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一匹の猫

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 鞍馬蘭子から立会依頼が入り、たまたま勤務明けで近場にいた南方に連絡が入り、南方は本部の指示に従って帰りの足で現場に向かった。
 蘭子は、賭郎会員の中でもリスキーなギャンブルにためらわず身を投じる女傑として、よく知られている。業の櫓の三すくみに自ら飛び込んだ胆力は、会員たちの間でも語り草になっているほどだ。
 そんな蘭子から、突発の立会依頼だ。南方はかなり警戒した。どんな無理難題をふっかけられても解決するのが賭郎立会人、南方も並の勝負であれば十全に場を掌握する自信がある。しかし、相手はサーペントの如き女傑だ。どんな波乱があるかわからない。
 急すぎる要請だったので、南方付きの部下は間に合わず、南方一人で赴いた。が、蘭子からは少人数で問題ないと言われている。それが余計に不穏さを醸し出していた。
 蘭子が所有する高級マンションに到着した南方は、腹をくくってからドアをノックした。
 少し間があって、蘭子の部下がドアを開け、南方を招き入れた。レオという、蘭子の側近だ。
「入れ」
 室内は、玄関から奥にかけて全体に暗い。だが、部屋のさらに奥はこうこうと明るく、暗い部屋をうっすら照らしている。
 リビングに入ると、春先の肌寒い夜なのに、室内は人いきれで空気がこもり、むっとする熱気をはらんでいた。4LDKの空間には、生活のにおいが一切ない。一番広いリビングは、備え付けのクローゼット以外に家具らしい家具はなく、代わりにラブホテルのベッドもかくやという丸形のベッドが鎮座している。ベッドの上には若い男女が四人、裸のまま横たわったり、あぐらをかいて座り込んだりしている。他に、カーペット敷きの床にへたり込む女もいた。全員がそれぞれに南方を振り向いたが、誰も彼もぼんやりした目をしていて、反応は鈍い。ドラッグをやっているのだろう。
 その奥、ダイニングキッチンだろう場所で、三人が麻雀卓を囲んでいた。
 和柄のシルク地のガウンを素肌に羽織った格好の鞍馬蘭子。対局には、堅気にしか見えない青年が、脂汗を浮かべて座っている。空いているのはレオの席で、もう一人は鞍馬組の代打ちだろう。仕事として、主人の邪魔をしない程度に打っているようで、後ろ姿に緊迫感がない。金目の物や危険物は見える範囲には見当たらず、青年以外の席の足元には、飲んで捨てた空き缶や飲みかけのジンのボトルが転がっている。蘭子の側にだけ、灰皿を置くためのスツールがあり、灰皿の下に茶封筒が何枚か下敷きになっていた。封筒の端に、消費者金融の名前がプリントされている。
(賭け麻雀か)
 賭博としてメジャーな印象がある麻雀だが、賭郎勝負のゲームとしてあまり好まれない。独自性がないこと、時間がかかること、暴力団のシマと衝突しやすい遊戯であることなどが理由だ。立会人を召喚するのは、麻雀の決着がつかなかったり、結果で揉めたたりした際、別のゲームで仕切り直しする案件が多い。だが、南方がさっと見回した様子では、まだ麻雀勝負の途中に見える。
 蘭子はやってきた南方を振り向くと、「ご苦労さん」と挨拶をよこした。
「勝負の場を預からせていただきます。私、拾陸號立会人…」
「名乗りは要らない。今夜は、場を預かってほしいわけじゃないんだ」
