usgi

時を進め、汝はまことに美しい

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 俺はその日、本職に午前外出予定で届け出して、立会手続きのため賭郎本部へ来ていた。他にも、賭郎内でやっておく手続きが積み重なってきていた。そうと意識せず、立会人用の黒スーツで着てしまったのは、賭郎側に意識が傾きすぎていたせいかもしれない。
 本職はすぐに戻らなくてはならない案件がない。外出予定が延びるのはよくあること、俺は便乗して立会以外の手続きも済ませてしまおうと居残った。
 PCで作業しているところへ、弥鱈が門倉と連れだってやって来た。
「どうも」
 端的な挨拶のあと、弥鱈は不機嫌な顔で無言の門倉を顧みてから、話を続けた。
「今日、賭郎勝負のハンデで使われる予定の催眠術に危険性がないか確認するため、立会人で試す予定だったんですよ」
「ふうん?」
「それが案の定、暴発したと」
「………」
「………」
 弥鱈悠助は、嫌な笑いを噛み殺しきれない絶妙な表情で説明した。完全に、想定外の事故を面白がっている。そんな弥鱈の後ろで、門倉は不自然なほど黙りこくっていた。
 このコンビが連れだって行動しているとき、普段なら俺に話しかける役は、もっぱら門倉が引き受ける。だんまりの門倉に、俺がまさかという視線を向けた。
 門倉の端整な顔は、らしくなく緊張しており、視線は落ち着きなくあたりを見回している。
「ご明察ですね。門倉立会人にかけた催眠術が失敗しまして。今、どういう状態なのか、外からはサッパリです」
「えらいことに……」
「幸い、お試しだったので効果は一時間程度で切れます」
「どんな効果なんだ」
「時間経過で精神が過去──子供時代に戻り、段階を踏んで現在の年齢に戻るとか。で、彼が何歳くらいになったのか、てんで解らなくてですね。……門倉立会人?」
 弥鱈が振り向いて確認するが、門倉はじろりと睥睨したきり、無言だった。その視線が弥鱈から俺に向けられる。
 知っている眼差しだった。十六歳の、鋭く澄み切った門倉の眼差し。
「……」
「まぁ、こんな感じで。ずっとだんまりなんで、反抗期くらいの歳なんじゃないですかねえ」
 弥鱈が可笑しそうに冷やかす。
 俺をじっと睨み付ける門倉の口が、微かに動いた。声にならない声が俺の名前を口走ったのを見て、ハッとする。よく観察すると、門倉は白手袋を外した素手の両手を、硬く握りしめている。
 困惑している。俺は直感した。
「南方立会人、古い知り合いなんでしょう? あとはよろしくお願いします」
「おい、ちょっと待……」
 厄介なお荷物を押しつける先を見つけて、弥鱈は有無を言わさず俺に丸投げする気だったらしい。詳しい説明をしろと引き留めようとしたのを振り切って、門倉の背後に回り、長身巨躯をぐいと前に押し出す。
「じゃ、私はこれで~」
「おい、弥鱈! 待たんか!」
 怒鳴りつけたが、弥鱈はそそくさと部屋を出てってしまった。つくづく逃げ足の速い男だ。
 突き飛ばされて一歩踏み出した門倉が、席を立った俺を凝視してくる。眉をひそめて睨み付けていたが、確信を得た表情になると、はっきりと呼びかけた。
「南方」
「門倉……わしが解るか?」
「髪」
「かみ?」
「髪、ワシはなんで、下ろしとるんじゃ」
「……」
 憮然と呟く門倉に、そんな場合か、と言い返しそうになって、ぐっと言葉を飲み込んだ。
(わしを知っとるなら十六か、それより上、立会人にピンと来とらんから、わしとやり合った少し後くらいか……)
 俺の面差しに昔の顔を読み取り、唯一話の通じる相手と見極めたに違いない。精神年齢が解った途端、髪を下ろした門倉がどこか所在なげな顔をしている気がした。
