その日は珍しく、九番隊自体も編集業も暇で、檜佐木は朝から隊首室にある事務机で、六車に代わって事務の手続きを請け負っていた。
六車はというと、五番隊から依頼されていた体術鍛錬の指導に出向いていた。
近接戦闘特化の斬魄刀を持つ隊長格である。当然、白打をはじめとする体術には精通している。体術に自信のある死神で、六車の指導を求める者は他隊にも多くいる。檜佐木の予定が空き、自分の仕事を預けて出かけられると見て、以前から阿散井恋次に頼み込まれていた指導の約束を果たしに行ったのだった。
午前いっぱい、五番隊の面々を厳しめに揉んでやった。昼に隊長の朽木白哉が隊舎の道場に立ち寄り、かれこれ百年近くぶりに、隊長格同士の正式な模擬試合を披露した。
六車の記憶で朽木白哉といえば、四楓院夜一におちょくられっぱなしの少年だったのだが、さすがに百年も経てば、ひとかど以上の死神に成長していた。
白哉は、模擬試合と承知のうえで、ほとんど本気で挑んできた。六車の性格からして、隊長同士のメンツや立場を気遣う必要がないと思ったらしい。白哉の速度を活かした体術は、ここ一年ほど身体がなまり気味だった六車には、いい刺激になった。おかげで、双方、道場内で始解するまで至り、副隊長の阿散井が慌てて制止のかけ声を飛ばす始末だった。
恋次から礼を、五番隊隊士たちからは喝采を受けて見送られ、六車は珍しく見て解るほど機嫌良い顔で、自分の隊舎に戻ってきた。
隊首室に入ろうとすると、扉の前は隊士たちでごった返しており、なにやら行列めいたものが出来ている。
「なんの騒ぎだ」
「隊長! お疲れ様です! 檜佐木副隊長が、今日一日、隊首室にいるっていうので、皆さん目を通してほしい書類を持って来てるんですよ」
「?」
今月提出が必要な書類は、すべて各担当部署に提出済みだ。だから六車は、残務を檜佐木に預けて外出したのだった。
それに、檜佐木が瀞霊廷通信の編集長に専念できるよう、副隊長の業務は六車が兼任している。常日頃から、副隊長の承認が必要な事柄も六車が目を通しているので、わざわざ檜佐木に指示を仰ぐ必要はないはずだ。
怪訝な顔をする六車に、挨拶した隊士はぎくっと肩をそびやかした。
「いや、違うんです、けして隊長の手続きに難があるというわけではなくて……」
「修兵の仕事の方が丁寧だっつうんだろ」
「あー……えーっと……」
口下手なのか嘘がつけない性格なのか、若い隊士は気まずい表情で目を泳がせた。
六車は口を引き結ぶと、部屋の入り口を塞ぐ隊士たちを押しのけて中に入る。六車の帰還に気づいた者から順番に、そそくさと列から離れ始める。檜佐木の机の前に並んでいる数人以外は、諦め顔だったり残念そうな表情だったりを浮かべつつ、己の持ち場に戻るかどうか迷っていた。
列がはけてしまうと、檜佐木が何をしているのか六車にも見えるようになった。
「そうだな。この申請書は、ここと……ここにも記入がいる。この欄は、以前の報告書にあった日時を入れる。三席以下の確認印をもらってから、副隊長、最後に隊長の押印だ。隊長に出す前に必ず、三席に記入欄を全部、確認してもらえ。それで差し戻されなくなるだろう」
「はいっ」
「よし。じゃあ次、……あっ」
書類の書き方を懇切丁寧に指導していた檜佐木が、列の最後尾に腕組みをして突っ立っている六車に気づき、目を丸くした。
「俺に構わず続けろ」
「えーっと……」
檜佐木がぎこちなく並んでいる部下達を見やる。部下達は部下達で、気まずい顔で六車を振り返り、そろりそろりと窺い見た。
説明されなくても分かる。
