bleach

Sweet Bunny,Show must go on!

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 死神の霊圧は、アルファ、ベータ、オメガの三系統に分かれている。
 主にオメガが発するフェロモンへの反応で種類分けされ、霊圧の強度とは関わりが無い。フェロモンにマイナス反応を示すのがオメガ、無反応がベータ、プラス反応を示すのがアルファである。
 マイナス反応はフェロモンを発する対象者への生理的・心理的嫌悪感を言い、プラス反応とは生理的・心理的好感を表す。マイナス反応には個体差があり、理由のない憎悪に発展し殺傷行為に及ぶ者もいる。逆にプラス反応では、性的興奮から加虐性、暴力性へと発展し傷害事件となる例もある。
 フェロモンへの反応が強いアルファまたはオメガは、死神としての戦力、斬拳走鬼のいずれかに突出した才能を持つ場合が多く、隊長、副隊長クラスの死神はアルファかオメガである。逆に、席官クラスや中央官庁の要職に就く者は、実務に影響のないベータが多い。
 平民や、流魂街の人々も大半がベータである。アルファとオメガは異端であり、異端だからこそ護廷十三隊の要になり得るとも言えた。
 フェロモン反応によって起きる〝事故〟を防ぐため、古くは生薬や薬膳、今では技術開発局で開発された新型の抑制剤を活用し、主立った死神と多くの貴族の生活は比較的安定を保っている。
 ヒートと呼ばれるオメガのフェロモン周期は個人差があり、不定期だったり突発的であったりする。加えて、技研の薬剤は量産体制が整っておらず、護廷十三隊隊士に優先して配布されるため、市井の人々には手が届かない。昔からの生薬に頼る平民の間では、いまだに〝事故〟が絶えなかった。
 虚の討伐以外に、フェロモン反応で正気を失った者を制圧するのも、護廷十三隊の仕事である。

 

 繁華街の一角、色街から遠くないあたりにある仮装喫茶の前で、檜佐木はきわどいバニーボーイの格好をして呼び込み看板を支え、突っ立っていた。
 週末で通りは賑わい、死覇装を着た死神たち、瀞霊廷の平民たちが行き交っている。この先の色街は、大戦後の復興で現世風の店が増えて、小金持ちの大人が観光にもやって来るようになった。
 檜佐木が呼び込みする仮装喫茶もその流れで出来た、メイドやらバニーやらの洋装をメインとした仮装で客を持てなす、いわゆるコンカフェである。運営は八番隊隊長・矢胴丸リサが務めている。というか、彼女が趣味で運営している。経営は他人任せだが、企画会議には忙しい合間を縫って逐一出席し、コンカフェの心得を経営陣の平民らに説いているとかいないとか。
 ともかく、護廷十三隊の隊長が関わっている風俗店なら安心で安全だろう、ということで評判になり、わざわざ呼び込み看板を掲げなくても客入りは上々だ。呼び込みさせるのは、リサによると「雰囲気作り」なのだそうだ。
 檜佐木は看板の持ち手を肩で支えつつ、店のある通りから色街に流れていく人々を眺め、自分がここにいる意味を考えて、軽い虚無感を味わっていた。
 スカウトされてこのバイトをしていたオメガの九番隊隊士が、突発的なヒートになってしまい、上司である檜佐木がシフトを埋め合わせるため、店に来ていた。
 オメガのヒートには個人差はあるが、多くの場合、心身共に不安定になる。倦怠感、発熱、情緒不安定、霊圧の出力不安定など、任務だけでなく日常行動に支障を来す者も多い。なにより問題なのは、ヒート状態で発するフェロモンは、アルファや他のオメガに影響する。特にアルファは個人によってはショック状態になり、知的な認知機能――〝理性の中心〟に強い影響を受ける。さまざまな事故が起こりやすい。
 そのため、抑制剤を服用しても直後は他人との接触を控え、安静にしておくのがヒート時のオメガの対応となる。
 隊士が休暇や待機時間に何をしても、任務に支障なければ問題にならない。ただ、隊の任務外のことなので、個人で解決する事柄である。
