bleach

白銀の道

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 それは寒い夜だった。うっすら雪の降り積もった獣道を、裸足で歩いている記憶。仲間ともはぐれ、あてどなく彷徨い歩く記憶。
 雲間から弱い月明かりがかろうじて覗き、夜目に雪道が白く光り、底冷えする夜だった。薄着の着物一枚だけで、草履は破れて脱げ、寒さに朦朧としながらも足を動かし続けた。動き続けなければ行き倒れると、本能で解っていた。
 つらい、寂しい、寒い、どの感情よりも先にくるのは、会いたい、という慕情。
 あの人に会いたい。
 たったひとつの願いが胸を熱くすると、かじかんで感覚がなくなった足を動かす活力が湧いてきた。
 それでも、空腹だけは誤魔化しようがない。
 この世界――自分が生きる、目に届く範囲の世界では、空腹は厄介者の証だった。必要ないはずの現世の習慣、食べるという行為を経なくては生きていけない存在。大人たちはその意味するところを知る故に、ただ厄介というだけでなく嫉み妬みを向ける者もいる。この世界で飢え死にしろと罵る者もいた。それでも、倒れるわけにはいかなかった。雑草を食べてでも生きて、生き続けていれば、――いつか会えるはずだと。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだ。泣くな。笑え。だって、強そうな名前、なんだから」
 唱えながら、一歩一歩、進む。
 寒い夜だった。かろうじて道が見えるくらいの薄明かりで、側に見える黒い森から獣や虚が飛び出してくるのではと、怖ろしかった。集落どころか小屋の陰ひとつない白い道が、怖ろしかった。
 一度目を閉じてから、前方に目を凝らす。向こうに真っ白な野辺が広がっているのが、ぼんやりと見えてくる。
(そうだ。あそこまでたどりついたら、九とひし形を、描こう)
(あの人の背中だ。そしたらきっと、元気になる)
(だから、あそこまでがんばるんだ)
 朦朧としながら歩き、その後、どうしたか記憶はない。
 次にはっきり目覚めたときには、山菜採りの老人の小屋で保護されていた。暖かい囲炉裏の側に腰かけた老人は、「難儀な子供だ」と眉をひそめた。
「あんなところに死神の紋を描いて、助けてもらおうと思ったのか?」
 哀れむ老人の声は、流魂街に助けになんぞ来ない、という諦めを言外に滲ませていた。
 それでも反駁して、「そうです」とはっきり答えたのを、囲炉裏の熱と共に覚えている。
 あの人は、あの死神は、誰かを助けるために飛び出していく、そういう人だったから。

 

「雪降ってきましたね」
 鍛錬場の雨戸を閉めようとした檜佐木が、空からチラつくものを見上げて呟く。汗した体を手ぬぐいで拭いていた六車が、ちらりと目を向けた。
 今日の六車は、午後から隊士に稽古をつけたあと、檜佐木の頼みで個人的な鍛錬につきあっていた。定刻を過ぎたので解散しようとなったところで、外の気配がしんと静まりかえったのに気づいたのだ。
「これでちょっと寒さがマシになるといいんすけど」
 檜佐木が雨戸を閉め切る前に、ふわ、と吐いた息が白く溶けていく。さっきまで六車と打ち合って上気した肌からうっすら湯気が立ち上っていた。そのまま檜佐木はしばらくうす灰色の空を見上げる。
 背後に高い体温が寄り添う。汗を吸った死覇装のままでいる檜佐木に、ばさりと厚手の上着を被せる。上着を羽織らせた手がそのまま後ろから抱きしめてきて、檜佐木の手を掴む。体の芯は火照っているが、外気に晒した手の先はもう冷え始めていた。熱い手のひらが強く握りこんで、耳の側で呆れた声が呟く。
「もう冷えてんじゃねえか。さっさと片付けて風呂行くぞ」
「はい」
 どこか不満げな六車の声に、檜佐木が口元を緩める。残りの雨戸を六車と二人でがたがたと閉めていき、片付けを済ませると、鍛錬場を後にした。
 隊舎に続く渡り廊下を歩きながら、檜佐木はうっすら雪がつもり始めた敷地を見やる。
「昔、流魂街で仲間とはぐれて、知らない場所を彷徨っていたことがありました」
「へえ」
「冬の夜で、雪が降り始めて、でも仲間どころか人っ子一人ない道で、ひとりぼっちで」
「そりゃあ……お前のことだ、怖かったんじゃねえか」
「怖かったです」
 でも、と檜佐木は立ち止まって続ける。
「あんたと出会ったときを思い出せば、かじかむ足にも力が入った。空腹だけはどうにもならなかったけど、……真っ白になった野っ原に、九番隊の紋を描いてたんだそうです。助けてくれた人が言ってました」
 穏やかな顔で思い出を語る檜佐木に、六車が苦く口を噛みしめる。そのとき、すでに六車は瀞霊廷から現世へと逃れていた。檜佐木の印を見て駆けつけたとしても、自分ではない。東仙要だったろう。
(それでも良かったんじゃねえのか。行き倒れてるこいつを助けられるなら、誰だって)
 胸の底をじりっと灼けた爪先で引っかかれるような、痛みを伴う妬心を飲み込んで無言でいると、檜佐木が振り向いた。
「そのとき、俺は決めたんです。助けてもらおうとするんじゃない、あんたに追いつくまで、どんなに遠くて、辛くても、自分の力で歩くって」
「……」
「辿り着けて、良かった」
 檜佐木は上着の袷を掴み、暖かな笑顔を浮かべた。微かに頬が赤らんでいるのは、寒さのせいではない。照れくささに負けて視線を横に彷徨わせる檜佐木に、六車は羽織らせた上着の襟を掴むと、ぐいっと上体を引き寄せる。驚き開いた眉間に唇を軽く押し当てると、分厚い上着ごと、短くぎゅっと抱きしめた。
「寒かったろ」
 六車がぼそりと、不器用に言葉を継ぐ。力いっぱい抱きしめられた檜佐木は、口づけを施された額を六車の肩口に寄せ、小さく首を振った。
「もう、寒くないから。大丈夫っすよ」

 

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