呪いとは、人の負感情のうねりが吐き出した魂の澱だ。いつだか、窓の誰かがそう呟いたのを聞いた。
高専を出て一応、一人前の呪術師になったばかりの頃だ。現地調査から対策から完了報告まで、全部一人でやる、まさに独立して最初に担当するに相応しい案件だった。案件となった廃ビルは、潰して駐車場にしようと計画したが解体作業で不可解な事故が頻発し、不動産屋がツテを頼って呪術師に繋ぎをとったそうだ。今はすっからかんのテナントビルだが、以前、闇金の事務所があったそうで、ならまあ、沸いて当然だな、というのが俺の感想だった。
呪霊は大して強くないが、闇金の事務所に巣くっていた頃さぞかし美味い思いをしたんだろう、ビルの一角に対する妄執が凄まじかった。呪霊を祓うというより、張り付いたシールの残骸をこそぎ落とすのに似た作業で、まあまあ苦戦した。
独立デビュー戦がそんな案件だったのもあり、金に群がる呪霊ってのは、粘着気質で、怠惰で、頑固で、一度気が付いてしまうと気になって仕方ない、カビのようなイメージが強い。確かに金ほど、人間の概念をリアルに形に嵌めたものはないかもしれない。非呪術師の間で流通してしまった、呪物なのかもしれない。
「……って思ってから、別の意味で金が怖いんスよ」
そう答える俺の向かい側で、七海サンは多分、話を聞いてないのかもしれない、黙ったままナイフとフォークで前菜の残りをまとめていた。
完璧な盛り付けのされた皿を完璧なテーブルマナーで攻略していく七海サンの食事姿は、感動すら覚える。俺はというと、七海サンと向かい合っている緊張もあって、いつも以上にナイフもフォークも扱えず、上手く掬いきれなかった前菜の残骸たちが皿の端に、所在なく寄せてあった。これ、完食してないと見なされて皿を下げてもらえなかったらどうしよう。
七海サンが、生魚の前菜を味わってからフォークを置いた。ずっと手元に向けられていた視線が突然、まっすぐ俺を見た。
「猪野君の言う金は、単純に通貨のことですか?資産全体を指していますか?」
「えっ。どうなんすかね……現金のことかな」
「でしたら、君の不安はただの杞憂です。貨幣が持つ価値以上の価値を見出し、振り回され、自身の輪郭を見失う、人の弱さ醜さから生じたものを、君は忌み嫌っている。通貨は信用情報、所詮はただのデータに過ぎません」
「そうなんすかね」
「ええ。金のせいで生きたまま呪霊になる連中は、掃いて捨てるほどいた」
呟く七海サンの声から、徒労感とか自嘲とかを聞き取って、俺は納得する。今、七海サンは過去の話をしている。呪術から離れてクソ労働に励んでた頃の話だ。詳しく聞いたわけじゃないが、話の断片や五条さんや伊地知さんから聞いた話を繋ぎ合わせると、ファンドマネージャーの類いだったようだ。俺には想像もつかない世界だが、件の事件で見た呪霊の印象、七海サンの疲れた声色からして、おどろおどろしいなにかが跋扈する業界なんだろう。
いつの間にか来た給仕が、何も言わず七海サンの皿と俺の皿を下げていく。七海サンの視線が、俺の横にある空のグラスに向けられた。
「ワインは嫌いですか」
「あー…今日は悪酔いしそうなんで、ちょっと」
「そうですか。確かに、ワインは悪酔いする。明日の仕事に差し支えては困りますから」
正しい判断だ、と褒められた気がしてちょっと表情が緩む。そうこうしているうち、また足音もなく給仕が次の料理を運んでくる。スープ皿を見て思わずほっとしてしまった。食べ方に悩む料理はもう来て欲しくない。
七海サンと俺が、高級フレンチレストランで会食しているのには訳がある。案件の依頼主が俺たちを「吟味」するのに、この店に呼びつけたのだ。呪術師がどんな奇特な連中か、このレストランのどっかから観察しているってわけだ。七海サンが誘ってくれたか、俺が誘ったかした場だったら、どんなに良かっただろう。
呪術師を珍獣扱いする依頼主は結構いる。非呪術師には呪術について秘匿する義務がある。が、それはごく一般敵な市民に限る話で、呪い上等怨み上等、呪霊の坩堝みたいな場所で暮らしている、業界や国のお歴々となると、呪術に関する知識も持ち合わせていたりする。ちょっと齧っているので、対処する呪術師を品定めしたい、なんて話が沸いてくる。
今回は、七海サンに斡旋された案件だったが、七海サンが補佐役に俺を指名してくれて、ツーマンセルで臨むことになった。前日に連絡を受けた俺は、尊敬する七海サンと仕事で組めると解ってガッツポーズし、ドレスコードのある高級フレンチで会食があると言われて、死ぬほど焦った。そんなフォーマルな服装なんて、持ってるわけがない。でも絶対、七海サンに恥をかかせるわけにはいかない。で、スーツからネクタイから靴まで一式、新調した。手痛い出費だ。
