仕事を終えた南方が庁舎を後にしようと帰り支度を始めると、胸ポケットにしまった携帯が鳴った。賭郎から至急された端末の方だ。
立会人は身体にGPSを埋め込まれており、所在を常に賭郎に把握されている。携帯は、会員の要請を受けた際、所在地から立会可能な立会人を召還するのに使われる。
「もしもし」
『南方立会人。本日二十一時からの立会です。可能ですか』
本部の事務方が確定事項として確認してくる。南方は支度する手を止め、応答した。
「ああ、問題ない」
『場所は後ほど、連絡されます』
電話はすぐ切れた。南方は時計を見る。十八時半。
黒服は執務室のクローゼットにも忍ばせてあるので直行も出来るが、夜通しの勝負になる可能性もあるので、軽く夕食を済ませておきたい。それに、同居人の門倉に、急な立会で遅くなると、書き置きしたい。
支度をしているうち、賭郎の端末に勝負の詳細についてメッセージが届いた。場所は南方の住まいからも近く、勝負の予定時間も比較的短い。食事をして着替えするだけの時間は、十分にありそうだ。
内容的に、本来ならもっと號数が下位の立会人に振られそうな案件だが、同じ拾號台の立会人と比べて、南方は立会の経験が浅い。専属会員もいない。賭郎勝負の場数を踏むために、勝負の規模、会員の倶楽部内での影響力を問わず、回された立会をなるべく受けるようにしている。拾陸號を継いでおいて今から下積みか、と號数の元持ち主には嗤われたが、実績のない発言に何の価値もないことを、南方は嫌というほど知っている。
秘書兼運転手役でもある巡査長に、送迎不要を連絡してから、執務室を後にする。庁舎から出る際、「営業」──外回りしてきた捜査員たちとすれ違い、会釈された。
最近は、捜査本部を立ち上げるほど社会的影響ある事件もなく、警視庁は落ち着いている。束の間の平穏に、捜査員たちは山積している事務作業や、継続捜査の裏取りに明け暮れているのだろう。彼らや所轄が靴をすり減らした成果は、南方の歯車の螺子になるのだ。庁舎に吸い込まれる部下たちを顧みず、内心で、ご苦労さん、と尊大に労った。
公用車は庁舎に置いていった。翌朝、巡査長が送迎のために早めの登庁を強いられるが、それが彼の仕事だ。
庁舎からだいぶ歩いた先で、タクシーを拾う。
クリスマスと新年を終えた丸の内周辺は、ごてごてした装飾やネオンから一転、すっからかんになって、見晴らしが良くなっていた。いかにも、寒々しい東京の冬景色といった黄昏だ。
車窓から見える通行人の、くたびれた足取りを眺めているうち、都心から高層マンションが林立する暗い道に入っていく。
マンションから二ブロック前あたりでタクシーを停め、南方は部屋に急いだ。
ドアを開けると、玄関の靴が一つ減っている。門倉が立会人の制服としてよく履く革靴がない。今日は立会の予定はなかったはずなので、表の仕事だろう。やはり部屋にいなかったか、と思いつつ部屋を見回す。
遮光カーテンを開けっぱなしにしているので、出かけてだいぶ経っていると分かる。もちろん、書き置きなどない。
南方は冷蔵庫を漁り、昨日門倉が作ったブラウンシチューの残りに、冷凍惣菜をかき集めて、夕食の体裁を整える。夜のニュース番組をザッピングして流し見しながら、温め直した料理を順番に立ち食いした。
最後の一口を咀嚼しながら、携帯に送られた情報を見直す。
指定の会場は、都内の高級ホテルの一室で、南方の住まいから三十分ほどの場所だ。送迎手配のワークフローを申請すると、頭を切り替えるために、熱いシャワーを浴びる。
黒服に着替える。南方が制服を仕立てた時、門倉を意識したわけではないのに馴染みの戦闘服になったのを、下についた数名の部下にはそれとなく失笑された。だが、南方にとって戦闘服といえばこの形なのだ。
制服を入れるクローゼットは、門倉と共用している。玄関の靴と同様、門倉の立会人服が一着なくなっていた。梶の賭郎勝負がある、ということだ。
南方は少し怪訝に思った。
ついこの間、お屋形様──斑目貘の計画で、梶はとある海外企業の幹部を相手に大勝負をした。動く金額も絡む利権も巨大だったため、卍を張るか張らないかの話も出ていたほどだ。専属立会人の門倉は、勝負の準備と打ち合わせで何日も忙しくしていた。
あの勝負で、梶はかなり消耗したと聞いている。今夜、門倉を伴って次の勝負をしているなら大した持久力だ。
(それならそうと、話通してもええじゃろうに)
身支度を終えテレビを消すと、南方は部屋を出た。さっきタクシーを降りた場所に、迎えが来るよう指定してある。
門倉と同居している事を、南方は部下達に隠していた。反対に、門倉は特に隠す気がないらしい。門倉と付き合いのある賭郎の人間には、関係をうっすらと知られているようだった。
マンションに直で迎えを寄越さないよう指示するのは、南方なりの虚しい抵抗だった。
迎えに来た部下に拾ってもらい、現地に向かう。道中、会員の資料や勝負の経緯について資料を渡され、急いで目を通していった。本業(今や副業かもしれない)のおかげで、書類の読み込みは速い。
会員は権野秀人。対戦者は権野勝人。
南方は資料から目を上げずに呟いた。
「土地の権利をかけた勝負……しかも身内で?」
