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The Room of Obsession

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 ヘクトールはくたびれた体で電車に乗り込むと、流れるように空いている席に座り、ぐったりともたれた。
 世間は盆休みだという。ヘクトールは思った。お盆てなんだ?自分の祖先の墓はこの地にはないし、異なる文化風習の人間には関係ない祭りではないか。そもそも祭りなのだろうか。ひっそりしすぎているし、夏祭りはどうやら別で行われている。盆休みとはいったい。
 同僚が軒並み休み、休まれた分のツケはすべて自分に回ってくる、この季節、この期間、ヘクトールの判断力は著しく低下する。
 普段、すし詰め状態で混む電車が空いて、その点は素晴らしい、とのたまう同僚に、ヘクトールは「そだね〜」と適当な相槌を返しつつ、文化風習とは別の疎外感を覚えた。中間管理職のヘクトールは、早朝出勤の深夜残業で、ラッシュアワーとは無縁なのだ。
 電車の空きっぷりは、鉄道会社の売上が心配になるほどで、ヘクトールの乗る車輌にはヘクトールしかいない。がらん…と空いた車両内は、居心地良いのを通り越して、ちょっと不気味なくらいだ。
 そういえば早朝の出勤時も、普段ジョギングや犬の散歩で見かける人々がいなかった。
「みーんな、どこいっちゃったんだろね〜」
 おそらく誰も彼も、帰省して墓参りしているのだ。もしくはバカンス休暇で旅行に出かけたか。
 車内が空いていたせいか、ヘクトールは動力を寸断されたように眠り、機械的に最寄り駅で目覚めて、飛び出すように降車した。ヘクトール以外、誰も乗っていないい車輌が発車するのを見届ける。他の車輌にはまばらに人が座っており、さすがに無人ではなかったか、と奇妙な安堵を覚えた。
 都心に働きに出る人間の〝巣〟というべき、郊外の最寄り駅周辺は、いつにもましてしんと静まり返っている。生活音がほとんどしない。すれ違う人間もいない。
「このあたりの人、全員いなくなってたりして」
 静かな、歩き慣れた通りを何も考えず歩き、習慣化のあまり全自動で途中のコンビニに立ち寄り、ハイボールとつまみを買う。(ハイボールなのは糖質に対する無駄な抵抗だ)蒸し暑い夜を泳ぎ切るようにして、マンションのエレベーターまでたどり着く。
 一刻も早く、靴を脱ぎネクタイを緩めてシャツを脱ぎスラックスを脱ぎ、その他全部キャストオフしてシャワーを浴びたい。トランクス一枚になり、クーラーをガンガンに効かせた部屋で冷えたハイボールを飲み干したい。
 エレベーターを呼ぶ間、スーツから解放される瞬間を夢想する。思い浮かべてしまうと、もう駄目だった。今日はひときわ暑かったせいか、全身が渇いている。早く部屋に上がりたい。煩わしい全部から解放されたい――ヘクトール自身は気づいていないが、連日の酷暑と過労で体力と判断力を削られ、熱中症寸前の体調だった。軽い脱水症状で朦朧とした意識のなか、エレベーターの上ボタンをカチカチと何度も押す。
「そんなに押しても来ないぜ」
「なに?」
 不意に横からボタンを連打する手を掴まれれ、引き戻される。ヘクトールはふらふらと隣を見上げた。
 無地のシャツにカーゴパンツを履いた大柄な青年が、ヘクトールを見下ろしている。
 ヘクトールは靄のかかった意識の中で、まろやかに混乱した。この青年は隣室のアキレウスだ。学生で、早朝または深夜にたまに顔をあわせたり、時々果物のお裾分けを持ってきたりする。良好な近所付き合いをしている学生が、何故か隣にいる。急に、エレベーターに乗ったか乗らないか判らら亡くなった。アキレウスがいるなら、もう部屋のある階に着いたあとなのでは。
 静かに混乱しているヘクトールに、アキレウスはふと微笑んで見せる。
(顔がいいなあ……)
