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VIAJE

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 ネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクが、空座町を出ていった。

 

 てっきりノイトラは行先を突き止めて追いかけるくらいするのだろうと思っていたが、彼は暮らしている部屋から特に動こうとしなかった。それが、テスラには意外だった。
 ノイトラとテスラは同居しているが、生活時間が合致することはほぼない。ノイトラは、日暮れに出かけて朝方帰ってくる。テスラは早朝に出かけて日暮れに帰宅する。二人が生活空間で顔を合わせるのは夕方から夜の僅かな間と、早朝の僅かな間、そして休日だけ。休日も、ノイトラは部屋にこもって出てこないか、部屋に帰ってこない。テスラの休日にノイトラが部屋にいるのは、ほんとうに稀なことだった。
 ネリエルが空座町を出て行った、とグリムジョーから伝え聞いたテスラは、彼女がどこに行ったのか尋ね、噂程度の情報を回収している。ノイトラが望めばいつでも提示するつもりで、頭の片隅に書き付けてある。
 だが、ノイトラは町から出て行く気配を見せなかった。
 テスラの休日に、二、三日部屋を空けていたノイトラが帰ってきて、一ヶ月以上ぶりに向き合ってブランチを取る機会があった。ネリエルの噂を聞いてからゆうに半月は経過していた。
「ネリエルの話は聞いているか?」
「さあな」
 テスラの用意したアマトリチャーナを、片膝を立てて椅子に腰かけたノイトラは、片手でおざなりに引っかき回していた。一口も食べようとしない。ぐちゃぐちゃとかき回されるトマトベースのパスタは、フォークの間で絡まり合い、冷めて、伸びて、血濡れた臓物じみた色を帯びていた。
 先に食べ終えたテスラが、思っていたことを率直に口に出す。
「てっきり君は、彼女を追いかけてここを出て行くのだと思っていた」
 次の瞬間、テスラの顔面に中身の入ったパスタ皿が飛んできた。テスラが反射的に皿を躱すと、避けた横っ面をノイトラの拳が容赦なく殴りつけてくる。ガンッと頭に衝撃が響いて、テスラは椅子ごと横に倒れ伏した。
「……っ」
「テメェ。今、なんて言った?」
「……失言だった。すまない」
 ノイトラは足を下ろすと椅子を蹴っ飛ばして立ち上がり、汚れたリビングから部屋に引き上げていった。少しして、着替えたノイトラがトマトソースで汚れたリビングを通り過ぎて、玄関から外へ――テスラには見当も付かないどこかへ、出かけてしまった。バンッ、と叩き締められたドアの音で、また数日は帰って来ないのだろうと察せられた。
(ネリエルは、ノイトラの一生の瑕だ。彼女の去就について他人から知らされるのは、屈辱なのかもしれない)
 数年、生活空間を共にしているが、テスラは未だにノイトラを理解できずにいる。相互理解が幻想だという前提でも、テスラはノイトラを理解し得なかった。当然だ。ノイトラとは視座の高さが違う。眼差す方向が違う。テスラが見ているのはいつでも、ノイトラの背中でしかない。
 

 