 檜佐木も、リサから連絡があるまで、自隊の新入りが風変わりなバイトをしていると知らなかった。
『確かにそいつは、うちの隊士ですが、シフトの調整は本人か矢胴丸隊長が行うのでは……』
『部下のフォローは上司の仕事やろ。檜佐木、ベータやったな?』
『そうですが……えっ、代理って俺ですか!?』
『拳西は用心棒のツラやし、なによりウチが見とうないわ。アンタやったらまあ、面白いしええんとちゃう』
『面白いってなんですか、面白いって』
 檜佐木は抵抗した。だが、ヒートのオメガに働けというのは酷な話で、看板を持って突っ立っているだけでバイト代が貰えるというなら、割が良いと考え直した。仕事は定刻後の夕方から深夜まで。暗がりなら悪目立ちもすまい、と浅はかな考えで引き受けてしまったのだ。
 九番隊副隊長の人相は、広く瀞霊廷内に知られている。そして、仮装喫茶のある通りは昼間こそぱっとしない通りだが、夜にはネオンや照明で昼間より明るくなる。この点が、檜佐木にとって誤算だった。
 見知った副隊長が現世かぶれの衣装を着て、呼び込み看板を支えて突っ立っている様に、隊士たちも平民も、好奇の目を向けてくる。物珍しさにチラシを貰いに来る通行人に、部下の埋め合わせで、といちいち言い訳している始末だ。
(やっぱ、強く言って断れば良かった……)
 檜佐木にあてがわれたコスチュームは、ヘソ出しでノースリーブのシャツ、蝶ネクタイ、点け袖に、黒いサテン地で白い尻尾つきのショートパンツをサスペンダーで留め、膝まであるブーツ、そしてウサギ耳のカチューシャを点けている。片耳の折れた愛嬌あるカチューシャは、檜佐木の頭には小さく、カチューシャ部分がきりきりと食い込んで少し痛い。おかげで何かの弾みで取れることはなさそうだった。逆にショートパンツは、屈んだ表紙に生地が破れそうなほどタイトな上、尻にくっついている白い尻尾も取れてしまいそうだった。屈伸しようにも、丈の高いブーツのせいでままならないが。
「動きづれぇ……こんなんで接客なんか出来ないだろ。いやでもしてるのか……女子のおしゃれってスゲェわ……」
 やや的外れな感慨をひとりごち、檜佐木はぎらつく通りと、闊歩する人々とをぼんやり眺めた。
 色街も、深部はひっそりと奥まった店ばかりだが、入り口あたりはギラギラした電飾で道ばたを煌々と照らしている。人々はのんびりと客引きにひっかかりながら、通り過ぎ、あるいは奥に向かい、思い思いの夜を過ごそうとしていた。オメガたちのフェロモンがほのかに香る気がする。ベータの檜佐木には、香が入り混じった微かな体臭にしか感じられないが、アルファたちを引き寄せる誘蛾灯めいて、そこかしこに漂っているのだろう。歩みが遅い者はもれなくアルファなのかもしれない。
(矢胴丸隊長が管理してるっつっても、こんな場所、オメガには危なくねえか)
 新人隊士には少し言って聞かせた方がいいかもしれない。そんなことを考えながら、欠伸を噛み殺す。
 気の緩んだ檜佐木の前で、見知った顔が立ち止まった。
「! なんでお前ら」
 死覇装姿のままの斑目一角と綾瀬川弓親が並んでいる。二人とも檜佐木の格好を見てニヤニヤと冷やかし笑いを浮かべていた。
「おーっ、マジでやってる」
「案外似合ってるじゃん」
 副隊長と三席が知っているということは、平隊士には知れ渡っていると判断した方がいい。檜佐木は愕然として呟いた。
「十一番隊に出回ってんのか、この話」
「いーや。見かけたって話を六番隊の奴から聞いてよォ」
「ってことは、阿散井にもバレてんじゃねえか!」
「バニーボーイの格好でバイトしてるくらい、別に大した事じゃないだろ。面白いだけで」
 檜佐木の衣装に興味があるのか、綾瀬川はつけ耳やショートパンツをちらちらと見ている。失礼、と後ろに回り込んで尻尾を確認すると、「えー可愛いじゃん」と素直な感想を述べた。
「まーた金欠なのかよ」
 斑目が呆れ顔になる。檜佐木は慌てて首を振った。