 手招きして、とりあえず門倉が私物を入れて占有してる袖机に向かった。
 キャビネット下段の引き出しには、ポマード、櫛、ヘアブラシ、ドライヤー、換えの手袋が仕舞われている。立会人の正装をするのに必要な、最低限のアイテムが揃っていた。本部の洗面台でトサカを作っている門倉を、何度か見かけている。これがあればあの戦装束を整えられるはずだ。
 棒立ちの門倉にもう一度手招きすると、門倉は黙って歩み寄ってきた。引き出しの中身を見せてやる。
「これで髪型セットできるだろう。化粧室の洗面台なら、コンセントもある」
「……お前、襟足のうなっとる」
 じっと俺を見つめていた門倉が、ぽそりと呟いた。痛みを堪えたような声だ。俺は自分の首裏を手でなぞって言い含める口調で答えていた。
「大人になったからな」
「……」
 同じ背丈、同じ歳の門倉が、眼差しだけ少年のそれに戻ってしまっている。俺の声は自然と和らいでいた。
「安心せえ。お前は一人前の大人になっても、トサカ立てとるわ」
「……お前は、大人になっても、まだワシにかかずらっとるんか」
 険しい目つきで言われてしまい、しばし言葉に詰まる。
 子供が他意のない言葉で本質を暴く、あの残酷さだ。身も蓋もない言い様に、なんとも言えない感情を苦笑いで誤魔化すしかできなくなる。俺は間を置いてから、短く「そうだ」と答えた。
 話題を切り上げさせようと、トイレのある方に顎をしゃくる。
「洗面所は向こうだ。行けば解る。誰か挨拶してきても、それが見覚えがあるヤツだとしても、無視していいからな」
「監視せんでええのか?」
「必要ない」
「……ここ、警察か?」
 俺から警察官の佇まいを嗅ぎ取ったのか、部屋の内装が門倉の思う警察署の間取りだったのか、いっそう警戒するのが伝わってきた。俺は自分の身分を明かしたい誘惑を抑えて、場所と状況について説明してやった。
「ここは、お前が昔語っていた賭郎本部。そしてお前は賭郎立会人だ。ここでお前に物申す輩は、ほとんどいない」
 ほとんど、の言葉に門倉の左こめかみがピクリと痙攣した。俺は思わずせせら笑ってしまう。
「そういうことだ。ここには、今のお前でも敵わん相手がいる」
 俺自身も賭郎立会人となった門倉に、井の中の蛙だったと苦い現実を突きつけられている。その門倉が、自分を上回る強者の存在にヒリついた闘志を漲らせる様は、状況と相まってあどけなく見えた。
 門倉の目に凄味が増した。多分、子供に向ける大人の眼差しを向けてしまったからだろう。舐められてたまるか、とギラついた目をしてくる門倉を受け流し、俺は引き出しに目をやった。
「他の連中が来るとややこしくなる。支度するなら早く行ってこい」
「……おどれに指示出しされるとはな」
 門倉が皮肉に嗤う。大人の門倉雄大が浮かべる十代の不遜な笑みは、アンバランスで危うく、それはそのまま、十六歳の門倉に秘められた危うさだった。当時の門倉に抱いた苛立ちや焦りがなんだったのか、今更自覚して、面はゆい感情に襲われる。少年と大人の瀬戸際をすり足で冷やかす、不敵な危うさ。嫉妬や羨望のほかに、切れ味鋭い存在感を握りしめてみたいという誘惑が、間違いなくあった。当時の俺は、門倉の鋭利さを手懐ける実力があると、信じて疑っていなかった。若さ故の思い上がりに対する羞恥と、甘い懐かしさで、門倉を正視していられなくなり、顔を逸らす。
「立会人になったのか、お前も」
 十六歳の門倉が問うてくる。無言で肯いてみせた。経緯を語りたい気持ちと、まだ知らせたくない気持ちがせめぎ合い、奥歯を軽く噛みしめる。目線の高さが同じ、精神だけ十六歳の門倉は、ケリを付けたはずの俺の執心を、青く熱く炙ってくる。自分の中に、コンプレックスのきな臭い気配を嗅ぎ取って、俺は門倉に背を向けてPCに向き直った。
