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夜の番犬

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 その日、副隊長としての書類仕事が長引いた檜佐木は、夕方から管区の巡回に出てまだ戻らない六車を待っていた。
 瀞霊廷とその周囲を取り囲む流魂街は十三の管区に分けられ、各隊に割り振られている。基本的に、出現した虚の制圧は管区を担当する隊長もしくは副隊長が現場に赴き、これに当たる。定期巡回はこの限りではない。
 九番隊は、虚の制圧も警戒も隊長の六車拳西があたる。檜佐木が瀞霊廷通信の編集や取材に手を取られているのが、主な理由だ。
 隊長・副隊長が不在の場合、三席以下の隊員が指揮を執るケースもある。救護を主とする四番隊や、隊長が総隊長を兼ねる一番隊ではよく採用される人事だが、九番隊はほぼ必ず、隊長の六車が警戒・討伐を行う。
 百年ほど前に遭遇した苦い経験から、隊長・副隊長で外回りにあたるのを倦厭しているのだ。意識的にか無意識にかは、檜佐木には分からない。ただ、外回りや虚退治が長引いた日の六車は、隊舎に檜佐木の姿を見つけると、見て解るほどはっきり、安堵するのだ。
 檜佐木は、六車が安心するならばと思い、仕事を終えても隊首室に明かりをつけ、待っていた。
 時計が深夜を回った頃、六車が隊士を引き連れて戻ってきた。
 明かりがついたままの隊首室に入るなり、執務机の横にある、副官用の席に座る檜佐木を見て、ほっと肩を落とす。檜佐木は立ち上がり、にわかにばたつきはじめた母屋の方を見た。
「虚、手こずったんですか?」
「いや、数が多かっただけだ。実戦経験を詰ませるには、ちょうど良かったぜ」
 六車は、遅番の隊士から受け取っただろう手ぬぐいで汗を拭いながら、さばさばした調子で答えた。危なげなく完了したからか、六車の表情は出かける前より明るい。
 檜佐木は用意しておいた冷茶のグラスを差し出した。
「気が利くな」
「今夜は暑かったんで」
 六車が、手渡されたグラスを一気に干して一息ついた。その目が、檜佐木の穏やかな顔を一瞥する。
「仕事終わってねえのか」
「いえ、片付いてます。俺も、もう帰りますよ」
「なら、うちに寄って晩酌に付き合え」
「! はいっ」
 檜佐木の顔が見るからに嬉しげに、ぱっと輝く。ここしばらく、六車とは仕事や任務の予定が噛み合わず、それぞれ個々に仕事をこなしていた。仕事の愚痴にせよ、相談事にせよ、話の種はうなるほどあった。
 出撃の後始末を遅番の隊士たちに任せて、六車は檜佐木を連れて先に上がった。九番隊の隊舎は、二人を見送ったあとも煌々として、夜間出撃の余韻に慌ただしい気配を漂わせていた。

