ノイトラが主に起居している宮にその球体が現れたのは、ノイトラとテスラが藍染の命令で辺境の反抗分子を一掃して戻ってきた日のことだった。
造られた空のせいで宮内は隅々まで白く明るく、偽物の晴天に包まれるまで、この宮がここまで白く汚れのない空間だと、テスラは知らなかった。おそらくノイトラも。なにひとつ隠し事のできない宮内の、一度も使っていない部屋の真ん中に、その球体は現れた。
直径はテスラの胸元くらい、白く、つるつるとした、セラミック質に似た球面で、傷やつなぎ目はない。はぼ真球で、床から杜テスラの手のひらの大きさほど浮いている。叩くと詰まった硬い音がし、中からは振動や反響はなく、しんと静まり返っていた。球体は静止していたが、テスラが大きさや材質を確認するため何度か触れると、く、と浮遊したまま滑るように空間を移動しはじめた。
球体は、宮内で直径の幅が入り込める空間、通路、階段、窓を、不規則に、無軌道に、さまよった。
それで、宮の主人であるノイトラも知るところとなった。
突然現れた異物に、ノイトラは一切興味を示さなかった。持って来いとも、捨てろとも言わない。何なのか、テスラに尋ねもしない。すすーと移動する球体が視界の端をかすめても、見えていないかのような態度だった。
宮はノイトラの縄張りである。
藍染の監視だけは避けようがないカとして諦めて放置しているが、たとえば側近の東仙が監視蟲に似た生物を潜ませたときは、一匹残らず狩り尽くしただけでなく、干渉された怒りが収まらず、従属官のテスラを意識が失うまで殴り続けた。テスラの管理不行き届きを責めたというより、手近に当たり散らせる生き物がテスラ以外にいなかったというのが正しいだろう。テスラが目覚めると、ノイトラはもう、いつものノイトラに戻っていた。静かな諦めを、絶え間ない苛立ちで追い払い、強者以外に無関心な主に。
そんなことがあったので、謎の球体が宮内を俳個するのを嫌がるだろうとテスラは推察したのだが、ノイトラは無関心だった。見えていないのかもしれないと思ったほどだ。
「ノイトラ様。あの」
「あ?」
「あの球体のことなのですが」
もしや、と思いテスラが間いかけると、ノイトラは短く「ほっとけ」と答えた。投げやりな答えに、ノイトラにも見えていて、なおかつ視界に入っても気に留めていないのだとわかると、テスラはやや動揺した。意外だった。
「新手の破面かも、しれません。せめて、宮内から出せないか確かめて」
動揺のあまり心にも無い提案を口走ってしまったテスラに、ノイトラが肩にもたせかけていた鎌の柄を床に叩きつけて、黙らせる。
「俺はほっとけ、っつったぞ」
「申し訳ありません。出過ぎた発言、お許しを」
テスラの簡潔な謝罪に、ノイトラは窓の外を向く。
まさに今話題に上った球体が、隣の斜塔の窓からこの部屋の窓辺へ、音もなく下降してくるところだった。
球体は、窓枠の前で一時停止し、幅が直径より広いか判断する間を置いてから、すっ、と室内に入ってきた。ノイトラの目の前を平然と通り過ぎ、部屋の戸口──テスラの前に近づいてくる。
ノイトラがおもむろに立ち上がった。手に携えていた鎌を振りあげ、半月型の刃を球体に振り下ろす。
カツーンと音がして、球体はノイトラの刃を弾き返した。それは、球体の硬度がノイトラの鋼皮と同等の硬さを持つことを意味する。
「…………!」
テスラが息を呑む。ノイトラは上唇をめくる笑みを浮かべ、球体を足で蹴りつけた。
蹴り飛ばされた衝撃を受けて、球体はそのままテスラの目の前を加速しながら進み、部屋の外に滑り出て、石をくり抜いた螺旋階段の方へと進んでいく。
カン、カンカン。
球体が階段の壁にぶつかりながら転がり落ちていく音が、高く清らかに響く。テスラは球体を追うべきか、この場に留まるべきか迷った。ノイトラの一撃にヒビ一つ入らなかった物体だ。どんな危険があるか分からない。ザエルアポロに引き取ってもらうのが良いのではないか──など、様々な思案が眼帯の下、眼寓の奥の視神経でぐるぐると巡る。
一言も発さないまま、密かに混乱しているテスラに、ノイトラはふらりと歩み寄るなり片足を上げ、みぞおちを軽く蹴っ飛ばした。
「っ、ノイトラ様、……!?」
「たたが球っころがフラフラしてるくらいで、オタいてんじゃねえ。殺されてえのか」
「いえ、中し訳ありませんでした」
みぞおちを押さえて片膝をついたテスラは、その姿勢のままで頭を垂れるしかなかった。
球体がふらつく光景が当たり前になり始めた頃、ノイトラが初めて球体に言及した。
「あの球っころはどこにいる」
