中と呼ばれる街と表の街には明確な境界線のない区画がある。上澄みにじんわりと滲む淀みのように表社会の裏通りがそのまま「中」の入り口となっている場所だ。そういう場所にはだいたい「保険」で稼ぐ人種がへばりついている。「中」で行われる非合法な何かを求めているが、「中」を彷徨くリスクは避けたい者、「中」へのコネクションが薄い者、世間知らず、訳あり──どんな人間も必ず、中に入り無事に出るための保険をかける。案内人であり、ブローカーであり、そこに暮らす者でもある彼らと会話する際の言語はたった一つ、現金だった。保険屋たちに金さえ払っておけば、支払った代金より多く損害を被ることはない。暗黙の了解を知らない者でも、保険屋の巧妙な触れ込みを聞くともっともな必要経費だと納得し、財布を開いてしまうのだ。
そんな彼らだが、積極的に関わらないようにしている人種がいた。「中」の常識すら通じない犯罪者や異常者、明らかに金にならない相手、そして、大日本銀行の会長・片原滅堂の私兵たちである。
二メートルはあるだろう大男が一人、「保険屋」たちがたむろする通りを歩いていた。たむろするといっても、ぞろぞろと壁際に並んで突っ立っているのではない。この通りには、看板のない事務所や空きオフィスを抱えた雑居ビルが狭苦しく軒を連ねている。実体のない会社の住所にされている部屋を、保険屋たちが勝手に受付にしていたり、違法な取引をする窓口にしていたり、静まりかえっているが、どこもかしこも胡乱だ。くすんだ窓から、狭い階段口の中から、堅気ではない連中が、表の街に向かって通り過ぎる大男を観察している。シャッターを閉めた店の前にいた、半グレらしき若者たちが「護衛者だ」「日銀の黒服だ」と忌々しげに囁きあっている。
耳障りな嫌悪感を肌身に感じながら、鷹山はすれ違う人間の誰も、顧みなかった。彼らが鬱陶しいと嫌うこの黒服を、鷹山は誇りに思っている。むしろ、あえてこの服装で訪れると決めていた。日銀という後ろ盾を示すためではなく、己が滅堂の私兵であると胸を張って知らしめるためだ。もちろん、通行手形としての意味もあった。黒服を着た大男が滅堂の三羽烏であると、「中」でも広く知れ渡っている。
三羽烏のなかでも鷹山が一番、「中」に関する任務を受ける。王森は表の人間であるし、加納は──加納は、中に関わることを滅堂があまり良しとしないのだった。加納の生い立ちが常人離れして悲惨であるらしいと鷹山もうっすら聞いているが、詳細はいまだに伏せられている。
今日の用事は、人捜しを依頼した男から調査結果を受け取る、それだけだった。誰を何のために探しているのか、鷹山は知らされていない。滅堂の命令は二つ、指定のファイルを受け取り損なうことなく戻ること、加納を「中」には踏み込ませないこと。それだけだった。
ファイルの入手して「中」から難なく戻ってきた鷹山は、一応、境界線として機能している、幅のない一車線の通りまで戻って来た。
道路を挟んで反対側に、加納が佇んで待っている。覆面の下で苦々しく口を歪めた鷹山は、無言で加納に歩み寄っていった。
加納は、鷹山が「中」に向かうと聞きつけて独断でついてきたのだ。追い払うのも馬鹿馬鹿しくて放っておいたが、さすがに滅堂の言いつけは守るようで、境界線を飛び越えて着いてくる真似はしなかった。
どこから聞きつけたものか、当代・滅堂の牙を見てやろうと物見遊山で集まってきた連中が、通りの反対側にぽつり、ぽつりと現れる。鷹山は来た道を振り返ってじろりと一瞥すると、加納に顎をしゃくった。
「引き上げるぞ」
車を停めた場所へと引き返す。ふと背中の空気に圧がないと気付いて振り向くと、加納が何歩か後ろで立ち止まって、肩越しに道路の対岸を、混沌とした「中」の入り口を、見つめていた。突然、微動だにしなくなった加納の様子に、鷹山は怪訝な表情を浮かべる。
「おい、引き上げるって言ってるだろ」
乱暴に声を上げて呼ばわるが、加納はぴくりともしなかった。立ち竦む姿に、鷹山はどろりとした嫌な胸騒ぎを覚えた。加納の視線の先には、「中」を歩き回っている間に時折感じる、人の悪意と欲望がない交ぜになった空気が漂っている。膠のべとつく感触を思わせる陰湿な感情や欲望が、加納の意識を捉えているに違いなかった。
鷹山は歩み寄って、加納の肩を掴んだ。
「何を見てんだ、お前」
振り向いた加納の表情に、鷹山はぎくりとする。嫌悪を覚えてたのでも、好奇心を駆り立てられたのでもない。加納の顔に浮かんでいるのは、身に覚えのない郷愁に似た何かだった。
「私はアレを知っている。鷹山、お前にも見えるのか?」
無感情で無感動な黒い目を覗き込んだ瞬間、鷹山は悟った。
加納が見ているのは、「中」の景色ではない。もっと暗く澱んだ悪感情の原風景を、見ているのだ。
滅堂が、加納を「中」に関わらせるなと厳命した理由が理解出来た。気がした。たとえ殴ってでも加納を屋敷に置いてくるべきだったのだ。
「俺には、テメェが阿呆ヅラを晒して、向かいのビルを眺めてるようにしか見えねえな」
そう言い捨てるなり、鷹山は加納の手を掴んでぐいと引っ張り、正面に向き直らせた。戻るべき道に強引に引き戻し、ぐいぐいと腕を引いてその場から大股に去って行く。加納はもう一度、懐かしい景色を惜しむように振り返ろうとした。
鷹山が、掴んだ手を握りしめて引っ張る。
「くずくずするんじゃねえ。お前は御前のところに帰るんだよ」
忌々しげに吐き捨てた鷹山を、加納がまじまじと見返した。何か答えようと口を開きかけたが言葉を紡ぎ出せず、掴まれた手を握り返して、短く頷く。
それきり、後ろを──暗い混沌とした景色に心を奪われることはなかった。
