ケンが赤提灯で呑んでいるとちょくちょくYに絡まれる。この夜も、どこかの厳粛な講演会をぶち壊して上機嫌なYは、一人手酌でちびちびやっているケンを見かけ、断りもなく隣に陣取った。
「やあ、ケン君。景気はどうだい?」
「まあ、ぼちぼち」
にこやかに話しかけてくる紳士に、ケンはおざなりに返事した。内心では辟易としていたのだが、おくびにも出さない。
Yは高等吸血鬼のステータスを享楽にすべて振ったような男だ。愉快と滑稽の為なら自分に危害が及ぶのも厭わない。そう見せかけて、紙一重のところで深入りせず、高みの見物を決め込む狡猾さも持ち合わせている。人間的老獪と吸血鬼的刹那主義の申し子の如き紳士を、ケンはなかなか上手くあしらえない。Yとは同程度の迷惑罪で意気投合しているように見られがちだが、ケンは腹の中でこの紳士を常々警戒していた。Yに限らず、自分より年長の高等吸血鬼はすべからく警戒対象だが、Yは特に、能力相性の点で手強い吸血鬼だった。
「VRCで顔を合わせる回数が多い」イコール「気心の知れた仲」ではない。Yは誰の味方にもならないし、誰の共犯者にもならない。例え同じ企みで意気投合したと思っても、一秒後には手のひらを返すのがYだ。常にオモチャを探しているYにとって、ケンは懐かしい同胞のにおいがする、恰好のオモチャに過ぎない。ケンは自分が、竜の血族達同様、ターゲティングされた一人だと自覚していた。
熱燗を注文したYは、にやついた笑いでケンの横顔を眺めている。おでんを食べるのにマスクを下ろしていたケンは、残してあったがんもどきを一口で頬張り、マスクを引き上げた。
「おやおや。何を警戒しているんだい」
「上機嫌な時のアンタは、味方でも敵でも怖ェからよ」
「私とケン君は友人だと思っているのに、随分な言い様だねえ」
Yの上機嫌が、舌なめずりするようにケンの顔を撫でていく。ぶち壊した講演会の惨状を思い出しているのか、愉悦の笑みが深くなり、目に鋭さが増した。今日はもっと犠牲者が欲しい、細めた目がそう訴えている。
「誰かをおちょくる時に利害が一致するってだけだろ。俺ァ、アンタほどおっかない吸血鬼のつもりはないんでね」
「連れないねぇ、ケン君。高等吸血鬼たちのつまはじき者同士じゃないか。もう少し打ち解けてくれてもいいだろう?」
「バカやるのは楽しいから、面白けりゃ付き合うさ。それで十分だろ」
「同胞呼ばわりはごめんだ、そう顔に書いてあるねぇ。今夜はどうしてそんなに頑ななんだい?」
「別に。気分じゃねえってだけさ」
肩をすくめて、何でもない顔でケンが答える。Yは無言で細めていた目を更に細めた。ケンはニタニタ笑いながら見つめる紳士の表情に、げんなりした気分になる。
(こういう目つきする捕食動物、いるよなァ。蛇だっけか、梟だっけか)
ケンはお銚子に残っている酒に手を付けず、懐から財布を取り出そうとした。まだ、ほろ酔い程度だったが、Yに呑まされて面倒な顛末になるのは避けたい。Yの酌を断るのは、催眠術と結界術を兼ね備えたケンでも至難の業なのだ。長居するだけ、Yのペースに呑まれてしまう。
客の話は聞かない・口を挟まないが信条の店主は、背中を向けて黙ったままだ。ケンは誤記強めに「お勘定!」と呼びかけた。店主の動きが妙にもたついている。ケンはYを顧みた。
「もう一杯くらい付き合っていきたまえよ」
「アンタなぁ……」
「君には耳寄りな話もあるんだ。例えば、講演会の後に見かけた、ハンターに信徒を取り上げられていた君の弟クンの事とかねぇ」
ケンが財布から紙幣を抜き取ると、カウンターに叩きつける。
「おっちゃん、足りない分はコイツが払うから。俺はこれで」
「おやおや。詳しい話を聞いていかないのかい?」
ケンは財布を懐に突っ込むと、笑うYに珍しく冷ややかな一瞥を寄越した。
「今の話だけで十分だよ、ありがとさん。あと俺に免じて、弟にはちょっかい出さんでくれ」
固い声で突き放すケンに、面白げに笑っていたYの目がすうっと凍えた。いつもの、他人の無様を嗤う目つきと違う、相手の無礼を侮蔑する冷笑をたたえた赤銅色の瞳が、足早に立ち去ろうとしたケンの両脚を鷲づかみにする。Yの目つきが変わった途端、ケンはハッとしたが、遅かった。
「一言、足りないのではないかな?」
