遡行軍を全て倒した一行は、刀装の破損率を確認し、進軍の可否を話し合っていた。
審神者から指揮を託された今回の隊長は燭台切光忠だ。修羅場となった山道の脇に腰かけて小休止する一行を振り返り、穏やかな口調で確認の言葉をかける。
「みんな、どうかな。行けそうなら行こうと思うんだけれど」
自身は傷一つ負っていない燭台切は、隊列の中程に配置された脇差と短刀の様子を伺った。燭台切が気に掛けているのは、最近顕現した九鬼正宗と、最近修行から戻ってきた物吉貞宗の二振りである。九鬼は人型の顕現体に慣れるまでしばらく、遠征部隊で試運転していたのを、今回初めて実戦投入となった。物吉は、修行前にこの時代・地域を何度か巡回しており、道にも慣れているが、九鬼は山道の険しさに息を切らしていた。刀装もすべて欠損している。
「どう? 九鬼くん。無理はしなくていいからね」
「いやいや、まだじゃ!」
「傷は負っていないね? 主からお守りも貰っているね? よし、もうひと頑張りしてみようか」
「おうとも!」
九鬼が声を上げて自身を奮い立たせる。気炎を吐く少年姿の短刀に、隣に腰かけていた物吉が水筒を差し出した。
「遡行軍が立て続けに襲ってくることは稀ですから、もう少し休んでいても大丈夫ですよ。はい、お水」
「む……」
それなら、と立ち上がった九鬼が再び腰を下ろす。すぐの出発でないと見て、五虎退も虎と一緒に地面に腰を落ち着けなおした。隊列中央から後方の疲労度を観察した燭台切は、短刀たちから離れた位置に佇む二振りを振り向いた。
「富田くん、稲葉くん。周囲の警戒、頼めるかい?」
燭台切の呼びかけに、富田江、稲葉江がそれぞれ振り向く。二振りは異口同音に応じた。
「構わないよ」
「承知した」
息の合った兄弟刀の答えに、燭台切はにこやかに「よろしく」と手を上げる。そうして、雑嚢を預かっていた五虎退の元に向かうと、九鬼に補給を取らせようと中身を漁り始めた。
警戒を依頼された富田と稲葉は、どちらから声をかけるでもなく歩き出し、山道の先にある拓けた高台を目指す。遡行軍が襲来する兆しは空に顕れる。警戒するには見晴らしのよい場所で空を眺める必要がある。
歩き出した二振りを、燭台切が呼び止めた。
「二人とも、ゆっくり見回ってきてくれると助かるな」
富田と稲葉が線対称の仕草で燭台切を振り向く。九鬼は、雑嚢に詰めてきた握り飯を無心で頬張っており、喉を詰めないか五虎退がハラハラした様子で見守っていた。物吉が先回りして水筒を持たせ、ゆっくり食べて、と言い含めている。
警戒すると共に、九鬼が気負わず回復する時間を稼ぐようにと、燭台切は暗に指示したのだった。富田は頷き、稲葉は応答しないまま前に向き直り、先に歩き始める。
急勾配を登っていく二振りの耳に、九鬼の思いきりむせた声が聞こえてきた。
稲葉に引き連れられる格好で富田は崖に面した高台まで登ってきた。富田より顕現時期の早かった稲葉は、本丸が監視している時代の定点に赴いてる。この阿津賀志山の戦いが行われた時代・場所は既に彼の庭といっても過言ではなかった。富田に地形の案内をするつもりもあったのだろう。ついてきた富田を顧みる。無言のまま、崖上から見渡せる戦場の布陣を厳しい面持ちで静観した。
隣に並んだ富田が、稲葉の肩を掴む。実戦に参加するようになって数ヶ月、人のかたちに慣れ、生態や生活にも馴染んできた富田だが、一年前から本丸で日々鍛錬し体力を付けてきた稲葉の脚力には、まだ並べていない。富田は、ふぅと息をついて稲葉の横顔を見つめた。
「我ではなく、布陣と空を注視しろ」
じっと自分の面差しを見つめる富田の視線に、稲葉が一瞥を寄越す。
「もちろん、ちゃんと警戒するとも。ただ、稲葉は本当に健脚だなあと思ってね」
「貴様が手を抜いているに過ぎん」
「厳しいなあ」
