ボーダーに一番近い駅から乗り継いで数駅先の駅前は、三門市中心部より栄えていて、駅ビルのテナントも充実している。高校生以降になると、ボーダー近くを走る私鉄の駅よりそちらの駅に集まる機会が増えてくる。社会人になるまでの間、若い三門市民たちがお世話になる駅である。
王子一彰は神田に教えて貰った参考書を探しに、その駅で一番大きな本屋に来ていた。日曜の昼間だが、テナントビルの二階分を占める本屋には制服姿の高校生や大学生が結構な人数、彷徨いている。二階の参考書コーナーに来ると学生率は一気に増した。この中に、ボーダーのC級隊員がどれくらい混ざっているのだろう。ふと想像した王子は、あたりを見回した。休日の私服姿では、一部の隊員を除いて、一見してボーダー隊員かどうか解らない。
しんと静かな書架の間を絨毯地の床を踏みしめながら進んでいく。途中、すれ違った年下と思しき男子に会釈され、あぁやっぱり、と思う。
(C級隊員かな。真面目そうだった)
王子は旧弓場隊、そして現王子隊でランキング戦に参加している。B級ランキング戦はボーダー内で実況されアーカイブ化されるので、C級隊員が一方的に王子の顔を知っているケースはあり得る。王子は、自分が何となくC級隊員にウケがいい事を自覚していた。今までの人生経験で女子にモテる自覚もある。が、何故かまではよく解っていない。王子は自分の容姿や佇まいが別段、特徴的だとは思っていない。
目的の参考書がありそうな棚まで来て、さっそくメモを頼りに、背表紙を指で辿って探しにかかる。神田からもらったメモにある本のタイトルは、取り消し線が引かれ、書き直され、更に末尾にクエスチョンマークがついている。ぼや~っとしか思い出せんわ、と開き直って告げた神田の声を思い出し、王子は軽く首を傾げた。もしかすると、メモ書きのタイトルとは似ても似つかないかもしれない。
書架データベースで候補を検索しようと思い立って、棚を離れる。通路に出る途中、棚の前に屈んでいる少女の背中に躓きそうになって、慌てて本棚に手をついた。がた、と本棚の中身が揺れ、比較的薄い参考書が一冊、少女の頭に落ちそうになる。
「おっと」
王子は落ちかけた本を素早く拾った。頭上を掠めた他人の手に、真剣に探し物をしていた少女がはっと息を呑み、顔を上げた。
「あっ!王子先輩!」
「やあ。オビ=ニャンだったのか」
姿勢を立て直し、受け止めた本を元に位置に戻す。しゃがんでいた帯島が、ぱっと立ち上がって背筋を伸ばした。帯島の動きは、飛び跳ねる小動物めいて、緊張と溌剌さでどこかぎくしゃくしている。
「お疲れ様です!」
「うん、おつかれさま。オビ=ニャンも参考書探してるのかい?」
「は、はいっ。担任からオススメされた参考書を見に来ました!」
後ろ手に組んで胸を張り、はきはきと答える帯島の姿に、王子はふふっと笑いを洩らしてしまう。彼女が隊長の弓場からどんな薫陶を受けているのか、弓場をどんなに尊敬しているのか、表情からも態度からも伝わってくる。自分はこんな風になれなかったな、と王子は不思議と眩しい気持ちで帯島の小さな顔を見つめた。帯島は十四歳、中学生だ。弓場とは少し歳が離れている。だから、弓場の指導にすくすくと影響されるのかもしれない。
あるいは、自分が弓場の影響を受けられなかっただけかもしれない。
「参考書は見つかった?」
「それが、その。売れてしまったみたいで」
あくまでもはきはきと受け答えする帯島だが、目的の本が無くて少し途方に暮れている様子だった。教師が紹介した本なので本屋にあると疑わずに来たのだろう。王子も、身に覚えがある経験だった。
「それで、代わりの参考書を買おうと思って、悩んでいました」