 照明の角度によっては若草色にも見える鈍い金髪に、整ったアーモンド型の目に収まる滑らかな金色の瞳、凛々しいを体現した鼻筋の通った美々しい顔立ち。四肢を思うがままに動かせるのだろうと想像できる体躯と、大柄な見た目によらず優しい手つき。ヘクトールはしみじみと魅入られ、心で呟いた感嘆を改めて口にも出していた。
「君、本当に顔がいいねえ……」
「男前なのは顔だけじゃないぜ。酔っ払いの介抱だってできる」
「酔っ払い? オジサンがかい?」
「目の焦点が怪しすぎる。酔ってないなら熱中症一歩手前だろ」
「あー、ねぇ……」
 じゃあ熱中症かな、とヘクトールが口の中で呟くと、アキレウスの整った顔があからさまに曇る。エレベーターが来るや、アキレウスはヘクトールの腕を掴んで肩を支え、エレベーターに乗り込んだ。手に下げているコンビニの袋も取り上げ、片手に持つ。
「酔っ払いじゃないってば」
「フラフラしてんなら、酔っぱらいも熱中症も同じだ。ていうか、アンタ働き過ぎなんじゃねえの」
「オジサンもねえ、そう思う。これが社畜の悲しい生態なのよ」
 嫌だねえ、とヘクトールが自虐気味にヘラヘラ笑うのを、アキレウスは面白くない顔で聞いていた。むっつりと黙り込んだまま、ヘクトールを支える脇に添えた手に力を込めてくる。
 エレベーターが二人の部屋がある階に止まる。ヘクトールは無意識にアキレウスの腕から抜け出して自力で歩こうと試みたが、アキレウスがそれを許さなかった。脇腹をしっかり捕まえ、二人が並んで歩くには幅の狭い廊下を、お互い壁やドアにぶつからないよう、ゆっくり、ゆっくり進んでいく。
 アキレウスはヘクトールの部屋を通り過ぎ、自分の部屋の前で止まった。鍵を開けて、まずヘクトールを押し込み、自分は後ろから玄関に入って後ろ手でドアを施錠する。
「あれ……? 部屋間違えたな、君」
「間違えてねえよ。靴脱いで、あとスーツも脱ぎな」
「えぇ……?」
 ヘクトールがぼんやりした目でアキレウスを振り返る。アキレウスは真面目な表情でヘクトールの額や首裏に触れると、靴を脱いで上がるように急き立てた。急かされ、ヘクトールは渋々アキレウスの部屋に上がる。
 お裾分けのお礼を持ってきた際、一度か二度、部屋に上がったことがある。ヘクトールは記憶にあるアキレウスの部屋を思い出し、記憶通り整然として過ごしやすそうな生活空間に、はー、と感心したため息をついた。
「相変わらずきれいな部屋だこと。オジサンの部屋とは大違いだ」
「ソファに座ってろ、水持ってくる」
 アキレウスはヘクトールの体から腕を離すと、急いで冷蔵庫に向かう。言われたとおり、冷房の効いたリビングのソファにどっかりと腰をおろしたヘクトールは、クッションの利いた背もたれに寄りかかると、キッチンのアキレウスに呼びかけた。
「水よりハイボールがいいんだけどなぁ」
 冗談か本気かわからないヘクトールの要望に、アキレウスが顔をしかめつつ戻って来る。
「アルコールなんて、以ての外だろ。しっかりしろよ」
「してるよぉ」
 へらへらとおどけて言い返すヘクトールの前に、スポーツドリンクのペットボトルが突きつけられた。受け取ったヘクトールは、よく冷えたプラスチックの感触にうっとりため息をついて、首周りに押し当てる。それから蓋をひねって一口、口をつける。
 ごくり、と喉を鳴らして一口、飲み干す。途端、凄まじい渇きを自覚した。ヘクトールは掴んだペットボトルを握りしめ、ほとんど一息でスポーツドリンクを飲み干していた。途中、むせて盛大に咳き込む。
「ろくに水分摂ってなかっただろ。もう一本飲むか?」
「うん……ありがと」
「ネクタイ緩めてシャツも脱いじまえ。なんなら、脱がせてやろうか?」
「いや、自分でできるよ」
 無自覚だった渇きを自覚し、過労と脱水症状が深刻だったと認めたヘクトールは、アキレウスの指示に素直に従った。ネクタイを外し、シャツを脱ぐ。アキレウスの姿が見えなくなり、ヘクトールは靴下を脱ぎつつ、「おーい」と声をかけた。汗みずくの体で、他人のソファに座り続けるのは気が引ける。所在なく涼しいリビングでうろうろしていると、足音高く、アキレウスが戻ってきた。