富田はけして手抜きなどしていない。行軍中も、後ろに続く経験豊かな脇差や短刀のお荷物になるまいと、内心では必死に、前を行く稲葉の背中を追いかけていた。傑作と称され、稲葉江と共に双璧の名を冠する富田江の由来は、そのまま富田の密やかな自尊心を形作っている。万に一つも、他の刀剣に後れを取るわけにはいかないという意識があった。自分の失態は双璧の評に傷をつける。すなわち、稲葉の評まで下げることになる。
(稲葉に傷なんてつけたくないからね)
仮に同じ江であっても、同じ態度で臨んだだろう。富田が弱音を吐く相手は、稲葉だけなのだ。
稲葉が勘づいているかどうか、富田には解らない。気づいているかもしれないし、案外気に留めていないかもしれない。
「壮観だね。景観を引き裂いてまで強敵を凌ごうとする、これは人の業かな」
藤原方が築いた三重の空堀が山裾を横切り、土塁の茶色が傷痕のように浮き立って見える。ほどなく、源氏方の軍勢が辿り着くだろう。
審神者は基本的に、時代に関わりある刀剣を派遣しない主義だ。富田にとっても稲葉にとって、この時代は生まれる前の過去にすぎず、薄情な言い方をするなら、すべて他人事だ。そのせいか、富田の関心は布陣ややがて始まる戦についてではなく、隣の稲葉に向いた。静かに修羅場を待つ山裾を、稲葉は感慨のない面持ちで見下ろしている。そして時折、雲間を見上げる。
この時代に転移してきたときは晴れていた空は、どよどよとした雲間と晴れ間が入れ違い、特に一行が潜伏している山中の空は雲行きが怪しくなってきていた。山の天気は急に移り変わる。
「……」
「そうだね、一雨来そうな空だ」
曇天を睨め上げる稲葉に、富田が肯いた。一度、燭台切たちの元へ戻ろうかと提案しようとした途端、ばたばたっ、と大粒の雨が降り落ちてくる。
「あっ」
富田が小さく声を上げ、手の甲に落ちた滴を見下ろした。途端、ざあっ、と高台の一角を通り雨が襲った。湿度が冷え、空気が抱えきれなくなって振るい落とすかのような、激しい通り雨。稲葉は曇天を睨み、舌打ちした。
富田は上着を脱ぐと、羽織のように広げて稲葉の頭の上に差し出した。上等な生地で作られた厚手の上着は、合羽の代わりにちょうど良かった。襟ぐりを庇のように広げて頭上に掲げる富田を、稲葉がジロリと見上げてくる。
「余計な事を」
「人間の体は雨に濡れると具合が悪いと聞いたけど、違ったかな」
「……」
富田のやんわりとした説得に、稲葉はむっつりと黙り込んだ。実際、濡れなくて済むのはありがたいはずだ。庇われるのを不承不承ながら良しとした稲葉に、富田は上着をかざしていた手を稲葉の肩に回した。そっと抱き寄せ、身を寄せ合う。稲葉の上体が全部上着の影になるよう、翳す手をずらす。その動きを、稲葉は見とがめていた。黙って、厳しい視線で富田の顔を見上げる。
「前に桑名江が、急な大粒の雨は通り雨だからすぐ止むって、教えてくれたんだ。少しの辛抱だよ」
「ならば、我を庇う必要もなかった」
「僕が稲葉をずぶ濡れにしたくなかったんだ。これは僕の欲でしたこと。こういう理屈なら、お前も承知してくれるかい?」
「フン……」
稲葉は顔を逸らし小さく鼻を鳴らした。それきり口を噤む。富田は逸らされた横顔を無理に追いかけはせず、腕の下に囲うには体格の良い稲葉になるべく身を寄せて、上着の下で雨を凌ぐ。本丸では過去転移前に天候や地理の揺らぎを観測し、必要なら装備を調えてくるのだが、阿津賀志山は山中を行軍するため天候の乱れを正確に予測できない。審神者は、合羽や傘を携えるように助言したが、どうせ戦いになれば晴れも雨も関係ない。刀剣男子は皆、審神者の気遣いに感謝だけのべて、雨具を持ち込まない。稲葉も例外ではなかった。そして稲葉の振る舞いを手本に過ごしてきた富田も、同じだった。
富田は内心でそっと微笑んでいた。
刀剣男士は、人に似せただけで人ではない。人に対する細やかな作業は人型であるのが望ましい、そうした理由で選ばれた仮の姿である。人の脆さとは縁が無い、頑丈さなら刀剣と変わらないとされている。雨露で冷える身体を気にする者はいない。