六車は、面倒見は悪くないが口数が足りないところがあり、書類仕事では差し戻しがあると自分の手元で全部処理してしまう。檜佐木とは別の方向性で仕事を抱え込む性質だ。百年の不在で、隊士たちの入れ替えも相当行われていた。突然、復帰した六車のやり方に慣れない隊士も多い。
今度の隊長は、どうやら事務手続きに問題があっても指摘せず自分で直してしまうらしい、と察した部下達が、六車不在の機会を逃すまいと、檜佐木の元へ相談に詰めかけたのだ。
一を見て十を察した六車は、気まずそうな隊士たちをぐるりと見回してから、「あー……」と低く唸る。切り出す言葉を探して数秒沈黙し、腕組みして眉間に皺を寄せた。
「相談しづらい空気になってたなら、すまん。悪かった」
「い、いえ、私たちの方こそ、しょっちゅう訂正いただいてしまって……」
「理解が曖昧なのが良くないって副隊長も言ってました、私たちが隊長の気遣いに甘えていて、良くなかったんです」
異口同音に己に非があったと申告する隊士たち、その後方で席に就いたままの檜佐木は、ちょっと肩をすくめて苦笑いしてみせた。どっちもどっちですよ、と言いたげな表情。そこには一抹の反省も含まれている。
(俺が隊長に頼りっぱなしだったのも良くなかったんです、……てツラしてやがる)
六車は申し訳なさそうに居並ぶ隊士たちの前を行きすぎ、自分の執務机に腰かけた。
「俺も見てやる。檜佐木に並んでるヤツ、誰でも良いぞ、こっち来い」
気まずさに緊張気味だった隊士たちが、一様にほっと胸を撫でおろした。列の後ろにいた隊士たちが数名、六車の前に並び直す。
六車はちらりと檜佐木の方を一瞥した。
檜佐木は書類ではなく隊士の顔を見て、努めて和やかな表情を作って語りかけている。指摘箇所を指で指し示し、記入例と思しき紙面を時々見せながら、隊士の質問に丁寧に答えている。低く落ち着いた穏やかな声は、聞き取りやすく、やや離れた六車の耳にも快く届いた。
部下に教えるのが上手い、と六車は内心で刮目していた。傷や刺青で厳つく装った外面に反して、誠実で真面目な男だ。一度でも檜佐木と接したことのある者なら誰でも、彼の本質を誤解しない。
それでも檜佐木は、自分の背格好が相手に与える印象を気にして、普段よりいっそう丁寧な態度で向き合っている。六車の性分ではなかなか出来ない真似だ。
「俺は修兵みたいに親切にはできねえからな。優しく指導されたいってヤツはあっちに並び直せ」
先頭に並んだ隊士に告げる。しかし若い隊士は「いいえ、よろしくお願いしますっ」と声を張った。単純に機会がなくて聞けなかっただけらしい。
六車は簡潔に、指摘点を挙げていく。その間、檜佐木を見習って相手の顔をよく見るようにした。部下達は緊張しているが、真摯に仕事に向き合おうとしているのが伝わってくる。六車の声、口調、風貌への気後れはなかった。
六車は、複雑な心境のまま、腑に落ちた。
今の九番隊にいる隊士のほとんどは、物事が見たままそのままではないと、熟知しているのだ。盲目の隊長の下で培われた判断力は、そのまま新しい隊長にも向けられている。六車の外面に気後れするような隊士は、今の九番隊には一人もいないのだと確信できた。
この空気を護り、保ちつづけてきたのが、副隊長の檜佐木修兵なのだ。
(俺の九番隊を、こんなふうにしてくれやがって)
六車はもう一度、檜佐木を見やった。
自分が不在の間、あの机で多くの仕事をこなしてきただろう檜佐木の信念が、自分の敷いた気風の上にふわりと被さっている感覚。その檜佐木が死神になったきっかけは自分にあるという巡り合わせ。檜佐木を死神として形作った男が自分を追い落とした原因という皮肉。