「俺の仕事じゃない。部下の代理で仕方なく引き受けたんだ」
「もしかしなくても、オメガの子?」
「ああ。突発でヒートになっちまってな」
 檜佐木の周りを一回りして三六〇度眺めて戻ってきた綾瀬川は、美貌にうっすら嫌悪感を滲ませた。
 綾瀬川はオメガである。だがヒート管理を徹底しており、突発性ヒートに直面しても強い抑制剤で仕事に支障を来さないようにしている。彼からすると、檜佐木の部下は自己管理が甘すぎるとしか思えないのだった。
「オメガがこういうところでバイトって、迂闊すぎる。ちゃんと注意した方がいいよ」
「そのつもりだ」
 二人は店のある方を見やり、入っていく客層を見て、顔を見合わせた。
「大前田が好きそうだな」
「どうかな? 彼、ああ見えて現実路線だろ」
「そういうお前らは」
「その大前田から親戚が出店したとかで、居酒屋の割引券をもらったんで、飲みに行く」
 斑目が懐から紙切れを取り出した。上等の和紙に店名の判子が押された割引券を見て、檜佐木が心底うらやましげに声を上げる。
「タダ酒かあ~」
「そのうち君にも配りに来るよ。というか、今日ここで鉢合わせないといいね」
「マジか……」
 檜佐木は、目立つ図体の大前田希千代が店先で立ち止まり、変装した自分を指差して爆笑する様を想像して、暗澹たる気持ちになった。
 大前田家は商売をやっているだけに顔が広い。彼の食卓で出た噂話は、その日のうちに十軒先まで知れ渡ると聞く。それだけは勘弁してほしい、と檜佐木は心底思い、苦虫をかみつぶした顔になった。
「じゃ、俺ら行くわ。バイト頑張れよ~」
 冷やかすだけ冷やかし手を振って立ち去る二人に、檜佐木は慌てて言いやった。
「おい、出先で話題にするなよ!」
「僕は黙っておくけど、一角はどうかな」
 振り向いた綾瀬川が前を行く一角を指差して笑う。
「斑目! 触れ回るなよ!」
 檜佐木がもう一度声を上げたが、斑目は適当に手を振り返して応答しただけで振り向きもせず、綾瀬川と並んで雑踏に紛れてしまった。
 知り合いに見つかるのは案外気まずい、とようやく気づいた檜佐木は、この衣装を用意したリサを軽く恨む。同時に、綾瀬川の指摘がもっともだと思い、部下が現場に復帰したらすぐ辞めさせよう、と心に固く誓った。新人隊士も、まさかベータの副隊長を巻き込んでしまったとは思いも寄らないだろうが。
 再び、往来の好奇の視線に晒された檜佐木は、愛想笑いもやめ、看板の持ち手を肩にもたせかけたまま腕組みをして、店の壁にもたれかかった。足を軽く組んだ横柄な態度になる。ある意味、客引き業務を放棄した格好だ。手元にあったチラシはほとんど配り終えた上に、知り合いに冷やかされたので、すっかりやる気が削がれてしまった。
 媚びた服装で無愛想に突っ立っていると、人々の好奇の目が離れていくのを感じた。壁にもたれて呼び込みをサボっている店員はそちらこちらにいなくはない。やはり、人の歓心を買おうとしないと、ある程度は人目を引かなくなるようだ。檜佐木は俯き、腰に下げた伝令神機を弄る。
 しばらくそうして俯いていると、ふと目の前で人の立ち止まる気配がした。また知り合いが冷やかしに来たのではと顔を上げると、見知らぬ男がにこやかな顔で立ち止まっている。
「なんすか」
「君、そっちの仮装喫茶で働いてるのかい」
「ええ、まあ」
 上等の着物や提げている鞄から、男は中央官庁で働く下級貴族だと解る。周囲に漂うフェロモンに酔っているのか奇妙に上機嫌で、檜佐木のことを格好からオメガと勘違いしているらしかった。
 檜佐木が怪訝な顔でいると、なんの前置きもなしに檜佐木の剥き出しの腕を掴んできた。
「いいね。君となら楽しく過ごせそうだ、店に案内してくれるかい?」
「あ、いや……俺は呼び込みバイトで、接客は」
「いいじゃないか。そんな可愛い格好をしてるんだから、接客だって出来るんだろう? サボりに出てたっていうなら、小遣いを弾むからさ」
「いや、だから違うって」
