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炉心融解

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 ヘクトールが一騎打ちに応じてその日のうちに討たれ、親友の戦死を歎くアキレウスの憤怒は、瞬く間に陳腐化した。
 敵とはいえ一国の第二王子、寡兵ながら十年も美しきトロイアを守り通した名将、太陽神の寵愛眩い英雄を、昼はなめし革で戦車に繋いで引き回し、夜は寝台の下に敷いて過ごす、アキレウスの猛り狂う怒りに、幕僚たちのみならず同胞のミュルミドネスまで、徐々にアキレウスから距離を置くようになった。イタケーの賢者・オデュッセウスの忠告も、老将ネストルの諌言も、アキレウスの心には届かず、萎えることない怒りの色は鮮やかな緋色から赤鯖色をした執着になり、磨き抜いた鎧より輝かしい雄姿に苦くざらついた染みをいくつも浮かばせた。
 幾日幾晩経ても、神の加護で傷一つなく甘やかな薔薇の香りに包まれたヘクトールの遺体は、志半ばながら力を尽くした者が持つ悔いの無さで穏やかな美しさを増すばかりだった。一方、寝台で遺体を抱えるアキレウスは、陽射しの色と輝きを湛えた目は濁った樹液のごとく沈殿し、その両眼の縁は緑に黒ずんだ隈で窪み、毎日毎夜心を乱す怒りと悲しみに若麦色の髪は蓬々に乱れて、しかし遺体をかき抱く腕の力強さだけは衰えを知らなかった。アキレウスの魂は壊れた、誰もがそう囁きあい、肩をすくめた。アカイア軍一の勇士が、狂気(アーテー)に魂を食い荒らされていくのは、半神ゆえの運命である、と語る者さえ現れた。
 確かに、アキレウスの激情は神が人の身に投げ込む恐ろしい衝動の数々よりもっと、激しい熱量を持っていたのだ。
 急激に燃え上がり人々が忌避するほどの熱を孕みつづけるアキレウスの怒りは、彼自身を消耗させ、同時に、ヘクトールの遺体を艶やかに保ち続けた。ヘクトールの貌は死人に有り得べからざる温もりを想起させるほど明るく、髪にも睫毛にも生気が宿っているかに見えた。神の加護だと畏れる者がほとんどだったが、その亡骸をひと目見たオデュッセウスは、アキレウスの怒りの熱がヘクトールの遺体に仮初めの息吹を吹き込んでいるのだ、と解き明かした。
 ヘクトール殿はお前の憤怒を吸い取って在りし日の姿を保っている、いずれ均衡が取れて、お前は生者に戻り、ヘクトール殿は死者に戻るだろう。
 果たして、賢者オデュッセウスの予言は現実となった。ある夜半、アカイア勢を忍んで訪れたトロイアのプリアモス王が涙ながらに息子の亡骸を返してくれるよう訴え、アキレウスは訴えを聞き入れた。あれほどアキレウスを苦しめた怒りは解け、涸れるほど涙を溢す老王に、傷一つなく生前そのままのヘクトールの亡骸を引き渡した。
 ヘクトールの遺体は、アキレウスの怒りに守られ髪一筋も傷まぬまま、アカイアの陣から運び出された。
 アキレウスの凋落はこの瞬間から始まった。後の戦いに勝利を重ねるも、亡骸のヘクトールが奪い取った熱は、魂の一部は、間違いなくアキレウスから欠落したまま、何を持ってしても埋めることは叶わなかった。さながら、ヘクトールという炉を失って急速に冷えて稼働しなくなる、灼熱の機神の如くだった。
 だからかもしれない。死に瀕した際、アキレウスは宿敵ヘクトールこそ己の命運の似姿だったと確信した。あまりに強い確信は、アキレウスだけでなくヘクトールの定義さえ一つの形に定めてしまう程だった。
 こうして、イリアスの両雄は英霊の座に縛り付けられ、抑止の担い手に堕とされた。

「ぶっちゃけると、あと十年は戦争を引き延ばしたいって意見があったんだけど。君が戦線離脱したらアイツがあんな壊れ方しちゃったもんだから、十年ちょっとでお終いになったわけ」
「そうだったんですかァ」
「うわ、興味なさそう。というか興味ないね?故国滅亡の裏話なのに、興味ないとかウケるね」
「ウケていただいて恐縮です、アポロン様」
 弟に預けられた羊モドキの何か──神の端末とでも言えばいいのか、ソレのくぐもった声を聞きながら、ヘクトールは気のない返事をする。サーヴァントになってみて、死後の様々な事柄を粘土板に書き付けられた他人の手紙を読むように知って、結局、何の感慨も得られなかったのだ。今のヘクトールにとっては、何もかもが「終わった」ことだった。
「君には申し訳ないことをしたよ」
「いいえ、最後の最後まで尽力くださった事に感謝していますよ」
「心にもない答えだなあ。ていうか、もう少し繕ってもいいんじゃない?」
「は、今更でしょ」
 嫌味にニヤニヤ笑いを浮かべるヘクトールに、膝に乗った羊毛の塊は膨れたり縮んだりしてみせた。怒っているのか笑っているのか、ヘクトールにはさっぱりだ。弟のパリスならもう少し、悪辣な神の喜怒哀楽を感知できたかもしれない。
「でも君が死んでからの彼は可笑しかったねえ。自分から進んでスクラップになっていったんだ、傑作だったよ」
 羊毛がふくふくと膨らむ。これは笑っているんだろう、とヘクトールにも察しが付いた。神も、彼も、自分の死後がいかに壮絶だったか(あるいは見世物的愉快さだったか)を語るのだが、当のヘクトールには身に覚えのない、実感の伴わない記録でしかない。はいそうですか、以外の感慨は浮かんでこないのだった。
「自分の死が、半神をスクラップにした気分はどうだい?」
 邪気のない羊毛の塊を象る神が語りかける。いかにも神らしい、無垢で邪悪な心が面白がっていると伝わってきて、ヘクトールは口の端を苦く吊り上げた。彼らのこういうてらいなさは、アキレウスの裏表のなさに通じるところがある。
「そうですねえ。まんざらでもない、かもしれません」
 膝の上で羊毛が大きく膨れて、フスー…と音を立てて萎む。面白がって興奮したのか、怒りで膨れあがって熱くなったのか、羊毛はうっすらと蓄熱して、ヘクトールの膝上を温めた。ヘクトールに、神の喜怒哀楽はわからない。アキレウスの喜怒哀楽もわからない。
 解るのはただ、それが熱い、ということだけだ。

 

 

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