すべてが繋がって、今があるという事実。
それらに、悔しいような心強いような、上手く言葉にできない感慨がこみ上げてくる。
六車は朱墨で抜け漏れた項目に印をつけてやりながら、目の前の隊士に尋ねた。
「修兵、……檜佐木副隊長は、頼りになるか?」
「えっ? はい、それはもう。俺たち平隊士も、席官の皆さんも、もうずっと、頼りっぱなしですよ」
「そうか」
六車は用紙を差し出すと、誇らしげな笑みを小さく浮かべた。
「俺は部下に恵まれたな」
すべての隊士の問い合わせを受け終え、最後の一人が退室する頃には、外はうすぼんやりした夕暮れが迫り始めていた。詰めかけた部下たちが持ち場に戻ってしまうと、隊首室は一転、しんと静まりかえった。
檜佐木は、散らかった机の片付けもほどほどに、席を立った。六車の前に進み出るや、ばっと勢いよく頭を下げる。
「六車隊長。留守中に出しゃばった真似をして、申し訳ありませんでした」
直角に頭を下げる檜佐木に、六車は鼻を鳴らす。
「気にしてねえ。むしろ、こっちも部下と話す良い機会になった」
「そう言っていただけると、救われます」
頭を下げたままの檜佐木が、ほっと息をつく。六車は文箱に隊長印をしまいながら、檜佐木に言いやった。
「隊内で俺への不満が出たなら、遠慮せず言え。俺にとっちゃ、ここは百年前の古巣だが、お前らからしたら、急に知らねえヤツが隊長に収まった状況だからな。戸惑いも不満もあって当然だ」
檜佐木がばっと顔を上げた。まっすぐ立ち尽くし、腰を下ろした六車の顔をじっと見据えて口を開く。
「六車隊長に、不満なんてありません。これから先末永く、俺と部下達を率いていってください。お願いします」
どこか思い詰めたふうな言い回しに、六車は軽く眉をひそめた。この百年近く、九番隊を統率し、気風を整え、部下たちの信任を得てきた男の影が、まだそこかしこにくっきり残っている気配があった。だからこそ、鋭く力強い声で言い返す。
「当然そのつもりだ。ただ、いなかった間のことは正直、分からねえからな」
「その点は、俺も出来るかぎり力になります。なんでも言ってください」
前のめり気味に言い募る檜佐木に、六車は少しだけ気圧された。
他意のない、副隊長としての義務感なり誠意なりからの発言に違いないが、平子や鳳橋から伝え聞く、渦中にあった副隊長たちの様子とは、大分違う。
(目の前で隊長を殺されてるっていうのにな……大した根性だ)
瀞霊廷にも、中央にも、自分を取り巻く状況にも思うところはいくらでもあるだろう、それを全部呑んで、六車の側近になるべく心を砕いている様子は、健気を通り越して痛ましさすらある。
六車は意気込む檜佐木をじっと見据えてから、視線を解いた。部屋の窓を見やると、「お前、酒は」と呟く。
「ほどほどに、飲みますけども……」
一瞥向けられた檜佐木は、質問の主旨を測りかねて怪訝な表情を浮かべ、たどたどしく答える。酒豪ではなさそうだが下戸でもない返事に、六車は席を立った。
「じゃあ、今日は仕事を切り上げて飲みに行くぞ」
「えっ、今からですか?」
「嫌なら嫌だって、断っていいぞ」
「嫌じゃないです!」
六車が振り向く。檜佐木の顔は、嬉しさからか、ぱっと磊落な明るさに照らされた。世辞や社交辞令抜きに、本当に六車と飲みに行けるのを喜んでいる──それも、年甲斐もない素直なはしゃぎ方までしている。拳を握り、低い位置でガッツポーズを決める檜佐木の横顔は、部下達に親身な態度で接していた有能な副隊長の顔ではなかった。
(こいつ、幾つだ?)
