女性隊士から瀞霊廷通信のミニコーナーの原稿を受け取った檜佐木は、組まれたテーマを見て唇をむず痒く歪めた。
【現世の暦で五月二十三日は接吻の日!!】
女性死神協会あたりからねじ込まれたテーマに違いない、現世を意識したハートをあしらった飾り枠の中には、女性たちの夢と理想と現実への落胆がみっちりと詰まっていた。
意中の相手と接吻するときの化粧服装、場所に雰囲気、状況から相手にそれとなく促すテクニックまで──読んでいると、世の女性はそんなに接吻が好きなんだろうか、と訝しむ気持ちになる。
ここに平子真子がいたら、「キスしたいんとちゃう、素敵な誰かとキスするシチュエーションに恋してはるんや」としみじみしたツッコミを入れただろう。松本乱菊がいれば、「そういう疑問が湧く時点で修兵は修兵どまりなのよねえ」と厳しい評を下しただろう。
しかし、瀞霊廷通信の編集室である九番隊隊舎離れには今、編集長の檜佐木しかいない。
通信に華やかさや彩りがほしいという読者の要望を受けて始めた、女性読者をターゲットにしたこのコーナーは、すっかり瀞霊廷通信の男子禁制枠になっていた。
最終責任者の檜佐木も、編集規程に抵触していないか、誤脱がないかのチェック以外、内容に関しては、ほぼスルーしている。
誤脱を確認するといっても、書かれているのが文章である以上、内容は頭に入ってきてしまう。
檜佐木からするとだいぶかしましい文面には、「彼が接吻してくれなくなったら……?」という、倦怠期を警告する特集も載っていた。
付き合い始めの頃の初々しい空気を思い出す方法。
ときにはあなたから求めてみる、急接近するときの三か条!!
もし彼があなたを見つめ返してこないときは…赤信号!!
「接吻がないくらいで、すげー勘ぐるんだなァ……」
女性たちの目線の鋭さにぞわわと背筋を震わせた檜佐木は、文章に問題がないとして、正式に原版へ貼りこんで完成させた。あとは自分が受け持つコーナーの原稿のみだ。書く内容は決まっているので、明日には仕上がる。
机に向かって中腰か、椅子に腰掛けるか、どちらかの姿勢で長時間動かなかったので、体中がきしんでいた。
檜佐木は、休憩用兼仮眠用になっている長椅子に深々と腰かけて、湯呑みに手を伸ばす。朝淹れた煎茶は、すっかりぬるくなって、ほぼ冷茶になっていた。
長椅子の背にもたれ、目を閉じる。編集作業で目まぐるしくしていた目と頭を休める。冷めきった煎茶が、渇いた体に染み渡るようだ。
少しだけ、と内心でつぶやき、檜佐木は頭の大半を占めていた仕事に関するあれこれを、いったん意識の外に押しやった。
すっからかんの意識が自由に考えるに任せ、心身をリラックスする。
昨日から今日にかけての大小様々な出来事が浮かんでは消える。
締め切りを伸ばしてほしいと嘆願しにきた新米隊士をなだめたこと。女性向けコラムの枠を増やしたいと打診されて返答を先延ばしていること。久南に原稿の配置をひっくり返されたこと。朝の定例会議の準備が自分にしては不十分になってしまったこと。
それは、自宅ではなく六車邸から出勤したので、いつもより遅めの到着になってしまったせいだ。
『会議の準備くらい、部下に任せたらいいだろ』
とるものもとりあえずの身支度をして出ていく檜佐木に、まだ寝間着のままの六車が悠長に呼びかけたので、檜佐木はいつになく強い口調で言い返してしまった。
『俺らが公私混同しちまったら、部下に示しがつかないでしょうが!』
珍しく怒鳴り返されて、六車は憮然とするより驚いて目を丸くした。檜佐木は急いでいたので──本当に、急いでいたので、六車の答えを待たなかった。どうせ半刻もしないうちに、隊舎で顔を合わせるのだ。
草履で砂利を蹴って駆け出した檜佐木は、一度も後ろを顧みなかった。
(いくらなんでも慌てすぎだろ)
つくづくと思い出してみて、そう思う。
慌てていた理由はもう一つある。
檜佐木が六車邸に泊まるのは、ひと月以上ぶりだった。六車と共寝をしたのもひと月ぶりだ。艶事というには野蛮な一晩を過ごしたせいで、檜佐木の体は節々がまだ怠いくらいだった。そんな荒淫のあいだ、自分がどんな顔を晒していたのかと思うと、まともに六車の顔を見られなかったのだ。どうせ、半刻もしないうちに隊舎で顔を合わせるというのに。
