夕方前、「今夜用事の後にちくっと寄っていいか」と私用携帯にメッセージが来て、南方は事務作業もそこそこに定時で庁舎を脱出した。
上司が予定外の定時上がりで部下たちは困るかもしれないが、常日頃から上司不在を言い訳にしていいので、早く上がれるときは上がるように言い含めている。南方たち公僕にとって、定時上がりは、早退や半休の体感だ。部下も喜んでくれるだろう。
門倉が連絡してくるとき、賭郎関係なら仕事、生計のためにやっている表の稼業なら用事と表す。連絡の文面から、賭郎の仕事は入っておらず表の仕事も片付いたと読み取れる。
賭郎の予定がない日の門倉は、職業不明の自由人な暮らしをしている。南方の帰り時間に合わせて訪れるとは限らない。合鍵を受け取ってからは、南方に連絡せず好き勝手に出入りしているらしかった。連絡があっても、家主の居ないときに来て、家主の帰りを待たずに引き上げることもしばしばある。
この半月、プライベートで門倉と顔を合わせる機会がなかった南方は、千載一遇のチャンスをどうしても逃したくなかった。かといって「帰るな」とは言えない。言ったところで、気が乗らなければ構わず帰るのが門倉という男だ。
南方の内には今でも門倉に対する独占欲や征服欲が燻っている。越えられないと解りながら、肩を並べ、挑む立ち位置を譲りたくない心がある。そんな南方の心中を分かっているのかしないのか、門倉は無下な態度を取ったり、やたら気安い距離で接してきたりしては、南方を翻弄する。
ただ、南方が束縛したい素振りを見せると、露骨な呆れ顔を向けてくる。
「なにを不安がっとるんじゃ、ケツ穴の小さい男じゃのお」
そう言う門倉に、南方はいつも物申したい気持ちになるのだが、本心を未だに打ち明けられずにいる。
二十年前。本当の意味で門倉を倒せず、弱者として見限られたのは、仕方ないことだ。当時の南方も、力及ばない己を憎みこそすれ、街を出て行った門倉を憎みはしなかった。なにより、門倉は街を捨てる理由を腹蔵なく打ち明けてくれた。だから、南方も追いかけようがあった。
だが、地下迷宮で死に瀕したのは話が違う。門倉にとっても不測の事態だっただろう、暴によって落命する事態すら己の力量として受け入れる覚悟を求める、賭郎の容赦無さと、門倉が殉じる信念に、打ちのめされた。
同時に、取り返しの付かない形で置いて逝かれたらと想像すると、とても耐えられなかった。あんな形で置き去りにされたらと思うと、繋ぎ止めておきたくなるのは人情というものだ。なんなら、自分の首に縄をつけて道連れにしてくれ、とさえ思う。
こういう必死さが伝わっているのか、いないのか。
もし、後ろ向きな覚悟を事細かに打ち明けたなら、門倉はやはり呆れ顔で「アホらしい」と一蹴しそうな気がする。誰が簡単に死ぬかよ。そう笑い飛ばしてほしい。どこまでも道連れじゃ。そう引導を渡して欲しい。真逆の感情が、ないまぜになってしまう。
(しばらく顔を見んとこれじゃ……じゃけぇアイツに笑われるんじゃ)
ごちゃごちゃ考えている間に、自室のあるマンションに着いていた。門倉がまだ来ていないことを祈りつつ、急いで部屋に向かう。
ドアを開けた瞬間に、もう門倉が来ていると察した。靴が見えたからもあるが、部屋が無人の空気でなくなっていたせいだった。ボリュームを落としたテレビの音、リビングの照明、あと家主の所在を改めただろう、バスルームや寝室のドアを開け閉めした痕跡。
リビングに入ると、二人がけソファに座る門倉が見えた。
「おー。おつかれさん」
「待たせたか?」
「今来たとこ」
答えた門倉はソファに膝立ちになり、背もたれから上体を乗り出してキッチンテーブルを指した。
「部下が実家から送ってきたとかで、もろうたんじゃ。ひとりじゃ食べきれんから、おすそ分け」
ずいぶんとのどかな用件で、南方は「ほうか」と少し相好を崩してしまった。紙袋に入った大きめのタッパーを取り出して、中身を改める。
「広島菜か?」
「そ。ワシが漬けた」
門倉を振り向く。ニコリと微笑む門倉に、南方は思わず呟いた。
「われ、料理やらするんじゃのぉ」
「売っとんのか? 立会人たるもの完璧を体現するのが責務。一般常識は一通り仕込まれとるわ。料理くらい、お茶の子さいさいじゃ」
(……おどれ、今まで自炊できる素振り皆無じゃったろう!?)