 次の休日にテスラが起き出すと、ノイトラはリビングの窓を開け放ってタバコをくゆらせていた。西側の窓際はノイトラの喫煙席だ。テスラは灰皿にねじ込まれた吸い殻と、机に投げ置かれた潰された箱から、早朝から窓辺でタバコを吸っていたのだと察した。ノイトラがチェーンスモーカーになるときは、すこぶる機嫌が悪いときと決まっていた。窓から逃がす紫煙の残り香がノイトラの長い足の、足下から膝丈くらいまで積もり積もっている感覚がある。ノイトラの不機嫌は、気怠く、重たく、硬質で、鋭利だ。いたずらに触れると、それだけで死にかねない。
 ノイトラの視線は、ずっと窓の向こうに向けられている。起き出してきたテスラを一瞥するどころか、意識の内に入れてすらいない。その窓は、初夏には西日が強く差し込みリビングを焼く、厄介な窓だった。重苦しく感じるダークブラウンのブラインドを提げて、昼間は日射しを緩く遮っている。それが、今はブラインドを上げ、窓を開き、まだ遠い東南の日射しを白い肌に受けている。テスラは何故か、日が落ちる、西日の一番強い時間までノイトラがそこにいるだろうと確信した。
 西――グリムジョーの話では、ネリエルはマドリードに向かったのだという。
 あるいは、台北に。または、ローマに。
 彼女の行先については、グリムジョーだけでなく他の知り合いからも、様々な国と都市の名前が挙がった。本当は誰も正解を知らないのに、思い思いにネリエルに似合うと感じた土地の名前を挙げている、そんなでたらめな噂がいくつも集まり、どれも真偽が判らないままだ。
 ひとつハッキリしているのは、彼女はもうこの町に戻らないだろう、という事だ。
 彼女をこの町につなぎ止めていた青年は、ここではないどこかへ旅立ってしまった。彼女にはもう、背負うものはない。自由であり、孤独であった。
「ネリエルは空座町に戻らないだろうと思う」
 口にした言葉が、不機嫌の底の底に至ったノイトラにどう響くのか。テスラは予想できなかった。いつだってノイトラの言動を正しく予想できた試しはない。あの時の、あの言葉だって、テスラには欠片も想像できなかった。
 ノイトラが吸い殻をテーブルに押しつけて消す。怜悧な、つり上がった細い目がテスラを一瞥し、低く這う声が殺意に近い苛立ちを吐き出した。
「てめぇは俺に、あの女のケツを追いかけ回せって唆してんのか?」
「そんなつもりじゃない、ただ君が……」
 テスラは口を噤む。
 ――悲しそうだから? 淋しそうだから? 苦しそうだから?
 ――それは、自分が抱くノイトラへの幻想に過ぎないのでは?
(僕は、僕の望むノイトラの横顔だけを、いつも見ているに過ぎないのに)
 あの日殴られた頬骨はまだ僅かに痛む。西日の先に、傷痕を見つめるノイトラから、痛みだけ分け与えられた気がして、テスラは頬骨を手の甲で擦った。
 窓辺のノイトラが新しいタバコに火をつける。火葬場から立ち上る細い煙に似た紫煙を薄い唇からすうと吐き出し、窓の外に漂わせる。テスラを振り向かず、底冷えする不機嫌の下から嗄れた声で呟いた。
「俺が絶望を追いかけるところを、後ろからついてきて眺めんのは、いい気分かよ」
 テスラは押し黙る。気に留めていないのだと、振り向かないので気づいていないのだと思っていたのに、彼は知っていた。テスラは苦いしくじりを噛みしめたまま、どうにかして、「そんなつもりじゃない」と反論しようとした。だが、痺れたように舌が動かない。
 絶望から伸びる影を踏みながら歩き続けるノイトラの足取りは、とても見ていられないほど、魅力的で、自分はその足取りに囚われたまま、どこにも行けなくなってしまった。この感情をなんと呼べばよいのか、テスラは知らない。
 この世の誰にも名付けられない感情が、テスラをノイトラの数歩後ろに縛り付けていた。
 テスラはノトイラに祈る。どうか幾久しく、絶望の轍を歩いて欲しい、そしていつか。
(いつか、思いがけなく踏み外して、僕を置いて、絶望からも逃れて、一人でどこまでも歩き続けて欲しい)
 ノイトラの三白眼が鋭く振り返り、それとなく逸らしたテスラの視線を引き戻した。テスラは観念した表情で、自分だけの祈りの文句を唱える。
「僕はただ君に、生きていてほしい、できれば安らかに」
「くだらねえ寝言を吐いてんじゃねえぞ」
 俺たちの魂は破面のままだ、とノイトラが呟く。
短い間に、思い詰めたように吸いきって短くなったタバコをテーブルになすりつけて揉み消し、吸い殻を灰皿に突っ込む。腰かけていた背の高いスツールから下りると、テスラの隣を横切ってリビングを出て行った。
 テスラは小さく息をつき、何日ぶりかの会話が破綻したと思った。
 開けっぱなしの窓から、ぱたぱたと風が吹き込んでくる。灰皿の吸い殻を散らかし、灰皿の側に置いてあった紙束をめくり上げる。色とりどりのチラシが、次々と床に舞い落ちた。
 テスラは散らかったチラシを拾い上げようと屈んで、手を止めた。
 マドリード、台北、ローマ。その他、世界中の、さまざまな主要都市への渡航案内たち。
(やはり君は、)
 ノイトラ・ジルガは、ネリエルという躓きを捨てられず、その先にある絶望から逃れることもできない。虚圏がそうだったように、現世もまた、広い広い行き止まりに過ぎない。ノイトラはこれからも、自分を踏みにじる死に等しい力を求め、いつまでも、あてどなく、歩き続けるしかないのだ。
 テスラにとっては、この上ない祝福だった。ノイトラの引きずる足跡を辿り、憂鬱な背中を見つめ、しずしずした巡礼を続けられる。それは苦く暗い喜びであり悲しみだった。テスラはこれからも祈り続けられるが、祈りはけして届かないのだ。
 テスラは拾い集めたパンフレットを折り曲げてダストボックスに捨てると、リビングにあるPCを起動して、旅券の手配を始めた。

 

[了]

 

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