 蘭子は南方の名乗りを遮って、ゆったりと足を組み替えた。対岸に座る男に顎をしゃくってから、だるそうに状況を説明する。
「この兄さんがね。臓器を担保にしてタネ銭を都合したい、とさ。私は構わないけど、負けた時の手続きが面倒だろう? なんで、いざの時はソッチで換金してほしくてね。あと、レオは次局で交代させなきゃならない。フェアな打子が、もうひとり欲しいわけ」
 賭け金の換金手続きと、卓の頭数を揃える目的で呼ばれたと理解し、南方は内心で拍子抜けした。
 緊迫しない勝負の立会は、場数の足りない南方によく回ってくる。妙なテコ入れをせず、淡々と仕事をこなす、南方の面白みのなさをあえて好む会員は結構いる。
 ただ、蘭子もこういう勝負をするのかという驚きがあった。
 くわえ煙草で牌を打つ蘭子の気だるい後ろ姿からは、歯ごたえのない相手にうんざりしているのが伝わってくる。しかし勝負を面白くする演出は求められていない。しかし、ただ牌を動かせればいいわけではない。蘭子の勝負に随伴するなら、それなりに打てなければならない。
 適材は本部にあたれば他にいるだろうが、この場にいるのは己のみだ。勝負の場を掌握するのが立会人の最低限の務めと、棟耶立会人からも薫陶を受けている。
 南方は無言で進み出た。
 本部に連絡せず、レオの後方に控えた南方を一瞥し、蘭子が面白そうにニンマリと笑った。
「アンタが打子するのかい? 立会しながら?」
「勝負には中立。あくまで頭数として勝負に参加し、同時に、立ち会わせていただきます」
 南方の淡々とした返事に、蘭子がクスリと笑う。
「端からベタ打ちなんてつまらないじゃないさ。そうだね、…必ず二位になるように打っとくれ。私とその兄さんの勝負を邪魔せず、だけど最下位にならないように。できるね?」
「はい。承知しました」
 レオもそうしてきたのだろう、レオの点棒を計算しながら状況を把握すべく戦局を観察する。蘭子の忠実な側近は、蘭子とは僅差、相手の青年とは一万点差をつけている。相手に振り込まれても蘭子のトップが揺らがない、いい牽制をしていた。
 終盤、青年は染めを試みつつ、蘭子に振り込ませようと誘ったが、結局果たせなかった。流局し、レオと南方が交代した。
 席についた直後、部屋のどこかからか、なにかの鳴き声が聞こえた気がして、南方が周囲を見回す。赤ん坊の鳴き声にしては弱々しい。
 その声を聞いた蘭子が、配牌を眺めながら呟いた。
「あと、仔猫のお守りもして頂戴」
「仔猫?」
 南方の問いに、蘭子ではなくレオがうなずいた。部屋から出る支度を済ませると、丸形ベッドに歩み寄り、枕元のあたりを探る。片手で掴んだものを持って戻ってくると、南方の懐にそっと下ろす。スーツにしがみついてきたのは、生後半年くらいの仔猫だ。首根っこからレオの手が離れると、南方の体をよじ登ろうとジタバタし始めた。
 どう扱ったものかと思いつつ、首根っこを掴んで持ち上げる。すると、後ろ足でしきりに宙を蹴って余計に泣き出した。片手を尻に添えて腕に抱えてみる。仔猫はどうしても上に登りたいのか、抱えていてもスーツに引っ掛けた四足を踏ん張ろうと弱々しくもがく。
「あの、鞍馬様」
「預かってるんだよ。勝負がつくまで構ってやれないし、かと言ってこの部屋で放ったらかしにしてたら、隙間に入り込むかもしれない。だから、捕まえたまま打子して頂戴」
「はぁ」