南方が立会人になり、めっきり親密な間柄になった門倉だが、完璧を標榜する彼の炊事能力をお披露目された試しがない。この部屋で何か食べるときは、南方が作るか、買ってくるか、出前を取るか、いずれかだった。門倉が調達してくるのは、いつも酒だけだ。
能ある鷹は爪を隠す。もしかすると、立会人として贔屓気味の斑目ファミリー──裏のお屋形様一派には、手料理くらい振る舞っているかもしれない。にしては、何度か世間話したことがある斑目や梶からは、門倉の料理評を聞いたことがないし、他の立会人からも聞いた試しがない。特に口さがない弥鱈からは、上手くても下手でも何かしらコメントがありそうなものである。
(門倉、おどれ騙っとるんじゃ……)
あれこれ疑惑がよぎる。だが、余計なことを言って、どこか自慢げで機嫌の良い門倉に水を指すのも気が悪いので、黙っておいた。
タッパーを開けると、実家でよく食べた広島菜漬けの匂いがして、思わず呟く。
「ほっ、懐かしいのお!」
「そうじゃろ? われが懐かしがると思って、わざわざ拵えてやったんじゃ」
「こっちじゃ、とんと見かけんからなあ」
得意げな門倉に、南方の顔がまずまず緩む。ただの漬物、されど漬物だ。門倉の手料理に違いはない。
ありがたがる南方を見て満足げな門倉だったが、南方が大事そうに冷蔵庫に仕舞おうとしたのを見て、ソファから身を乗り出した。
「仕舞うやつがあるか。せっかくじゃ。なんか気の利いたもん作れ」
「……」
南方の脳裏に亭主関白の四文字が過る。
小さいことだが、南方は、少なくともこの部屋では自分が亭主のつもりでいた。しかし、とんだ思い違いかもしれない。そもそもジェンダーロールの話自体が無意味だ。門倉はいつだって、他人のあこがれを背中で受けつつ先を行く、いっとう強い男前なのだ。その在り方を前に、肩書だの役割だの、なんの意味もない。
「南方?」
南方が胸中でああだこうだと自分に折り合いをつけていると、門倉が怪訝そうに首をひねった。ソファの背もたれに寄りかかって頬杖をついた格好は、髪を下ろしたうえにカジュアルな私服と相まって、愛嬌のかたまりだった。立会人をしているときの、破滅を予感させる蠱惑さが嘘のようだ。
「作ってくれんの?」
「う……。簡単なもんしか作れんぞ」
「簡単でええよ。南方の雑な飯、好きじゃけぇ」
好き、とシンプルにおだてられて南方はいっそうしまりのない顔になる。
立会では底知れなさを漂わせるくせ、オフでは愛嬌があり、おまけに人を転がすのも上手いときた。南方は内心で降参のバンザイをしつつ、ジャケットを脱いでキッチンに立つ。
ここ数日は外食に頼りきりだったのでろくな食材が無かったが、無いなら無いなりに作るのが南方の自炊だ。パスタを茹で、ツナ缶と、買い置きして忘れていたしめじと、広島菜を刻んで適当なパスタソースを作る。ちらっと味見した広島菜は、だいぶ塩気が強かった。これは贔屓目の感想だ。実家で食べていた味を思い出すに、漬けすぎの部類だった。味見しとらんのじゃろうのう、と内心で苦笑いする。
オリーブオイルで和えたソースに茹で上がったパスタを投入すると、ぺたぺたと足音をさせて門倉が後ろから歩み寄ってきた。フライパンを揺する南方の肩越しに、ぬっと覗き込んでくる。
「肉がない」
「すまんな、肉はない」
「エリート様はヘルシー志向なんじゃねえ~」
「ツナ缶入れとるじゃろ、魚肉で我慢せえ」
不満げな門倉をたしなめつつ、棚から皿を用意して盛り付ける。すっかり主夫の様相だなと思いつつ、門倉の皿に気持ち多めに盛り付けておいた。
キッチンテーブルに皿を置くと、門倉は二人分の皿を持ってリビングのローテーブルに運んでしまう。門倉はダークな配色のガラス製ローテーブルを、小洒落たちゃぶ台と思っているふしがあり、食事も酒盛りもローテーブルでしたがるのだ。すっかりテーブル生活に慣れ親しんでいた南方だが、最近は胡座かいて座る快適さに慣らされつつある。