意志に反して頭を上から押さえつけられる、頭蓋の間から勝手に割り込んでくる何かが、ケンの四肢五体を好きなように動かそうとしている。結界術ではね除けるには遅すぎた。冷たく巨大な手が、自分の意志を締め上げ、矯めようとする。抗おうにも、抗う隙間がなかった。血管に氷柱を射し込まれた錯覚を覚えて、マスクの下で唇を噛みしめる。ケンは息を吐き、相手の催眠をやり過ごす方向に注力する。Yが言わせようとしている言葉を、詰まる息の間から吐き出す。
「………頼む」
「良い子だ」
Yからの圧力が失せた瞬間、ケンはさっさと相手と距離を取った。無礼のお仕置きをして機嫌を直したYは、もうケンに構うつもりはないようだった。店主の方に向き直り、熱燗の酒を注ぐ。
「きっと可愛い弟は根城で泣いているよ。早く行ってあげるといい」
これだけ聞くと親切な紳士の口ぶりだが、弟の窮状を目撃したYが笑って静観を決め込んでいたのは間違いない。いや、「静観を決め込むに留めてくれた」が正しい。ハンター達にコケにされて癇癪を起こしただろう弟に、更に恥の上塗りをさせる事も出来たはずだ。しなかったのは、単にYがその気にならなかったから、それだけだ。運が良かったの一言に尽きる。よく解っているので、ケンは感謝しないし、懇願を強いられたも業腹だった。だが、実力差は如何ともしがたい。
クソジジィめ、と内心で悪態をつきつつ、ケンはさっさとその場を後にした。向かうのはもちろん、弟・ミカエラの所だ。
ビキニ御殿の様子は、数日前来た時とほぼ変わりなかった。出迎えたビキニ姿の使用人に挨拶もせず、ミカエラが引きこもっていそうな部屋を見て回る。寝室、書斎、ランドリー、キッチン、衣装部屋(ほぼピキニしかない)と見て回り、正面のホールに戻ってくると、一階から上がってくるミカエラに出くわした。金縁のトレーにティーセットを並べて、二階のテラスで一服しようとしていたらしい。
「愚兄、いつ来た!?不法侵入だぞ」
「お前、合い鍵くれただろ!?……じゃなくて、どうしてっかなあと思って」
「別に、何もどうもしていない。征服が進んでいない事以外は、何も問題ない」
不意の訪問を訝る顔のミカエラは、いたって冷静だった。今晩、街でハンターにやり込められたとは思えない、落ち着き払った様子だ。ケンは腕組みして首を捻ると、悠然と階段を上がってくるミカエラに尋ねた。
「お前、今夜、街でハンターとやり合ったか?」
「何故知っている」
ぎくりとミカエラが背筋を緊張させる。ビキニと手袋、ソックス以外身につけていないので、感情の機微が全身に顕れるのだ。目元をマスクで隠しているのにポーカーフェイス出来ない弟と対照的に、ケンはのらりくらりとしらばっくれた。
「まあ、ちょっと耳に入れたもんだからよ」
兄の追及に一瞬動揺したミカエラだが、すぐに高慢な態度に戻った。上体を揺らさず静々と階段を上る。ティーセット同士が触れあう耳障りな音さえしない、ミカエラの優美な歩き方はケンの知らない誰かが躾けた成果だった。踊り場に昇ってきたミカエラは、腕組みするケンにはきはきと答える。
「確かに、ハンターとは会った。信徒の家族から帰宅させるようにと訴えが出ていてな。帰宅指示するよう、要請されたのだ」
今度はケンの方がきょとんとした。どうやらハンターとは平和的に話し合い、解決したらしい。元々、ロナルドの元にいるドラルクや竜の血族とは連絡先を交換した間柄なので、ドラルクが仲裁に入ったのかもしれない。
「騒ぎを起こして退治されかけたんじゃないのか?」
ケンが目を丸くして確認する。ミカエラは怪訝な顔をしたまま、兄の顔をまじまじ観察した。ややあって、突然閃いたようにハッとする。
「貴様、まさか私の信徒に自由意志がないなどと、勘違いしていないだろうな!?」
迫真の表情で詰め寄るミカエラに、ケンは別の意味で素っ頓狂な声を上げてしまった。
「え、やりたくてビキニに参加してる人間もいんの?」
「私の深層催眠は完璧だ、一度でも側近に至った信徒は自由意志で私に従い、自ら進んでビキニを着る。彼らへの支配は、同意の下の行われる吸血行為に等しい」
「マジか、適当に噛んで増やしてんじゃねんだ」
「~~!だから貴様は愚兄なのだ!私の征服計画を、吸血と催眠だけの浅はかな侵略行為だと思っていたのか?!自ら望んで帰順させて初めて真の征服だろう。貴様はそんな事も想像できんのか!」