このひと月、九番隊は各所の巡回・警邏補佐の業務に駆り出されて、瀞霊廷通信の編集を休止しなければならないほど、忙しかった。
隠密機動を動員するほどではない変事・周回は、斥候や偵察を得意とする九番隊に指令が下る。六車は、機動力を強みとする隊員を積極採用し、偵察に特化した特色を強くしていた。瀞霊廷通信の取材で、瀞霊廷全体の土地勘に強い部分も活かされている。
九番隊が、東仙時代からかつての六車九番隊の気風に変わっていく様に、檜佐木は複雑な心境で立ち会ってきた。
変わりゆく九番隊を見届けるのは、東仙の教えを継ぐ者の務めだと思っている。そして、六車九番隊副隊長の存在理由だとも思っている。もし──檜佐木はそんな事は起こり得ないと思っているが──六車が暴走したとき、刺し違えても道を正すのが自分の役目だ。檜佐木はそう心に決めていた。
六車も、それを望んでいる。
(その覚悟を、隊長は受け入れてくれて、傍に置いてくれてる)
言葉にしない、絶大な信頼。檜佐木は、それを噛みしめて口元を歪めた。そのまま自然と、頬が緩んでしまう。
(あのひとと付き合ってこんな気持ちに、させられるなんて、思ってもみなかったな)
檜佐木は甘くほろ苦い思い出に浸ろうと、開きかけた目をもう一度閉じた。
六車と付き合いだしたのは、九番隊の再編が整った頃だ。
綱禰代時灘の一件を経て卍解を習得し、六車九番隊の副隊長としての自負と自信を身につけた檜佐木は、ようやく、当って砕ける覚悟を決めた。
顔に刻んだ69の文字に殉じ、六車九番隊と一生添い遂げる。そのために、自分の恋慕は墓場に送る。
その覚悟を改めて、隊長の六車に打ち明けると決めた。
「六車隊長。アンタの九番隊と添い遂げることを、俺に、許してください」
休日、わざわざ個別に稽古をつけてもらった日、鍛錬の最後、挨拶の代わりにそう言って頭を下げた。
聞きようによっては、障害副隊長を拝命する覚悟ともとれなくない──亡き雀部長次郎が、故・山本元柳斎重國に忠勤を捧げたように、終生副隊長を拝命する前例はある。それに倣った、忠勤の誓いと受け取られるような言い回しを選んだ。
憧れだとか、尊敬だとか、好きだとか、ずっと傍にいたいとか、素直な言葉では、とても言えなかった。それらを墓地に送る弔辞として、忠勤の誓いを口にしたのだ。
檜佐木は、想いにはっきり引導を渡すのすら憚ってしまった、己の臆病さにわずかな悔しさを噛み締めていた。その悔しさもひた隠し、六車にまっすぐ頭を下げた。
「どうか、……お願いします!」
相手の応えを聞くまでは顔を上げまい、垂れた首に万力をこめて体を固くしていると、六車が苛立ったため息を洩らした。
「修兵。てめぇは……本当にそれでいいんだな?」
低く凄んだ、六車の怒りの声。檜佐木は思わず顔を上げた。上げてしまった。
野外の、明るい昼間の空でも解るほどはっきり、ぎらついた煌きをみせる六車の双眸。険しい眉間と怒り肩が、憤りのほどを語っている。始解も解いて短刀の型に収めた両腕から立ち上る霊圧が、卍解の輪郭を取っている。それほど憤慨しているのだ。檜佐木は思い知らされ、たじろいだ。
終生副隊長を懇願されて怒る理由はないはずだ。副隊長止まりでいいのかと卑屈を叱ることはあるかもしれない。だが、こんなふうに怒り狂いはしない。
六車は、嘘ではない嘘を看破していた。檜佐木が本当に言いたかった言葉を隠した、その臆病に憤っていた。
ぎらつく視線に射すくめられ、檜佐木は言葉を失う。体をこわばらせて口を引き結ぶと、六車がこめかみを引きつらせた。
「本当に、いいんだな。俺は二の句は聞かねえぞ」
「……っ」
檜佐木にはもう、後がなかった。臆病者として副隊長の忠勤に励むか、公私混同してでも心に従うか。二択を前に両手を握りしめていると、六車が再び苛立つため息をついて檜佐木に歩み寄り、その胸ぐらをしたたかに殴りつけた。
「言ってみろ。オラ! 言わなきゃ始まらねえぞ!」
脅しつけてくる六車に、自分なりに悩み苦しんできた檜佐木は、カッとなった。
