アキレウスは、明日予定された特異点へのレイシフトについて相談しに、ヘクトールの部屋を訪ねた。
「オッサン、いるか? 明日のクエストなんだけどな」
ノックもせず、用件を告げながらドアロックを外す。自動ドアが解錠音のあとに音を立てず静かに開く。アキレウスは以前、渋るヘクトールに対して粘り勝ちして、ルームキーカードのスペアを手に入れていた。
ヘクトールの部屋は簡素で、部屋に備え付けのテーブルやベッド以外に私物らしい私物はない。マスターや自分を慕う後進の騎士たちから貰ったプレゼント類を並べておく棚だけが賑やかで、あとは全体的に簡素を通り越して素っ気ない。実用的な部屋だった。
普段は椅子に座って寛いでいるか、現世の記録を読んでいる。でなければ、ベッドに寝転がってうつらうつらしている。
椅子にはいない。アキレウスはさらに部屋の中へと踏み込んだ。
静かな部屋で、寝返りを打つときの布ずれの音がする。アキレウスは昼寝しているヘクトールを予想して、ドアから死角に位置するベッドの方へ向かう。
「……!」
予想だにしなかった光景が広がっていた。
ヘクトールは仰向きに組み敷かれ、ベルトを解かれ、貫頭衣を剥ぎ取られ、下に着た服をまくり上げられている。彼の体の上に乗り上げているのは、弟のパリスだった。あどけない少年の体躯で実の兄に乗り上げて組み敷いているのだ。
兄弟のじゃれあいにしては、威圧的で淫靡な空気が充ち満ちている。
霊基の格からいっても、乗り上げたパリスを撥ねのけるくらい、ヘクトールには容易いはずだ。甘んじて受けているのは、兄の情愛からではなく別の理由だと、アキレウスは即座に看破した。
「だから言ったでしょう。アイツは間が悪い男なんですよ」
「ふうん。まあ、私は一向に構わないんだけど」
「構ってください。というか、俺が構います」
弟の姿をしたものの開き直った言葉に苦い顔で答えたヘクトールは、やおらアキレウスの方に顔を向けた。
「というわけで取込中なんだけど、緊急の用かい?」
闖入者にのんびりした調子で声を掛ける、のんきな声とは裏腹に唇は唾液に濡れて口づけの痕がありありと残っていた。横向けた頬は紅潮し、うっすら汗した肌に栗色の髪がもつれてはりついている。その頬を、パリスの小さな手のひらが撫でていく。
アキレウスの両肩がゆっくり膨らみ、霊基全体がぶわりと膨れ上がったように見えた。
「おい、……そいつから退け」
押し殺した声にこめられた静かな憤りが、殺意になり、周囲の空気が渦を巻く。
ヘクトールがやれやれと言いたげな表情になり、自分の下腹に乗り上げた弟の体をやんわり押しのけた。
「兄弟の睦み合いに嫉妬してるのかい」
「何が兄弟だ、……ヘクトール、貴様もそいつの好きなようにさせてるんじゃねえ」
アキレウスが這うような低い罵声を浴びせる。パリスがきょとんとした表情になり、徐々に少年らしからぬせせら笑いを浮かべて、ヘクトールの胸板を片手でそろりと撫でた。アキレウスのこめかみがヒクリと引き攣る。
「そろそろご勘弁いただけます? 部屋をヤツの宝具で吹き飛ばされちゃたまらない」
ヘクトールが溜息をつき、両手でパリスの腰をつかんで押し上げる。さながら仔猫を持ち上げる要領でパリスの体はあっけなく持ち上げられ、ベッドの脇にどかされた。
ヘクトールは、めくれた服や乱れた髪を整えながら涼しい顔をしてベッドを下りる。
「太陽神の悪戯にいちいち目くじら立ててちゃ、身が持たないぞ?」
パリスの姿を乗っ取る形で顕現した太陽神アポロンの戯れを、事もなげな態度でやり過ごすヘクトールに、アポロン神は口を尖らせた。
「私は戯れじゃなく、本気で可愛がるつもりだったんだけどな」
「よしてくださいよ、その姿形で言うのは悪趣味が過ぎます」
ヘクトールが渋い顔で窘める。パリスは目を細めて喉の奥で嗤った。明らかにパリスがしてみせない表情は、あどけない美少年の顔を不気味に歪ませ、激しい違和感を醸し出す。
アキレウスは激しい憤怒の片隅で悍ましさを覚えた。生前には抱かなかった感慨に、拳を握りしめる。
アキレウスは常日頃から、神々の存在を無意識に憎悪し忌避しているが、今この瞬間ほど神の享楽を忌々しいと思ったことはなかった。憎しみが疎ましさを超えて、眦が切れるほどの憤怒に変わる。ヘクトールの末弟の姿形を乗っ取った太陽神を、容赦なく打ち据え、叩き潰したい衝動に駆られる。
だが、行動に移せばヘクトールが阻むだろう。弟の霊基を守るためにか、曲がりなりにも己の故国を加護した一柱の神への敬意か、いずれの理由にせよ、パリス/アポロンを挟んだときのヘクトールにとって、アキレウスはどの角度から見ても宿敵だった。