ミカエラの征服計画が(ビキニの部分はともかく)、思いつきだけでなく、実現性ある計画として成立していることに、ケンは正直に感心した。人間支配の手法は高等吸血鬼らしさを損なわない、血族の教えを踏襲している。──ただし、ビキニだが。
「悪い悪い、ミカの計画を侮ってたわ」
「言いたい事はそれだけか!?今日の貴様はもてなす価値もない、とっとと失せろ!」
完全に癇癪を起こしたミカエラが叫ぶ。ヒステリックな低音の怒声に、優美なトレーにしずしずと乗っていたティーセットたちもけたたましく鳴り響いた。ケンは両手を上げて、毛を逆立てた猫のようなミカエラを宥める。
「あ~悪かった悪かった。計画を甘く見て悪かったって。国家転覆露出狂がいいかどうかはともかく、お前なりに頑張ってんのな」
弟の癇癪を雑に宥めながら、ケンの脳裏にはYの姿が浮かんでいた。クロムイエローのチェック柄スーツを着たYが、愉悦の微笑に目を細めている様だ。ミカエラはハンター達にやり込められていなかった。つまり、自分がYに一杯食わされたのだ。赤提灯でのYとのやり取りを思い出すと、腹立たしさがじわじわとこみ上げてくる。
(あのオッサン、Y談云々はともかく、他人の家族仲をおちょくる悪趣味はどうにかなんねえのかな……)
怒りを認めるのが癪で、ケンは腹のあたりをさすってとぐろを巻く苛立ちを誤魔化した。今度会った時は口車に乗せられないよう、もっと警戒しなければならない。
「兄さん?」
意識が自分から逸れたのを察知して、ミカエラが声を掛ける。根明でちゃらんぽらんな兄だが、いざという時は何の相談もなく身内を庇おうとする。あれこれ背負い込んでいたと気付くのは、いつも嵐が去った後だった。視線の微妙な温度変化で兄を真剣にさせる何か──自分や弟妹に良からぬ事が起きようとしていたのではと疑い、ケンの目元を見つめる。何があったか聞いても、話せと胸ぐらを掴んで揺さぶっても、話さないと決めたケンはテコでも動かない。こういう時、普段の適当さが嘘のような意志の強さを見せる。テコでも動かない兄をどうすることも出来ないと、ミカエラはよく知っている。
じっと見つめるミカエラの視線に気付くと、ケンはふと気の抜けた緩い笑顔を浮かべた。
「お前が問題ないと解ればいいんだ、邪魔したな」
そう言ってミカエラの肩を軽く叩くと、ケンは正面ホールの階段をひょいひょいと下りていく。後ろ姿はいつも通り、ひょうきんなジャンケン柄の着物も、履き慣れた草履の足音も、勝手に来て勝手に出て行く時と同じだ。ミカエラは踊り場に佇んだまま、いつもより力を込めて──催眠の意志をこめて、呼びかけた。
「私を侮っていた事を反省するなら、一泊くらいしていっても構わんぞ」
高慢な物言いは崩さず、碌な説明もせずに出て行く兄を強く引き留める。自分の催眠が兄に届かないのは百も承知だったが、今の兄を新横浜の繁華街に行かせるのは駄目だという気がした。何があったか話さないのだとしても、一晩、自分の牙城で守り通すくらい出来るはずだ。ミカエラは閃く赤い目で、玄関扉に手を掛けた兄を見下ろした。ミカエラの見えざる手が、ケンの服や肩、足を捉える。手加減なし、本気の催眠術だが、ケンがその気になればすぐさま弾かれてしまうだろう。
ケンは扉を掴んだまま数秒、逡巡したように固まっていた。やがて、ミカエラの引き留める手に促されるまま振り向いて、踊り場のミカエラを仰ぎ見た。
「……そうだな、そうするか」
そう答えたケンの声からは、ミカエラの不器用な気遣いに対する喜びがうっすら込められていた。ホールに下りてくるミカエラに、ケンも歩み寄る。二人並んでキッチンに向かいながら、どちらともなく腕が触れそうで触れない距離を保つ。それは、核心に触れそうで触れない距離であり、用心深いミカエラがケンの内心の深い場所にどう触れようか考えあぐねる距離でもあった。
自分を慮る弟の気配に、ケンがぐいと肩を抱きよせる。トレーのティーセットがカチャンカチャンと鳴り響き、静まりかえった屋敷で二人の周りだけ、騒々しい空気で満たされた。
「宿賃代わりに何か作り置きしてってやるよ。兄ちゃんの飯、好きだもんな」
「貴様の手料理など要らん。料理を振る舞うのはホストの役目と決まっている、愚兄は大人しく食堂で待っていろ」
「あーはいはい。だったら、なるべくちゃちゃっと作ってくれよ~。袋ラーメンとかでいいから」
「誰が、あんな安価な味を出すか!私の屋敷ではまともな料理しか出さんぞ!」