人の気も知らないで横暴にけしかけてくる、相手の無神経さにむかっ腹が立つ。数十年、九番隊の副隊長としてやり遂げてきた矜持と、六車への積年の想いが綯い交ぜになり、喉から熱い声となって溢れ出した。
「……っ、アンタが、好きなんです、ずっと……」
一度溢れると、自棄になった。もう取り返しがつかないのだ、と捨て鉢になって、六車の襟元を掴み上げる。
「ずっとだ! あの時からずっと、ずっとアンタに憧れて、俺の人生は、アンタを追いかけるためのものだった! こうして追いついて、それ以上を望むまいと思った、けど、もう今更、自分でもどうしようもねえんだよ!」
言葉を継ぐと、次の言葉が溢れた。百獣数年分の感情は、一度溢れ出すと制御不能の濁流のように、どんどん胸の奥から吹き上げ、喉を突いて出た。
「俺は、檜佐木修兵は、ずっと前から、六車拳西のものなんだ、……アンタが地獄に行くまで、いや、地獄に行っても、俺はアンタの傍から、離れねえぞ!」
激昂のあまり、涙が滲んでいた。こんなふうに感情に流されるはずではなかった。昂ぶった頭の隅で、あられもない自分に恥じ入り、六車を困らせているだろうと憂い、沸騰した思考を冷やそうとする。
肩で息をしていた。突然の大声で喉がひりつく。檜佐木は溢れた涙を拭い、六車から視線を逸らそうとする。それを、六車の舌打ちが遮った。
拳を握り肩を怒らせていた六車は、襟を掴む檜佐木の手をゆっくり振り払い、腕組みをすると、大きく鼻息を鳴らす。
「フン。言えたじゃねえか」
「……え、……」
呆気にとられた檜佐木が、六車を振り向く。腕組みしたまま、六車は堂々とした声で言い放った。
「泣くな、笑えよ。てめぇの気持ち、ちゃんと受け止めてやるって言ってんだ」
六車が、力の抜けた檜佐木の手を乱暴に掴んで、力任せに引き寄せた。引き締まった檜佐木の体をがっしりと、息が詰まるほど抱擁する。六車は抱きすくめた檜佐木の耳元に顔を埋めて、
「どうだ。これで分かっただろ」
そう囁いた。
力強く熱い抱擁がどんな感情からくるものか、抱きしめられた檜佐木には、しっかりと伝わってきた。
質実を取る六車からの答えに、檜佐木は言葉をなくしたまま、ただ頷くしかできなかった。
こうして、檜佐木は公私共に六車の相方となった。
(……今思い出しても、俺、すげー恥ずかしいこと言ったな……)
六車が無言実行タイプで良かった、と檜佐木は噛みしめる。感情に任せたとはいえ、だいぶ恥ずかしい台詞を並べて告白した自分と対象的に、抱擁ひとつで解らせてきた六車の男らしさに、はあー、とため息をつく。六車に惚れ直したため息と、自己嫌悪のため息、両方一度に吐き出した、長いため息だった。
(でもまあ、惚れた腫れたの話はあれっきりで、その後はなんつーか、肉体言語ばっかなんだよな……)
付き合い始めて十日もしないうちに、檜佐木は六車に抱かれた。檜佐木からすると、とんでもなく迅速な、というか、一足飛び過ぎる進展具合だった。
悲しいかな、童貞処女の檜佐木は、はれて童貞非処女となった──上下に関して六車は驚くことに譲歩する姿勢を見せたのだが、緊張のあまり自分でも何を口走っているか解らなくなった檜佐木は、「隊長にひどくされたいんです!」とのたまってしまった。なので、六車は訝しみつつ、多少の手荒さを交えて、檜佐木の初めてを力強く奪った。
おかげで、檜佐木はちょっと嗜虐癖に目覚めそうになっている。
ともかく、恋人の間に語らいは無用とばかり、二人で飲んでも会話を振るのは檜佐木のほう、どちらかの家で二人きりとなると、六車はもっぱらスキンシップで愛情を伝えてくる。積極的に情事に発展させようとするのではなく、体温やふれあいから感情を伝えようという、不器用な触れ方だ。
しかし、六車の大きく分厚い手のひらで、頭やら顔やら体を撫でられれば、思慕を募りに募らせてきた檜佐木が我慢できない。そういう雰囲気に持ち込んで、六車に手を出してくれと秋波を送るのは、決まって檜佐木の方だった。
(そういえば、隊長から接吻してきたこと、あったっけ)
うつらうつらしている脳裏に、さっき速読した女性隊士向けの記事が過る。
──もし彼があなたを見つめ返してこないときは…赤信号!!