着慣れないスーツを着た俺は、どっからどう見ても張り切りすぎたコーデに失敗した若造だった。でも、持って生まれなかった高級感を即席で醸し出せるわけもない。集合場所のホテル前で合流した七海サンは無言で、曲がってたネクタイを直してくれたのだった。つくづく、格好が付かないったらない。
「その……七海サンはこういうの、平気なんです?」
緊張で腹が減ってるのか減ってないのかも解らなくなった俺は、あっという間にスープを平らげていた。七海サンは最後のひと匙を口に運んでから、ええまあ、と答えた。七海サンほどの呪術師なら、指名される事もあるだろうし、政財界の大物なんかも顔を知ってるのかもしれない。単純にすごい人だと尊敬に打ち震えるのと、それってすげぇ面倒なんじゃないかと案じる気持ちとが、交互にこみ上げてきた。
給仕が素早くスープ皿を下げていく。どこで誰が、俺たちの食事を観察しているのか。呪術師が、ナイフとフォークを使って自分たちと同じように物を食べる様子を、面白おかしく眺めているんだろうか。依頼主とやらの下世話な好奇心は、剥き出しのゴミから漂う汚臭めいていた。料理が口に合う合わない以前に、胸糞が悪くて味覚が歪む。そんな場として利用されたレストランも気の毒だ。
給仕が魚料理の皿を運んできた。ムニエルされた白身魚はアートもかくやの美しい盛り付けなのに、少しも食欲を刺激されなかった。皿が気取ってるからじゃない。スーツが窮屈だからじゃない。こんな席に七海サンを座らせた、依頼主たちに怒りを覚えているせいだ。料理をなるべく丁寧に扱おうと心がけたい気持ちより、さっさと済ませて七海サンを連れ出したい気持ちが勝り、ナイフやフォークの扱いが雑になってしまう。
七海サンも無言で(ただし、食器を鳴らす真似はせず)、魚料理を着実に制覇していく。七海サンの目に、料理は、テーブルは、対面の俺はどう見えてるんだろうか。いや、何も見ていないのかもしれない。ただ無心に、下級呪霊を祓い飛ばしていく淡々としたあの手つきで、片付けているだけかもしれない。──俺が感じる不快感なんて、大した事ないのかもしれない。
気が付くと、魚料理の皿が回収されて氷菓が運ばれていた。ちんまりと盛られたソルベを、ほとんど一口でたいらげてしまう。ムカついた胸に、ソルベの冷たさは快かったが、それも喉を通った後はなにも感じなくなってしまった。
手元を睨んでいた俺は、ゆらゆら視線を彷徨わせた。七海サンがソルベに手を付けていないのに気付いて、正面を見やる。
七海サンは横を向いて、レストランからの夜景を眺めている。高層階から見下ろす東京の夜景は、呪霊たちの吹き溜まりが墨を吹き付けたようにネオンサインや車のライトを濁らせて、ぼたぼたと染みになっている。非呪術師の生活を脅かすまではいかないが、確実に街に根付いた呪いの澱。俺でも見て解るんだから、七海サンにはもっと鮮明に、明暗も、蠢く呪物の気配も、見えているかもしれなかった。
給仕が、俺の前にある空のガラスボウルと、七海サンの手つかずのソルベとを、同じように引き上げていった。間があってから、肉料理が運ばれてくる。普通なら一番愉しみにしていただろう、肉料理の皿は、温かく、飾り付けられ、ソースの匂いが漂ってくる。美しい屍肉のアートとして、完璧だった。
「正直、私は仕事以外の事柄で、時間を拘束されたくありません」
ぽつりと、七海サンが呟く。運ばれてきた皿に無頓着な横顔のまま、独り言を続けた。
「でも君が同席してくれるなら、もしかすると食事として愉しめるかもしれない、そんな望みを抱いていました」
「七海サン」
俺はもう、ナイフもフォークも手に取らなかった。七海サンもだ。
素顔の七海サンがゆっくりと正面に向き直る。徒労感と自嘲の入り交じった、陰鬱な目元に、苦々しく歪んだ口元で、俺を見つめてくる。不愉快、不機嫌、いや、そういうのじゃない。多分これは、罪悪感だ。
「全部、私の見当違いだった。君にまで、この、うんざりする気分を咀嚼させる羽目になってしまいました」
七海サンが小さく嗤う。その嗤いも、すぐに引っ込んだ。厳めしくて毅然とした、年長者然とした態度と表情。
(ああ、そうか)
