現場でしばらく待機しててほしいと言われることがある。近隣住民や関係者と話がついていなくて、立ち入り禁止が徹底できてない時だ。その場合、術師は呪霊の動向を伺いつつ、一般人の退避が完了するまで待機する。臨戦態勢でやって来たのに肩透かしを食らうので、どんな術師も待機状態を嫌う。
猪野琢真も例外ではなかった。特に今日は、呪霊が複数体確認され、対象施設の敷地も広いので、七海健人と二手に分かれて作業する段取りになっていた。七海との共闘に張り切っていたのが、待機で出鼻を挫かれてしまい、すっかり気分がわやわやになってしまっていた。さっきから集中を取り戻そうとしているが、思うように精神統一できていない。
野次馬は、まだまだ解散しそうにない。帳を下ろそうにも、人目があり過ぎる。帳と言えども呪術に違いない、大勢の前で履行するのは呪術の秘匿に抵触する。
見晴らしのいい正門付近は、隠れる建物も物陰もないので、七海と猪野は車の後部座席に納まっているしかない。
「当分かかりそうっスね」
「後の予定はありません。定時までに終われば私は別に」
そわそわして気もそぞろな猪野は、車の窓を覗いた。やいやい詰めかけた一般人を追い返そうと四苦八苦する補助監督と高専関係者の後ろ姿が見える。その光景から手前に視点をずらすと、眼鏡をした七海建人の静かな横顔が見える。通った鼻筋の独特なライン、色素の薄い髪、こうして狭い空間にいるとより解る、日本人離れした肉厚な体格。腕組みをして押し黙った七海は、目を閉じているように見える。眼鏡に隠れた目が、開いているか伏せられているか、猪野には推し量りようがない。
改めて、七海と腕の触れ合う近さで隣り合っている事実が、猪野の首裏をビリビリと痺れさせた。手のひらがベタベタと汗ばんでくる。無遠慮な視線に気づいているだろう七海が、無関心の涼しい態度でいるのが、せめてもの救いだった。
あまり熱心に横顔を見つめて変に思われたら困る、そう思いうつむかせた視線は、胸下あたりで組まれた腕と覗く指の節を見てしまう。視線を正面に戻せない。
「そんなに、見つめないでもらえますか」
「……っ!す、すんません!」
事務的で抑揚の薄い声で七海に指摘され、猪野はばっと正面に向き直った。トレードマークの帽子を目深に被って内心で猛省する。
(ジロジロ見すぎた……!)
猪野が、術師として、一人の大人として、七海建人を尊敬し憧憬の眼差しで見ていることは、七海も承知している。知っている仲間も多い。猪野自身、七海への敬愛を隠さず周囲に語っている。てらいない好感を七海がどう受け止めているか、本人の口から語られた事はまだないが、ある程度の信頼を得ている手応えはある。同行者の人選について七海がノーコメントだったのは、評価の表れだ。猪野はそのように解釈している。
だからといって、必要以上に馴れ馴れしく接するほど砕けた間柄ではない。仕事の後、たまに一杯付き合ってくれる時はあるが、年下で下位の術師を労うための、社会的儀礼にすぎない。七海は仕事以外で拘束されるのをとことん嫌うタイプだ。猪野はうっかり自惚れないよう、常に、七海はビジネスライクに接してくれているだけなのだ、と己に言い聞かせていた。
でなければ、ただの休日に「別に用事はないですが、どこかで食事を」する理由がさっぱり解らない。
(……でも、会って飯食って世間話して、それで、おしまいだったんだよなぁ……)
二週間ほど前、猪野は突然七海に呼び出され、都内のシックな喫茶店で彼の昼食に付き合った。呪術絡みの話も、仕事の話も、なにもなかった。七海は、呼び出されるままにやって来た猪野に昼食を奢り、いくつかの買い物に付き合わせ、彼の好きなパン屋で紙袋いっぱいにパンを買い(それはそっくり、お土産に、と猪野に手渡された)、夕方前に解散した。本当に何も――なんの用件も、なかった。
その件について、今日に至るまで七海からなんの説明もないままだ。今日だって、集合場所で顔を合わせてからここまで、ほとんど会話はなかった。猪野には七海の意図がまるでわからない。
猪野はそわそわと組んだ手を握りしめたり解いたりを繰り返してから、再び、七海を振り返った。
助手席越しにフロントガラスを見つめる七海は、待ちぼうけに気が緩むでもなく、身構えて固くなるでもなく、自然体だった。次の瞬間に「帳を下ろします」と呼びかけられても、躊躇なく車外に歩き出せる余裕をもって、寛いでいた。
(七海サン、この程度の呪霊なんて余裕なんだな。全然、大したことない仕事なんだ)
強さに裏打ちされた必要十分な自信と余裕から醸し出される貫禄に、猪野は胸を打たれた。改めて、崇敬の想いが熱くこみ上げてくる。
(やっぱ、すげえなぁ)
猪野は思わず惚れ惚れと見つめてしまう。そんな猪野の熱い視線に、七海が小さく咳払いし、振り向いた。眼鏡を外すと、青い両目で呆れ気味に猪野の顔をまじまじと見つめてきた。
「いや、これはその、七海サンは格好いいなって、改めて………」
思って、と言い募ろうとした猪野の腕を、七海ががっしりした白い手で掴んだ。猪野の肩が思わず強ばる。流石に叱られるだろうか、そう覚悟してぎゅっと唇を引き結ぶと、七海の体がどっともたれてきた。シャツ越しに、肉付きのいい体が密着して、猪野の視界に七海の青い目を嵌め込んだ端正な顔が、ぐっと迫ってきた。一体なにが、猪野が考えている間に、鼻筋に色薄い金髪が触れて、湿り気を帯びた呼気が猪野の引き結んだ唇に触れる。
一、二、三………、何秒か、猪野の呼吸を七海の口先が柔らかく舐め取って飲み込んだ。猪野の手が喘ぐように宙を藻掻いて、七海のシャツの袖を握りしめる。驚いて見開いた猪野の目の中には、どこか可笑しそうに目元を細めた七海の顔が写り込んでいた。
ぎっ、と後部座席のシートが軋み、もたれていた七海の上体が離れて、猪野はやっと呼吸を取り戻した。さりげなく、あまりに密度のあるキスだった。猪野は震えた口を動かして言葉にならない声を上げようとしたが、動揺で強張った喉に引っかかって、音として発せられない。
七海は外した眼鏡を片手でいじりながら、横目で猪野を見て、ふと口元を緩ませた。
「いい加減、待ちくたびれてしまいそうです」
七海の薄青い目と目が合う。猪野は開けた口を閉じて、ぐっと喉を鳴らした。
待ちくたびれてしまうのは、今の状況にかそれとも、――都合良い期待に、猪野はさらに汗ばんだ手のひらを握りしめる。狭い車内の空気が、ひときわ薄くなったようで、息苦しい。何か言わなければ、呼吸もままならない。
猪野は躊躇う己を絞め殺すと、七海の腕を掴み、溺死者の息の下から口走った。
「七海サン、俺、本当は七海サンを、」
だが、猪野の口から立ち上る言葉は最後まで続かずに、七海の薄い唇の間に吸い込まれてしまった。
[了]
ヘッダー画像: UnsplashのJoshua Fuller