「髪を直して気が済んだら、そこらの机で大人らしいフリしてろ」
 雑に突き放して言いやると、門倉は引き出しから必要な品物をガタガタと拾い上げて、足音高く部屋を出て行った。
 颯爽とした足音に、自暴自棄の開き直りがあった。ドアを閉める荒々しい物音。
 いきなり十六歳の精神に引き戻され、記憶も定かでない身で、唯一知る人間──それも知らぬ間に大人になっている俺に、雑に突き放されたのだから、不安が増すのも無理はない。
(大人げないのはどっちじゃ)
 たった今の言動をすぐさま反省して、洗面所に向かった門倉を追いかける。
 ドライヤーを使う音が聞こえてきた。入るかどうか躊躇ったあと、様子を見るだけだと自分に言い聞かせてドアを開ける。
「! ……おどれか」
 ばっと振り向いた門倉が、見開いた目をすぐに細めた。こんなにヒリついた空気の門倉は珍しい。立会人になった門倉と再会してから、立会以外で張り詰めた空気を漲らせる門倉を知らない。それだけ、この状況に不安を覚えているのだと実感させられた。
「今は見当が付かないだろうが、そのうち元に戻る」
「元に、というのは、お前が知ってる俺に戻るという意味か?」
「……」
 門倉の言葉に胸を突かれ、俺は返事ができなかった。俺の知る門倉に「戻る」という表現が適切だと思えず、憮然となる。
 今の門倉に他意などあるわけがない。他意を含みようがない。
 十六歳の門倉は俺に負け俺に勝ち、賭郎へと進んだのだ。その後、今日までの経緯を知れる身ではない。見た目は昨日と同じ門倉だが、両目に宿る光が邂逅したばかりの頃の門倉雄大だと示していた。
 押し黙った俺を睨んでいた門倉は、やがてにらみ合いに飽きた顔で鏡に向き直った。鏡に映る眼帯をした左目をしげしげと見つめてから、眼帯を外して置いた。左瞼を押さえてしげしげと覗き込む。
 精神は過去に遡っても肉体は今現在そのままだ。ハンカチ集めで負った傷が元で左の視野に後遺症が残ったと聞いた。身に覚えのない怪我に怪訝な気持ちなのだろう。まじまじと顔を覗き込んでいた門倉だが、俺に怪我の経緯を尋ねもせず、鏡から顔を離した。
 ヘアブラシと櫛で長い髪をより分け、ポマードを塗りたくり、ドライヤーを当てる。慣れた手つきでトサカを作っていく。真剣な横顔とよどみない手つきが、男臭い色気を纏っていた。戦化粧をしていく門倉の横顔は、理不尽な現実に抗おうとする厳しい表情が浮かんでいた。
「余計な心配はしなくていい。お前の舎弟がそのうち来て、面倒を見てくれる。俺も、しばらく本部におるしな」
「あいつらもおるんか?」
「お前について来たやつも、ようさんおる。昔から舎弟には慕われる体質やったものな」
「お前は?」
「わしにそういう輩はおらん」
 立場が違う、と言おうとしてやめておいた。
 進んだ道が違うと話して、あの当時、再会が叶わなかった門倉がどう思ったのか、答え合わせをするのが嫌だった──いや、恐れたという方が正しい。
 俺は十六歳の門倉に、警察組織の中で鈍っていった自分を知られるのが恥ずかしいと思っていた。
 髪をセットし終えた門倉は、水道の蛇口をひねった。ぬるま湯にして、手に付いたポマードを丁寧に洗い落とす。何度も顔をすすぎ、違和感があるのか、左目を繰り返し洗い流した。
 気が済むまで顔を洗った門倉が顔を上げる。俺は無言で、横からハンカチを差し出してやる。門倉の手がハンカチを無造作に掴む。水を滴らせたまま振り向いた顔には、冷ややかな侮蔑が浮かんでいる。
「……こういう真似をするあたり、いかにも歯車らしいな。南方」
「門倉、お前」
 俺はそこで言葉を区切り、口の中で舌を噛みしめた。
 軽蔑した言い回し、否定する眼差し、冷厳とした佇まい。それらが表す事実はひとつ。
 こいつは、拾陸號立会人・門倉雄大だ。