「古参の会員です。権野様は息子の勝人に会員権を譲る予定なのですが、遺言書作成の前に、素質を見ておきたいとのことで」
「親子喧嘩……いや、獅子の子育てか」
南方は独りごちる。
これまで立会してきた会員は大抵、身内に甘い人間が多かったので、意外だった。しかし、門倉が聞いたら冷めた目で、温い勝負だと言っただろう。
ゲーム内容の要望に、「日付が変わるまでに終わる、心理戦の要素がある勝負」と書かれている。南方は、勝負内容を頭の中で組み立て始めた。勝敗が賭郎の運営に関わらない勝負の場合、ゲーム内容や難易度の設定は、立会人に委ねられやすい。今回の勝負は、無難な方針を出しやすい南方向きの仕事と言えた。
資料を通読してゲーム案をいくつか練っているうちに、会場となるホテルに着いた。
由緒ある高級ホテルで、権利元をたぐっていくと倶楽部賭郎に行き着く。なんでも、先々代のお屋形様が手に入れた物件だという。ホテル従業員のほとんどは、賭郎の搦め手だ。
従業員が先に、部屋の調整、セッティングを行っている。黒服は南方含め三人だが、関係者と判明している人間をすべて入れると、二十名ほどが関わっている勝負だった。
親子喧嘩のために動員された人員の贅沢さに、南方は内心で嘲笑した。
警察でもよく見かける光景だ。関係者の立場や面子で、現場の人間が膨れ上がったり削られたりする。賭郎も、そのあたりは変わらないらしい。
スタッフに案内され部屋に向かうと、権野と息子の勝人はルームサービスを取り、立会人の到着を待っていた。
「お待たせいたしました」
「おお、やっと来たか」
権野が南方を顧みる。南方の出で立ちを、頭からつま先まで眺めてから、「なんだ」と不満げな顔をした。
「雄大君じゃないのか」
突然飛び出した門倉の名前に、南方は動揺のあまり無言になる。
古参の会員なら当然、門倉が立会したこともあるだろう。門倉のことを話題に出した会員は、この男が初めてではない。あの風貌と態度だ。記憶している会員も多い。だが、横柄なファーストネーム呼びに、ただならぬ馴れ馴れしさがあった。
無言になった南方を、権野はあからさまに落胆した顔でじろじろ見てくる。南方は、表情を変えないよう、後ろに組んだ手を握りしめて、平淡な声色で応じた。
「ご指名はなかったと伺いましたので」
「うん? いや、彼は……ああ。そうだった、雄大君は弐號に昇級したんだったか」
うっかりしていた、と呟いた権野は、改めて南方を見やり、尊大な態度で尋ねる。
「で、君が拾陸號なのか」
「はい」
権野の品定めする目つきが、陰険さを増す。南方は感情を伏せた目で受けて立った。
中肉中背、絵に描いたような贅沢太りの男だが、目つきを見れば、それなりの修羅場を踏んできたと分かる。自分にふさわしい立会人が派遣されなかった事への不満を隠さず、片眉を吊り上げた。
「まあ、弐拾號以上なら、能力もそれなりなんだろうが。雄大君ほど面白い提案をしてくれるといいのだがね」
会員の揶揄に、南方は小さく頭を下げるだけに止めた。
明らかに門倉を贔屓にしていたと解る態度に、心中穏やかではなかった。立会人としての門倉を知る人物。自分が知らない門倉の過去に対する関心が、抑えがたいほどこみ上げてくる。
ざわつく雑念をどうにか飲み込み、南方は勝負の内容について確認した。
「土地の権利書を賭けての勝負と伺っておりますが、相違ございませんか?」
「ない。負けた方は、権利書に保有する我が社の株式も全部譲渡してもらう」
「なっ……」
対岸で沈黙していた勝人が鼻白む。株式の話はこの場で初めて聞かされたようだ。
権野勝人は、賭郎の身元調査の結果で、間違いなく権野秀人の実子と判明している。この勝負は、血の繋がった親子の確執なのだ。
南方は、勝人の面構えをよく見知っていた。警察でのし上がる際に、よく見かけた風貌だ。親や親族の既得権益に守られてぬくぬくと育ち、履いている下駄に無自覚な、二世・三世のサラブレッド。本人は努力の結果と標榜するが、生まれた時点で大きなアドバンテージを得ている事実を、けして認めようとしないタイプだ。賭郎会員も、巨大な権利を当然継げると考えていたのが、不満たらたらの表情を見れば解る。
話が違う、と食ってかかりそうな息子を、権野は無言で手をかざし、制した。
「何のためにこの席を設けたのか、まだ解っとらんな」
「……」
ふてくされた態度で押し黙る実子に、男はあからさまに失望したため息をついた。
「……それでは、勝負の内容を説明させていただきます」
南方が提案したゲームはポーカーだった。ホテルの一室で簡素に出来るゲームだったこと、プレイヤーたちが複雑なルールを把握した上で駆け引きするタイプではないことを、考慮した。株式の保有率をコインの代わりにする。制限時間までに、権野が指定した率を引き出すか、どちらかの持ち株がゼロになった時点で決着とする。
オーソドックスな心理戦すらこなせない男に、賭郎の席を相続させるのは如何なものか、という南方の皮肉も込められていた。
手短な説明を受け、権野は了承し、息子の勝人も渋々受けた。受ける以外、彼に選択肢はない。
賭郎で用意したトランプを用いて、場を設定した。権利に関する情報は前もって提出させており、当人が保有率を確認できるよう、携帯でデータを把握している部下二人が、それぞれ隣に控える。チップの代わりに保有率を引き出して、レイズする。