ついつい、接吻するときの視界を思い返してしまう。
六車のまつ毛や鋭い眼差しを目に焼き付けておきたい欲深さゆえに、檜佐木はぎりぎりまで薄目を開けて、視線を合わせる。なので、唇が触れ合う直前まで、六車と見つめ合っている。口づけを離したときも、目を開けるとまっすぐ六車と視線が合う。なので、見つめ返してくれてはいる。
だが、六車から口づけてくることはない。しびれを切らすのはいつも、檜佐木の方だ。
(……もしかして俺、がっつきすぎてんのか? 隊長と、ペースがあってないとか……)
斜め読みしたコラムには、倦怠期の不安を煽るような見出しもまあまあ出揃っており、「彼とペースが合っていないのかも……?」という懸念事項も挙がっていた。ただし、彼がもっとスキンシップしたいのを遠ざけている、という趣旨だったが。
逆のパターンで大いに心当たりのある檜佐木は、だんだん不安に苛まれ始めた。
(今朝も、もしかして俺と話し合いがしたいとか、なんかそういう……理由があって呼び止めてたんじゃ? そういや、今日は編集室に直行してて、拳西さんと顔合わせてねえ……!)
休憩のつもりで頭を解放して雑念を取り込んだ檜佐木は、逆に雑念に振り回されて始めていた。私情に没頭するあまり、独り言の呼びかけが二人きりのときと同じ、名前呼びになっているのにも気づかない。持ち前のネガティブ思考が将棋倒しとなって、私生活に潜んでいた心配事をあれこれほじくり返してくる。
その大半が六車との交際に関するものなので、同期や後輩が聞けば「根暗なノロケだ」と呆れたに違いない。吉良あたりは、いかにバカバカしい心配ごとか、皮肉な調子でたしなめてくれただろう。
しかし、あいにく編集室には檜佐木しかいない。
半ばうなされるように目を閉じていた檜佐木は、とうとう耐えかねて目を開けた。
「ふぁっ!?」
どういうわけか、視界いっぱいに六車の顔があった。厳しい顔で訝しんでいた六車は、檜佐木の絶叫に軽く顔を引く。
「なんだ、居眠りしてたんじゃねえのか」
「ち、違います、休憩してた、だけです」
檜佐木はぎくしゃくと答え、六車の背後周囲を見回した。引き戸が開いている。いつの間にか編集室に来ていた六車を前に、霊圧も感じ取れないほど物思いに耽っていたと知り、檜佐木は耳まで真っ赤になった。
「しかめっ面して、うなされてんのかと思ったぞ」
「いえ、ちょっと考え事を……」
しどろもどろに曖昧な言い訳をしつつ、視線をそらす。握りしめていた湯呑みを置いて一呼吸置き、副隊長の顔で六車に向き直った。
「何かありましたか」
「編集は片付きそうか? 明日の演習の打ち合わせをしてえんだが」
「はい、大丈夫です。ちょうど一段落したところなので……」
檜佐木は頷いて席をたった。六車は、檜佐木が快諾するのを聞いてから、原版編集用の大きな机を顧みた。
誌面の元になる各ページの原版が平置きされており、まだ埋まっていない枠に付箋が貼られていた。全体をさっと見回した六車が、ぼそぼそと呟く。
「この記事、まだやってんのか」
そう呟く六車の視線は、女性死神向けの例のコラムに向けられていた。
「リサのやつが、手ぬるいだの甘っちょろいだの言ってるやつだな」
「ああー、確かに矢胴丸隊長向けではないですね……」
檜佐木は苦笑いしながら誌面を一瞥した。六車が珍しく内容を熟読しているのを見て、ついさっきよぎった様々な不安が、また重さたを持ち始める。
気にするのもバカバカしい、と笑い飛ばされればスッキリするかもしれないという気がして、檜佐木はコラムを読んでいる六車に、ぼそぼそと尋ねた。
「それ、隊長はどう思います?」
「なにがだ」
「えーと……世の女性って、接吻の有無をずいぶん気にするなあと思いまして」
「あー……それが女心ってやつなんだろ。俺にはまったく解らんが」
六車がむすっと口を引き結ぶ。女心への無理解を短所とは思っているようで、難しい表情になった。不器用だが生真面目な性分がよく分かる表情に、檜佐木は思わず目を細めた。
檜佐木は六車の、長所も短所もあるがまま受け止めまっすぐ見据える性格が、一番の魅力だと思っている。何事にも胸を張って腹を据えて向き合う。簡単に出来そうで、なかなか出来ない真似だ。
