吸死

Je me Faux Parfumé

吸死

 

 眉間のあたりにずんと響くほど、重たく甘い香りだった。
 ミカエラは、館の広間で使徒たちの催眠を更新して、街に戻る指示を済ませたところだった。開け放たれた玄関から、館に吹き込んでくる傍若無人な香気に顔をしかめ、広間から玄関ホールに足音高く飛び出した。
 無人の玄関ホールには、兄のケンがぐったり肩を落として立ち尽くしている。
「ミカーッ、風呂貸してくれぇ~」
「やはり愚兄か!なんだこの異臭は!」
 トンチキなジャンケン柄の着物に「千客万来」ののぼりを背負ったケンが、着物の袖をばたばたと仰いで顔をしかめている。樹木が纏う空気を濃密に凝縮し、甘みのあるバニラやシナモンに似た香ばしさを振りかけたユニセックスな香りが、事もあろうかケンのトンチキな着物から漂ってくる。漂う嗅覚から相手を魅了しようとさりげなくアピールする強さではない、エッセンスの塊同士をぶつけ合った、香調を台無しにする強烈な匂いの暴力が、ミカエラの館に流れ込んでくる。吸血鬼の嗅覚は人間のそれより鋭敏に出来ている。人間用に調合した香水が文字通り「鼻につく」のはままあることだが、これは酷すぎた。嗅覚を攻撃されてミカエラは頭痛と吐き気に襲われ、たまらず口元を手で覆う。
「香水瓶をまともに浴びちまってよ。行き付けの銭湯も出禁になっちまうわ、通行人も避けて通るわ、どうにもならんのよ。匂いが取れるまで風呂貸してくれ」
 複雑な香りの根源になったケン自身、強烈な匂いにダメージを受けているようで、マスク下で露骨に顔をしかめている。マスクには掛からなかったようだが、揮発した成分が布地に染みこんでいるだろう、時々、樹木とスパイスの匂いを吐き捨てるように咳き込んでいる。
「どんなヘマをやらかしたら香水瓶の中身を浴びるんだ!」
「話せば長い。ともかくひとっ風呂、浴びさせてくれ。なっ?」
 怒りにわななく弟を後目に、ケンはさっと拝み手で誤魔化し、館の中に踏み込む。勝手知ったる足取りでバスルームを目指すケンに、ミカエラが腕を掴んで引き留めた。
「また、若い女に辻野球拳を仕掛けてやり返されたのか?こんなていたらくになって、恥ずかしくないのか!」
「いや、今日のは野球拳で負けたんじゃねんだわ」
「なら、どうして」
 肩をすくめる兄に食ってかかったミカエラだが、甘ったるいミドルノートが口から飛び込んできて、ぐっと息を飲んだ。同時に、兄の恰好が普段、街角で辻野球拳を仕掛ける時と少し違うと気付く。背中に背負ったのぼりの文字が違うし、よく見ると安っぽいサテン地のたすきをかけている。けばけばしいフォントで縫い取られた名前は、十中八九、夜の街に並ぶ人間向け風俗店の店名だ。
「貴様、いったい何をしてるんだ!」
 叫んだミカエラが、着物の襟ごとたすきを掴みあげる。ケンはびっくりして両目を開いてから、たすきを見下ろして「ああ」と呟いた。
「VRCに泊まれねえから、ちょっと小銭を稼いでて……」
「そんな理由で、人間に使われるのを良しとしたのか?そんな、そんなことは……」
 けろっとした顔で、客引きのバイトをしていたと打ち明ける兄に、ミカエラが革手袋の軋む音をさせ、両手を握りしめる。あまりにも耐えがたい事実を聞いて、ミカエラの癇癪は爆発寸前だった。ケンは慌てて「バイトつっても」と言い募る。
「ちと知り合った娘に頼まれたっつーか、人助けみたいなもんでな。そこで面倒があって、こういう……」
「人間の頼みを、いちいち取り合うな!」
 ケンの説明をまるで聞かずにミカエラが喚く。喚いてから、こめかみを押さえた。嗅覚を叩き壊し脳髄に響く匂いの攻撃性に、ミカエラの繊細な神経は参ってしまっていた。ケンと違い、口元を覆うものもない。怒鳴れば怒鳴るほど、匂いを吸いこむ羽目になる。更に、ケンの醜態が人間たちに情けをかけた結果と知って、けばだった神経を更に刺激した。