 鼻先から顎にかけての激しい痛みが蘇るようだった。今、目の前にいるのは俺を改めて叩きのめした、拾陸號立会人の門倉に間違いない。なんなら、あの立会の最中の門倉かもしれなかった。
 灼けるような後悔に襲われる。
 前髪を雄々しく振り立てたために、前頭部の傷痕が露わになり、顔つきと相まって凄まじさを増していた。
 傷のない門倉を門倉だとは、もう思えないが、致命傷のきっかけに自分が噛んでいる事実は、自分の腹にいつも重く居座っていた。
 あのときの俺は、密葬課の脅威を把握できる立場だった。特に箕輪の強さは、裏工作に関わる以前から、キャリア組にまで噂が聞こえていた。立会人という立場にある門倉に、脅威について一言くらい助言できたはずだった。
(いや、違う)
 自分の後悔に首を振る。
 あの時の俺は、十六歳の時と同じ過ちを繰り返した。門倉を手懐けられると自惚れていた。警察官僚になりエリートコースを邁進する人生を選択したことで、十分な力を得たと勘違いした。門倉が見ている景色はそんな高さではなかったのに。
 渡したハンカチで顔を拭いた門倉は、左側頭部の傷を改めて、軽く肩をすくめる。茶化した態度で怒りを表す、俺の知らない素振りだった。
「返すよ」
 ハンカチを投げ返される。着慣れたロングジャケットのポケットを探り、白手袋を見つけると、ためらいなく手を通した。ドア前に立ち尽くす俺を後目に、鏡で髪型や顔つきをチェックしている。左視界が気になるのか、左目でしばらく傷を凝視して、小さく息をつく。
「立会をしていたはずだったが、私は居眠りでもしたか。……こっちが現実か?」
「俺にとってはそうだな」
「なるほど」
 弥鱈の話していた催眠云々には言及せずぼかして答えたが、門倉には薄々事態が想像ついているようだった。腑に落ちた顔で、外した眼帯を胸ポケットに仕舞う。
 そして、おもむろに腕組みすると、俺の格好を頭からつま先まで品定めする目つきで眺めた。黒スーツに號数のハンカチを飾った立会人の姿をしている俺に、頬を歪めて嗤う。
「どうやって賭郎に入った?」
「今のお前に説明しても無駄だろう。……複雑な経緯がある」
「複雑ゥ?」
 大仰な物言いではぐらかそうとする俺を、門倉がわざとらしい口調で揶揄してくる。
 俺は沈黙を貫いた。今の門倉に、負傷した事情を語るのはルール違反だという気がしてしまう。確定した過去だとしても、肉体が既に経験した後だとしても、精神はこの瞬間あの迷宮に立ち会っているのだ。俺は二度も門倉のハレの場を汚す真似をしたくはなかった。
「……確かに、こっちが現実なのかもしれんな。あるいは、未来か? お前は私をそんな目で見る男じゃなかった」
「……」
「お前が、そんな情け深い目つきをするようになったのは、私のせいか?」
 濡れたハンカチを仕舞いもせず固唾を呑んで門倉と向き合う俺に、門倉が可笑しそうに尋ねてくる。
「立会人になったようだが、その選択も、私のせいか?」
 問いかける門倉の目が、俺に真実を語れと挑んでくる。
 門倉の問いは、俺の内面に深く刺さった棘を引き抜こうとする、残酷な問いだった。俺が賭郎入りを決めた動機を、覚悟の根拠を、門倉が膝をついた瞬間に過った感情を、今の門倉にもまだ打ち明けていない。問われても答えられないと思っていた。
 だが、この門倉になら語れる。いや、この門倉にこそ聞かせたい感情だった。
「そうだと言ったら……嗤うか? 門倉。お前の背中を追いかけた末に、ここまで来たんだと言ったら」
 俺の答えに、門倉は右目だけ微かに見開いた。意外な答えだったからか、予想どおりの答えだったのを驚いたのか。冷淡な門倉の表情が、揺らいで、憐れみとも笑顔ともつかない表情になる。初めて見る門倉の表情だった。