思い出すのも憂うつな過去の、一連の事件の直前を、六車は詳しく覚えていない。その後、自分の身に起きた異変があまりに巨大すぎて、檜佐木の語るエピソードを未だに詳しく思い出せない。それでも、助けがいる子供だったと考えるなら、せいぜい百二十歳前後だろう。成熟しているとは言いがたいが、一人前ではある、青年と大人の境界線を踏む年頃だ。
(ってことは、まだ全然ガキじゃねえか)
六車は内心で舌打ちする。
瀞霊廷の中枢がよってたかって、この青年を物わかりの良い大人に変節させようとしたかに思えてきて、急にむかっ腹が立った。
(胸糞悪ぃ。少なくとも俺の前では、年不相応な真似をさせてたまるかよ)
「オイ、修兵」
「はいっ!?」
六車が怒気をはらんだ声で呼びかけた。ひっそりと分かりやすく浮かれていた檜佐木は、びくっと肩をそびやかす。
「何が食いたい。お前の食いたいモン、奢ってやる」
「えっ、そんな急に言われても……」
「好物とか、いくらでもあるだろ」
「えーと…………それじゃあ、ウインナーの串揚げがいいです」
しばし悩んだ檜佐木は、ぱっと笑顔を浮かべて答えた。幼ささえ滲む笑顔から、遠慮ではなく本音なのが分かる。軍勢の仲間たちに料理をふるまってきた六車にとって、檜佐木の貧相な食のイメージは、あまりに我慢ならなかった。苛立ちと呆れの長い溜息をついて、こめかみを引きつらせる。
「やっぱり、何を食うかは俺が決めるぞ」
「えっ、リクエストを聞いておいて!?」
「うるせえ。そのうっすい腹にたらふく詰め込んでやるから、覚悟しとけ」
「……!!」
じろりと鳩尾あたりを睨み付けられ、檜佐木が両手で臍の上を隠す。その顔はもう、分別くさい副隊長の静かな面持ちではなくなっていた。自分のなにが六車の逆鱗に触れたのか見当が付かずに、おろおろしながら両手を彷徨わせている。
「遠慮じゃないっすよ、好物なんです!」「だ、だったらすげぇ美味いウインナーごちそうしてくださいよ!」と繰り延べる檜佐木に、六車はまた溜息をついた。本気で怒っているわけではないと示すため、眉間から力を抜こうと試みる。
「その、本当に俺、六車隊長といっぺん飲みに行きたいと、思ってたんで。声かけてもらえて、すげぇ嬉しいっす」
「そうかよ」
檜佐木は、憧れの相手と親しい距離で話せる機会を得て、喜びと興奮を隠しきれずに、うっすら頬を紅潮させて、笑ったり困惑したりしてころころ表情を変えている。いきいきとした面持ちに、六車は今更気づいた。
(そうだ。コイツが俺に、気を遣わず話すところを、まだ数えるほどしか見ちゃいなかったな)
六車の心中など知らない檜佐木が、期待でちかちか輝く目で振り向く。そのまぶしさに一瞬、目をすがめた六車は、羽織を翻して席を立ち、見つめる檜佐木に歩み寄った。怪訝に見つめる檜佐木の頭を軽く叩いて、くしゃくしゃと撫でる。
六車から初めてスキンシップされて、檜佐木が目を丸くして固まってしまった。見る間に首から上を真っ赤にする檜佐木に、六車は小さく笑う。
「突っ立ってんな、行くぞ」
「はいっ」
檜佐木の返事を待たず、六車がさっさと隊首室を出て行く。広い背中のあとを追いかけて、檜佐木も隊首室を後にする。部下達に早上がりを告げ、見送られながら九番隊の隊舎を後にする二人の陰影は、確かに六車九番隊の先頭を張る、隊長と副隊長の後ろ姿をしていた。
その後、六車の行きつけの店で早々に酔っ払った檜佐木が、六車にどれほど憧れていかにして死神になる決心をしたか、そして今に至るまでを、延々と語り聞かせることになるのは、また別の話である。
[了]