帯島が後ろの書架をちらりと見やる。中学化学の書架はそれほど幅はなかったが、中から一冊選ぶのにはだいぶ迷うくらいの冊数が並んでいる。王子はさらっと背表紙の並びに目を走らせてから、帯島を振り向いた。
「買うつもりだった本のメモ、持ってるかい?」
「はいっ」
帯島がいそいそとボーダー隊員用の端末を差し出す。メモアプリに表示されたタイトルを見た王子は、屈み込んで書架の下段からチェックしていった。帯島のメモはタイトルと出版社がきっちり書かれている。神田からもらったあやふやなメモとは大違いだ。
「あった。その参考書を勧められたなら、これもいいと思うよ」
目的の一冊を見つけて抜き出し、王子が立ち上がる。帯島の顔がぱっと紅潮した。感謝で顔色を明るくした帯島の素直さに、王子の表情もにこやかに和む。渡された参考書をぱらぱらとめくっていた帯島は、うんうんと頷いて、王子に向き直った。
「大丈夫そうです!ありがとうございます!」
ぱっと頭を下げる、帯島の小さな背中に担いだバッグがぼさっと頭にかぶさってきた。心身共に隅々まで健康的な印象の帯島から、ぐんぐんと伸びる力を感じて、王子は胸の裡で思わず呟いてしまう。
(この子は強くなるだろうな。弓場さんの目に狂いはなかったわけだ)
探し物を見つけたのに帯島はその場を動かずにいた。さっきまでのきっぱりした姿勢から、話を切り出せずにもじもじと躊躇う姿勢になり、微かに俯く。王子は納得した。帯島の本来の姿はこっちなのだ。弓場隊に入ったことで、急激に、プラス方向に、引っ張られて変わりつつある。少女特有のしなやかな腕とすっくとした細い足から、変わろう、変わろうという意志が汲み取れる。
「どうかしたかい?」
「いえっ、その、王子先輩は昔、弓場先輩の隊にいたんですよね」
「ん?うん」
「……」
帯島が口ごもる。察した王子は「話、聞きたいかい?」と持ちかけてみた。
「オビ=ニャンとは一度話してみたかったんだ」
王子は爽やかな風貌と佇まいで、聞きようによっては軟派な台詞をさらりと口にした。いやらしさの一切ない(実際、そういう下心は皆無だ)王子の口調に、帯島の顔が好奇心のあまり輝いた。聞きたい気持ちを隠せないながらも、遠慮して返事を言い淀む帯島は、すう、と軽く深呼吸する。気合いの入った返答を、と胸を貼り直したところで「あっ」と小さく声をあげた。
帯島の視線に、王子は後ろを振り返る。
「帯島ァ、見つかったか。……あン?」
こざっぱりした飾りけない私服に、小さめのショルダーバッグをたすき掛けした弓場が、棚の間から姿を見せる。帯島と王子の取り合わせに軽く眉間に皺を寄せ、怪訝そうに凄んだ。
「ッス!ありませんでしたが、王子先輩に代わりの本を教えていただきました!」
「どうも、弓場さん」
帯島がすばやく状況を説明し、手にした本の表紙を見せる。弓場はフンと乱暴な相づちを打って、王子を見やった。
「帯島が世話になったな」
「いいえ、大した事してないですよ。弓場さんはオビ=ニャンのエスコートですか?」
王子が独特のセンスでつけた帯島のあだ名を初めて直接聞いたからか、弓場は眼鏡の奥でちょっと目を丸くした。ちらりと帯島を見る。当の帯島は、王子のあだ名に特になんの引っかかりもなさそうで、先輩格二人が並び立つ状況に緊張しているが、明るい表情だった。
「まァな。中坊が一人で来るには、ちと遠出だろ」
腕組みして帯島に顎をしゃくった弓場の態度は、すっかり保護者のそれだった。
「優しいなぁ」
「俺も野暮用があったしな。隊長として当然の義理だ」