「探してまいりましょうか」
側に控えていたテスラが提案する。ノイトラは石造りのソファに座ったまま、横柄に顎をしゃくった。
「持って来い」
「は、はい」
居室に、寝室に、ノイトラがいる場所にもテスラのいる場所にも誰もいない場所にも、意思があるかと思わせる自由気ままさで俳個していた球体だが、ここ数日はめっきり大人しく、二人が出入りでほぼ使わない螺旋階段の中程に漂っていた。
テスラが階段に向かうと、案の定、そこに在った。いた、と表現したほうがふさわしいのかもしれない、とテスラは思った。
つるつるとした球面だが掴むことは出来、非常に硬く密度も高いのに重さはない。テスラは難なく片手で掴み、バルーンを持っていく軽さで球体を引き連れて、ノイトフの居室に戻った。
「連れて、いえ、持ってまいりました」
テスラが球体を部屋に導いてくると、ノイトラは自分の前あたりの床を、得物の柄でコツコツと叩いた。テスラがゆっくり押していき、両手で押しとどめる。テスラが視線を上げると、ノイトラはおもむろに立ち上がり、あの日と同じように鎌を構えた。
空気を切って、振り下ろされる。
「……っ」
硬質な球面が再びノイトラの刃を弾く光景を想像し、テスラは片目をわずかに眇めた。
しかし、耳に響く高く甲高い音は、しなかった。
コシャッ。
脆く、儚い音と共に、あれほど硬く密度があった球体が、ひび割れ、ばらばらと、砕けて割れた。
「え……」
テスラは、思わず声を洩らす。
割れた球体は、中が空洞だった。何も入っておらず、何か生まれ出ずることもなく、ただ、ノイトラの気まぐれな暴力によって割れて、砕けた。
そんなはずは、とテスラは言葉を失った。これまで球体から得ていた手触りや重みを思い返す。
空洞ではありえなかった。おざなりな一撃でひび割れる、薄い殻をしているとは想像できなかった。それは、地に着かず、何者も跳ね返し漂う、自由意志だった。
それが、今はもう何もない。
球体を目で追い、時に触れて、重さや性質を理解していたのは、テスラだ。ノイトラは一顧だにせず、球体とテスラのさせたいようにしていた。テスラが球体と、密かに闇入者と観測者の関係を築いていることにすら、意識を向けていなかった。ノイトラは、螺旋階段が最初から渦巻いている様でも見るように、球体が宮の一部、あるいは荒寥とした白い世界の一部かのように扱ってきた。球体は常に、ノイトラの意識の外にあった。
だというのに、ノイトラはまるで時が来たと知っていたように、事もなげに球体を割ったのだ。
ノイトラは砕けた球体の破片──殻のひとかけを拾い上げると、口に含む。さり、ばき、と硬いものをかみ砕く音をさせて咀嚼し、飲み込んだ。
「味がねえ。まあ、そんなもんか」
驚きに目を見張り、口を引き結ぶテスラに、ノイトラが一瞥を寄越す。
「お前も喰いたきゃ喰え。腹の足しにはならねえがな」
「ノイトラ様は、これが何か、ご存知だったのですか?」
投げやりな提案に、テスラがつかえる喉から押し出した声で尋ねる。ノイトラはじろりと黒く小さな瞳孔でテスラを凝視する。何事か答えようとする素振りをみせ──気が変わったのか、ふいと顔を背けた。
「さあな」
ノイトラは球体の残骸を靴で踏み砕いて通り過ぎ、テスラを押し退ける。
「片付けとけ」
そう言い残して、カツカツと腫を鳴らしながら部屋を出て、散らかっていない清潔な部屋へと移動していく。
テスラは、ノイトラの腫が砕いていった球体の残骸に近づくと、屈み込んだ。
数日、観測していた物体のあっけない最後に、心が動いたのではない。ただ、コレを食べて糧にしたノイトラの意図がまるで分からず、無意識に白い欠片を拾い上げていた。
口に含む。
「痛っ、」
気をつけて囓ったのに、かみ砕いた欠片にはテスラのロ腔を傷つける鋭利さが残っていた。破面の外皮は粘膜にも通じる。テスラの銀皮で耐えられない硬度がこの球体にはあったのだ。
用心深く臼歯で砕き、飲み込めるほど細かい欠片にしてから、嚥下する。
確かに、味はしなかった。無味乾燥した虚無の味。
しかし、その舌触りは、以前触れたノイトラの仮面に似ていた。そして、テスラのロ腔を乱暴にまさぐるときの、ノイトラの舌の味わいに似ていた。
テスラは、ノイトラに口づけるときの用心深さで球体の欠片をもうひとつ、口に含む。上手く囓ろうとしたのに、やはり欠片は口を傷つけた。
口から滴る血を拭い、欠片を手でかき集めていく。テスラはもう、気づいていた。口の中の痛みは、かつてノイトラの絶望を聞いたときの、得も言われぬ痛みによく似ていると。