アキレウスにしても、自分に致命の一撃を見舞った勇士パリスを害したいとは思わない。ただ、トロイアの兄弟を信仰と加護で縛り、自分たちアカイア勢を嘲弄した太陽神が憎いだけだ。
いや、太陽神だけではない。あの戦場で、人知の及ばぬ力で戦況を翻弄したすべての神が、アキレウスにとって忌むべき対象だった。なにしろ、己の怒りさえ神の意志とされかけたからだ。
親友を失い、親友を討ったヘクトールを憎み、すべてを蹂躙し尽くすと怒りの狂気に陥ったアキレウスだが、憎しみも怒りも宿敵への執心も、すべて、己の魂の一部だった。たとえ神が運命の糸で編んだのだと宣っても、アキレウスに認める気はない。認めるわけにはいかなかった。
それにヘクトールとは、もはや宿敵に留まる間柄ではなくなっている。
アキレウスがカルデアに召喚されてから、数年が過ぎていた。先に召喚されていたヘクトールとの関係は、目も合わせない宿敵同士から徐々に変化していった。
ぎこちない和解の試みと失敗、共闘によって得た信頼、相互不理解による微妙な距離。
やがて、召喚されたパリスを挟んでの関係性の変化。
一番決定的だったのは、異聞帯アトランティスでのログを双方がおのおので確認したことだった。
『あんな形で腹の内がバレるなんて、気まずいったらないね』
食堂で、普段はあえて離れた席に陣取るヘクトールが、アキレウスの向かいに席を取った。食事の乗ったトレイを置きながら呟いてから、目を合わせず、観念したような笑みを浮かべてみせた。
『英霊は本質的に、過去を水に流せない。過去こそ英霊の寄る辺だからね。それは君も解ってると思うが、……それはそれとして、アテにしてる勇士の一人が君ってのは、間違いないよ』
ヘクトールの呟きは、そこで終わった。
アキレウスは食事を忘れ、今居る場所を忘れ、目の前でのらりくらりと軽食を口に運ぶ男の、俯いた目元をただ見つめた。けして合わせようとしない双眸を、視線で焼き潰さんばかりに、熱く見つめ続けた。
アキレウスという男は、寡黙ではないが能弁でもない。ヘクトールよりはずっと、口下手だ。とぼけた調子で告げたヘクトールからの和解に、どう口火を切ればいいのか解らなかった。
アキレウスにとって最も雄弁に語れるのは、常に肉体言語だ。それは、ヘクトールも知っている。
ヘクトールが軽食を食べ終えるや、アキレウスは自分の食べかけを片付けて、ヘクトールを自室に引っぱっていった。
ヘクトールもこの展開は心得ていたようで抵抗らしい抵抗はせず(ただし、君も物好きだねえ、とか、オジサンもちょっとどうかと思うよその発想は、とかブツブツと揶揄を呟きつづけた)、アキレウスが部屋に着くなり抱きしめて口づけてくるのを、黙って受け入れた。
そうして、アキレウスは再びヘクトールを手に入れた。生前、死体のかたちで手に入れた執心を、霊子で編まれたかりそめの肉体で手に入れたのだ。
ヘクトールも、相手が厭きるまで付き合う覚悟を決めていたようで、三日と空けず訪うアキレウスを、苦笑いや失笑交じりに受け入れつづけた。ヘクトールの霊基はアキレウスの荒々しい愛撫によく耐えて、じきに馴染んだ。
さすがのアキレウスも、庇護対象のマスターたちに気取られる真似はしなかった。彼らの変化に気づいたサーヴァントもいたが、ほとんどは弁えた者で、冷やかしたりあげつらったりする者はいなかった。アキレウスは、パリスやシャルルマーニュ十勇士をはじめ、ヘクトールを慕うサーヴァントには知られないよう振る舞った。ヘクトールの沽券に配慮するアキレウスの言動を見て、ヘクトール本人は鼻で笑っていたが。
パリスの顔に傲慢な神の微笑をたたえ、アポロン神はアキレウスに向き直った。
「まるで自分が被害者だと言わんばかりの怒りようだな、ペーレウスの子よ」
「……」
アキレウスがヘクトールの心の内に一歩ずつ踏み込んでいく様を、パリスの側で普段は形を潜めているアポロン神はずっと見ていた。どんなきっかけで傍観を止めようと思ったのか。それはアポロン神以外には知り得ない。
ただ、この戯れはアキレウスへの当てつけであり、神の嘲弄であるのは間違いなかった。
「この場で一番の被害者はヘクトール、次点が私、加害者はお前だ。それは自覚してるのだろう?」
問いかけながら、ヘクトールに目配せする。ヘクトールは自分を寵愛する神の所作に、他人事のように首を振った。俺は関知しませんよ、と言いたげな態度で、傍観者の位置から動こうとしない。