弓場が帯島に顎をしゃくった。会計に行ってこい、と促しているらしい。同時にやんわりとした人払いの指示でもあった。案外、帯島が旧弓場隊時代のことを尋ねようとしたのを聞きとがめたのかも知れなかった。王子には判然としなかったが、弓場のやや険しい表情からそんな心理を読み取る。
「オビ=ニャンはどうです?」
「まあまあだな。まだ鍛えてるとこだ」
「弓場さんの事、すごく尊敬してましたね。声がはきはきしてて、素直で、元気いっぱいで。弓場さんの指導の賜物ですね」
王子の帯島への言葉は、言葉通り、それ以上の意味はなかった。弓場は腕組みしたまま王子を見据える。王子の裏表なく、嫌味もない性格を弓場はよく知っている。かつて率いていた隊員だ、人柄やクセをある程度は把握している。が、それは弓場が王子を隊員として率いていた期間のことで、王子隊を結成した後にどんな変化があったのかは、詳しく知らない。
「オビ=ニャンがもっと強くなったら、うちの隊と模擬戦しません?」
そう告げて、王子は微笑んだ。弓場の厳つい表情が更に鋭くなる。
「帯島は十分に強ェ。何なら、すぐに戦ったっていいぞ」
「それは、……嬉しいな」
弓場の、眼鏡越しの姿勢が胸ぐらを掴み上げたようだった。トリオン体ではない、生身だから感じるありありとした気炎を皮膚で感じて、王子は穏やかに寛いだ鼓動が少し高鳴ったのを自覚した。戦いに逸る弓場と違い、王子は戦場でも日常でもフラットなメンタリティをしている。楽しさ、喜び、悔しさ、苦しさ、それらを必要な時に必要なだけ感じる。一つの感情に偏重しすぎることはない。淡泊とはまた違う。あまりにもバランスの良い心を持っているのだ。
だから、王子は弓場隊を抜けた。偏重のないメンタリティのまま弓場のもとで過ごすより、もっとポジティブに作用しあえる関係性があると、直感した。
弓場の戦いに傾ける情熱で、凪いだ心を風車のように回せたら。そう思った。思いついてしまったのだ。
「いいですね。じゃあ後日、ボーダーのラウンジで予定立てましょう」
弓場の視線からふいごのように吹き付ける戦意が、王子の心をくるくると回す。快さに、思わず握手を差し出してしまう。
王子の差し出した手を一瞥してから、弓場が短く舌打ちする。
「下手な挑発してんじゃねェぞ、王子ィ」
凄む弓場の言葉が承諾か拒絶か判じかねて、王子は手を差し出したまま困ったように苦笑してみせる。弓場が口を開きかけると、向こうから絨毯を蹴る軽やかな足音がして、会計を済ませた帯島が戻って来た。棚の間で向き合っている二人の元に駆け寄り、ぱっと姿勢を正す。
「弓場先輩、終わりました!」
「おう。じゃあ、帰んぞ」
「はいっ」
弓場は言いかけた答えを返さずに、王子を押しのけてエスカレーターの方へと歩き出した。王子にぺこりと一礼した帯島が後を追いかける。王子はにこやかに手を振りつつ、自分に浴びせられた戦意が遠のくのを、火が遠ざかり冷えていくかのように感じた。
「失敗だったかな」
挑戦が有耶無耶になってしまったことに内心で肩をすくめ、本探しを再開しようとする。
弓場たちの立ち去った方に背を向けた瞬間、ごっと熱い風が背中に吹き付けた。気がした。
「王子ィ!ラウンジに十六時だ!」
そこまで大声ではなかったはずだ、ここはあくまで店内なのだ。それでも、王子は心身がびりびり震えるのを感じた。振り向いた王子の目を、エスカレーターに踏みだそうとした弓場の視線か、がっちり鷲づかみにしてくる。姿が見えなくなり、自ずから鋭い視線に掴み上げられる感覚も消え失せた。
王子はメモ書きを持った指先を見つめる。見交わして二、三、会話しただけなのに、取っ組み合ったかのように手が痺れている。
「やっぱり、敵わないなあ」
独りごちた王子の声は、ひどく上機嫌で、明るく浮ついていた。
