虚圏は蠱毒だ。
殺した破面を食らい成長した破面を殺した破面が呑み込み強さを経て殺され最後に残る破面が唯一無二の存在となる。
無慈悲に見える合理的な循環を止めたのは藍染だった。
優秀で強烈な単一個体に収束しようとした破面に、群体の強さと脆さを与えた。
その恩恵をノイトラは忌み嫌っているものかと、テスラは長らく思っていた。
「俺が藍染に感謝してる事があるとすれば、俺に力を与えてくれた事だ」
ノイトラは、個が個として識別できるようになった世界を歓迎していた。
強くあるには敵が在らねばならない。敵とは己の前に立つ別の意志である。
それがノイトラの強者の定義で、死生観だった。
藍染の施しでカタチを得た破面の多くは、以前と同じく弱肉強食の世界で生きている。
ノイトラは何日もかけて、宮がある中央から離れた、虚圏の外れに赴いていた。従属官のテスラ一人を連れただけで、遠征にしては小規模すぎる行軍に、テスラは唯々諾々と付き従ってきた。
出向く前、ノイトラから辺境と言われたので、テスラは寒々しい景色を想像した。しかし目的地の一角は、藍染の目を逃れ(あるいは目こぼしを受けて)、一個のコロニーとしてまとまっていた。
そもそも、虚圏の中央といっても、藍染が決めたので中央なのであって、彼らの住処こそこの世界のへそだったのかもしれない。過去にも、藍染の命令を受けて討伐に向かった独立勢力はあったが、都市国家と呼べるほど高度な社会を築いた場所はなかったように思う。単に、目にしていないだけなのかもしれない。
建物のなかには、非戦闘民といえそうな弱い破面も群れていた。それはコロニーの主が、弱者を守る余力を持つ証左といえた。
ノイトラは、コロニーを統率する破面と相対して、三合も斬り結ばず殺した。その後、コロニーにいたすべての破面を皆殺しにした。必要はない、とテスラは一度口にしかけたが、鏖殺は敵の弱さに対するノイトラの怒りだと悟ると、暴威が収まるまで手出し口出しせず、無慈悲な傍観者を決め込んだ。他に、テスラにできることはなかった。
都市ひとつを壊滅させても、ノイトラの怒りは収まらなかった。偽の星が明るい夜空のもと、屍山血河の上で、ノイトラは肩を怒らせて切り伏せた破面を食らった。
それがノイトラにどう作用するか、テスラは一瞬だけ案じた。
明らかにノイトラや自分よりも年かさの破面は、ノイトラが戦う前に始めた鏖殺を「虚以前のケダモノの所業」と罵ったのだ。
ネリエルの辛辣を思い出す言葉だ。
ざりざりと、硬質なノイトラの切歯が年老いた破面の外皮をかみ砕く音がしばらく続き、やがて止んだ。山のようだった亡骸は、衣服の切れ端や吐き捨てられた肉や骨が散らばる、凄惨な広場になっていた。その真ん中に立つノイトラは、全身が返り血で汚れ、白い服も白い肌も澱んださび色に汚れていた。血臭でどっしりと重たくなったノイトラの肉体に、テスラは微かに眉をひそめる。
ノイトラが、汚れた腕で汚れた口元を拭う。顔の半分だけ、ぺちゃりと血が拭い去られた。同じように血に汚れた切歯。不機嫌に剥き出しになった歯が開き、憤懣のため息が洩れる。
「つまらねえ遠征だった」
「お体に支障は」
「ねぇよ。喰って解った。こいつは見かけ倒しの、空気袋みてえなジジィだ。破面に、徳だの情だの、……くだらねえ」
ぺっ、と相手の血肉交じりの唾を吐き捨てる。拭った唇がまた汚れ、テスラは事務的な無表情を保っていられなくなった。
ネリエルと同じようなご高説を唱える、ネリエル以下の破面の血肉で、ノイトラの静謐を穢されたかもしれないと勝手に想像し、勝手に苛立っていた。
(──苛立つ?)