 手の中のふわふわした感触と、ダルそうな蘭子のセリフに、南方は拍子抜けした返事をしてしまった。堅気が内臓を賭ける場にはあまりにそぐわない存在だった。そこへ追い打ちとばかり、レオが哺乳瓶を持ってくる。
「中身は猫用ミルクだ」
「……」
 外見と不釣り合いなセリフが、不似合いな低い声から発せられ、南方は吹き出しそうになるのを頬を噛み締めてこらえる。笑いを我慢したと、相手も解っているのだろう。南方をにらみ、不服そうに蘭子を一瞥してから、無言で下がる。ジュラルミンケースを提げて、ベッド周りでふらふらしている男女の裸体を跨ぎ越し、部屋を出ていった。
 あとには、命がけで賭け麻雀に挑む堅気の青年、勝負に身の入っていない蘭子、仔猫、クスリでトリップしている男女たち、が残った。部屋は富裕層の家庭向けの間取りで、照明や部屋の内装は健全な明るさだった。テレビや音楽がない代わり、ベッドで身じろぎする男女のだるそうな息遣いや、脈絡のない小声の会話がBGMになっている。その間に響く、仔猫の鳴き声。すべてが混沌としている。
 蘭子が吸いかけのメンソールを、椅子の横においたスツール上の灰皿に押し付けてもみ消した。
「次の半荘でお仕舞いだ。覚悟を決めて、後悔しないようにね」
 蘭子の挑発に、青年がぎっと視線を上げた。視線はそのまま、蘭子の肩越し、ベッドにうずくまる人間たちに向けられる。その一瞥で、彼の目的があのうごめく男女の誰かを連れ帰ることだと、南方は確信した。
 蘭子が南方の視線に気づいて、小首を傾げつつ顔を覗き込んできた。
「事情を聞きたいのかい?」
「……いえ。立会に関係ない事柄ですので」
 南方の返答に、蘭子は目を細める。
 蘭子の質問は踏み絵だった。南方は危なげなくその踏み絵を踏んだ。勝負の場にある時、南方は賭郎立会人、本職とは無関係の男だ。あの男女たちがどういった経緯でこの部屋に居るのか、勘ぐる資格を持たない。原則として肌身離さずの警察手帳だが、立会人制服を着る時だけは、容易に取り出せない場所に仕舞ってあったし、持っていると意識しないようにしている。
 配牌を整えていると、腹と腕の間で押さえている仔猫が、力強くもがく。短く鳴いて、南方の腕から逃げたがっている。猫に気を取られながら、勝負の進行も見届ける、なかなか厳しいハンデだ。しかし、これが蘭子の仕掛けたテストなら、立会人として応じるべきだ。
「ドラを見せな」
 蘭子に指示され、南方が山場の牌をひっくり返す。南場の親は青年だった。南方は温かく蠢くいきものを抱えつつ、冷たい牌を指先で撫でた。  
 
 

 

 三局目の最後、蘭子が迂闊にも青年に振り込んでしまい、蘭子と南方の順位がひっくり返った。それまで淡々と流れてきた勝負の潮目が一気に変わったのを、南方は肌で感じていた。
 適当に受け流すつもりの蘭子、指示された通り降りもしないが勝ちにもいかない南方や代打ちと違い、絶対に勝って抜け出してみせるという意志の力が働いているのだ。運は意気込みに左右されないが、勝負の流れは意志の強さが作用することがある。
「俄然おもしろくなってきたねえ」
 全自動卓ではないので、洗牌・積みの手順が挟まる。麻雀牌をチャカチャカとかき回しながら、何故か蘭子は機嫌が良い。南方はその表情や、青年の顔色や視線の動きを注意深く観察する。
 ここまで、南方に過失はない。だが、オーラスで蘭子をうまく上がらせなくては、要望に応えたことにならない。南方は自分の点棒と蘭子の点棒を確認し、配牌に集中する。その手首に、仔猫の手がじゃれついてくる。チッチッと肌を引っ掻く弱い爪の感触がくすぐったく、南方は奥歯を噛み締めた。