ゲームはしめやかに開始された。
すぐに、権野が「音楽でもかけんか」と言い出したので、南方が、客室内に置いてあるラジオからクラシック音楽のチャンネルを選択する。これは権野にとって、立会人の能力を確認する指示でもあった。南方も、それを把握した上で選局した。
一定の評価を勝ち得たようで、権野はカードを睨みながら雑談を振ってきた。
「君、雄大君──門倉立会人を知っているかね」
「はい」
「そうか。彼の號数に収まっているんだ、面識くらいあるか。彼は、どうしているかね」
「どう、と仰いますと?」
「弐號に昇進したということは、アレだろう、號奪戦をやったのだろう? 腕っ節もなかなかだったからねえ、その勝負は是非見たかったよ」
「あいにく、私も詳細は」
権野がカードを伏せ、レイズする。彼は手札で勝負すると決めたようだ。勝人の方はというと、手札と父親の顔を交互に睨んでいる。一戦目から、がちがちに身構えていて、余裕がない。
息子の体たらくを呆れた目で一瞥し、権野が南方を振り向いた。
「前に、號奪戦を中継していただろう。ああいうのは、アーカイブしていないのか」
「あいにく、そうした話は存じ上げず……」
「そうか。ならば、惜しいことだ」
勝人がコールした。オープンし、順当に権野が負けた。勝人はスリーカード、権野は役無し。まずまずの保有率を賭けており、息子の取り分を増やした結果だ。
だが、この一勝負で終わりではない。制限時間まで、まだまだ時間はある。
次の手札が配られる。権野は再び、南方に話しかけた。
「君は、雄大君をよく知らんようだがねえ、彼は素晴らしい。あれが自分の息子だったら、さぞかし面白かったろうと思っとるくらいだ」
男は手札を眺めながら、南方を一瞥もせず、勝手に喋り続ける。
「頭も良い、勝負勘も良い。なにより強い。腕っ節の話じゃない。生き物としての話だ。雄大君こそ、強者のなんたるかを理解している男だよ」
「左様ですか」
「疑っているな? 立会人同士、私闘は御法度らしいが、そんな真剣勝負でなくてもいい、一度挑んでみたまえ。雄大君の強さはなぁ、ただ傍で観ているだけでも痺れるぞ」
「……」
南方は無表情、無言を貫き通した。
この男が門倉と知り合ったのは、門倉が立会人になってからだろう。べたべたとした馴れ馴れしさを見せて語っているが、それらは所詮、立会人としての外面に過ぎない。はずだ。
(門倉は、つまらん会員には外面しか見せとらんはずじゃ。そんな、上っ面だけしか見えんような奴が、門倉を語るなや)
内心で吐き捨てつつ、嫉妬と優越感を同じ苦さで噛みしめる。みっともない感情だ、と南方自身もよく分かっている。
自分は門倉の本当の強さを知っている。門倉が抱える原初の強さに触れ、唯一負けを押しつけられたのは、自分だけだ。傷であり、矜恃でもある。
あの夜。門倉が一敗地に塗れる苦さの後に、得るべき勝利を得てけじめをつけたのと真逆に、南方は握らされた勝利の興奮から、一転して惨めな敗北を叩き込まれた。
あの夜がすべて始まり、そして始まりの終わりだった。
自分と門倉を紐付けているは、十六のあの晩、あのひとときだけだ。南方はずっと、赤より頼りない色をした糸を首からぶら下げて、生きている。あの夜を、引きずり続けている。
今更、知らない他人に割り込まれる謂われはない。そんな傲慢な怒りがこみ上げてくる。
南方の無言を無関心と受け取ったのか、会員の語りは更に饒舌さを増した。
「儂がもう少し若い頃、コイツがまだ洟垂れ小僧だった頃だ。雄大君も弐拾號に満たない號数だったかな。勝負の相手が、負けたあとに大層ゴネてねえ」
権野は手札をチラ見して伏せる、ドローはない。
「相手は、勝負に必要な金を用意できなかった。そうした場合は──解るだろう?」
話が続くとわかり、うんざりしたのは、南方だけではなかった。勝人は、父親が見知らぬ男を語り褒めそやすのを、まんじりとしない顔で聞いている。
「賭郎はしかるべき『精算』を行おうとしたが、相手は凶器を持って暴れた。相手も考えなしに暴れたわけじゃない。賭郎側の下っ端を抱き込んであってな。こりゃあ逃げられるだろう。そう思った。だが、雄大君は、儂の勝負相手と、賭郎を裏切った部下ともども、その場で粛清した」
勝人が話の途中で「ドロー」と宣言し、険しい表情で手札を睨んでから交換した。父親の語りに苛立って、手札に集中していない。体の強張りは取れず、呼吸が浅い。一勝しているのに、見るからに余裕がない。レイズし、手札を置いた。
オープンする。再び、権野が勝人に負けた。
保有率の変動が告げられる。もともとあった差は、二回の勝負でかなり縮んだ。南方は両者の表情を交互に一瞥する。追い上げているはずの勝人は、精神的に追い詰められ、権野の方は息子のあがきを物ともしていない。
(場数の差だな)
心理戦の勝負は、ついたも同然に見える。次のカードが配られると、男は話を続けた。
「なんの躊躇もなかった。後で聞けば、それなりに苦楽を共にした部下もいたそうじゃないか。だが、彼は感傷に浸らなかった、身内の情などというものに足下を掬われなかった。動けなくなった部下たちを運ばせる時も、目が濁らなったのを、ようく覚えておるよ。冷酷とも違うな、アレは。勝負の真理が解っとる目だった」