 檜佐木は掴まれた腕を振りほどく。男が露骨に機嫌を悪くして、顔をしかめた。
(こいつ、俺の顔見ても誰か解らねえのか)
 護廷十三隊に関心のない貴族は多くはないが、存在する。死神や平民は自分たちを支える下僕と考えている類いの貴族だ。この男もそうした貴族の一人なのだろう。
「見るからに貧相なオメガじゃないか。小遣いをはずんでやると言ってるんだ」
 嵩に掛かった口調で距離を詰めてきた相手を、檜佐木は鬱陶しげに睨み付けた。素性の知れないオメガだと思ってこの態度なら、来るはずだった部下は押し切られて接客していたかもしれない。店での接客に留まればいいが、相手が向けてくる下卑た視線から察するに、それだけでは済まなかっただろう。
 そもそも、呼び込みに立つのが檜佐木一人なのも、少し気になっていた。こういう厄介な客が寄ってくる状況に対して、店側のフォローが何もない。自分が腕力のあるベータだから、というわけではなく、そもそも女一人で呼び込みさせる想定のようだ。これは監督責任の問題だぞ、と檜佐木は思う。
(代理で来てみて良かった。絶対、やめさせないと。あとは経営者のこと、矢胴丸隊長に言った方がいいな)
 よほど檜佐木が気に入ったのか、空気に当てられて昂揚しているからか、貴族の男は再び檜佐木の腕を掴むと、店の方に引っぱっていこうとする。細身なのにびくともしない檜佐木の体幹に苛立って、肩につかみかかる。
「客引きのくせに偉そうだな、ちょっと相手しろって言ってるだけだろうが!」
「お客さん、困りますよ。店員に無理強いすんのは」
 檜佐木が低く凄む。声に霊圧を乗せたせいか、男は冷や水を浴びたようにびくっと肩をすくめ、まじまじと檜佐木の顔を見つめた。檜佐木の霊圧で周囲の甘い空気が拭い去られたのか、ショックを受けたからか、男はフェロモン酔いから醒めたらしい。焦点の定まった目で檜佐木の姿を改めて見て、うっ、と声を洩らす。色気より凄味に気圧され、肩を掴んでいた手を放した。
「き、客を脅すんじゃない、……ったく、ろくでもない店だな!」
 二度と来るか、と吐き捨てて、貴族は肩を怒らせて往来に戻っていく。すると、店の方に向かってくる人影とまともにぶつかって、わ、と声を上げた。
「気をつけろ!」
「どっちがだ?」
 吐き捨てた貴族の男に、ぶつかられた相手が凄んだ声で短く言い放つ。貴族の男は、相手を見上げてギョッと後ろにたじろいだ。男が驚くのと同時に、檜佐木も目を丸くして、看板を取り落としそうになる。
「六車隊長……!」
 檜佐木が思わず小さく声を上げる。貴族の男を睨め下ろしていた視線がちらっと檜佐木を一瞥した。その一瞥だけで檜佐木はぎくっと身をすくめる。わざわざ確かめるまでもなく、六車は怒っていた。
「うちの奴に因縁つけてたみたいだが、話があるなら俺が聞くぞ」
「い、いや、何も……ちょっと冷やかしてただけだ。あ、あんたの邪魔はしないよ」
 六車を檜佐木の贔屓客だと勘違いしたのか、貴族の男はへつらう笑みを見せて後ずさり、六車との間に距離を取った。六車が振り向く。その顔を見た途端、男は飛び上がらんばかりの勢いで逃げ出していった。
 昂ぶったその場の緊張が緩んでから、六車が無言で檜佐木に歩み寄ってくる。檜佐木は身じろぎも出来ず固まったまま、近づいてくる六車を見つることしか出来ない。
「……」
 あっという間に目の前まで来た六車に、檜佐木は思わず視線を逸らしてしまった。ぬ、と手が伸びてきて、つけ耳をむんずと掴んだ。
「わっ!」
「テメェは、なにしてんだ? あ?」
「いや、これは違うんですっ」
 ぎっちりと嵌まっているカチューシャを引っぱられ、檜佐木が「いたた」と声を上げた。
「なにが違ぇんだ」
「事情を説明させてくださいっ、実は……」
 檜佐木が慌てて、今に至る経緯を話す。オメガの隊士が引き受けたバイトだったこと、その隊士がヒートになってしまい、リサの頼みで檜佐木が代理に来たこと。檜佐木の説明を聞く六車の顔がどんどん険しくなるのを目の当たりにして、檜佐木は顔色を蒼くしていく。