 弟が癇癪持ちなのはケンも心得ている。話は後、と言ったのは、この強烈な香調が弟の神経を苛んで、すぐさまヒステリーを起こすと悟っていたからだ。ちょっと香るくらいなら、嫌味の一つ二つで済んだかもしれない。が、状況は香水テロも同然だ。
 なので、弟が癇癪を爆発させる前にささっとバスルームへ退避しようとしたのだが、どうも上手くかわしきれなかった。
「私の屋敷だぞ、人間の女が媚びる匂いが充満するなど耐えられん!発生源が貴様なのも耐えられん!なんてことをしてくれたんだ、調度品に染み付いて取れなくなったらどうする!」
「いやだから、悪かったって、風呂場に籠もってしっかり洗い落とすからよ、話は後にしてくれねえか?」
「話は後だと?私が納得するまで、これ以上館に踏み込ませてたまるか!貴様はいつだって、人の気も知らないで……!」
 まともに話を聞き入れる状態でなくなったミカエラが、怒りと悔しさを滲ませた声で呻く。ケンは視線を明後日の方向に向けて「それなんだけどな」と呟く。
「香水瓶の出所は、人間のお嬢さんじゃねんだわ」
「なに?」
「あのオッサンだよ。ヨ…」
 言いかけて、ケンは目を逸らした。聞き逃さなかったミカエラの表情が、別の不愉快に歪む。
「相手が吸血鬼ならいいわけではない!あの男も、なんなんだ、ことある毎に兄さんにつきまとって……」
「顔見知りの吸血鬼ってだけだろォ」
 ケンは、吸血鬼Y談おじさんを名乗る、古き血の者の話は普段から極力避けている。自分たちの過去に心当たりがある吸血鬼を、繊細な次弟や当時を詳しく覚えていない末弟に会わせたくないのだ。享楽主義一辺倒のあの男は、自分が楽しめるなら他人の傷などお構いなしだろう。吸血鬼とは本来、そのような性質の存在だった。ケンも、吸血鬼の傍若無人を快く感じる瞬間はある。だが、守ってきた家族が巻き込まれるとなれば、話は別だ。
 Y談がどんな能力を持ち合わせているか、ケンもすべて把握していない。この場を使い魔に盗み聞きされて、ミカエラに目を付けられでもしたら。想像したケンは内心の困惑をひらりと隠して、開き直った態度で言い直した。
「ともかく、知り合いの持ってた香水瓶が割れちまって、こうなわけ。お前が思ってるような理由じゃねえ。ただの事故だよ、事故」
 マスク下でへらへら笑うケンに、ミカエラは鼻で呼吸しないよう鼻腔に力を入れつつ、ケンの着物の袖を握りしめた。
 兄を押し包む作り物の香気のせいで、ここにいる兄が本当に目の前にいるのか確信が持てなくなる。催眠能力に優れるが故に、ミカエラは知覚する現実と事実の境界を疑ってしまう。他の有象無象の吸血鬼相手ならこんな不安に囚われない。相手がケンだからだ。自分より強く秀でた兄だけは、自分の世界を別のカタチに塗り替えられる。
 だから、抱きしめて確かめられる体に、肌で感じる体温に、呼吸で吸い込めるにおいに、実在を感じていたい。
 それを、人間が作った香気に阻まれている。兄の実在を確信できない。苛立ちに、ミカエラの感情はますます昂ぶる。
「私の、私の兄さんに、こんな、媚びた匂いをつけるなんて、人間だろうと吸血鬼だろうと、ゆ、許せない……っ」
 憤りのまま吠えていたミカエラの声が、尻すぼみに弱々しくなり、震えた。顛末を聞くと、兄の自業自得な部分は大いにあるかもしれない。だが、外の世界がよってたかって兄に触れたのだと思うと、悔しさと悲しさで感情がグチャグチャにかき乱された。混濁したインクのように複雑な感情に支配され、ミカエラは言葉が継げなくなった。
 ぶるぶる拳を振るわせ、激情のあまり青ざめた肌をほのかに火照らせたミカエラは、いっそ泣き出していないのが不思議なくらいの表情だ。軽い気持ちで風呂を借りに来たケンは、少し反省した。繊細な弟に、人間の仕事をしている事、女物の香水をひっかけられた事、しょうもない吸血鬼とつるんでいる事、全部一度に許容しろというのが酷な話だった。