カードをめくりながら、男はしみじみとした声で呟く。
「思えば、儂はあの目に釣り込まれて、賭郎会員の座を守ってきたようなもんだ。とはいえ、寄る年波には勝てん。今、儂が雄大君のあの目を見たら、破滅に向かって一直線だろう」
それもいいが、と含み笑いを浮かべる。
南方はぞっとした。大博打からは身を引こうという、小太りの初老男の横顔に、自分の顔を見い出した気がした。十六の自分がそうだったように、この男も門倉に人生の何かをねじ曲げられ、引きずり回されて、ここまで来たのだと確信した。
無言のまま、南方は青ざめていた。末路、という言葉が脳裏を過る。そんな南方の動揺を見透かしたように、男が一瞥寄越してくる。
「古参の思い出語りだが、どうだい。君、門倉立会人をどう思う」
「……優秀な立会人だと、聞いております」
当たり障りない定型文を返した南方に、男が呵々大笑した。それこそ、手札が相手に見えてしまうかというほど大笑いされ、南方だけでなく、勝負相手も、部下たちも、ぎょっと肩をそびやかす。
「ハ、ハハ、しょうもない嘘をつくな、君は! 妬み嫉みで目つきがひん曲がっていると、自分で気づいてないのかね?」
「……っ」
後ろで握りしめていた手に、更に力が入る。他人が見て解るほど嫉妬を露わにしていたのかと、シャツの下に冷たい汗が滲んだ。
「弐號に出世した男のお下がりが、そんなに不服か? しかし號奪戦を挑む度胸はないのだろう? 器が知れるぞ、……ああ、なんていったかな? 君は」
「南方と申します」
まったく見当違いの方向に話を広げていく相手に、腹の底からどっと力が抜ける。動揺をひた隠しにし、抑揚を押し殺した声で応じる。男はそれを怒りの声色と受け取ったのか、鼻先でせせら笑った。
「さて、勝負に戻ろうか。そら、手札は決まったのだろう?」
権野はようやく勝人に視線を寄越した。ほとんど口を挟まず睨み付けていた相手は、手札を伏せてレイズする。権野は惰性のように気のない声でコールした。この掛け金──保有率で、勝人が勝てば父親に逆転する。可能な手を引いたと確信している。勝負を仕掛ける顔つきは、意気込むあまり過剰に火照っている。
南方は携帯メールを確認する素振りで、部下から共有された両者の手札情報を見た。勝人はストレート。権野も同じくストレート。ハイカードでの勝負だ。
オープンする。
勝人はJハイのストレート。対して、権野はKハイのストレート。
「そんな……イカサマだろ!」
息子は愕然としてから、すぐさま叫ぶ。権野は失望のため息で、鼻の穴を膨らませた。怒る気にもなれない、と言いたげだった。
物言いを付けるには、それなりの根拠が必要で、違っていた場合はペナルティが生じる。そのリスクを想像して吠えたとは、まず思えない。
南方は慈悲をかけべきか否かを一瞬だけ思案し、腰を浮かせた勝人に念押しした。
「賭郎が準備したこのカードに不正がある、指摘に相違ございませんか?」
南方の静かな声に、勝人はたじろいだ。自分の発言が賭郎の信用に対する物言いだったと気づく程度には、頭が回るようだ。無言で首を振ると、大人しく着席する。
「──問題ないようですので、ゲームを再開いたします」
勝人が時計を見て、喉を鳴らした。彼の体感より張るかに時間が経過していたのだろう。
しかし、心理戦は最初から仕掛けられている。南方に門倉の話をし続けることで、権野はポーカーフェイスを維持しつつ、息子の集中を削いできた。南方が選局した音楽も、勝人の集中を削いでいた。ギャンブルでは、場に呑まれるか否かで選択肢の見え方が変わってくる。できる選択が出来なくなり、避けるべき選択を選ぶようになる。集中力を削ぎ、意識を散漫とさせる音楽が、ずっと部屋の中を漂っていた。
権野が、この時間のクラシック音楽のラジオ番組を把握していたかは不明だが、変奏曲のうねりは、この対局に添えた劇伴よろしく、勝人のはやる心を煽ったのだ。
場の様々な騒音に駆り立てられ、押し流されて、必要以上にドローし、必要以上にレイズした。
南方は、勝負をそのように分析した。
ただ、手札が相手に勝ると信じるか否かは、イカサマでない限り、運と度胸の問題だ。権野は、この勝負に負けても最終的に勝てると、己の勝負強さを確信していた。実際、勝人の負け込み方と残り時間を見れば、逆転は容易ではない。
そこから先のゲームは、長考や無駄口で引き延ばさず、一気にたたみかけられた。
次と、その次の勝負で、勝人は自分の持ち株をすべて吐き出した。
すべて失い、相続の資格を失った勝人は、抗議しようと席を蹴ったが、父親の後ろに佇む南方を初めとした立会人の視線に、怒鳴りかけた口を引き結び、やがてぐったりと椅子に腰を下ろした。
賭郎勝負は予定時間より早く、何の面白味もなく終わった。南方は、立会人としての仕事を、無感情な声と共に終わらせた。
「賭郎勝負。勝者、権野秀人様。お見事でございました」
必要な手続きが行われるのを見届けた後、南方はまず、追放された勝人を部屋から見送り、次に権野が去るのを見届けようとした。
「次は道楽勝負でも開いて、ちゃんと雄大君を指名させてもらおう」
権野が、ヤニで黄ばんだ歯列を見せて、愉快げに笑う。
