夕飯の時刻を大幅に過ぎて、今夜はもうこの部屋に帰ってこないのかもしれない、テスラがそう思い始めた夜半、ノイトラは出て行った時と変わらぬ姿で帰ってきた。
硬い足音が部屋に入ってくる音を十分に聞いてから、テスラはさりげなく席を立つ。
ノイトラは、帰宅したとき不機嫌だと、上着を床に脱ぎ捨てる。無造作に捨てられた衣を拾い上げる僥倖にあやかれるかもしれない期待と、従属官の義務感から、テスラは必ず席を立つ。
もし出迎えたいのなら、ノイトラが出発したときから帰るまで、扉の前に佇んでいればいい。だが、それは出来なかった。ノイトラが従属官を連れずに出かけるときは、テスラの煩わしい気遣いを、忌み嫌っているときだからだ。
ノイトラは部屋に入るなり、薄い砂埃にまみれたケープ型の上着を近くのカウチに投げ置いて、自分用にあつらえた低い椅子に腰を下ろした。脱ぎ捨てる、というほど感情のこめられていない仕草に、とくに不機嫌でも上機嫌でもないのが伝わってくる。
テスラは静かに尋ねた。
「夕食はどうなさいますか」
「いらねえ」
ノイトラのためにあつらえられた椅子の他、部屋で一番場所を取っているのは、二人掛けのテーブルだった。
閑散とした世界に家具など、と多くの破面が鼻で笑うなか、十刃の多くは「人らしい」生活様式を模倣しようとしている。意外なことに、ノイトラもそういう「生活」のカタチに倣おうとするむきがあった。
テスラは知っている。それは、ネリエルに対する当てつけだ。彼女が見せる「魂をもつ人らしさ」の真似事を、自分もしてみせることで、模倣に何の意味もないと嘲笑っているのだ。
それなら、とテスラは思う。
(それなら、グリムジョーのように、模倣など無視して本来のカタチでいる方が、よほど彼女への当てつけになりそうなのに)
それなら、とテスラは思う。
(二人掛けのテーブルでなくても、いいはずなのに)
これまでこの卓には、思いのほか多くの来客が座ってきた。ネリエル以外の、多くの破面たちが。
テーブルには、簡単な夕食が準備され、虫除けの覆いがかけられている。果てない虚圏の無味乾燥した空間で、美味な食事に何の意味があるのかと思うが、それでもテスラは冷めても美味しく感じられる料理を、いくつか覚えた。そして、用意した料理たちが、気まぐれなノイトラの舌に乗るのを見るたび、羨望を抱く。
ノイトラが虫除けの覆いを持ち上げ、並んだ料理の中から、一番手を描けていない、もいだだけの果実を選び取った。食卓の彩りを意識して付け加えた、どちらかというと蛇足に感じた一品だ。自分が不要かもしれないと思ったものだけノイトラに選ばれた皮肉を、テスラは内心で失笑する。
テスラの用意した夕食を、ノイトラが着席して食べたことなど、指折り数えるほどしかない。
それでも、対面で薄い唇から微かに舌を覗かせる、ノイトラが咀嚼する時間を切望する。
藍染に数字を刻まれた舌を、テスラはノイトラに生じた唯一の疵だと思っていた──序列など、彼にとって救いにならない。標にならない。ネリエルとの因縁は序列などに押し込められはしないし、彼の祈りは厳密な数字の概念よりもっと苛烈で孤独だった。同胞を抱える5の数字を刻まれながら、ノイトラはどこまでも孤高で、不可侵な存在なのだ。
テスラも食事をする気が失せ、皿を片付けはじめる。ハリベルの従属官から以前聞いて初めて作った料理だった。無駄になったと悔やむ気持ちはない、むしろノイトラが関心を持たなくて、せいせいした気分だった。
洗い場に皿を引き上げて戻ってくると、ノイトラは食べかけの果物をテーブルに置き、手にした何かを眺めていた。白い、破面の外郭のようなソレ。ノイトラに、殺した仲間の面や遺物を集める趣味はない。死んだもの、終わったものに意味を見いださない。なので、この宮も殺風景なままだ。
ノイトラは片手をこぼれた果肉で汚しながら、もう片手にある何かを飽きずに眺め続けた。離れたところにいるテスラから、薄く平べったく白い(虚圏では、破面の輪郭以外はなにもかも白い)何か、ということしか見分けられない。
自制心の強いテスラも、ノイトラの興味を引くものが何なのか気になって、仕方が無くなってきた。
もってまわった言い方で探る、迂遠なやり方はノイトラが忌み嫌う。テスラは対面の椅子に腰を下ろすと、率直に尋ねた。
「何を持ち帰られたんですか」
「……」
ノイトラが片目で一瞥する。果汁で汚れた手のひらをぺろりと舐め、残った種を、テスラに放り投げた。人間の子供の拳より一回り小さいくらいの種。テスラは何言わず、洗い場に種を捨てようと立ち上がる。
椅子を引くと、対岸からシャッと硬いものが擦れる音がして、テーブルについたテスラの手にまっすぐ、突き刺さった。テスラは視線を落とす。
ノイトラが眺めていたもの。
拾い上げて、観察する。白く、ゆるい孤を描いて湾曲し、細かい歯が整然と並ぶ。
ただの、櫛だ。どこかの破面が殺した相手の面から削り出したのだろう、表面が光沢するほど磨き抜かれ、その曲面に歪んだテスラの見下ろす顔が写り込んでいる。
「これは」
「やる。持ってろ」
テスラはノイトラを振り返った。
食べ残した種と同じように、投げ寄越された櫛。
ノイトラが沐浴したあと、濡れ髪を拭き、髪をとかすのはテスラの仕事だ。そのようにしたい、と従属官になった際、テスラから申し入れた。テスラがノイトラに何事か申し入れたのは、後にも先にもその時だけだった。ノイトラはテスラが背後に立ち、髪にを触れ、首に触れることを許した。
以来、テスラは購い人の脚を香油で洗うのを真似て、ノイトラの黒髪をくしけずり、植物から採った香油を塗り込める仕事を得た。
そんなことをしなくとも、ノイトラの髪が傷むなどあり得ないのは、両者ともに理解している。無意味な茶番だ。その茶番をノイトラが赦し、テスラは望みを抱くことを赦された。
ノイトラの黒髪は彼自身と同じ硬度を誇り、梳かす櫛は次々と歯が欠けて、駄目になっていった。この間とうとう、最後の櫛が割れて、テスラは手櫛で梳かすしかなくなっていた。
それらの経緯を踏まえ、ノイトラが櫛を持ち帰った事実に、テスラは立ちすくんでしまう。
祈りのための什器を失って困惑する者に、信仰の偶像が手ずから祈りの手段を与える、歪な慈悲。
カタチなどなくとも祈れるのだと、お前の両手があれば事足りるのだと、けして告げない残酷さ。
立ち尽くすテスラを一瞥し、ノイトラは立ち上がった。ゆらりと丈高い男が立ち上がると、宮の遠近が急にわからなくなる。だるい仕草で襟の付いた上着を脱いで、浴場がある方へ歩き去って行く。手が汚れたので沐浴するだろう。
あるいは、テスラに新しい櫛を与えたので、髪を濯ぐつもりだろう。
テスラは櫛をやわく握ったまま、ノイトラの抜け殻としておかれた上着を見つめ、動けずにいた。
そして、ノイトラが立ち去ってしばらく経ってから、ようやく気がついた。──今日は、自分がこの世界に生じた暦の日付だったと。
祈りの彼方を見ている
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