ノイトラが暴を振るうとき、テスラの心は静まりかえる。傍目には、戦いの歓喜に溺れる戦闘狂に見えていることだろう。だが、彼の斬撃、彼の打擲、彼の蹂躙はすべて死に至る祈りなのだ。死ぬために鏖殺し、死ぬために敵を食らう。ノイトラの希求は絶望から始まっている。残酷で緩慢な自殺を、側に侍り、ただ見ていることしか出来ない。
彼の絶望も知らず、情けだの獣の生だのとのたまう者を見るたび、テスラは無理解への義憤で、ふつふつと凍えていく。
「ノイトラ様。せめて顔だけでも、拭われては」
テスラは感情を殺した声で提案し、自分の上着を脱いで差し出した。ノイトラは冷たい三白眼で一瞥し、差し出された上着を引ったくる。顔や腕にこびりついた返り血を一通り拭い、汚れた上着を突き返した。
髪を拭かなかったので、血にまみれた髪が顔に触れるとまた、赤い汚れがノイトラの肌を汚す。
いつもならノイトラが何か言い出すまで控えているテスラだが、どうしても、胸をざらざらと引っ掻くささくれた感情を自制できなかった。
「髪も、お拭きしましょうか。不快でしょう」
「……なんだ。やたら構いたがるな。ここの連中を皆殺しにしたのが気にくわねえのか?」
「まさか」
思いがけない誤解をされて、テスラは思わず目を丸くする。
ノイトラが誰を殺し誰を蔑もうと、テスラには無関係だった。それらがノイトラの、矜恃を、哲学を、死生観を侮りさえしなければ、生きていようが死んでいようが、興味はない。従属官として口を挟むことはあっても、関心を抱くことはない。
まさか、そんなレベルでまだ認識に齟齬がある間柄だったとは、とテスラは驚き、己の自惚れに失笑した。いったいいつ、ノトイラが自分を知り、理解しようとしただろうか。自分は彼にとって、散らばる瓦礫からたまたま拾い上げた石ころに過ぎないのだ。
ノイトラが適当な瓦礫に腰を下ろす。付け襟は戦いの中で吹き飛び、失われている。テスラは背後に回ると、ノイトラの髪を自分の上着で丁寧に拭き始めた。
硬質なのに豊かなしなりを持つノイトラの黒髪。破面は経口摂取以外でも、相手の霊力を吸い上げられる。ノイトラの黒髪は、付いた返り血をほとんど吸いとって、乾いた汚れが僅かにこびりついているだけだった。三度も撫でれば、テスラが梳ったときの美しい黒髪に戻っていた。
「少々、失礼します」
テスラは一言断り、ノイトラの顎先に手を添えて上向かせる。頬から口の端に、生乾きの血がまだ、こびりついていた。血だらけで使い物にならなくなった上着の生地を諦めて、指先で直接拭う。
硬度を誇る肌は優れた靭性でテスラの指を受け入れ、微かに窪んだ。だが、爪先が僅かなひっかき傷を残すこともできない肌だ。つるりとした白く硬質な肌は、人工セラミックと古い生き物の骨を削り出した輝きで出来ている。美しく、ヒビひとつなく、なにもかも拒絶する肌だ。
指先が唇に触れて、テスラは手を止める。
人型の生物がそうであるように、唇は顔面と質感が異なった。爪先を押し込めば薄い皮膚が破れてしまうのではと錯覚しそうになる、柔さがある。薄いノイトラの唇の、意外な感触に戸惑って手を止めたテスラを、されるがままだったノイトラの視線が振り向き、睨んで咎める。
「……! 申し訳……」
ノイトラの、血糊の拭い切れていない両手がゆるりと持ち上がった。蟷螂が鎌をもたげる角度で、ゆっくりと、伸びた両手がテスラの頭を掴む。後ろ髪を握りしめたノトイラの手が、促す力加減で引き寄せる。
目を見開いたままのテスラの唇に、ノイトラが開いた口を押し当てて、長い舌でテスラの口腔をぐるりとひと舐めした。捕食のくちづけが離れる瞬間、柔らかい上唇がテスラの下唇を擦っていく。
テスラは、滑り落ちる手を捕まえる衝動で、離れるノイトラの上唇を噛みしめてしまった。それほど、離れがたい柔らかさがあった。
「……っ痛、……」
短く悲鳴を上げたのは、テスラの方だった。ノイトラは、テスラに噛みつかれると解っていたかのように、強靭な切歯でテスラの唇の先を噛みちぎっていた。
真新しい、従属官の血で口元を汚したノイトラは、咄嗟に顔を離したテスラをしどけなく見上げたまま、べろりと滴る血を舐めとる。
「口直しには悪かねえ」
「……」
テスラは何も言い返せないまま、じくじくと血の滲む口を押さえる。硬質なノイトラの持つ柔い部分に触れた罰にしては、じんわりと甘苦い味がする痛みだった。
ライムストーンのくちづけ
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