馴れ馴れしく門倉を語る相手に、ずっと胸をむかつかせていた南方だったが、とうとう耐えかねて、不要な私語を返してしまった。
「門倉立会人は、現在ある会員様の専属ですので、指名は難しいかと」
「なに?」
寝耳に水という顔で振り向いた権野に、南方は無表情をどうにか取り繕い、淡泊な口調で続けた。
「ご存じの通り、会員専属の立会人はその会員の勝負に優先して立ち会う規定です」
「うーむ……そうか、とうとう専属になったか……。儂も以前から専属にと頼んでは袖にされ続けていたが、雄大君の目に適う者が現れたのだな。いや、口惜しいことだ」
本当に悔しいのか、自分を選ばなかった門倉の眼力を嗤っているのか。歪んだ笑みを浮かべた権野は、肥えた体を揺すって短く笑い声を上げた。もしかすると、門倉の立会見たさに、梶へ勝負を申し込む気なのかもしれない。その時がきたら、権野の人生は破滅を迎えるのだろう。
「南方立会人。今度、雄大君に会う機会があれば、儂が弐號昇進のお祝いをしたいと言っていた、そう伝えてくれたまえ。彼も喜んでくれるだろう」
南方は返事をしなかった。
送迎に現れたホテルのボーイに案内され、権野は廊下の途中で棒立ちの息子を顧みず、立ち去っていった。
同席していた部下たちは、南方と門倉の因縁をそれとなく知っている。権野と南方の会話にどんな意味があったのか、おぼろげながら察しているだろう。南方付きになって日の浅い部下たちばかりだ。形式以上の信任を得ていない南方にしてみれば、見苦しく取り乱した一幕を見せてしまったに等しい。南方は苦いしくじりの手応えに俯いた。
部下の一人が気遣うように、南方に声を掛けてきた。
「チェックアウトの手続きはこちらでします。おい、お前。南方立会人をお送りしろ」
「いや、いい。帰れる距離だ。君たちも早く帰って休め」
南方は、本庁の部下を労うのと同じ口調で早口に言い返し、部下の返事を待たず、ホテルの部屋を後にした。
公共交通機関を使って帰るのは億劫だが、深夜残業をこなしたサラリーマンの陰鬱な気配に混じると、乱れた情緒が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
よく考えれば、古参の会員は他にもいる、歴の長い立会人もいる。賭郎に辿り着いてからの門倉を知る人物は、それなりにいるのだ。いちいち引っかかってはいられない。
むしろ、町を出て行った後の話を、門倉本人から聞き出せないなら、周囲の証言を活用すべきだ。だが、知らない連中に知った顔で門倉を語られるのは我慢ならない。
(下らない矜恃に振り回されてるのは、よく解っとる。解っとっても、我慢できんものは、我慢できん)
私情を剥き出しにした自分は、きっと立会人の顔をしていなかったに違いない。門倉が絡むとこのザマだ、と自嘲する気も失せていた。今回の件を門倉に知られたくない気持ちだけ、澱んで凝っていく。南方の足取りは重かった。
部屋に帰り着き、玄関のドアを開ける。玄関の廊下は灯りがついており、うっすらテレビの音が聞こえてくる。
南方は足早にリビングへ向かった。
テレビ前のソファに座る門倉が見える。帰ってきた南方を軽く振り返ると、「おかえりぃ」と挨拶が投げかけられる。振り向いた視線から慣性で伸びた声は、すっかりくつろいでいた。
「どこ行っとった」
「弥鱈と、ちいとな」
門倉は詳しく語らず、テレビに視線を戻してしまう。
てっきり、梶の立会に同行したのかと思っていた南方は、思いがけない名前に眉をひそめた。陰気な目つきをした猫背の立会人を思い浮かべる。
ヤンキー嫌いを表明し、門倉と南方をほぼ名指しでこき下ろしているが、南方には若干あたりが弱い。自分より弱い者への憐れみか、警察官僚の現在を見て判断したのか、関心がないか。南方は、三択のどれかだと思っている。
少なくとも、立会に影響しない範囲でしょっちゅういがみ合っている門倉よりは、穏当かつ適当に扱われている。
逆に門倉には、わざと揚げ足をとる調子で絡んでは、不機嫌を拾いに行くのを愉しんでいるようだった。門倉からすると、生意気な後輩立会人といった具合だ。號数が上がり、門倉が強者として一つ高みに昇ったことで、以前より関心が増したという。弥鱈本人が語るのを聞いたので、間違いない。
弥鱈も「門倉立会人」をよく知る人物だ。卍勝負の一件以来、本部で見かけるとなんとは無しに話す間柄になって以来、雑談の合間に、賭郎入りしたあとの門倉について、話題が出たこともある。
知らない門倉の話を聞くたびに、南方は自尊心や独占欲がざりざりと削られる不快感に苛まれた。その嫉妬の色を、弥鱈は勘づいていて、わざと話している節もあった。
門倉は制服で出かけていた。黒服で会うなら、立会か、仕事の連絡事項か、いずれにせよ賭郎絡みの用件だろう。門倉が詳しく語らないということは、南方が知る必要のない案件の話だったに違いない。
南方立会人として、他の案件に首を突っ込む道理はない。門倉は立会人の立場を尊重しろ、と考えるだろう。少なくとも、南方はそう考えた。
頭でわかっていても、南方恭次としての感情は収まらなかった。
(それでも、タイミングってもんがあるじゃろうが)
帰りの電車で落ち着かせたむかつきが、またこみ上げてくる。南方は、考えなしに口を開いていた。
