いつ生まれたのか、という定義は破面にはあまり意味がない。
自我を殺し合い、奪い合い、喰らい合い、併呑し、上書きし、存在の原点がなんであったのかは、時間経過と共に摩耗する。そうして確立した自分が求めたのは、充つる果ての死だった。その願いには、これまでノイトラの併呑してきたあらゆる破面の絶望が刻まれている。
世界からはじき出された者の行き着く果て。砂になるか、他者に呑まれるためだけの誕生。死のために積み上げられた死。そうした輪の中に自分が含まれていることへの怒り、這い回る弱者への怒り、自分の頭を押さえつける強者たちへの怒り。
ノイトラの中にある絶望は、怒りの形で常に発露される。
人型を取る程度の強度を持つが戦闘員として能力が不足する者は、従属官にさえなれず、よくて雑兵、最悪は強者の庇護や慈悲を乞うて傘の下に入るか、狩られる恐怖から逃げ惑い隠れて生きるか、どちらかしかない。
ノイトラは、テスラ・リンドクルツ一人を従属官とし、どんな破面も庇護下に置いていない。
ネリエル、ハリベル、バラガンのような、自分の部下「たち」という概念を持たない。ただ一人従えているテスラですら、従属官ではなくつきまとう影か何かのように扱う。
だが、身の回りの世話をすべてテスラに任せるのも煩わしいとかで、非力な人型の破面を自分の住まいに通わせている。身の回りの世話をさせ、虫の居所が悪ければ殺す。食らわず、死骸の後始末はテスラにやらせる。その生活に、従属官のテスラは無抵抗だった。ノイトラが誰を殺そうと無関心だ。ノイトラの気まぐれに活路を見いだす弱者の見当違いと、媚びへつらいがノイトラの癇に障ると想像できない愚かさとを、哀れむ素振りもない。
ただ、ノイトラの絶望が深まるくらいなら、自分にすべて任せて欲しいという、うっすらした要望だけがある。
定刻通りに起きて、まだ目覚めていないだろうノイトラの寝所に入ると、部屋の入り口が血濡れており、ノイトラはベッドの上で特徴的な下履きを着て、ぼうと宙を睨み付けていた。
放心状態のノイトラと、原型を留めないほど闇雲に引きちぎられた破面の残骸に、テスラはどうするか迷った。ノイトラに声を掛けるか、放っておいて片付けを進めるか。
数秒迷ってから、まず残骸を片付けることにした。ノイトラからは、喰っても良いと言われているのだが、こうしてぐちゃぐちゃにされ冷えた死骸をむさぼり食うのはテスラの趣味ではない。そもそも、今以上に強くなる必要性を感じていない。ノイトラのナンバーが昇格し従属官にも強さを求められるなら、死骸でも残骸でも口にするだろう。しかし、求められなければ、求めない。それが今のテスラの信条だった。
ノイトラの体も返り血で汚れているはずだ。湯を沸かし、その間に残骸を居館の外に棄て、壁と床を拭く。それらの作業をしている間に、地平の月はノイトラの寝室の天窓にかかり、寝室全体をあかるくした。おのずから、半裸のノイトラの輪郭も明るく、白と灰色の居館の調度に溶ける。
湧いた湯をたらいに張り、寝室に運ぶと、宙を見つめていたノイトラは、入り口の方に向き直っていた。ノイトラは眼帯をしておらず、胸元から顔半分に黒ずんだ血糊がこびりつき、それは仮面にまで及んでいた。
テスラを認識していないのか、ノイトラが顔面の乾いた汚れを爪先で引っ掻く。
「ノイトラ様。今、お拭きしますので」
テスラが静かにたしなめ、やめさせる。たらいと布を持って足下に跪くと、座ったまま身動きしないノイトラの体を拭き始めた。
どろりとして白い肌が染まってしまったかと思うほど黒ずんだ汚れは、拭けば簡単に落ちていく。
(鱗衣の強さがこんなところに反映するものだろうか)
過る雑念を振り払い、テスラは偶像を磨く丁寧さでノイトラの肌を拭っていく。
何度か布を洗い、いよいよ顔を拭うとなったところで、宙空を見つめていたノイトラの目が、ジロリ、とテスラを見た。
「なにしてる」
「汚れてらしたので……。それとも、水浴びになさいますか」
ノイトラは黙ったまま、ふいと視線を逸らす。そのまま続けてよいという所作に、テスラは替えの湯を水差しから注いで、新しい布で顔の汚れを拭い始める。
右側に逸れた横顔を見ると、テスラはかつて見たノイトラの深い絶望を吐露した顔を思い出してしまう。
──俺は、斬られて倒れる前に息絶える。
──そういう死に方をしてえんだ。
(その日が、いつか来るとして、それは君にとって素晴らしい晴れの日なのか、侘しい最期の瞬間なのか)
頬から仮面のあたりを拭おうとして、テスラの手が止まる。
ノイトラが逸らした顔を戻し、テスラを振り向いた。
独特な高低差のある主従は、ノイトラがベッドに腰かけ、テスラが体を屈めてようやく、ちょうど目線の高さが揃う。ノイトラの三白眼に納められた小さな瞳孔がキュッと収縮し、テスラのくすんだ琥珀色の目を覗き込む。不機嫌に結ばれた口が何かを紡いだが、テスラは黒く小さな瞳の中心に吸い寄せられて、何を口走ったのか気づかなかった。
顔面を委ねられ、テスラはより丁寧な手つきで、ノイトラの鼻筋から仮面を汚した誰かの血痕を拭き取っていく。反対側が見通せる虚ろな孔の奥にまで、血は飛び散っていた。
テスラが指を入れるか入れないか迷っていると、ノイトラが手を掴んで、搾った布を握るテスラの手を孔の中へ押し込む。
「……っ」
驚いて息を呑んだテスラに、ノイトラは無防備に、無関心に、呟いた。
「今日は、この孔の出来た日だからな、特別だ」
呟いてからテスラを一瞥し、また無関心な表情に戻る。自分の顔を、絶望の孔を、従属官に預けたまま、天窓から見える白く未来のない月を見上げた。
生まれ堕ちる孔
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