ばしい匂いが、台所に立ち込めた。
勘と目分量で作る六車のナポリタンは、一定の旨さを維持しつつ、同じ味になることがない。再現できない味を檜佐木は、一期一会だと、毎回惜しがってみせる。
『レシピ本、作りません?』
『調味料の配分なんざ、いちいち覚えちゃいねえからなぁ』
そんなぁ、と檜佐木は苦笑いした。いつか発行したいんで頼みますよ、と漠然とした未来の話をした。
(思えばあの時、こいつを側に置いときてえな、って考えたのかもな)
考えなくても盛り付けの手順は覚えている。これまた勘と目分量で、自分と檜佐木が同量になるよう、白い皿に盛り付けてから、自分の皿からウインナーを数個、檜佐木の皿に移して、パスタで少し取り返した。
「できたぞ」
正味三十分もかからず作った昼食を運ぶ。檜佐木からは、はい、と気のない生返事が返ってきた。
さっき片付けた机に、また冊子が広げられていた。どこだかの下級貴族から借りてきた先祖の備忘録だとかで、日に焼けた古紙には達筆で日記らしき文章が細かく綴られている。料理が料理なので本が汚れかねない。置く前に片付けるように言おうとして、檜佐木の顔を見る。
読み解くのも難しそうな崩し字だが、檜佐木は読めるらしく、三白眼が伏せた瞼と一緒に、繰り返し繰り返し、文字を追っている。ふと視線が横に逸れ、軽く唇を突き出して口の中で何か呟くと、目を閉じた。思案顔のまま、むすっと閉じた唇が、独り言を噛み締めてむずむずと震える。
幼気な真剣さに、答えを強請る表情が混じる。何かをせがむような、出かかっている答えを上手く口に乗せられない、もどかしげなしかめっ面。
(知ってる顔だ)
夜半の、薄暗がりの寝室で、あと少しで肉欲のきわみに手が届く、その「あと少し」をはしたなく強請るまいと堪えている顔に、よく似ている。
空腹のせいか、午後の居間の柔らかな日陰のせいか。六車には、そう見えてしまった。
運んできた皿を、広げた冊子から離れた場所に置きつつ、檜佐木の前に屈み込んだ。側に人の気配が近づいて、檜佐木の閉じられていた目が開く。
ほとんど同時に、六車の手が檜佐木の顎をすくい上げて、歪めた唇を塞ぎ、啄んだ。
「……!?」
口づけは、ほんの一呼吸の間のことだった。六車が顔を離すと、檜佐木は三白眼をこれでもかというくらい丸く見開いてから、素っ頓狂な声をあげる。
「な……っ?え、な、なんで?」と
もどかしさに苦しむ面持ちの、妙な色気に釣り込まれて口づけてしまい、六車は憮然と口を引き結ぶ。
「キスしてほしそうな顔に見えたんだよ」
「し、してないっすよ! オレは真面目に原稿を……」
「わかってる。……今のは、俺が悪い」
狼狽えながら弁解する檜佐木に、六車が苦い顔で応えた。ばつが悪い顔で自分の口元を押さえつつ横を向き、ぼそぼそと告げる。素直に謝る六車に狼狽していた檜佐木は気が抜けた顔になり、六車の照れ顔が伝染したようにはにかんだ。
「いや、……その、接吻されるのは、嬉しいですけど」
嬉しくないわけないっす、と言い添えて檜佐木は俯く。その視線の先に、いつの間にか用意された昼食の皿が写り、自嘲めいた微笑みを浮かべた。机に広げてしまった資料を畳に避け、それを卓袱台のずっと向こう側に押しのける。
「昼飯にしようって、言ってくれてたのに、すんません」
「それは別にいいが。お前は、キリがよくなってから食ってもいいんだぞ」
「いやあ……。今ので、なに書こうと思ってたのか、全部吹っ飛んじゃいました」
檜佐木が責めるでもなく答えるのを聞いて、六車はますます難しい顔になった。
「悪いことしたな」
「いいんです。だいぶ煮詰まってたんで、かえって良かったかもしれないっすよ。………ていうか」
──拳西さんからされるの久しぶりだっから、嬉しかったし。
檜佐木が早口で呟く。
六車が振り返る。檜佐木は目を合わさないように、ナポリタンに目をやってから「俺このスパゲティってやつ、大好きなんすよ」とわざとらしく浮かれた声をあげた。
六車は何も言わず、ただ静かに見つめ続ける。
檜佐木は、触れられた唇を噛みしめて気恥ずかしさを誤魔化してから、腹をくくった面持ちで見つめ返してきた。視線が絡み、どちらからともなく手を伸ばして相手の顔に触れ、口づけ合う。呼吸ひとつ、ふたつ。三つ分。
檜佐木がどうにか続きをこらえるように、六車の肩を押し返す。そのまま二人とも、鼻先の触れあう距離で見つめ合ってから、どちらからともなく笑みを溢す。
改めて卓に向き直り、お互いに両手を合わせる。
「それじゃ、いただきます」
「おう」
六車はフォークで、檜佐木は箸で、ナポリタンを頬張り始めた。少し違う食器の音と咀嚼音とが間をつなぐ。
半ばほど食べて、六車は檜佐木が満足しているか確かめようと、視線を上げた。大仰に頷きながら夢中で食べている檜佐木の顔を見た途端、六車はくっと喉を鳴らして吹き出すのをこらえる。
「なんです?」
檜佐木が、笑われたのに気づいて食べる手を止めた。六車はニヤニヤしながら頬のあたりを指差す。
「修兵、箸で食うのはやめとけっつったろ。また口の周りがくわんくわんになるぞ」
くわんくわん、と言われて怪訝な顔をした檜佐木が、居間の奥に据え置かれた姿見を振り向いて、げっ、と声を上げた。蕎麦のように啜っていたせいで、口の周りがケチャップソースで汚れている。慌てて部屋着の袖で拭おうとするのを、六車が軽い拳骨で制止した。
「痛っ!?」
「バカヤロウ、ナポリタンは染みになるっつったろ。懐紙で拭け、懐紙で」
「あ~すんません……」
洗濯炊事掃除と家事全般に辛めの六車であった。かといって、檜佐木にフォークを強要はしない。六車が使うように使いこなせないから、といって避けていること、実は隠れて蕎麦やうどんで練習していることを、知っているからだ。
妙なところで変に格好をつけたがる檜佐木の意地が、六車にはおかしく、愛おしかった。そのうち強く勧めなくとも使いこなして、口も汚さず食べられるようになると思うと、今の不器用な食事姿がいっそのこと惜しい。
檜佐木はなるべく汚さないように大口を開けて、箸で束ねたナポリタンを頬張る。いかにも美味しそうに汚れた口をむぐむぐさせる檜佐木に、六車は自分の皿にあるぶつ切りにしたウインナーの、一番大きなやつを、黙って檜佐木の皿に乗せてやった。
檜佐木は気づかず、それもまとめて最後の一口で頬張る。六車の好意をまるっと頬張る素直さが、六車の胸の中へストンと気持ちよく落ちてくる。自分の向ける、粗暴な愛情を平らげた檜佐木が、てらいなく大らかなまま、自分の隣を明るく照らしつづけるようにと、願ってしまう。
「うまかったか?」
六車が、答えのわかりきった質問をあえて投げかけた。檜佐木は口の周りを汚したまま、カラッとしたあかるい笑顔を浮かべると、「美味かったっす!」と応え、空になった皿に箸を置いた。食器の鳴り合う気持ち良い音が、午後の居間に快く響いた。