(だいたい、猫を抱えて賭け麻雀しろって、どういう心理なんだ)
 蘭子がまともに勝負していないのは、とっくに解っている。だが、どんな事情でこの場が設けられたか憶測しかできない以上、蘭子の戦意のなさが芝居か本心か、見極めるのは難しい。
 聞き耳を立てる南方に、のんびりと山を積みながら蘭子が口を挟んだ。
「その子さあ、おなか空かしてんじゃないかい? さっきから、ミルクの置いてある方にちょっかいかけてるようだけど」
 確かに、蘭子の言う通りだった。南方は牌を揃え終えると、哺乳瓶を仔猫の口元にあてがってみた。鼻をひくつかせていた仔猫は、哺乳瓶の先が近づいた途端、ぱかっと口をあけて吸い付いた。そのまま、猛然と中身を吸い始める。
「ほらね」
 蘭子が得意げに言う。南方の位置にはレオが座っていたので、彼に話しかける癖で口にしてしまったらしい。
 仔猫は、南方にちょっかいをかけていた手を握ったり開いたりしながら、時々目を細めて、息もつかさず飲んでいる。その様子に、仔猫を眺めていた蘭子がしみじみとうそぶいた。
「必死に生きてるって感じだねえ」
 そうして、対局に座る青年を見た。脂汗を浮かべていた顔色は、プレッシャーのあまり真っ白だ。唇も震えている。が、眼差しはしっかり据わって、蘭子を睨みつけている。おお怖い、とおどける蘭子に、ずっと無言だった青年が口を開いた。
「お前たちに勝ったら、妹と無傷で帰れる。邪魔はしない。違えるなよ」
「堅気との取り決めを違えやしないよ」
 青年が牌を切る。南方は仔猫にミルクを飲ませながら、自分の牌を切る。相変わらず南方だけ異様な状況だが、人間は慣れる生き物だ。
 最終局に入り、順位は意図せず南方がトップ、青年と蘭子の点差は千点ほどだ。蘭子は勝ちにいくだろう。そろそろ換金の手続きのため人を呼ぶべきだが、仔猫と牌とで手が塞がっている。
 南方は仕方なく、哺乳瓶を仔猫から取り上げて携帯を取り出そうとした。が、素振りに気づいた蘭子が口をとがらせた。
「まだ飲んでるじゃないかい。全部飲ませてやりなよ」
「……」
 南方は仕方なく、片手を仔猫に添えたまま、場の流れを見守る。
 鞍馬組の代打ちは防戦、青年に振り込まれないように、慎重なベタ打ちに徹している。青年は蘭子の捨て牌を凝視しながら、目まぐるしく思考し続けている。
 青年は勝負を捨てていない、むしろ逆転を狙って息詰まる狂気を漂わせている。なのに、蠢く仔猫の頼り無さと青年の存在感では、仔猫の方が生き生きしている。不思議な空気だが、南方には馴染みある感覚だった。
 青年は、もはや半分死人だ。
 こういう人間を、南方もよく見てきた。立会人になる前、門倉と再会するまでの間に、組織の中で、組織の外で、よく見かけた。彼らを見るたびに、自分は半分死人の連中とは違う、と言い聞かせていた。
 いずれ機関全体を司る心臓部を担うのだ、かつて故郷でそうだったように──。繰り返し言い聞かせ、思い込み、半ば信じかけていた。だが振り返ってみれば、あの頃の自分は彼らと同じ、半ば死んだも同然の何かだった。
 死んだも同然だった魂は、門倉の拳に滅多打ちにされ、蘇生した。門倉と相対して負けた瞬間、南方は息を吹き返したのだ。殴られて気絶した後、目覚めて吸いこんだ最初の呼吸が、あまりに冷たく冴え冴えとしていて、死にかけていた全身が震えた。南方は、血管を流れる血がふつふつと滾る音を、十数年ぶりに聞いた。ぼやけて久しかった生の実感を、はっきりと掴んだ。