「今日の立会、お前の贔屓に会ったぞ」
権野の名前を告げる。門倉は、テレビから目を離さず可笑しそうに「ああ」と相槌を打った。
「あのオッサンか。ご無沙汰しとったが、まだ死んどらんとは、憎まれっ子世に憚るとはよう言うたもんじゃ」
門倉が、昔なじみの名前を聞いた口ぶりで答えるのを聞いて、南方は余計に嫉妬を煽られた。思わず、脱いだ黒服のジャケットを乱暴にソファへ投げ置いてしまう。
門倉が、飛んで来たジャケットをひょいと避けて、ジロリと振り返った。白けた視線を向けられ、南方は暗く煮えたぎる内心を喉奥でぐっと飲み込むと、平静を取り繕って話を続けた。
「おどれの弐號昇進を祝いたいと、そう伝えてくれ、言うとった。専属立会人になってもらえんかったのを、残念がっとったぞ」
南方は、門倉に背を向けると、ビールを出すふりで冷蔵庫に向かう。鏡を見なくても、情けない顔をしていると分かる。
雑談のつもりなら、堂々と目を合わせるべきだった。嫉妬心を誤魔化すなら、そもそもこの話題に触れるべきではなかった。煮え切らずに逃げるような態度を取り、南方は冷蔵庫を開けたまま、苦く沈黙する。
門倉も急に逃げたと勘づいたのだろう。背中に冷ややかな視線が突き刺さる。門倉の容赦ない視線に無様な後悔を握りしめられ、南方は後ろを振り向けないまま、キッチンでビール缶を開けた。
「ほうか、そりゃあ、たいぎい言づてじゃったのお」
門倉は適当なねぎらいを返してきた。答えた後もテレビに向き直らず、南方の後ろ姿を見つめている。背中を掴まれる手応えに似て、振り払えない視線だった。南方は仕方なく振り向く。
背もたれ越しにこちらを振り向いた門倉は、南方が続きを話すのを待っていた。どんな弁明をする気だ、と髪に隠れていない右目が詰問してくる。
南方は、諦めてソファに向かい、背もたれにかけたジャケットを避けてから、門倉の隣にどっかりと腰を下ろした。
「で。オッサンと、なに話しよった?」
「別に。昔の、お前の立会の話を少し、しただけじゃ。今夜もお前を指名したつもりじゃったらしいが」
「そうじゃのぉ。指名されとったのをお前に投げたんわ、ワシじゃもの」
南方が思わず振り向く。門倉はテレビに向き直っていて、驚いた南方の気配に機嫌を良くしていた。
「知っとったのか」
「贔屓にされて嬉しい相手じゃないし、お前は場数を踏みたいんじゃろ。ちょうど良かったろうが」
そうか、と答えたつもりだったが、喉がはりついて声になっていなかった。南方は握りしめていたビールを呑む。冷たいアルコールを入れて初めて、体の芯がやけに冷えているのに気づいた。暖房のかかった室内は十分暖かいはずなのに、冷たい鉛に似た嫉妬を腹の底に抱えていたせいで、手先や鼻先まで冷えている。そんな惨めな腹の内が隣の門倉には全部筒抜けかもしれないという予感が、余計に血を冷たくする。
しばらく沈黙して、明滅するテレビ画面を眺めていた門倉が、横目で南方を見やった。
「話聞いて、何を想像した?」
「何って、別に。なんも」
「ふうん」
門倉は相槌を打つだけで、質問を重ねずに黙り込む。逆に、南方の方が沈黙に耐えられなくなり、間を持たせるようにビール缶に口を付けた。清涼感あるアルコールの味はほとんど感じられない。きっと悪酔いする、そんな確信がよぎる味だ。とんでもないおべっかを求められる接待の酒より、気の重くなる酒の味だった。
南方が飲みたくもないビールを舐めて、どうにか間を持たせていると、門倉が含み笑いを洩らした。
「分かるよ。いかにも助平親爺の顔しとったじゃろ? あんなお人のことじゃ、南方も、もうちいと若かったら、わからんかったかもしれんね」
その言葉を聞き終わるや否や、南方は堪らず門倉を振り返る。
「お前、あいつにそがぁな……! その、面倒を、見てもろうたのか?」
「そうじゃいうたら? そうじゃとしても、お前には関係ないじゃろうが」
考え無しに問うてしまった南方に対して、門倉が鋭い目つきで聞き返す。
いろんな憶測が──あるはずもないと思いたい、下らない憶測が、南方の脳裏をよぎる。頭に残った悪夢のように、立ちこめて重なり合っていく。門倉とあの男がどんな関係を経て今に至るのか。邪推でしか埋められない時間の隔たり、知り得ない年月へのもどかしさに、喉が渇き、締め上げられる。
南方はこれまでずっと、自分を倒し、見下ろし、背を向けた門倉に嫉妬し、羨望していた。あの夜に植え付けられた、醜く情けない嫉妬羨望と上手く付き合いながら、生きてきたつもりだった。それが今は、知り得ない門倉の過去すべてに、青ざめるほど嫉妬していた。
南方は、奥歯を噛みしめて門倉の横顔を睨み据えた。自分がどんな薄暗い目をして見つめているのか、考える余裕もない。
見返す門倉の右目は、冷淡そのものだ。左目の表情は下ろした髪に遮られて読めない。嘲笑された方がマシだった、と思いながら苦しい声で呻く。
「……門倉、わしは」
南方は、すがるのを通り越して、掴みかかりそうな目つきで見つめていた。言いかけた言葉は、舌の付け根にひっかかって、どうしても続かない。
門倉の視線が、ふと緩む。南方の、嫉妬に喘ぎ苦しむ顔を十分堪能したと言いたげに、悪戯っぽく唇を歪めて笑い、頭の先を雑に平手打ちした。