アキレウスは他人事の態度でいるヘクトールをひと睨みしてから、アポロン神に体ごと向き直った。仁王立ちで肩を怒らせたまま、低く力強い声で反駁する。
「俺たちの間に、加害や被害の概念はもはや無い。俺はヘクトールの同意をもって、この場限りの友誼を結んだ。それは、ヘクトールも同じ理解のはずだ」
「……だそうだけど、どうだい? ヘクトール」
アポロンが無邪気なパリスの笑顔でヘクトールを振り向く。机に寄りかかって腕組みをしたヘクトールは、軽く首をすくめてみせた。
「コメントしづらいですねえ。まあ、このクソガキの我が儘に、今は付き合ってやっちゃあいますがね」
「おい!」
「なるほど。つまり私は、あの最悪な女神どもの寵愛を受けた勇士に、我が愛しいトロイアの王子を寝取られたわけだ」
「アポロン様、少々言い方が俗っぽくありません?」
「だってそうだろう? イレギュラー中のイレギュラーな事態に便乗してかっさらうなんて、神に窃盗を働いたのも同然だ」
「あの~、俺にも俺の意志ってもんが、あるんですけどねえ~」
アキレウスを挑発するアポロン神に、ヘクトールが窘めるでもなくやんわり口を挟む。
状況を面倒くさがっている態度を隠さないヘクトールと裏腹に、アキレウスの怒りは静かに延焼しつづけ、部屋の空気を重たくヒリつかせていた。昂ぶる霊力が波動に代わり、棚に並べられた贈り物たちがカタカタと揺れ、風圧に押されるように椅子が動く。
「やめときな。この方の話をまともに取り合ってたら、堪忍袋がいくつあっても足りないぜ」
「ヘクトール、私は真剣に異議申し立てしているんだけど?」
「残念ながらあなた様が仰ると、説得力に欠けるといいますか……」
軽口を叩き合う二人の肌を、アキレウスの放出した霊力が打ち据えた。霊子の枠組みを超えて霊核に響くほど強烈な怒りを受けて、ヘクトールとアポロンの顔から揶揄の表情が消える。
アキレウスは無言でヘクトールに歩み寄ると、机に寄りかかった体を抱き寄せた。
「おい、ちょっと待……」
制止するヘクトールの声は、アキレウスの噛みつく口の中に吸い込まれた。がっしりした体を強靭な腕で抱きすくめ、呼吸を肺からすべて奪う荒々しさで口づける。ヘクトールの手が頭を叩き、背中を殴るが、アキレウスは止めようとせず、むしろ隣で冷ややかな目になったアポロンに見せつけるように、わざとらしく舌を舐る音をさせてみせた。
「……っ、ぅ、……んっ……」
若草色の髪を毟る勢いで掴んでいたヘクトールの手から、ゆっくり力が抜ける。弛緩した腕で背中を抱きしめる形になり、懐柔されたかのような姿勢になる。
アポロン神は、口づけるアキレウスと強引な快楽によろめくヘクトールを、パリスの幼い眼で凝視していた。その視線を、アキレウスがヘクトールを手放さないまま、眼光鋭く睨み返す。
アキレウスの挑発にアポロン神は目を細め、パリスの顔とは思えない陰惨な笑みを浮かべた。それは一瞬のことで、すぐに悪戯っぽい神の表情に変わる。ヘクトールは、アキレウスに口腔をまさぐられながら、ふらふらと視線だけ振り向いたが、彼の目が捉えたのは弟のふりをする太陽神の呆れ顔だった。
「……あーあ。本当に嫌になっちゃうねえ、お前という英雄は」
アキレウスが口を離す。ヘクトールは肘で胸元を押しやり、抱きすくめる腕から逃れようとしたが、アキレウスは抱きしめる腕に万力をこめて阻んだ。
「挑発に厭きたなら、さっさと出て行ってくれ」
「露骨だなあ~無粋だなあ~。ねえ、ヘクトール。お前はこんな恥知らずに組み敷かれて、なんともないのかい?」
アキレウスの怒りをたきつける真似に飽きたアポロン神が、パリスそっくりの幼い表情で肩をすくめ、ヘクトールを見やる。逞しい腕からどうにか解放されようと踏ん張って身をよじっていたヘクトールは、神気をまとう末弟の双眸を見ると、ふと頬を緩ませた。
「まあ、なんともなくはないですが、少なくとも死体にして引きずられるよりはマシですよ」
「おいっ、オッサン! 今言うことか、それ!」
「今言わなくて、いつ言うんだい」
食ってかかるアキレウスを適当にいなして躱す、ヘクトールの老獪な受け答えには明らかな信愛があった。カルデアに限り友誼を認める、その意志がムキになるアキレウスを見返す目元にはっきり顕れている。
アポロン神は、はーあ、とわざとらしく長い溜息をついてみせた。
「わざわざ霊位を落としてまで干渉しにきたのに、本当に寝取られるなんて。最低だよ、お前達」
パリスの顔で憮然とするアポロン神に対して、アキレウスとヘクトールは、示し合わせもせず、異口同音に言い返した。
「そりゃあどうも」
「すみませんねえ」
[了]