「うまそうじゃのお~」
南方が急いで、ビールとフォークと箸を持って追いかける。カトラリーを置くと、門倉は迷わず箸を選んだ。いただきますの一言と同時に、音を立ててパスタをほおばる。一口目で味を吟味してから、無言でぞっぞっと啜り始めた。
外で食べるときの門倉は、ラフな場でも品があり、TPOに合わせたテーブルマナーまで完璧なのに、南方の部屋で食事にありつく時は、行儀と無縁な食べ方をしがちだ。それでいて、見苦しくはない。寛いだ食べ方とでも言えばいいのだろうか。なんの遠慮もない自由な食べっぷりだった。勝手知ったる同級生の家で夕食にありつくかのような行儀の悪さには、密な親近感が込められている気がする。部下の前でも見せない、飾らない姿を見ると、南方はどうしても浮かれてしまう。自分の前で、好きなように飲み食いする門倉が、愛おしくてならない。
南方は、何度目になるか解らない門倉への愛おしさを噛み締めつつ、自作のパスタを啜る。味は悪くないが、肉がないので旨味に欠ける気がした。
「どうじゃ?」
味の感想を求めると、門倉は頬張ったまま二度三度頷き、飲み込んでから「美味い」と呟く。
「歯車やっとるだけあって、適当に作らしても旨くするもんじゃのぉ」
「歯車関係ないじゃろが。まぁ、口に合うたなら良かった」
本心から良かったという気持ちを込めて頷き、南方は黙々と食事を再開した。適当につけたテレビを見つつ咀嚼していると、不意に門倉が箸を置く。
どうかしたのかと視線で振り向くと、斜め隣に座っていた門倉がテーブルに手をついて腰を浮かせ、上体を伸ばしてきた。あっという間に南方の鼻先まで顔を近づける。間近に迫った門倉の美貌に、頬張った料理をゴクリと飲み込む。嚥下するのを待ち構えていたように、門倉が片手で顎を掴んで唇を押し付けてきた。
オリーブオイルの風味と塩っ辛い菜漬の味とでベタベタした舌で口を舐め取られ、南方はフォークを取り落とす。
短いキスの後、門倉は南方の顔を改まって覗き込んで、いたずらっぽく笑ってみせた。
「この部屋に帰ってきたら、われの飯が食える。そがいな生活も悪うないかもしれんなあ」
「! 門倉、それは……」
もしや同棲の提案か、と南方が腰を浮かしかけた。が、門倉は南方の期待を余所に言葉を続ける。
「でも歯車しとるわれじゃ、飯作るどころか帰ってくるかも怪しい。無理な話じゃ」
「門倉ぁ~……」
本職の多忙さを言われてしまうと、反論しようがない。情けない声を上げた南方に、門倉はケラケラと笑ってから、哀愁漂う額を指先で押しやった。
「じゃけぇ、ワシが時々なんか持ってきて、われがちゃっちゃとツマミ作る、それくらいでええと違う?それが月イチになるか週一になるか、毎日になるか、わからんけど」
「門倉……!」
脳裏に通い妻の文字が過り、脳内の降参ポーズがガッツポーズになる。南方はローテーブルを挟んで身を乗り出し、門倉に抱きつこうとした。しかし、門倉は感極まって泣き出しそうな南方の顔を、片手で鷲掴みにして阻んだ。ふが、と呻いた南方は、それでも門倉の手触りを求めて、両手をジタバタさせている。
「落ち着かんかい、まだワシが食うとるじゃろ!」
「うっ……そうじゃった、スマン……」
のぼせて暴走しかけた南方だったが、ピシャリと叱られて大人しく着席する。しおしおとしょぼくれて、言われてもないのに正座する南方の態度に、門倉は露骨に呆れたため息をついた。頬杖をついて、箸先でパスタをかき回す。
「おどれ、仕事のときはしゃんとしとるのに、二人きりになったら格好付かんのは、なんなんじゃ」
「う……」