 そういう、生きる意思のまざまざした手応えを、抱えているふわふわした仔猫にも感じる。
 哺乳瓶は、いつの間にか軽くなっていた。こんな小さな体のどこに、と思えたが、仔猫の腹が見て分かるくらい膨れ上がっているのに気づき、無意識に表情が緩む。
 これで立会人の務めを完璧に果たせると、勝負に集中しようと姿勢を正す。巡はすでに回っているが、まだ勝敗を決めるまではいっていない。
 南方がドラと手牌を再確認しようとした瞬間、腕でやんわり押さえていた仔猫が、ぬるっと腕の間から這い出た。
「あっ」
 頭を押さえようとしたが、仔猫が元気よく麻雀卓に飛び乗るのが先だった。南方の牌を倒し、山牌を崩し、蘭子の手牌も蹴っ飛ばして、緑の雀卓に闖入した仔猫は、縦横無尽に体を伸ばし、伸ばした手の先で青年の牌にじゃれつき、ひっくり返す。
「……」
「……」
「……」
 代打ちが小声で「あーあ」と呆れ気味にため息をつく。その声に応じるように、仔猫は前足をぐいんと伸ばした。
 南方は思わず固唾をのんだ。蘭子の依頼は、勝負を見届けること。そして、仔猫のおもりをすること。いずれも、一瞬の油断でめちゃくちゃになってしまったのだ。
 見た目よりずっと長い体を雀卓の上で伸ばしている仔猫から、隣の蘭子にそっと視線を移す。
 蛇の冷徹なひと睨みを予想していた南方だが、意外にも蘭子はきょとんとした顔で仔猫を見ていた。そして、突然弾けたように笑いだした。
「アッハハハ! いいね、南方立会人、アンタ最高だよ。ああ、おかしいったら」
「く、鞍馬様、申し訳……」
 シルクガウン一枚羽織っただけの蘭子は、体全体を揺すって腹から笑い転げてから、気が済んだようにふーと息をついた。タバコを銜えると、代打ちの男がさっと火を付ける。
「はー、どうしたもんかと思ってたけど、仔猫をこうされるとはね、思ってもみなかったよ。偶然にしたってアンタ、いい仕事してくれるじゃないか」
「え……」
 今度は南方が呆然とする番だった。呆気にとられている南方を一瞥し、蘭子は深々と一服する。
「仔猫のいたずらじゃ、仕方ないねえ」
「……! 待ってくれ、仕切り直してくれ!」
 勝負をなかったことにされると思いこみ、青年が立ち上がって叫んだ。そのまま、蘭子に掴みかかろうとする。南方は素早く席を蹴り、青年の手を片手で遮った。勝負は麻雀と決めているなら、暴力は許されない。遮った南方に青年が唸り、喚こうと胸を反らす。
 その青ざめた鼻先に、蘭子がつややかな唇から紫煙を吹きかけた。
「最後まで聞きな。勝負はこっちの落ち度でご破産だ、アンタはもういいよ」
「な、なに」
「あっちの群れから、自分の連れ合いを連れて、お家にお帰り」
 完全に戦意を無くした蘭子が、まだ笑いの残る顔でベッドの方を振り向いた。青年は何を言われたかにわかに理解できず、蘭子の喉めがけて伸ばした手から力を抜けずにいる。南方は蘭子を見やり、今の言葉に嘘や罠がないと確認してから、青年の隣へゆっくり移動した。掴んだ手を後ろにねじりつつ、ベッドの方向に向き直らせる。
「鞍馬様の発言が翻らないこと、我々賭郎が保証しよう。お前の目的を果たして、部屋から立ち去るといい」
 静かに諭し、雀卓から離れるよう促す。南方に押されて一歩、二歩と踏み出した青年は、蘭子を注意深く振り向いた。疑う青年の視線に、蘭子は肩をすくめてみせる。