(やっぱりこの人は、いつでも、まっすぐで、裏表なくて、かっこいい)
憧憬と思慕の熱い視線を送っていると、六車が振り向いた。ばったり視線があって、檜佐木はハッとする。六車は数拍、無言のまま檜佐木の顔を凝視してから、面倒くさそうに片眉を上げた。
「なんだ。接吻したかったのか」
「へっ!?」
六車が呟いて、ずいと向き直った。目を丸くしている檜佐木に一歩迫り、片腕で無防備な体を抱き寄せる。檜佐木が慌てて「隊長!」と叫ぶと、片眉を上げていた六車が両眉を釣り上げる。憤然と短気を起こした表情になるや、くわっと口を開いた。
「なんだ、違うのか? 違わねえだろ、口づけしてくれって顔に書いてあるぞ。なんなんだ」
「いや、今仕事中ですし、ここ隊舎ですし!」
「はぁ? そんなツラしといて、まだ公私混同するなとか抜かすのかよ」
「そんなツラって、どんな顔してるっていうんですっ!」
「俺の目ぇ見てみろ」
写ってるぞ、と低く囁かれて、檜佐木は釣り込まれるように六車の目を見た。
六車の目を覗き込む、物狂おしく切ない顔。体温の一欠片でもいいと望んでおきながら言い出さない、臆病で卑屈な口。そのくせ、相手の何もかもを抱きしめて独り占めしたいと訴える眼差し。情動で古傷をうっすら赤く色づかせ、一途さを彫り込んだ刺青を青黒くさせて、檜佐木は物欲しさを飲み込もうして苦しんでいる顔をしていた。
そんな顔で、口づけなど欲しがっていない、と強がっていたのだ。
「……っ!」
何も言えなくなった檜佐木の口を、六車は断りなく塞いできた。
檜佐木の頭が一瞬、真っ白になる。
昼間の編集室で、抱きすくめられて、口づけられている。
人目がある場所や昼間は私情を慎む。隊舎で公私混同はけしてしない。
檜佐木自身が自制してきた決まり事を、六車はあっけなく破り捨てた。
あけすけに、人目もはばからず、六車から求められてみたい。
せめて一度でもいい、昼間の日向で口づけてほしい。
檜佐木は、自分がずっとそうされたいと心の奥底で願っていたと、気付かされた。付き合い始めて少しした頃、一瞬だけ思い描いた妄想だ。女々しいと自嘲してそっぽを向いた本音だ。
それを、六車はあっけなく拾い上げ、容赦ない力で抱きすくめてきた。
唇を探る舌の強引さに負けて口を開くと、激しく口の中を舐られる。舌を絡め取られ、思いきり吸われ、甘噛みされる。かと思えば、舌を押し込まれ、上顎の裏をねっとりと舐られる。檜佐木は声もなく、口の端から唾液を滴らせながら六車の背中にすがりついた。
(こんな、こんなの……)
檜佐木が薄ぼんやり夢想していた、つまみ食いするような口づけではない。昨晩の愛撫を思い出させるような、狂おしい口づけだった。檜佐木が後ろに逃れようと一歩退くと、六車が一歩半、踏み込んでくる。檜佐木の足と六車の足が、がた、がたと机を押しのけて、そのまま檜佐木は長椅子に押し倒された。
「……っ」
はずみで口づけが離れる。は、と息を吸い込んだ檜佐木を覗き込む六車の目は、夜に見る熱情に閃く視線とも、隊長として向ける厳しい眼差しとも違った。
独占欲。
檜佐木の思慕をすべて自分の裡に飲み込もうとする、底なしの独占欲で、ゆらゆらと燃えている。
「はぁ? そんなツラしといて、まだ公私混同するなとか抜かすのかよ」
「……っ」
「じゃなきゃ、出来る程度の息抜きはしろ。……いや、俺の息抜きに付き合え」
「隊長、……拳西さん……」
檜佐木は、頑なさをほどかれ、欲情にかすれた声で相手の名を呼んだ。夜にだけ聞く、甘やかなねだり声。うわ言めいた舌足らずな口で呼ばれ、六車はむず痒そうに口を歪めると、短く舌打ちする。
「お前だけが焦れてると思うなよ」
そう言うと、六車は再び檜佐木の口に噛みついた。両手で耳を塞いで、口の中を余さず舐る執拗な接吻をしてくる。くちくちと愛撫される音を塞いだ耳奥で聞かされ、檜佐木は耳を押さえる六車の手を掴んで、押し倒された体をよじった。
(だからって、こんなのは駄目だって……っ、引っ込みつかなくなっちまうからぁ……!)