 夜食に卵と青ネギの雑炊、それにウィンナーを添えたものを出すと、檜佐木は晩酌そっちのけで平らげた。二杯おかわりする間、六車は檜佐木が雑炊を啜る姿を肴に、晩酌をした。
 この間、矢胴丸が持って来た現世のつまみ──カルパス、チー鱈、鮭とば、ミックスナッツなどなど──を適当に盛っておいた皿に、腹がくちた檜佐木が手を伸ばす。暖かい煎茶を入れた湯飲みはもう空っぽだ。
 六車が気を利かせて、空の湯飲みに焼酎を注いでやる。檜佐木は恐縮しつつ受けると、白湯でも飲むように注がれた焼酎をぐいぐいと呑んだ。
「仕事明けの酒、マジで美味いっすね!」
「つうか、上司に酌させんなよ……」
「すんません~」
 飲み干して笑顔になった檜佐木に、六車は呆れ顔で二杯目を注いでやる。
「そういえば、実質今日が初戦の奴ら、連れて行きましたよね。大丈夫でした?」
「席官がよく面倒見てたからな」
「指揮も席官にやらしたんです?」
「ああ。俺は適当にデカブツを殴ってた」
「えぇ……適当すぎません?」
 六車が、文句あんのか、と言う代わりにじろりとひと睨みする。本気で叱っているわけではないと分かっているので、檜佐木はへらへらと笑ったまま、注がれた焼酎を景気よく呑む。皿のカルパスを囓り、これ美味いっすね、としげしげ眺めた。
「まさかと思うが、もう酔っ払ってんじゃねえだろうな」
「んなわけないでしょ。まだまだ呑めますよ!」
 まだ底にうっすらアルコールが残っている湯飲みをつき出して、檜佐木が食ってかかった。黙って酒を注ぎつつ、六車は内心で首を振った。
(速攻で出来上がりやがって……雑炊食わせたのが間違いだったか?)
 六車は基本、相手が断るまで酒を注ぐのを躊躇しない。檜佐木が相手だと、酔っ払ってぐにゃぐにゃになっていくのに任せ、放ったらかしにする。
 体調で酒量の限界にばらつきがある檜佐木だが、この日は疲れていたのか、腹に暖かいものを入れて血の巡りがよくなっていたからか、あっというまに酔いが回った。三杯目、四杯目で赤ら顔になり、五杯目あたりで声量の調整がままならなくなり、六杯目をちびちび舐める頃には、敬語がもつれてため口と入り混じり、けんせーさん、と下の名前で呼び始めた。
「俺ェ、拳西さんが出撃するとき、ほんとは一緒に征きたいんすよぉ」
「知ってる」
「ですよねぇ、知ってますよね、俺の気持ち。でも、すげー嫌そうな顔するし……俺が、隊舎で待ってた方が、嬉しいのかなあとか、思うんで、我慢してますけど……」
「そうだな。偉いな、修兵は」
 おざなりに褒め、雑に頭を撫でてやる。手を伸ばしただけで、撫でて貰えると素直に信じてつむじを差し出してきた檜佐木に、犬じゃねえんだからよ、と呆れ声で呟いた。
「でも俺、もしかしたら、拳西さんの犬になりたいのかも」
「はぁ?」
「犬っつっても、えっちな意味じゃなくてですよ、番犬です番犬。隊舎で、あんたの帰りを護る……そういう、……なれてますかね、俺、……」
 湯飲みを持つ手からゆるゆる力が抜ける。檜佐木は頬杖をつき、そのまま崩れるように机に突っ伏しながら、酔いの回った声でうっとりと、夢見るように呟いた。
 皿に残ったミッスクナッツを拾い上げ、囓ってから、六車は突っ伏した檜佐木の顔に手を伸ばす。手の甲で火照った頬に触れ、ざんばらの前髪を優しく撫で上げる。檜佐木は寝入り端の呼吸を、すう、すう、と繰り返しながら、唇の間から拳西の名前を呼ばわった。
「おれがいるから、もう…だいじょうぶっすよ……ずっと、……けんせーさん……」
 そっと撫でる六車の手に、閉じた目をぎゅっと瞑り、くすぐったそうに口元を歪めた檜佐木が、曖昧な呂律でのろのろと呟く。六車に語りかけたいのだろう、不明瞭な声が紡ぐ言葉に、六車は微かに目を細めた。
 夜、警戒や虚退治に赴くと、最悪が起こる前から起きた後の悔恨が先回りして、胸中の古傷を引っ掻いていく。じくじくと嫌な予感の残滓に腹の底を蝕まれる心地で任務を済ませて、隊舎に戻る頃には、勝手に不機嫌になっている。引き連れた隊士が全員無傷でも、だ。
 肩越し、ついてくる部下の死覇装や道を踏みしめる草履の音に、嫌な光景が蘇りそうになる。
 引きずっていないつもりでも、そんなザマだった。きっと死ぬまでついて回る悪夢だろうと、六車は覚悟していた。
 覚悟しているなら平気かというと、そうとも限らない。
 なので、隊長に復帰して初めての夜間出撃から戻った際、隊舎で留守を守るように待っている檜佐木の姿を見て、腹の底をざりざり削る無意味な杞憂が吹き払われるのを感じた。自分の戻る場所を護る存在を得た実感に、比喩でなく、心が震えた。
 六車は情緒を口に出す男ではない。自分が戻るのを待ち、居場所を護っていた檜佐木の肩を叩いて労う、そのやり方でしか熱く打ち震えた心を伝えられなかった。
 そして、檜佐木は自分に向けられる好意には、特に察しが悪い男だった。
 あの夜から、六車拳西にとって檜佐木修兵は、副隊長という立場以上の意味を持つ、かけがえのない存在になっていった。その感情は、今もまだ、強くなりつづけ、日に夜に六車の心に深く根を広げている。
 六車は、自分が辛抱強くないのを知っている。それでも、この感情には根気強く付き合っていくつもりだった。愛おしい、鈍感な部下が、この情動を受け取れるくらい打ち解けるまで、待つつもりでいる。
「つっても、俺も気が長い方じゃねえからな。覚悟しとけよ、修兵」
 親指で酒の回った熱い唇を強く擦る。まだ何も知らない檜佐木は、下唇を爪先で緩く捲られる感触に、本能のまま、うっとりとした溜息をついた。

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