ただ、自分ではなく他者であれば別だ。左文字兄弟が末弟を案じるように、源氏の兄弟刀が互いを思いやるように、他者の不都合ならば心を寄せる。
しかし、本丸に来て一年も経っていない富田には、そうした認識は薄かった。いつ・どんなふうに・どれくらい気遣いし、思いやるのが良いか、額面通りにしか察せられない。他の刀剣、それが江たちでも、富田からすると距離の曖昧な存在だった。
稲葉を除いては。
富田にとっての稲葉は、仲間・同胞とは違う、主ともまた違う、唯一無二の存在なのだ。同じ鋼から生じ、由来を得て、分かちがたく結ばれた自分たちには、人の子の兄弟より深い絆が芽生えていた。富田は、顕現したときから「そう」だった。
(僕には上着があると気づけたのは、勘が良かった。稲葉と二人なら、これで雨を凌げる)
衣装や容姿は、政府に所属する顕現体を練り上げる技術者(マイト)が決定し、本丸は完成されたデザインを受領するのみである。富田はどういう経緯で上着を持った姿に定められたのかを知らない。もし、稲葉を雨や火の粉から守るために持たされたと言われたら、素晴らしい意匠だと感嘆するだろう。富田の中には、それが一番もっともらしい理由に思われた。
上着をかざしたまま、雨が止むのを辛抱強く待つ稲葉の横顔を、首を傾げて窺い見る。
(稲葉は、どう思っているだろうか)
尋ねたところで、稲葉は一瞥を返すだけで何も言ってくれないだろう。富田は確信していた。戦場での稲葉は、平時にも増して無駄口を嫌う。目の前の戦いに集中したいのだ。
上着の縁を掴む富田の手から、ぽたぽたと雨粒が滴る。厚手の上着は濡れて重くなり、二人の頭にどっしりのしかかってきている。首が重くはないかと尋ねようとした富田は、開きかけた口をつぐんだ。
稲葉が、自分の頭上にかざされた上着の縁を掴んで、押し上げた。富田の方に一歩、身を寄せる。
「稲葉、どうした? 冷えたのかい」
「違う。貴様の肩が濡れているだろうが」
憮然とした横顔には、必要以上に庇われたのを屈辱と受け取った、苦い表情が浮かんでいる。富田は罪悪感より喜びを感じた。富田の肩が濡れるのを気にする、そうした気遣いをする程度の近しさが、稲葉の中にもあるということ。
言葉や態度は真逆でも、真逆だからこそ、鏡写しの双璧なのだという、事実。
ぱた、と上着の縁から雫が滴る。布地を叩いていた雨粒は突然、勢いを失い、降り注ぐ間隔が間遠になって、あっという間に止んでしまった。雨に現れた空気を、雲が行き過ぎた晴天が明るく照らし、乾かし始める。
目まぐるしい天気だった。
富田は濡れて重くなった上着をゆっくり下ろす。富田の作った庇の下から一歩出た稲葉は、すぐさま富田に向き直った。乾いたほうの手で、富田の濡れた肩の雫を力強く叩く。そのまま、その手で片頬に触れてやや冷えた皮膚を乾いた手のひらで温めるように包み込む。富田はふと微笑み、目を閉じた。晴れ間の日差しより温かな体温が、湿った皮膚から血管を通して、肉体にいきわたる感覚を大事に味わう。人の身の便利と不便を等分に感じてきた富田だったが、はじめてはっきりと、体温をわかちあえる肌や手のある姿で良かったと思えた。
富田が、頬に押し付けられた稲葉の手を取る。手のひらに唇を押し当てると、稲葉は怪訝そうに顔をしかめた。伝わっていない様子を目の端で見た富田は、胸をくすぐられたように、ふふっと笑いの息遣いを洩らした。
「戻ろうか」
濡れた上着をはたいて腕に抱え、富田が促す。稲葉は当然のように先に歩き出した。急勾配の坂を、滑りにくい場所を選びながら降りていく、稲葉の足取りをそっくりなぞって富田も駆け下りていく。
坂の下では、燭台切が手を振っていた。彼らは彼らで、どこかの木の下で雨宿りをしたのだろう、あまり濡れていない。
「雨は大丈夫だったかい」
呼びかけてきた燭台切に、稲葉は無言を返す。その後ろから、富田が微笑しながら、どこかちぐはぐな答えを返した。
「ああ。ちょうど良かったよ」
