usgi

影踏み

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 段取りの手違いで待ち時間が発生し、南方と門倉は乗ってきた車内で待っていた。今日は勝負場所が戸外で、あいにくの雨だ。予報だと夜半に止むことになっている。
 ハイビームで照らし出された山道は、カードレールもなく、鬱蒼とした植物がアスファルトを浸食しつつある。何メートルも手前に「この先行き止まり」の錆びた看板があった。いかにも遺体遺棄に使われそうな山中だな、などと南方は想像する。表の仕事柄、こういう山中は何かを埋めるためにある場所という印象が強い。「この先行き止まり」の文言が余計に、先のない、どん詰まりのイメージを強くする。
 運転席の門倉が肩を叩いた。振り向くと、手袋をした手が伸びてきて頭を掴み、冷えた唇が触れてくる。
 オイ、と止める言葉ごと舌で絡め取られて、なし崩しに応じてしまう。窓の向こうに視線を走らせてみたが、周囲に黒服は見当たらない。自分たちは車内に避難したが、黒服たちは勝負の場所となる廃トンネル内で雨宿りしているのだ。
 人目がないと知っていて仕掛けてきたのか、門倉が上体を伸ばして南方を抱き寄せようと身じろぎする。それに気づいた南方は、自分の方から身を乗り出し、門倉を抱き寄せた。
 口いっぱいに押し込まれた舌を、押し返して、門倉の口腔を執拗に舐る。吸われながら唇を噛まれるのが好きらしく、そうしてやると門倉は満足げに鼻先から声を洩らした。今日は戸外の立会だからか、香水をつけている。一日の終わりの体臭と溶け合って、鼻孔から脳髄をゆっくり痺れさせてくる匂いだ。南方は興奮と一緒にその匂いを深く吸い込んだ。甘い息づかいと苦い煙草の味。南方は、このキスの味に触発されて煙草を再開してしまった。まだ、どうにか庁内では我慢できているが、癖になるのは時間の問題という気もしている。
 数分にも満たない口づけが、南方には瞬く間に思えた。門倉が吸い返していた唇を緩めて、少し顔を離す。焦れったく睨み付ける南方の目を覗き込み、唇だけで笑ってみせる。
「おどれとするキスは、ばりええのう。なんでじゃろな」
 囁き声で言われて、南方は「そがいな」と呟き返した。おどれがわしを好いとるからじゃろ、と言えたら良かったが、南方の中には確証がない。
 門倉の尺度は南方に測れない起点と終点があって、自分がどのあたりにどんな印で在るのか、未だに解らないでいる。門倉雄大という名前には確固たる形があるのに、南方の手の中に納めた瞬間、様々な輪郭と重みを持って変化し、いつの間にかすり抜けている。捕まえたと思った瞬間には、背中しか見えなくなってしまう。そのくせ、自分を捉えている門倉雄大の存在感は、あまりに鮮烈で鮮明なのだ。日照りの太陽を前に、膝を屈した心地になる。
 捉えどころがないようでいて、強烈に存在する。南方は未だに、このギャップにじわりと苦しめられるときがある。
 そもそも、遭遇してから今まで、門倉を真に理解できた試しはないんじゃないか、と思う。
 余計な事を考えている間に、門倉がもう一度口づけてきた。両手で顔を掴んで、より体を寄せて、よそ見をするなと躾ける力で噛まれて、堪らず喉の奥から呻きが洩れる。
 自分が門倉にどうしようもなく惚れていて、何をするにも門倉の存在が意識の一部をずっと占めている、それが悔しくて焦れったくてたまらないこと、門倉が過不足なくこの気持ちを把握してるだろうこと、今の南方に解っているのはそれだけだ。あと、自分とのキスは気持ちいいらしいこと。
 擦りあわせていた唇がそのまま横滑りに、頬ともみあげをかすめて、耳をかじる。うなじに鼻先を埋めて、すうと深呼吸する門倉に、南方も倣おうとして、やめた。これ以上門倉を吸うと、後戻りできなくなりそうだ。既に腰の奥からじんと熱が響いてきている。
 それにしても、と思う。仕事前にこんなプライベートな空気を醸し出す門倉は珍しい。何かあったか、と尋ねようと迷っているうち、門倉が耳元に冷えた鼻先をくっつけて、そろっと囁いた。
「われは、わしとこうするん、どう思うとるの?」
「とうって、どうもこうも、……わしがおどれに惚れ抜いとるんは、知っとるじゃろが」
 知っとる、と答える声に嗤いが混じっていて、南方は憮然とした。解っていても、惚れた弱みを弄られるのは面白くない。
「惚れとるけんキスしたいとは、限らんじゃろ?」
「したいに決まっとる」
 ぼそぼそと繰り言を囁く門倉に、思わず声が荒くなる。ついつい語気強く言い返した南方に、門倉がくつくつと笑った。揶揄われているな、と南方は口の端を下げて、むっつり黙り込んだ。拗ねた態度を取ったと思われたくなくて、黙り込んでいる合間も、門倉の頭を撫でてやる。
 門倉は、自分の手が、頭や背中を手で愛撫するのを好んでいるらしい。前にベッドで「おどれの手はなんでこがいに気持ちええんじゃろうね?」とうっとりしていたのを、忘れていない。門倉は忘れたかもしれないが、南方は、その夜の照明の角度や門倉の湿った肌の色ごと、はっきり思い出せる。噎せるような湿度をはらんだ記憶に、南方は喉を鳴らしてしまう。