「気が変わらないうちに、さっさとしな」
 そう言われ、青年は突然我に返った。顔面にどっと冷や汗を吹き出してわなわな震え、転びそうな足取りでベッドに駆け寄る。ベッド脇にうずくまっている女の肩を掴むと、名前を呼んで揺さぶった。女の反応は緩慢としていたが、名を呼ばれてちゃんと自分だと解ったようだった。
 青年は、朦朧としている相手を立ち上がらせて、何事か囁きながら肩を抱き、玄関に向かう。蘭子や南方を警戒しながら、ジリジリと離れていく青年に、南方は蘭子を振り向いた。
「鞍馬様。恐縮なお願いですが、上着などお持ちでしたら、賭郎で買い取らせていただけませんか」
 女は薄手のネグリジェ一枚で、下着もつけていなかった。青年のジャンパーを羽織ったとしても、目立ちすぎる。南方の意図を汲んだ蘭子は、煙草を挟んだ指で壁側を指した。
「金はいいよ。あっちのクローゼットから、勝手に持っていきな。もう着ない服ばかりだから」
「お気遣い、痛み入ります」
 南方は一礼し、蘭子のクローゼットから厚手のロングコートを引っ張り出した。後ずさりながらドアに向かう青年に歩み寄ると、ふらつく女性の肩に掛けてやる。警戒する青年を見やり、懐から取り出したメモに素早くペンを走らせて、それを女の手にしっかり握らせた。
「困ったら、この番号に掛けるといい」
「……」
 握らされたメモを取り上げて確認した青年は、ぽかんとして南方を見上げる。所轄の生安直通の電話番号と、懇意にしている巡査部長の名前を書き付けてある。南方が警察官と知って、青年は信じられないものでも見るように南方を、そして蘭子を見た。
 これは立会人としてふさわしくない振る舞いだ。南方も、自覚していた。だが、黒服の部下はおらず、話の分かりそうな会員と、会員の子飼いの代打ちが一人、あとは酩酊している人間と、仔猫だけ。これくらいの越権行為は見逃されるだろう。見逃されなくても、責めを負う覚悟はあった。
 不揃いな足音が遠ざかり、オートロックの重たいドアがゆっくりと閉まる。堅気の人間がいなくなると、場の空気が一気にたわんだ。
 南方は蘭子に向き直ると、きびきびと頭を下げる。
「鞍馬様、申し訳ありません。本日の立会の不始末については、本部に申し立ていただければと」
「なんだい。てっきり、あたしの意図を汲んでくれたんだと思ったのに」
 ふと笑い応えた蘭子は、雀卓でころんころんとひっくり返る仔猫をつまみ上げて、胸の間に抱きしめる。柔らかく、小さなぬくもりを満喫すると、ひょいと南方に向かって差し出した。
「悪いと思ってんなら、この子の里親はアンタが探しておくれ」
「鞍馬様の猫では?」
「いや。知り合いから里親探しを頼まれてんだけど、あいにくアテがなくてねえ。レオを走らせてるが、アンタの方が堅気に知り合いがいそうだし」
 差し出された仔猫を受け取り、南方は「はあ、それはまあ」と応えた。
 勝負をぶち壊されたのを責められるかと思いきや、どうやらあの青年から金を巻き上げるつもりはなかったらしい。ただ、何もなしで返すのは鞍馬組の看板が許さない。場を設けて筋を通す、そのために立会人を召喚したのだ。
 トリップしている男女については、ややこしい裏があるのだろう。蘭子のことだ、この後の手配もすべて終えているに違いない。
 もしかして、と南方は思う。
(俺の本職を解っていて、あえて俺が来るよう、手配したのか?)