顔をしっかり抑え込まれた檜佐木は、それでもどうにか、いやいやと首を振る素振りをしてみせる。六車はきつく舌を吸い上げてから口を離し、手を離して、体を起こした。そういえば、と言いたげに背後を振り向く。
「……ああ。そういうことか。気が付かなくて悪かったな」
「はぃ……?」
立ち上がった六車は、長椅子にぐったりとしなだれた檜佐木を置いて、ずかずかと編集室の入口に向かう。
引き戸は開けっ放しになっていた。六車は、ぴしゃりと叩きしめてから、しっかり施錠する。引き戸をガタガタ揺すって鍵がかかったのを確かめる。
「これでよし。だな? 修兵」
睦み合いのとば口で半ば惚けていた檜佐木は、何拍か遅れて、のぼせていた頭からさあっと血の気が引くのを感じた。
「な、な、な……」
「? どうした」
「アンタ、全っ然抜けてるじゃねえかっ!」
「あ゛ぁ? あー……誰も見てねえよ。つうか、別に見られて困るもんでもないだろ」
「困るだろ! 隊舎で公私混同するとか……アンタ立場分かってんのか!」
「ハァ……まだ言いやがるか、このクソガキ」
跳ね起きてわんわんと怒鳴る檜佐木、その隣にどっかと腰を下ろした六車は、相手の怒り心頭をものともせずに大きく分厚い両手で、檜佐木の頭やら首裏やらを撫で回す。それは昨夜、六車邸でさんざん檜佐木を蕩けさせた熱く力強い手だ。
檜佐木はまだ何か言い返す気だったのが、六車の愛撫にだんだん勢いが削がれていく。
刺青に強く唇を押し当てられると、檜佐木は悔しげに観念した一言を洩らした。
「……っ、卑怯ですよ、こんなん……っ、拒めるわけ……」
「お前はもう少し、不真面目になった方がいいんだよ」
囁いた口に耳朶を愛撫されると、檜佐木は鼻にかかる吐息をどうにか飲み込んでから、とうとう観念して六車の首に腕を回した。起こした体をもう一度、長椅子に押し倒されてから、抱きすくめられる。死覇装から覗く肌がふれあい、六車の熱い拍動が伝わってきて、檜佐木は熱いため息をつく。
(すげぇ、動悸速い……。知らなかった、拳西さんもこんな、俺と同じくらい昂ぶってくれてたなんて……)
それは、昼間の明るさのせいなのか、六車が執心をむき出しにして見せてくれたからか。檜佐木には両方に思われた。
六車が覗き込んでくる。何も言わず、眼差しに愛おしさを込めて見つめてから、頭の中まで溶かす接吻をしてくる。檜佐木に出来るのは、強く押し込んでくる舌に、自分から食らいつくことぐらいだった。それも、六車の力強い愛撫で押し流されて、溶かされていく。
(こんな息抜き、絶対、絶対に、今回だけにしなきゃ……誰より俺が、ダメになっちまう……)
檜佐木は、律儀な理性で反省の前払いをしつつ、うっとりと多幸感を抱きしめる手つきで、六車の背中に腕を回した。
[了]