南方は言い淀む。再会してすぐ死に瀕した門倉がトラウマになっていると打ち明けたら、愛想を尽かされるかもしれない。口を引き結んでいると、門倉がパチンと音をさせて箸を置いた。腰の引けた身内に苛立つ不機嫌な空気を剥き出しにして、南方を睨み付ける。
「オイ」
「……」
南方は姿勢を正すと、正座のまま体ごと門倉に向き直った。真っ向見つめて、腹にわだかまる怯懦を余さず吐き出す。
「俺は、お前を失いたくない。賭郎の立会人である以上、避けられない時が来るかもしれないと承知してる。それでも、お前に置いて逝かれるのを思うと、たまらない気持ちになる」
「……」
「嗤え。ワシの、しょうもない怖れを、嗤うてくれ」
かしこまった口調ですべて打ち明けてしまうと、最後に自嘲が浮かんだ。門倉が呆れを通り越して愛想を尽かす様を想像し、手を握りしめる。門倉の眼差しをきちんと受け止ると腹をくくっていたのに、結局俯いてしまい、目を上げるタイミングを見失う。
はあ、とため息が聞こえてから、視線を俯かせた南方の額に、容赦ないデコピンが炸裂した。痛っ、と声を上げて振り向くと、門倉は笑っていた。
「死ぬるなぁ、ワシも怖い。時が来たら、そん時じゃ。でもな、南方。おどれを一人にゃあせん。……せんよ、南方。置いてかれるなぁ、つらい。ワシもよう知っとる」
額を弾き飛ばした手を開くと、南方の前髪をくしゃくしゃと撫で回した。雑な手つきに込められた理不尽への諦観が、南方の知らない過去に経験しただろう、やるかたない離別の傷を想像させる。今の答えを笑って言い放てるようになるまでの二十年、門倉がどんな傷を負ったのかを思うと、南方は言葉が無かった。
南方が頭を撫でた手を取り、握りしめる。抱き寄せようと腕を伸ばすと、今度は門倉も拒まなかった。門倉の隣で同じ泥を被る身になっても南方の核は変わりなく、門倉の魂とうまく噛み合わない凹凸をしている。ただ門倉には、しっくり馴染む誰かより、ずっと快い抱き心地をしていた。
言葉なくただ抱擁する南方にされるがままでいた門倉だったが、しばらくして腕を叩く。離すよう促され、南方が素直に腕を解いた。
「……もうええか?」
「え?」
「もう、ええんじゃな」
念押しされ、南方は頷く。もう二度と、喪失の未来に心が竦むことはない、そう言い切れる。南方は真剣な顔で、門倉を見つめた。
しかし、門倉は南方の態度を余所に、ローテーブルに向き直ると、おもむろに南方の皿から残りのパスタを掻っ攫っていった。「もういいか」の指示語が、自分の情緒ではなく料理にかかっていたと気づいて、南方が唖然とする。門倉はまったく悪びれず、南方の皿から横取りした分を旨そうに腹に収めていく。
横から強奪した分まで食べ終えた門倉は、満足げに一息つくと、まじまじ見つめてくる南方を振り向いた。
「うん、旨かった」
「そ、そうか……」
多めに盛ったとはいえ所詮パスタ如き、門倉の腹では二人前食べてようやくひと心地の料理だ。南方の情緒ごと食らい尽くした門倉は、床に投げ置いた鞄から煙草を取り出し、一服する。紫煙を一筋吐き出しつつ南方を一瞥すると、顎をしゃくった。
「われも賭郎立会人なら、腹を括らんかい。ワシゃあ、おどれの死体に取りすがって泣いたりせんけぇ」
「泣いてくれんのか」
ばっさり言い切った門倉に南方が苦笑いする。さすがにそんな期待はしていなかったが、はっきり言われると、それはそれでもの悲しい気持ちになる。
「絶対に泣かん」
門倉は力強く、きっぱりと繰り返した。情けなく苦笑いする南方に、門倉は長々としたため息と煙と共に吐いてから、言い足した。
「泣かんけど、褒めてはやるかもな」
