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幸福の埋葬

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 夏の盛りも終えた山は、裏寂しさを含む空気に包まれていて涼しい。陽射しが中天を過ぎて傾き始めてしばらくすると、山間の渓流独特の肌寒さが忍び入ってきた。
 ヘクトールは腰に下げた餌箱の中身がなくなったのを確かめると、口元に手を添え、離れた場所にいるアキレウスに向かって声を掛ける。
「そろそろ引き上げようか」
 渓流の中程で黙々と釣り竿を振っていたアキレウスは、ヘクトールを振り向くとひとつ頷いて、リールを巻き始めた。
 オリュンポス攻略の影響は異聞帯全体に及んでいるらしく、管制室では多くの特異点発生を捕捉していた。しかし、すべてにマスターを派遣するわけにはいかない。観測の結果、影響力の薄い特異点については、サーヴァントを定期的に派遣して観測するに留めている。ここもそうした特異点の一つで、ヘクトールはダ・ヴィンチの依頼を受けて、定期的に監視のため訪れていた。
 特異点の中でどんな活動をしても不問とされていて、ヘクトールはしばしばこの渓流で釣りを楽しんでいた。今日も、ヘクトールの方からアキレウスを渓流釣りに誘った。
「そろそろ戻らないと管制室から呼び出されちまう」
「釣れたか?」
「俺らの夕食分くらいはね」
 芳しい釣果とは言えないがおけらよりマシだ、とヘクトールは笑う。アキレウスは終日無口で、楽しんでいたかどうか定かでなかったが、人里離れた、カルデアの賑わしさからも遠い場所で一人の時間を過ごせた事には満足している様子だった。
 山間の町を拠点とした世界はこぢんまりとしていて、山から流れる川はあるはずの海に至らず消滅している。町のはずれにレイシフトに使うポイントがあり、ヘクトールたちはそこから車でここまでやって来た。ちょっとした日帰り旅行のような感覚だ。
 持ち込んだ荷物を二人でトランクに詰め込んで帰る支度を終えると、ヘクトールが運転を引き受けた。
「ライダーを助手席に座らせんのか?」
「休日の君を誘ったのはオジサンだからねえ。俺だって、騎乗Bよ?」
「わかった、わかった」
 根負けしたアキレウスは大人しく助手席に乗り込んだ。他に車のない駐車場から発車する。この渓流釣りの釣り場に他の客が来ているのを、ヘクトールは見たことがなかった。釣り小屋に管理者がいた試しもない。微小特異点で生活する人々は背景同然のこの山を訪れないのだ。拡張性と発展性のなさは、この特異点が脅威ではなく、ほどなくして収束し自然消滅する未来を予告している。
 行きとは違うルートを選んで、ぐねぐねと山肌を下る曲線の道を走った。山の中は黄昏が駆け足で追いかけてくる、川辺で帰り支度していた時はまだ昼間の明るさだったのに、カーブを曲がり下りていくにつれて山の向こうから夕闇が滲み出してくるかのようだった。けして対向車が来ない道だが、ヘッドライドをつける。ヘッドライドの人工的な明るさは、夕方でも宵でもない曖昧な時間に溶け込んでしまい、道も行き先も照らさない。
「時間が止まってるみたいだな」
 ずっと無口だったアキレウスがぽつりと呟く。ヘクトールは返事をしない。なにを考えているか解らない、物静かな宿敵に皮肉や嫌味を投げ掛ける気分にはなれなかった。それに、独り言を拾われるのは気恥ずかしいものだ。そもそも、この小旅行に誘ったのは他でもないヘクトール自身だ。アキレウスの付き合いの良さに礼を言うべきで、センチメンタルな独り言をあげつらうのは大人げがなさ過ぎる。
「本当に釣りをしに来ただけだったな」