 ミカエラはいつも不安と愛着に支配されている。執着に苦しむミカエラに、ケンはいつでも惜しげ無く手を差し伸べてきた。ミカエラの気が済むまで、心も、肉体も、血ですら、与えた。良かれと思ってケンは惜しみなく与えたが、今では正解だったのか自信がない。与えるたび、ミカエラは一層、執着と渇きに苦しむようだった。ヒステリックに怒鳴る時も、癇癪のあまり泣き出す時も、ミカエラから聞こえてくる声は決まって「助けて」だった。
 ──助けて、苦しい、兄さん。兄さん。
「悪かった、兄ちゃんが悪かったから」
 そう言って、ケンはミカエラの頭を撫でようとし、匂いのついた手で触れてはまずいと考え直す。マスクを引き下ろして、弟と同じ匂いを吸いこんだ。本来は、上品で甘くスパイシーな空間を作る香りなのだろうが、今は嗅覚を汚染する害悪でしかない。嫌な空気に溺れて苦しむ弟を掬い上げてやりたい一心で、ケンは腹をくくった。
「ミカエラ」
 ちゃんと姿勢を正して名前を呼ぶ。顔を上げ、睨みつけてきたミカエラの鼻先で、ケンは人差し指ですーっと横一文字を描いた。
「ぁ……」
「ほら。兄ちゃんのにおい、思い出したろ」
 ミカエラが後ずさり、はっとして目を逸らす。が、もう遅かった。館じゅうに染み付くかに思われた匂いの一切が、ミカエラの嗅覚から消えた。渚の強い風で換気の行き届いた邸内は、ケンが飛び込んでくる前と変わらない。ケンから感じるのも、懐かしさを覚える兄のにおいだ。血の記憶に染み付いている、安堵をもたらすにおい、憧れと執着を喚起させるにおい。
 ミカエラは首を振った。催眠で、記憶にある兄の匂いを呼び起こされ、嗅覚を誤魔化された事に、怒りより悲しさがこみ上げてきた。
 一時期、ケンはミカエラを宥めるのに催眠術を使った。聞き分けない弟を説得するより、手先で誤魔化した方が埒がいい、と判断したのだ。しかし、ミカエラが拒絶するあまり怒り泣くのを見てからは、めっきりやらなくなっていた。久しぶりに不意打ちで仕掛けられたミカエラの認識は、他愛なく上書きされていた。催眠だと自覚したのに解くのもままならない。
「狡い、兄さん、こんな真似、するなんて」
「イヤな匂いを呼吸するよりマシだろぉ」
 渋々の表情で呟くケンに、ミカエラはもう一度首を振る。
「こんなやり方、狡い、あんまりだ」
「なぁ、怒るなよ、ミカ。風呂入って洗濯して、この匂いを落としてくるまでの間だけだって。な?」
 言い含める兄の声は困り果てている。今にも頭を撫でてきそうな口調なのに、そうしないのは、匂いがミカエラの髪につくのを避けているのだ。仕草と言葉の不一致は、事実と嗅覚の不一致と、一致している。
「すぐ戻る、待ってな」
 そう言い残して、ケンが足早にバスルームに向かっていく。ややあって、廊下のずっと奥でバスルームのドアが閉まる音が聞こえた。
 慌ただしくケンが立ち去った後、ミカエラは立ち尽くしたまま手元を見つめる。
 兄はバスルームに行ってしまったのに、目を閉じると、手の届く目の前にまだ兄がいる気がする。記憶から呼び覚まされた匂いが、手応えとなって目の前に在る。が、それはすべて兄の催眠によるまやかしだ。兄の残酷な優しさに、ミカエラは唇を噛みしめて目を開く。すぐ側にいるかのように感じたケンは、どこにもいない。
(……今ここに、兄さんがいるみたいに感じるのに、現実じゃないなんて、こんな、狡い、あんまりだ)
 ミカエラは項垂れた。ほんの小一時間ほどの事だ、待っていればケンはちゃんと戻ってくる、解っているのに心が締め上げられる。
 兄は戻ってきたらすぐに催眠を解くだろう。吸いこむ空気と感じる嗅覚はすべて一致するだろう。力いっぱい抱きしめれば、兄は間違いなくその場に居るだろう。強く引き留めれば難なく折れて、しばらく側に居続けてくれるだろう。
 それらが紛れもない事実と確かめるために、自分はきっと兄を抱くだろう。まやかしでない匂いに包まれて、棺桶でなく天蓋付きのベッドで、黄昏時まで共寝をするのだ。
(そうしたらきっと、現実だと確信できる、だから兄さん、早く、早く戻ってきてくれ)

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