まだ吸い残している煙草をもみ消す。照れ隠しを思わせる仕草に、南方の顔がほころんだ。今のが、門倉にとって最大限の譲歩──友愛の表れなのだと、南方にはよく解る。門倉は自分と違って、慕ってくる相手に応答するのには慣れていても、対等な相手とまろやかに好意を投げ合うのは苦手なのだ。ここは、育った組織の性質差が大きいのだろう。
門倉は、嬉しげな南方を一瞥し、吸い殻を収めた携帯灰皿を鞄に押し込んだ。
「おどれ、まっこと恥ずかしい男じゃの」
「惚れとる相手には、とことん無様になるもんじゃ。ワシは犬じゃからな」
開き直って笑う南方に、門倉は観念したようにため息をついた。空になった皿を重ねてローテーブルをぐいと押し退けると、よっこいせと億劫そうに立ち上がり、まだ正座している南方の前に立ちはだかる。
「さて。次はおどれの番やね」
言うなり、景気よく服を脱ぎ始めた。
「か、門倉!?」
素っ頓狂な悲鳴を上げる南方を余所に、上も下も惜しげもなく、脱いだ服を次から次へ南方の頭の上に投げ捨ていく。降ってくる服を退けつつ、止めるべきか眺めておくか、半端に手を伸ばして狼狽える南方をよそに、あっという間に下着一枚になる。
唖然としつつ喉を鳴らした南方に、門倉は唇を釣り上げてみせた。
「準備してくるけぇ、向こうで待っとれ」
寝室に向かって顎をしゃくった門倉は、パンツ一枚の格好で躊躇いなくバスルームに向かっていった。あまりに潔く抱かれる準備に赴く後ろ姿に、南方は呆然とする。見惚れたとも言う。
「ぶちええ男じゃ……」
あらためて骨抜きにされた南方は、いそいそと寝室に向かった。ベッドの前をうろうろしたり、腰掛けたり、正座すべきかとマットレスに乗り上げたり、うろうろとしているうちに、門倉がバスルームから出てくる物音がした。
門倉の男気に十分応えてみせるぞと気合いを入れて、ベッドに腰掛けて待ち構える。
ドアを開けて、濡れ髪を拭いながら入ってきた門倉は、風呂上がりの気持ちよさげなため息ひとつ、南方の隣にどっかと腰を下ろす。九十キロ超えの体躯に、マットレスが悲鳴を上げた。
「南方、次はおどれの番」
「え、あっ、風呂か」
慌ててバスルームに突貫した南方に、門倉はふはっと笑い声を洩らした。ベッドにうつ伏せになると、換えていないだろう枕に顔を乗せて、家主の匂いをすうと吸い込む。くたびれた生活の匂い、人が暮らす匂い、日向の世界の匂い。この部屋には、あの日の高架下に捨てたいろんなものの匂いが残っていて、いつでも門倉を甘やかし、抱きしめてくれる。
「……おどれのせいで弱くなったら、どうしてくれるんじゃ」
絶対にあり得ない、その自信があるのに、口に出すと一厘ほど真に思えてくるので可笑しい。門倉は抵抗せずに微笑んだ。突っ伏したまま目を閉じる。もし南方の足下で死ぬ時がきたなら、きっとこんな穏やかな心地でいられるのかもしれない。そんな考えが過る。
南方が烏の行水を済ませて寝室に戻ってくると、ベッドの上にうつ伏せた門倉がぐうぐうと盛大な寝息を洩らしていた。
「門倉ぁ、そりゃあないじゃろ……」
たいして浸かってもいないのにのぼせたようになっていた南方は、盛大な肩透かしを食らってがっくり項垂れる。ゆすり起こして強請ろうかと迷ったが、自分の枕を抱えて無警戒に軽くいびきを立てる門倉を見ると、その気をなくした。
布団をかぶせて隣に潜り込むと、門倉はより温かく抱きつき甲斐のある南方の体を抱き枕にしてきた。生殺しの状況に短く唸ってから、ゆっくり深呼吸する。体の方はまだ納得せずに疼いていたが、精神の方は門倉の安らぐ姿に寄り添っていたいと訴えている。そして南方の肉体は、理性と序列に殉じるよう警察学校でしっかり躾けられていた。
「ワシが秩序を重んじる理性的な男だったことに感謝せえよ」
恨み言半分笑い半分に呟くと、寝入っているはずの門倉が寝ぼけた声で不明瞭に「知るか、ボケ」と呟いて、南方の頭を抱きよせた。
[了]