 蘭子の表情から読み取るのは難しかった。猫の引き取り手の話ですら、本当かどうか解らない。
 仔猫は、腹が膨れ存分に動いて満足したのか、南方の手の中ですこんと寝入っていた。脱力しても重みが変わらない。か弱い重さだが、寝息は力強い。ロングジャケットの懐に抱きかかえて心臓の上あたりに置くと、生き物特有の安心感があった。
 蘭子が椅子から立ち上がり、ぐいと伸びをする。卓を片付ける代打ちに、気の抜けきった声で告げた。
「帰るのも面倒だし、この子らのこともあるし、今夜はここに泊まるから。レオに言っておいて」
「承知しました」
「南方立会人も。さっさと帰って、その子の寝床を用意してあげな」
「はい」
 一礼し、ぐったりしている男女の人相をそれとなく頭に叩き込みながら、部屋を後にする。
 時計を見ると、夜中三時になろうとしていた。一番冷え込む夜明け前まで二時間少し、厚手のロングジャケットでは肌寒い夜気だ。おかげで、仔猫の体温がいっそうありがたく思える。
 登録してあるタクシー会社に電話しながら、完全に寝静まった通りを歩く。このあたりの住民は、あんな混沌とした部屋が存在しているなど、想像だにせず、昨日と同じ朝を迎えるのだろう。  
 
 
 
 

 タクシーを降りて部屋に帰り着くと、リビングの電気が点いていた。見覚えある革靴が一揃え、脱いである。
「門倉、来とるんか?」
 旧知の門倉は、連絡なしにふらっとやって来て、上がり込んでいることがある。一応、いつ来ても良いという意味で合鍵を渡したのだが、事前に連絡を寄越してから来たためしがない。なので、南方はいつも突然やって来た門倉をもてなすのに、後手後手になる。もてなして欲しゅうて来とるんじゃなぁわ、と門倉は笑い飛ばすが、放ったらかしておくとそれはそれでつまらないらしい。ある日、やって来た門倉に「勝手にしとってええよ」と言って放っておいたら、置いてあった酒という酒を飲み尽くして帰っていった。それで、居る以上は居るものとして扱われたくはあるのだな、と察した。
 構わなくていいが放っておくなという匙加減を求められて、南方はまあまあ悪い気がしていない。多分、部下の黒服たちや、他の立会人には、こんな態度を見せないだろう。そんな自惚れがあった。
 靴を脱いで、くたびれた身体のままリビングに入る。抱えていた仔猫がもぞもぞ暴れ出したので、床に下ろしてやった。盛んに鳴いて、半分飛び跳ねるみたいに走っていく。匂いや空気が変わったので驚いているらしい。
 門倉はソファベッドを倒して、上に丸まって眠っていた。南方の部屋着を勝手に着ているのを見て、部屋を見回す。案の定、賭郎の黒服が一式、ハンガーにかかっている。南方が突発の立会で遅くなると知らず、通常業務を済ませて立ち寄り、一人晩酌しながら待っていたのだろう。ローテーブルには空のグラスや空き缶、つまみの残った皿が置いてある。仔猫が匂いの強いさきいかの皿を窺っているのを見て、「ダメだぞ」と言って抱え上げた。
 ケージはないが、空き箱くらいならあるはずだ。寝床をこしらえてやって、と思いつつ部屋をうろついていると、ソファの門倉がむくりと起き上がった。
「起こしたか」
「いつ帰ったん……」
「今しがたな。すまんが、上の空き箱を取ってくれんか」
 寝起きの門倉は、機嫌がいい時と悪い時の振り幅がひどく、おまけに話しかけてみないとどっちに振り切れているか解らない。南方の要求に不穏な沈黙で応じた門倉だが、不機嫌な空気に身構えて仔猫が鳴き出すと、目を瞬かせて、南方の手元をじっと見つめた。
「猫? 拾うたん?」
「いや、ちょっとあって、押しつけられてな」
 南方の出で立ちが立会人の制服だと認識して、門倉はがしがしと頭を掻いた。まだ寝ている意識を覚醒させようとする時の癖だ。
「またお人好しにつけ込まれたんじゃろ。飼うんか? おどれが?」
「里親を探すんじゃ。庁内でちいと声かければ誰かしら見つかるけん、今だけ預かっとく」
「ほーん。公僕に助け求められるんは、心強いのお~」
 南方の、表向きの立場を揶揄するのは、門倉の定型文になりつつある。南方が指さす棚の上の空き箱をひょいと下ろすと、中を開けた。靴か服が入っていた箱で、深さは心許ないが大きさはちょうど良い。