「おどれの考えとるようなこたぁ、なんもない。イカれた会員を躱すのも立会人の仕事じゃ」
「……っ」
「というか、すんなり妙な想像するほうがおかしいじゃろ。警察組織じゃ、ようある話なん? ぶち爛れた組織じゃのぉ」
「そがぁなわけあるか!」
「なら、おどれの頭が腐っとるっちゅうことになるのぉ?」
門倉に次々に言い返されて、南方はすっかり言い負かされてしまい、憮然と黙り込んでしまう。
しばらく無言でにらみ合っていたが、門倉が呆れ気味に首を振った。
首を振った拍子に、下りた髪で隠れた左目が覗く。南方は、その目をまともに見てしまった。
怪我のせいで定まりづらくなった左目が、今はまっすぐ自分を見つめていた。後遺症が視界にどんな変化をもたらしたのか、南方も知っている。
つまらない嫉妬も意地も、門倉の左目には醜い色として見えているかもしれない。そう思ってしまうと、もう意地を張るのは無理だった。
「……そうじゃ。わしが、おどれをそがぁな目で見とるけぇ、他の男からおどれの話を聞くんが、耐えられんかった」
「へえ?」
門倉の追及する視線はまだ緩まない。もう一押ししてくる門倉に、南方は逸らした視線を門倉の口元に戻すと、小さく呻く。
「わしが知らん門倉を知っとる奴らに、ずうっと、嫉妬しとるんじゃ」
南方の答えを聞いた途端、門倉はリモコンを掴み、雑然と音を垂れ流すテレビ番組を消した。懺悔した南方を冷淡に見下してから、ゆっくり微笑する。
「なら、もう妬かんでええようにしちゃる」
南方が身構えるより先に、門倉が飛びかかる勢いで抱きついてきた。押し倒された南方は、ソファの肘掛けに勢いよく頭をぶつける。顔をしかめて唸っていると、門倉が両手で頬を掴んで、覗き込んできた。
悪態をつこうと南方が口を開く。その口を、門倉が温かい呼吸と共に、むにっと塞いできた。
「─っ、ぅ」
動かそうとした舌を舐められ、南方は抗議の意味をこめて喉で唸る。門倉の手がネクタイを乱暴に引っ張り、南方の顔をさらに引き寄せた。南方は押し倒されたまま、片手で門倉の髪を撫でる。締めあげる力加減でネクタイを引っ張っていた手が、力を緩めた。門倉は唇をくっつけたまま、結び目に指をかけてゆっくり解き始める。
どうにか顔を逸らして、南方が名前を口走る。
「っ、門倉」
急に仕掛けてきた門倉に戸惑い、思わず制止しようと柔らかい胸板を押し返す。その手を、門倉が容赦なくはねのけた。押し倒した相手の上に乗り上げ、太ましい両腿で腰をがっしり押さえつける。ネクタイを解き、胸ぐらを揺さぶる乱暴さで、ワイシャツのボタンを外していく。
「急に、どうしたんじゃ。怒っとるんと違うんか、……」
南方が片手を門倉の顔に伸ばそうとする。その手もぴしゃりと払いのけられた。見下ろして垂れ落ちる髪を片側にかき上げ、南方の憮然とする唇を啄み、鼻先を甘噛みしてくる。つれなく触らせないくせ、じゃれる愛撫をしてくる門倉に、南方は戸惑った。
「のう、門倉」
下唇を軽く咀嚼され、南方は首を振って逃れる。どうにか利く口を取り戻して呼びかけると、門倉は黙って顔を覗き込んできた。
見下ろす門倉の目は、怒りではなく歓びでうっとり濁っていた。生死を賭けた勝負を目の当たりにしたとき見せる、期待に満ちた表情、そして相手をねじ伏せる予感からきらめく目、その下に、南方の懊悩を心底愉しむ人の悪さが覗き見える。
(わしが嫉妬しとったんが、そがいに嬉しかったんか?)
上機嫌の門倉にそう訊こうとして、やめておいた。勘違いだったら自惚れだと失笑されるし、会っていたら間違いなく多幸感でどうにかなってしまう。
乗り上げていた門倉が、股間と股間を擦り合わせる動きで腰を揺らし、緩いルームウェアを脱ごうとする。それを、南方が手を掴んで阻んだ。
スウェットの脇腹から下に両手を滑り込ませ、暖かな肌を撫でつつ、背中に両手を滑らせていく。そのまま腕を使ってまくり上げる。門倉は、されるがままに上体を屈めて、スウェットを頭抜きに脱いでいった。頭を振ってもつれた髪をほどき、小さく囁く。
「やらしい脱がせ方しよるのぉ、お巡りさん」
「仕掛けてきたお前に言われとうないわ」
お互いに甘い悪態をつきつつ、鼻先を寄せる。どっとなだれ込んできた門倉を、南方はどうにか抱き留めた。同じ体格の男を抱き留めるにはそれなりの力がいると知れて、つい表情が緩む。さっきまで緊張で冷えていた手に、寛いだ門倉の体温は溶けるほど快かった。
南方は門倉のいたるところに唇を押しつけながら、凍えた嫉妬が腹の底で溶けていくのを感じた。血が巡り、体が熱を持ち、情欲が血流にのって体の隅々まで駆け巡る。
手のひらと唇が届く素肌のいたるところに触れる愛撫で、互いの体つきを確かめ合う。
「泣いた烏がもう笑うたな、いやおどれは犬やったか」
くすくす揶揄する門倉の声が、こめかみにくっつけられた口元から吹き込まれる。低い声が脳髄にそのまま届くような近さだった。門倉への愛おしさと独占欲が膨れ上がり、しまいには頭を灼かれて、南方は獣じみた唸り声を洩らすなり、門倉の体を逆に押し倒しかえして、挑むような手荒いやり方で門倉の肢体をむさぼり始める。
押し倒された門倉は、片脚を上げて南方の腰に回すと、下ろしかけていたスラックスと下着を踵で器用に引き下ろす。腹にあたる熱い滾りに、端整な顔がいびつに歪む笑みを浮かべると、項を食む南方の頭を愛おしげに何度も撫でてやるのだった。