「他に何するんだい。言っただろ。マスター達がサマーキャンプで釣りに行ったって話を聞いて、オジサンも行きたくなったって。やかましくなさそうで、ちゃんと釣りの出来そうな奴を連れて来たかった、動機はそれだけ」
「いい人選だったな」
 アキレウスがふと視線だけ寄越して笑う。カルデアで複雑な面持ちを見せるアキレウスと打って変わって、気を許した表情からは相手を許容する柔らかな心持ちが伝わってくる。二人で過ごした今日一日を、アキレウスが好意的に受け止めているのは間違いないらしいと解り、ヘクトールは肩をすくめる。
 この特異点でそこそこ親しんだヘクトールはもちろん、渓流釣りは初めてだと言ったアキレウスもまずまず釣れた。二人は、釣りの手応え、天気のこと、魚の生態について短い会話をしただけで、終始、沈黙していた。相手を放置しあう空間は意外ほど居心地よく、心のどこかで僅かに身構えていたヘクトールを多少、戸惑わせた。一日かけて、この快さに馴染んだヘクトールは、助手席で少しうつらうつらし始めているアキレウスを見て、無意識に口元を緩める。そして、複雑な表情を浮かべた。
 道の勾配が変わって、別の峠を越えるための登り道に入る。大きなカーブを何度も繰り返し、繰り返しターンしていくうちに、浸食してくる宵闇が車に追いついて、景色はすっかり夜の山道になった。山裾の小さな盆地に出来た町が、木々の切れ目から見下ろせる。
 目指す峠の頂上を通り過ぎたところで、ヘクトールは車を停めた。山越えする運転手が休憩するため、あるいはアクシデントの際に車を停車させるために設けられた雑なパーキングエリアらしい、一応、駐車位置を示すマークが置かれていて、弱々しい電灯がいくつか、宵闇の中をぽつりぽつりとてらしている。
 うたた寝していたアキレウスも、停車の振動で目を覚ました。ヘクトールは、バーキングにギアを入れてシートベルトを外し、声を掛けた。
「少し休憩していいかい?」
「ああ。なんだ、まだ着かねえのか?」
「あとは下りるだけだから、すぐだよ」
 ヘクトールとアキレウスは、それぞれ窮屈な座席から外に出て、伸び上がった。腰を軽く反らしてストレッチしているヘクトールに、アキレウスが呼びかけてくる。
「自販機があるぜ。一服するだろ」
「いいね」
 何にする、と顎をしゃくるアキレウスにヘクトールはきょとんとした。
「買ってきてやるよ。なんかリクエストあるか?」
「いや、なんでもいい」
 どこか惚けた声で答えるヘクトールにアキレウスは軽く手を挙げ、自販機に駆け寄ってすぐに戻って来た。冷たいソーダの缶を投げ寄越して自分もプルトップを捻る。ごくごくと喉を鳴らして飲み干していく姿を見つめたヘクトールは、ひんやりしたアルミ缶を両手で握りしめてから、険しく複雑な表情で視線を落とした。
 ぱき、と缶を握る音が聞こえて、ヘクトールは視線を挙げる。アキレウスは空になった缶を凹ませながらヘクトールを振り向かず、黒い影の塊になった木立を眺めている。シルエットになっても深い針葉樹の香りとせせらぎから立ち上る清流の涼しさとが空気を包み込んで、二人以外に息づくもののない静寂を守っている。
 アキレウスは黙って、ただ、待っていた。ヘクトールが出発の合図をするのを。あるいは、話すべき何かを語り出すのを。
 待たれていると、ヘクトールも解っていた。切り出さず運転席に乗り込めば、話は打ち明ける前に終わるだろう。消滅するこの特異点と共に永遠に暴かれることはない。アキレウスが追及してこないのも解っていた。
 ヘクトールの中で逡巡が揺れる。それは、開けていない缶の中で揺れるソーダに似て、次第に膨れあがり、引き結んだヘクトールの口を内側からこじ開けた。
「ついこの前、ここに君を埋めた」