「その言葉、十六の頃に言われていたら、なにか違ったかもしれんな」
「……!」
「この先で、何があったとしても、ワシにとって不倶戴天の敵はお前ひとり。それは、揺るぎない」
 呟いた門倉がはにかみを誤魔化すように、視線を逸らす。俺が口を開こうとすると、振り向いた門倉が白手袋をした手で俺の胸元を押さえ、押しとどめた。指先が胸を飾るハンカチーフに触れる。門倉の號数を継いだ、俺の居場所。
「私の思う號数だとしたら、……ワシのこの先、俄然楽しみじゃのお」
「ああ、……そうだな」
 門倉は心臓の位置にあるそれを、抜き取ろうと指を這わせから逡巡し、触れた手を放した。沈思して俯き、黙り込む。
「門倉?」
 ゆっくり顔を上げた門倉は、さっき胸ポケットにしまった眼帯を取り出し、慣れた手つきで左目を隠す。短く吐息をつくと、目を細めて歯を剥き出しにする、やんちゃな笑い顔をしてみせた。
 俺が一番よく知る、弐號立会人・門倉雄大の顔つき。笑う目は、拾陸號だった頃の門倉にはない親しみが込められている。俺が思わず胸をなで下ろすと、門倉は照れくさそうに肩をすくめてみせた。
「面倒かけたようやね」 
「いや。久しぶりにお前と話せてよかった」
「へえ?」
 門倉がリーゼントを揺らして低く笑いながら、数歩の距離をあっという間に縮めてくる。トサカの先が触れそうなほど近づいた門倉は、首を傾げて目線の高さが変わらない俺を覗き込み、囁いた。
「ここにおるワシは、おどれが見てきたワシ自身を全部、背負っとるのに、話せんことがあるんか?」
 催眠で呼び覚まされた過去の自分に嫉妬する口調で──門倉が俺に関することで嫉妬なんてするかどうかは、ともかく──軽く詰め寄ってくる。俺は小さく口元をほころばせた。
「ある。あったんだ。もう無くなった。もう、お前に聞いてもらったからな」
 門倉に伝え、なおかつ、門倉に秘密にしておける、妙なカラクリを実現してくれたどこかの誰かに、深く感謝する。今の門倉に伝えても届いたかもしれない。だが、俺のあの瞬間の情緒は、あの瞬間の門倉にだけ伝えておきたかった。
「それはどういう……いや、いい」
 勘ぐろうとした門倉はすぐに追及の手を止めた。
「そのツラは、二度と言わんつもりのツラじゃな」
「ようわかっとるな。そうじゃ、二度と言わん」
「それは、惜しいのお」
 門倉の手が再び、俺の左胸に触れた。さらに距離が縮まり、胸元がぴったり寄り添うほど近くなる。門倉の鼻先が触れてきて、今生きている者の息づかいで上唇に触れてきた。俺が首を傾げて啄むより先に、門倉のニヤけた口から覗いた切歯が下唇をゆっくり噛みしめていく。
 俺は片腕で門倉の背中を抱き寄せ、片手で頭から額をくすぐる形作られた戦装束の髪に触れた。乾いたばかりのポマードの手触り、ごわごわと固められた黒髪の質感、櫛を通してぴっちりと後ろに撫でつけた横髪と、あまり整えきれていない後ろ髪。造りの甘いリーゼントは、十六歳の門倉が残していった未熟だった。手袋をしたままの両手が俺の頬を掴む。絹生地の冷ややかな感触は、拾陸號の門倉の残骸だった。強請るように名前を呼ぶ。舌を濡らす熱く密な息づかいは、俺に隣り合うことを許した弐號門倉の、生きている手応えだった。
 口づけはほんの数秒だったのに、長い時間が経ったように感じられた。二十年の空隙を飛び石のように飛び飛びに俺の前で見せた門倉は、昨日別れた門倉と地続きの、門倉雄大として俺の腕にあった。
「やっぱり、お前はいつでも今この瞬間が最高潮じゃ」
 うっとりため息をついて耳打ちする俺に、門倉は抱きついた俺の耳を軽く引っぱって、当たり前じゃ、と肩を揺すって笑い飛ばした。

[了]

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