ソファで貪りあった後、シャワーを浴び、一度はベッドに収まったものの、どちらも(どちらかと言えば南方の)熱が冷めやらず、結局また抱き合った。快感と眠気で朦朧として止め時を見失うほど、深く耽り、二人して事の途中で寝落ちてしまった。
翌朝、寒さに身震いして目覚めた南方は、門倉に抱きつかれ半身が痺れていた。南方の体温で暖を取っているのか、門倉はまだ熟睡している。
身じろぎしようとして、素っ裸のままで唸る。どんな二日酔いや激務の後よりも鈍い疲労感が、頭のてっぺんからのし掛かってくる。だが、昨夜──もとい明け方までの、めくるめく官能的な記憶を反芻して、疲れとは別のため息を洩らした。
もぞもぞと携帯を引っぱり寄せる。時計を見れば、登頂時間に合わせた起床時刻だ。
「もう、起きるんか」
身じろぎしたせいで、南方の上半身を抱き寄せていた門倉が目を覚ました。まだ眠そうな声で尋ねてくる。その声は低く嗄れていた。南方が思わず揶揄おうとすると、南方の喉も嗄れて、とっさに声が出てこない。
お互いに顔を見合わせ、寝起きのひどい顔のまま苦笑いする。どちらも、相手を笑えない様だった。
ベッドから抜け出した南方は、寒いと溢す門倉に掛け布団を全部かぶせ、寝室の暖房を入れ、足音静かに部屋を出た。
部屋を出て行く南方の素足を、被った布団から見ていた門倉は、寝心地良いように掛け布団をかき集めて、被り直した。門倉の今日の予定はすべて午後以降だ、好きなだけ朝寝が出来る。独占した布団で丸まりながら二度寝しようとしたが、左目の奥でチカチカ瞬く気配を感じ、上手く二度寝できなかった。
明け方、薄明るくなりつつある部屋に、自分たちの匂いが立ちこめているのを、門倉は色彩として見た。南方の喜悦の色、自分の法悦の色、どちらも重苦しい色を帯びて、門倉の視界を染めていた。あれが巫山の靄だとしたら、趣味が悪いと思う。
その色は、まだうっすら部屋に残っていて、門倉の収まったはずの情欲をくすぐってきた。
しばらくして、シャワーを済ませた南方が、下着一枚で戻ってきた。着替えは寝室のクローゼットにあるのだ。門倉に構わず、登庁用のスーツ一式をベッドの上に投げ置き、てきぱき着替え始める。
門倉は布団を被ったまま寝返りを打って、南方の後ろ姿を見やった。
シャツを羽織ろうとして門倉の視線に気づいた南方は、「朝飯は自分で用意してくれ」と告げる。
「飯は別にええ。お前は?」
「適当に外で食う」
答えながら、ソックスガーターを止め、スラックスを履いてベルトを通し、ネクタイを締めてジャケットを羽織る。
着替える南方を眺めていた門倉は、むくりと起き出した。
「門倉?」
振り向いた南方に、門倉は手を伸ばした。結んだネクタイを引っ張って緩めてから、きつく締め直す。顔をしかめた南方は、門倉の顔を見下ろし、目の下の隈を親指で擦った。何度か強く擦ってみたが、くすんだ血色は戻らず、情事に耽りすぎた痕跡ははくっきり残ったままだ。南方は内心でせせら笑う。門倉がこの顔なら自分だって酷いに違いない。
(門倉は、わしが警察になった経緯を何も聞いてこんな。わしみたいに、気にせんわけか……)
門倉が敗者を覚えていないのは当然のように思う反面、悔しく物寂しい気持ちも人並みに沸いてくる。それは反射的な感傷だった。
「……」
門倉は、降り出す前の湿気た空気を嗅ぐ仕草で、すんと鼻を鳴らした。南方の方が門倉より、常に情緒の湿度が高い。なので、門倉には南方の感傷がすぐ解ってしまう。自分の感傷を悟られたと察して、南方はつい視線を逸らしてしまった。
門倉は南方の態度をジロリと見やり、ネクタイから手を離す。身繕いして外面を整えた格好をつくづくと眺めて、ニタリと嗤う。嗤われた南方は視線を戻して、怪訝な顔をした。
「?」
「ワシがお前のことで嫉妬するのか、気になるんじゃろ」
「……まあな」
今更取り繕うのは無意味だ。南方は、観念した表情で素直に頷く。門倉はジャケットのボタンを留めてやりながら、ぼそぼそと応えた。
「あんだけして、まだしょうもない考えがちらつくんか。しようのない男じゃ」
「それを言うてくれるな。……あん時から、二十年やぞ。わしはなあ、」
南方が反発すると、その口を門倉が片手で軽く押さえて黙らせた。
「万に一つ、ワシが妬くようなことがあったら、おどれもそいつも、どうなるかわからんよ。それでもええんじゃったら、妬いたるけど」
南方は門倉の顔を振り向いた。
門倉は、その時を待ち望んでいるかのように、期待に満ちた目をしてニンマリと笑っていた。左瞼が痙攣して、しきりに瞬きする。それは昨晩何度も間近で見た、愉悦の兆候だ。
どうなるかわからんよ。その一言と震える瞼の意味するところに、南方は思わず緩む口元を隠す。一抹の恐怖にも似た期待に、血がざわつく。
顔を逸らして浮かれた内心を隠そうとする南方に、門倉はスーツの襟を掴んで引き寄せ、手荒く突き飛ばしてから上機嫌にうそぶいた。
「そんな機会が来るんを、楽しみにしとったらええよ。のう、南方」
[了]
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