俺は、俺ばっかりが、七海サンを見ているんだと思っていた、俺一人でぐちゃぐちゃ考えあぐねながら、この会食に全然気乗りじゃないかもしれない七海サンを、ずっと見ていた。
俺と七海サンは、向かい合って座っていた。俺が見ていたように七海サンだって、うんざり気味の俺を、見ていたんだ。
頭が理解するのと、席を蹴っ飛ばすのとは同時だった。
「猪野君?」
周囲の視線が痛い、でも無視して七海サンの隣に回り込む。他人の心ない好奇の視線でがんじがらめの席から、七海サンを引っ張り上げた。ぐっと腕を引いた瞬間、逆に強く縋られる手応えがあって、七海サンは心得たように席を立った。とんでもないマナー違反だ、だがそもそも、俺たち呪術師は世間の常識の外にいる。
掴んだ七海サンの手をしっかりと握る。他のテーブルで歓談中のお客さん、給仕の皆さん、多分どこかに陣取ってるだろう依頼主、を全部無視して、出口へと真っ直ぐ突っ切っていく。
会計を通り抜ける前、落ち着いた七海サンが「会計は済んでいますので」と告げるのを聞いた。すごく冷静な声色で、カッとなった俺の態度が急に恥ずかしくなる。が、もう七海サンをあの席に座らせておきたくなかったし、悪意で汚れた料理を食わせたくなかった。
普通なら店のスタッフが追いかけてきそうなものだが、さすがというかなんというか、コースの途中で席を蹴った俺と連れ出された七海サンに対して、礼儀正しく無関心だった。怒りの衝動で行動したわりに、頭の冷静な部分でサービスの質なんてことを考えてしまう。
エレベーターホールまで来ても、俺は七海サンの手をしっかりと掴んだまま、放さずにいた。
ボタンを何度か連打し、じっと俯く。静まりかえった空気で、俺の怒りで興奮した呼吸だけが響いていて、じわじわと動揺が広がっていく。七海サンの手を放すタイミングを見失ってしまい、引っ込みがつかなくなった俺は、ますます強く七海サンの手を握りしめてしまった。一階から上がってくるインジケーターの明滅が、ひどく遅く感じられる。
「腹が減りましたね」
七海サンが呟いた。振り向くと、七海サンは階数表示のランプを見上げていた。
「どこか、美味しい店に連れて行ってくれますか」
独特の青い目が、俺を振り向いた。無愛想にも思える淡々とした表情のまま、両目の青が温んで、揺らぐ。長い指が、繋いでいる俺の手を緩く握り返してくる。
腹の中、胸の奥、体中でどろどろと渦巻いていた憤りが一瞬で祓われて──足元が浮つくくらいの多幸感に襲われる。
「……任してください、すっげー旨い店に連れていくんで!」
ふつふつとこみ上げてきた喜びに突き動かされて、クソデカイ声で返事をしてしまい、俺は慌てて口を噤んだ。もしかして店のスタッフに聞こえたかもしれない。高級レストランを飛び出した挙げ句、余所行って旨いもの食うって、ひどい客すぎる。レストランには、何の非もないのに。ばつの悪さに口を引き結んだ。
そんな俺を笑う、七海サンの微かな息づかいが聞こえた気がした。思わず振り向くと、七海サンは間違いなく俺を見て、微笑んでいた。あの、いつだって厳めしい顔で向き合う七海サンが。
「やはり君と来たのは、正解だった」
エレベーターのドアが開く。立ち尽くしている俺を、今度は七海サンがやんわりと引っ張った。エレベーターに乗り込んで、二人きり、まだ手は繋いだまま、高層階から地上へと、浮かれたまま真っ逆さまに落ちていく。地上に着いた時、もしかして俺は嬉しさのあまり木っ端微塵になるんじゃないだろうか。ぐんぐんと下がっていく階数表示を見上げて、そのまま、上背ある七海サンの横顔も見てしまう。七海サンの表情はもう、普段の淡々とした表情だった。が、エレベーター内の照明のせいか、俺が浮かれているせいか、彫りの深い顔立ちはどこか柔らかく明るく見えた。
一階に到着する。七海サンの手がもう一度、緩く握り返してきてから、するりと解けた。ドアが開くと、これから高層階へディナーに向かう客たちがぞろぞろと待ち構えていた。俺のせいで気まずくなったかもしれないレストランに、何も知らずに向かう客達にちょっと笑いがこみ上げてしまう。
乗り込む客の合間を縫うように降り立った俺を、先に降りた七海サンが数歩先から振り向いた。
「猪野君」
ホールにたむろする人混みの中で、俺を呼ばわる七海サンの低い声が手招いている。俺は迷わず手を伸ばして、もう一度、無防備な白い手をしっかりと掴まえた。
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UnsplashのJulien Sarazin