(やべぇ、隊長めちゃくちゃ怒ってら……)
 六車がもう一度、つけ耳を握りしめて引っぱった。
「リサのやつに言われて、耳まで生やしたのか?」
「いたた……っ、いやっこれはつけ耳で……ガッチリはまっちまってるだけっす」
 檜佐木が痛がってみせると、六車はややギョッとして手を放した。檜佐木は苦笑いしてつけ耳を押さえつつ、六車にきちんと向き合う。
「ともかく、頼まれて俺の意志でやってるんで」
「やってるんで、じゃねえよ。ベータならきわどい格好で客引きしていいってわけじゃねえぞ」
「きわどいっすかね……?」
 檜佐木が自分の格好を改めて見る。六車は苦い顔で首を振ると、店の方に顎をしゃくった。
「リサには俺から言っとく。お前はとっとと着替えてこい」
「大丈夫っすかね」
「大丈夫じゃなくても知るか。なんでお前が、リサのケツ持ちしてんだって話だろうが」
「はぁ……」
 他隊とはいえ隊長の頼みでは断れないと思って引き受けた檜佐木だったが、初めから六車に相談しておけば良かったのかもしれない、と頭の隅で悔やむ。
「ともかく着替えて帰るぞ」
「あの」
 檜佐木が恐る恐る六車に尋ねた。
「隊長は何でここに?」
「飯屋で飯食ってたら、お前がすっとぼけた格好で客引きしてるって、余所の隊士どもが話してるのを聞いたからだよ」
「あー……」
 こめかみを震わせてギロリと睨む六車に、檜佐木は誤魔化し笑いを浮かべながら視線を明後日の方向に逸らした。
 やはり、十一番隊、六番隊、この分だと十番隊にも話が伝わっていそうだ。女店員が呼び込みしているならともかく、男の自分が身代わりはやはり無理があったのだ、と檜佐木はうっすらリサを恨んだ。もちろん、リサは店が話題になるのを見越して、断れない体質の檜佐木に無理を言ったのだが、それは檜佐木のあずかり知らぬところである。
 数刻ぐらいなら六車の耳に入るまいと思ったのが甘かった。項垂れた檜佐木は、「着替えてきます」と言い置いて、店に向かう。
 店内に入った檜佐木は、店長に事情を話してロッカーで着替え、衣装を返して六車の元に戻った。
 死覇装姿の檜佐木が店から出てくるのを見ると、六車の険しい表情がほんの僅かだが緩む。駆け寄る檜佐木に「帰るぞ」とだけ告げて先に歩き出す六車に、檜佐木は隣から半身後ろにずれて、後についていった。
 色街の入り口とは反対方向、繁華街の出口にあたる四つ辻に向かっていく。檜佐木は六車の横顔を斜め後ろから見つめた。隊の恥だと思って回収に来たのか、はたまた、リサの無茶振りに巻き込まれたと心配して来てくれたのか、憮然として不機嫌な六車の態度からは読み取れない。ただ、隊舎に戻るにせよ、二人が住む屋敷に戻るにせよ、あとでしっかり叱られるのは間違いないだろう。
 四つ辻にさしかかると、無言だった六車がふと立ち止まり、後ろからついてくる檜佐木を振り返る。目顔で隣に来いと言われ、檜佐木は促されるまま隣に並んだ。
「その、すみませんでした」
 檜佐木から先んじて謝る。部下の代わりをしたのが悪いとは思っていない、ただ相談もなく引き受けたのは浅慮だったと考えて謝ったのだった。六車は檜佐木の顔をじっと見つめてから、短く溜息をつく。
「部下の身代わりを買って出たのを責めてんじゃねえ。ベータなら問題ないって認識でいるのが悪いって話だ。フェロモンが立ちこめてるあんな場所、どんな事故があるか解らねえんだぞ」
「はい……」
「客引きするにしても、もっと普通の格好はなかったのかよ」
「それが、矢胴丸隊長の用意した制服はあれしかない、とのことで」
「リサのヤロウ、修兵で遊びやがって……。明日の隊首会でぶっ飛ばしてやる」
「ま、まあまあ、何事もなかったわけですし」
「何事もなかっただと?」
「あ」
 下級貴族に絡まれたことを思い出し、檜佐木は思わず六車から目を逸らしてしまう。しかし、左頬に鋭い視線の圧を感じて、逸らした目を戻さざるを得なかった。おずおずと視線を合わせると、六車は片方の眦をつり上げた怒りの形相で、檜佐木を睨み据える。