 南方の様子に気づいているのか居ないのか、門倉はシャツから覗くうなじと襟足あたりに鼻先を擦り付けつつ、ひそひそと耳打ちした。
「最近、また煙草始めたじゃろう」
「まあな」
「わしのせい?」
「……」
 図星をゴリゴリと突かれて、ただ頷くしかない。それを聞いた門倉は、うなじに埋めた顔を上げ、頬を触れあわせてから南方の正面に戻ってきた。薄暗い車内で一層あおじろい肌をして、濡れた唇で嗤っている。右目に写り込んだ自分が、幼稚に拗ねた顔をしているのに気づいて、南方はにわかにむかっ腹が立ってきた。
「おどれ、さっきからなんなんじゃ」
 思ったより腹を立てたと解る、尖った声で言い返してしまい、門倉がちょっと目を見開く。南方自身も驚いて、気まずく視線を逸らす。息づかいが解る距離のまま、お互いに黙り込む。
 ほんの数秒の沈黙も耐えられず、南方は喘ぐようにぶちまけた。
「わしの一生は、ずっとおどれの手のひらの上じゃ。後悔は微塵もしとらんが、こがいなふうに、面白がるなぁやめてくれ。……堪えるんじゃ」
 もうだいぶ前──門倉が生きていると解り、意識が戻った時に観念していたつもりだったが、こうして揶揄われるのが堪える時がある。惚れた弱みを門倉に聞かせるのが癪で、いつもは知らんふりをするのだが、車内という密室、夜の山中という行き場のなさが、南方の精神に作用していた。こうしていても、また掴み所なく、南方の追いつけない場所に向かってしまうのだ。解っていても、やはり苦しい。
 心情を吐露した南方に、門倉は改めて驚いた顔をした。打ち明けたきり黙ってしまった南方の額をぐいと押し上げ、片手で顎を掴む。
「おどれ、時々びっくりするほど鈍うなるね。わしの鶏冠を崩したなぁ、おどれ一人だけなんじゃ。それはわしん中で一生変わらん事実じゃ。ここまで追いついたおどれを、もう置き去りにはせんよ」
「……!門倉、」
 潜めた声で早口に告げた門倉は、南方の返事を待たず、浅いキスをする。南方の舌先を強かに噛んでから、自分を撫でる腕にそろっと手を滑らせた。
「ヤニの名残がある唾やら、遠慮ない舌やら、力加減しとる歯ァやら、好きじゃけん。やたら大事そうにいらう手やらも。……ここまで言うたら、その情けないツラどうにかできるじゃろ」
 嗤っていた門倉が憮然としているのを見て、南方はいっそう座席から身を乗り出し、門倉を力一杯抱きしめた。耳元で名前を呼ぶ、それ以上言葉が出てこない。シートやサイドブレーキや、立会人の証である黒スーツまで、今はともかく、邪魔で煩わしい。
「門倉……!」
 門倉は、切なげに苦しく呼ばわる南方の声を全身で堪能してから、ぐいと腕を曲げ、抱きしめる南方をひっぺがした。そのまま、脳天を軽く叩く。
「どうじゃ、ちったあ景気づけになったか?」
「なに?」
「夜中の山ん中じゃけん、落ち着かんのは解るが、そわそわしすぎなんじゃ。わしらが埋められるわけじゃなし」
「……」
 南方はあんぐり口を開けてから、項垂れた。
 さっき車内でぼんやり思い浮かべた感傷を、怖じ気と勘違いされ、慰められたらしい。妙に柔らかでしおらしい門倉に、心の中を覗けたのかと舞い上がっていた気持ちが萎む。
「こんなぁ、十年以上サツやっとるんじゃぞ。夜中ん山が怖いわけ……」
 二十年前だったら、舐められたと怒り狂って、端正な顔が歪むほど殴っていただろう。はあ、とため息をついた南方に、門倉がひっそりとにやついた。
「どうじゃろうなあ。われの見てきた景色も大概かもしれんが、こっちの景色もなかなかじゃけん、なあ」
 笑う門倉の目に、南方の知らない暗い光が過る。賭郎の壮絶さはこれまでも見てきたつもりの南方だが、門倉はこれまでにもっと暗い景色を見たのかもしれない。それはどんな、と問いかけようとした南方だが、門倉の視線が逸れたのを見て、視線の先を追いかけた。
 ハイビームが遮られ、車の前を黒服が過るのが見える。ドアに回り込んできた門倉の部下が、窓をコツコツと叩く。門倉が窓を下げると、黒服は妙に密接している二人の位置関係をさらりと受け流して、事務的に告げる。
「勝負の準備、できたとのことです」
「解った。今行く」
 車を下り、南方が抱きしめたせいで崩れたスーツの襟を正して長い裾をさばく。同じく車を降りた南方に、先んじて行く門倉が眩しいライトを逆光にして振り向いた。長い影が不気味なほど伸びて、南方の足下に届く。雨は止んでいたが、夜風に荒れる葉擦れが不穏な勝負を予告しているかのようだ。不穏な暗闇の中へと向かう門倉の背中は、南方がさっきまで撫でてていた体とは、まったく別の、不吉な何かに変わってしまったかのようだった。
 それでも南方は、逆光の中を凝視して影の元へと歩み寄っていく。
 どれだけ遠い影でも、二度と手放さないと決めたのだ。
 門倉は、足下にわだかまる影と共に、逆光の中に立ち尽くしたままでいる。その輪郭は、南方の決意をまるごと取り込もうとしているかのように、深く濡れた黒色をしていた。

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