 仔猫は、門倉の匂いか気配が気に入らないのか、フーッ、シャーッと歯を剥き出し、毛を逆立てて威嚇している。門倉は背中を屈ませて仔猫と目線の高さを揃えると、人差し指で小さな額をくるくると撫でた。
「いいメンチ切るのぉ。ワシの舎弟になるか?」
 返事の代わりか、仔猫は頭を押さえる門倉の人差し指を前足ではっしと掴んだ。噛みつこうと首を傾げたり伸ばしたりするを見て、指を差し出し、甘噛みさせる。
 目下を可愛がる表情で猫に構う門倉に、南方が猫を乗り移らせようと腕を開いた。そうして、空き箱と仔猫を交換する。
「ふかふかのベッドにしたれよ」
「わかっとる」
 南方が、使っていないタオルを敷き詰めて、仔猫の寝床の準備をしている間、門倉は仔猫を身体をよじ登らせ、掴んで引き下ろしては、また登らせるのを繰り返した。床に下ろすと脚を上ってくる仔猫に、ほれほれ、とかけ声をかけながら、脚を水平にして面白がる。一見、乱暴なあやし方だが、猫はまるで意に介していない。門倉を動く電柱くらいに思っているのかもしれない。仔猫といっても、もう足腰は据わっているくらいの大きさだ、門倉のゆっくりした動きに振り解かれる心配はない。
 仔猫とじゃれる門倉に、南方は一応、確認した。
「門倉、もしかして飼う気か?」
「飼えんよ。いつ死ぬか分からん人間が、犬猫飼うたらいけん」
「……じゃな」
 さらりときな臭い未来の可能性を示唆する門倉に、南方の返事は一拍遅れた。
 門倉は脚にくっついた猫を両手で抱き上げると、空いた脚で寝床をこしらえている南方の背中を軽く蹴っ飛ばす。蹴られた南方は、屈んだまま門倉を睨め上げた。
「なんじゃ」
「それはワシの台詞じゃ。まあ、ええけど」
 門倉は、南方が支度した仮の寝床に仔猫を下ろしてやると、隣に屈んで、小さな身体を両手でくすぐるように撫で回した。
「寂しいかもしれんが、お前はここで寝とこうね。こいつの寝相、最悪じゃけん。踏み潰されたら可哀想じゃ」
 門倉がこれ見よがしに当てこするのを聞いて、立ち上がった南方は閉口する。
 隣で寝ている門倉を抱えていたはずが、寝相の弾みで蹴っ飛ばしたのは先週のことだ。熟睡していたらベッドから蹴り出され、驚いて飛び起きた。無言で睨む門倉に、そのときは何やらよく分からず、解らないまま寝かしつける態度で門倉を布団の中に引き込んで寝かしつけ、有耶無耶にしてしまった。寝かしつけた事も含めて、全部気に入らなかったらしい。
「猫にまで擦らんでもええじゃろ」
「畜生相手じゃから擦るんじゃろ。なに聞いても、にゃあとしか言えん。仔猫の耳は猫様の耳ってのぉ」
 コイツ犬のくせに躾がなっとらんのよ、などと猫に言い聞かせる門倉に、南方は首を振って内心で言い返した。
(ワシが犬なら、おどれはドラ猫じゃ)
 門倉がぴくりと肩をふるわせ、ゆるりと見上げてくる。内心で呟いたはずなのに、耳ざとく聞きつけたような反応をされ、南方は口を引き結んだ。仔猫の前でヤンキー座りをした門倉が睨め上げてくる。その格好に、柔らかな懐かしさと一抹の畏怖が過る。
 下ろした髪の間から焦点のややズレる左目が凝っと見つめてきた。南方をしばらく見つめていた門倉は、やがて不気味な猫笑いチェシャー・キャット・スマイルを浮かべてみせた。
「出社まで、まだ時間あるんじゃろ?」
「あ、ああ」
 立ち上がった門倉が、リードよろしくネクタイを掴む。南方の前髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して下ろすと、その手で顎を鷲掴みにしてきた。突き出させた口にがぶりと噛みついてひと舐めし、ジャケットの襟に手を滑らせる。
「したら、表に放す前にちくっと躾けたろうね」
 そう囁いて笑う門倉に、南方は喉で唸って横顔を見やった。どっちがどっちを、と言いたげに顔をしかめた南方に、門倉は猫がするのとそっくり同じ動きで、南方の脚の間に自分の脹ら脛をするりと滑り込ませた。

[了]

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