 ぽつりと呟く。アキレウスは振り向き、ルーフパネルにもたれかかってヘクトールを見つめた。ヘクトールは黒々とした山に穏やかな視線を投げ掛けて、振り向こうとしない。ここ、という指示語の差す場所は曖昧に聞こえた。ヘクトールが今立っている足元なのか、この山のどこかなのか、今日車で走ってきた道のどこかなのか。埋めた、と打ち明ける声に晴れ晴れした響きがある。アキレウスは先を促さず、黙って続きを待った。今日一日そうであったように、寡黙に放置しつつ、ヘクトールの告白を待ちかまえた。
「この特異点にいた君は、気のいい若者だったよ。過去にこだわらず、俺を意識せず、冷静で、淡々として、はぐれサーヴァントとしての短い活動期間を優位意義に過ごす術を探していた。戦いの起こるべくもないこの場を退屈だと諦観しながら笑っていた。物わかりのいいしたり顔もしない、余計な質問もしない、はずれを引いたんだと笑っていた」
「……」
「町の喫茶店と、あと、さっきの釣り場で少し一緒に過ごした。カルデアでの話を二、三聞いて、当たりくじを引いた自分、つまり君のことを羨ましがっていた。妬んではなかったな、あっけらかんとして笑っていた。自分自身を羨ましがるなんて可笑しな話だ、とか言ってね。二度会った、その二度とも、驚くほど穏やかで充ち足りた時間だった。君といたっていうのに、あり得ない安寧と幸福を感じたんだ。そう、あり得ない」
「だから埋めたのか?」
 穏やかに問うアキレウスに、ヘクトールはゆっくり頷いた。
「ああ。あまりに幸福で、耐えきれなかったんだ。解るかい?解るわけないか。可笑しな話だろう?ヘクトールに討たれるアキレウス、ヘクトールに埋葬されるアキレウス、なんて」
「そうだな」
「有り得べからざる話だ。それで、解ったのさ。ここは淘汰され剪定される場所なんだと。マスターに頼むまでもなく、自壊する特異点なんだと」
 ヘクトールはふと息をついて、隣を振り向く。ルーフパネルにもたれたまま口を噤んで静聴するアキレウスの殊勝な態度を見て、皮肉に笑う。
「そうして黙っていると、ここに埋めた君にそっくりだな。君と取り替えられたら、どんなにいいだろうね」
 薄暗い挑発を寄越すヘクトールの表情をアキレウスは黙って見つめていたが、目を閉じてふと息をついた。呆れた溜息にも、観念した溜息にも聞こえる息づかいの後に、もたれかかった体を起こしてつま先で足元を軽く突いて、呟く。
「それじゃあ、ソイツを掘り返して連れ帰るか?」
 お前がそれを望むなら、と続きそうな口調だった。ヘクトールの目の端がぴくりと震える。そのつもりだと言ったらどうするのだろう、といたずらな気持ちが過ぎる。口には出さずにアキレウスの整った眉間を見つめていると、古びて傷んだ電灯の光と地面に反射するヘッドライトの明かりに照らされた均整の完璧な両眼がゆっくり開いた。
「何なら、手伝ってやってもいい」
 本気の声だと、ヘクトールにもすぐ解った。アキレウスは、本気で有り得ない己と取り替えるつもりかと、問うている。
(そんなわけはない、サーヴァントの願望なんてのは、可能性の墓場でしかない。行き止まりに留まって、何になる?死者が死にながら更に死ぬだけだ。そうだ、そうとも。解っているさ)
 都合の良い可能性に飛びつこうとしたヘクトールの愚かさは、アキレウスの閃く眼差しによって暴かれ、完膚なきまでに叩き壊された。その仮借なさは、あまりにもアキレウスらしかった。共感や憐憫とかけ離れた、完璧な理解を示して見せる宿敵に、ヘクトールは自嘲を浮かべてしまう。
 天を仰いで長々と溜息をつく。苦い安堵と共に、在るべき形に収まる実感を噛みしめると、笑ってアキレウスを振り向いた。
「いや、世界の終わりまで、ここに埋めておこう。幸せってのはそういうもんだろう」

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