「すんません、厄介ごとに巻き込まれかけました……」
「解ってんならいい。……本当に解ってんだろうな?」
「わ、解ってます! 俺の考えが甘かったです」
「よし」
 背筋を伸ばして返事をした檜佐木に、六車はようやく眉間を少し開いた。まだまだしかめ面に見えるが、無愛想な表情は六車のいつもの顔だと檜佐木は知っている。謝罪が受け入れられて、檜佐木はほっと胸をなで下ろした。
 四つ辻は、甘く重たい空気が晴れていて、瀞霊廷のいつもの空気に包まれている。やはり色街付近は、フェロモンを強く感じさせる香を焚いているか何かして、ベータの檜佐木でも察知できるほど、空気が淀んでいたのだ。そんな場所にアルファの六車を迎えに来させてしまった事実に、檜佐木は何より申し訳なくなった。
 重ねて謝りたい気持ちで隣の六車を振り向く。
 六車の両目はうっすら赤く光り、虚化の兆しを抑え込んでいる。明るさの薄れた夜道で、両目にほのかに宿る輝きが美しく妖しく、揺らめいていた。
 仮面の軍勢は全員アルファで、ヒートの影響を受ける体質だ。特に六車と久南は、最初の虚化被害者だったことが関係してか、オメガのフェロモンに長く晒されると虚化限界がより短くなる体質になってしまった。
 六車にとってあの街は、虚化する危険性を孕む場所だったと気づいて、檜佐木は表情を曇らせた。
「先に、隊長に相談すべきでした」
「もう怒っちゃいねえよ」
 檜佐木の顔を見た六車は、また謝り始めそうな様子を汲み取って、落ち着いた声で言い返した。言葉で言っただけでは足りないと判断してか、つけ耳で押さえつけていたせいで、頭頂部だけ凹んで癖のついた頭を撫でる。そして、死覇装姿の檜佐木をじっと見つめてから呟いた。
「お前は、その格好が一番似合う」
 頭を撫でた手が後頭部を押して引き寄せ、六車の顔が文字通り目と鼻の先まで近づく。檜佐木が「あ」と思ったときには、かすめ取るように短い口づけをしていた。
 唇はすぐ離れたが、檜佐木の丸く見開いた目を見つめ返す六車の目が、可笑しそうに細められて、今度はもう一呼吸長く、口づけてきた。檜佐木の驚いて結ばれた唇の間に下唇を押し込む接吻に、檜佐木が小さく口を開く。ぬるりと舌が唇の裏を撫でて、六車の笑いの混じった鼻息が檜佐木の鼻に触れる。
 檜佐木はたまらず目を閉じた。全身が心臓になってしまったかのように、指先から頭のてっぺんまで鼓動が響いている。
 ふっと唇が離れ、六車の顔が遠ざかる。檜佐木がそろりと目を開くと、小さく舌なめずりした六車が挑む笑みで檜佐木を覗き込んでいた。
「こういう、ろくでもねぇアルファもいるんだ。あんま迂闊な真似するな」
「……俺にろくでもないことすんのは、あんたぐらいだよ」
 六車にからかわれて、檜佐木は優しく啄まれた唇をちょっと舐めてから、幾分か拗ねた声で言い返した。
 六車の手が後頭部から刺青を刻んだ左頬に滑り、軽く抓ってから離れていく。
 四つ辻を渡る六車に、檜佐木は慌ててついていき、また隣に並んだ。肌に馴染む死覇装の着心地に今更、安堵の息が洩れる。
 いつも通りの横顔で歩く六車が、妙に沈黙しているのに気づいて、檜佐木がそろりとした小声で尋ねた。
「……もしかして。あの服、店に返したの勿体なかったとか、思ってないっすよね?」
 黙りだった六車がちらりと檜佐木を横目で顧みた。すぐ前方に視線を戻すと、しれっと澄ました顔で答える。
「察しがいいな。リサからぶんどってくるから、今度、目の前で着て見せろよ」
「なんだよ、あんたが一番スケベなアルファじゃねえか!」
 檜佐木は声を上げると、抗議を込めて六車の上腕を派手に叩く。六車はむず痒そうに口を歪めていたが、やがて我慢できなくなったのか、短く声を上げて笑った。

 

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