「ぬるま湯の風呂を入れてる。その間にシャワー浴びちまえ。風呂にお湯溜まったら、そのまま入っていい」
「家主を差し置いて入るのは気が引けるんだけど?」
「今のオッサンは病人みたいなもんだ、気にすんな。全部脱いで、さっぱりしてきな」
「でもねえ」
「いいから行けっつってんだよ。服、むしり取るぞ」
 アキレウスがヘクトールのスラックスを強めに引っ張る。ヘクトールは両手を上げて降参し、わかったわかった、と頭を振りながらよたよたとバスルームに向かった。
 アキレウスの厚意に甘えて、来ている服を脱衣籠に全部放り込み、バスルームに入る。どうどうと水でぬるめたお湯がバスタブに貯められて、ひんやりした飛沫で空間がぼんやりとぬるく冷えていた。
 コックをひねり、シャワーを出す。シャワーの温度も人肌くらいのぬるく、それが火照った全身に冷たく快い。
「あぁ〜きもちいぃ〜……」
 堪えた声で唸り、ヘクトールはそのまましばらくシャワーに打たれて全身で涼を堪能した。ザアザアとした水音が、疲れ切った頭の芯を癒やしてくれる。一瞬、ここが自分の部屋のバスルームだと錯覚するほど、ヘクトールのくたびれた心身はほぐれていった。
 背後でドアがノックされる。
「へいへい」
「どうだ、ヘクトール。倒れてないか?」
「大丈夫よ〜、君んちのシャワー、気持ちいいねえ………」
 背中を向けた全裸のヘクトールが肩越しに顔だけ振り向く。濡れ髪を項に張り付かせてうっとりした表情を浮かべるヘクトールに、アキレウスが一瞬、言葉に詰まった。
「そこにある水色の容器、湯上がりに塗ると涼しいやつだから使え。バスタオルと着替えは、洗濯機の上に置いといたぞ」
「うーん、なにからなにまで悪いねぇ。………悪いついでに、一ついいかな?」
「なんだ?」
 ヘクトールが小首を傾げてねだる表情をする。アキレウスが眉をひそめて聞き返すと、案の定な答えが返ってきた。
「ビールある?」
「バカ、危ねえだろ。バスルームは飲酒禁止だ」
「お硬いねぇ〜」
「冷やしすぎんなよ」
 ヘクトールのからかいに小さく笑って返したアキレウスは、さっさとバスルームのドアを閉じた。
 人の気配がなくなり、ぬるいシャワーで意識がだいぶスッキリしてきたヘクトールは、程よく溜まったバスタブのカランを閉める。まだ芯が火照る体を沈めると、得も言われぬ気持ちよさに、長いため息をつく。
「はぁ〜助かった………」
 何度も顔を拭い、肩口まで浸かる。ゆらゆらと深く息をつきながら、しっかりしてきた脳内で自問自答する。
 ――とはいえ。いくらなんでも子供に世話になりっぱなしというのは、流石にな。
「もらい風呂だけにして、すぐ部屋に帰らせてもらうとしよう。いやはや、格好つかないったらない」
 これも寄る年波ってやつか、とひとりごちたヘクトールは、鼻先まで沈み、そのまま頭のてっぺんまでバスタブに潜る。ゆらゆらした湯水の中で、気持ちよさに鼻先から吐き出した泡が、水中でゆらめく視界をさらにめちゃくちゃにしていった。

 バスルームから出たヘクトールは、渡された着替えに袖を通してリビングに向かった。
「どうもお先にいただきまして」
「おう、気分はどうだ?」
「すっきりしたよ。いや〜助けられちゃったねぇ」
 ヘクトールは言いながら腰を下ろす気配を見せず、壁に立てかけたカバンを掴もうとした。
「借りた服は洗って返すから、預からせてもらうよ。じゃあ、いったん部屋に戻らせてもらって、お礼はまた改めて……」
「待てよ、ヘクトール」
 ソファに座ったアキレウスが呼び止める。同情の表情を浮かべるとベランダを振り向き、ヘクトールに向き直って告げた。
「アンタの部屋、室外機が止まってた。エアコンつけたまま出かけたんだとしたら、多分エアコンが壊れたな」
「えーっ!?」
 ヘクトールが困惑顔で生乾きの髪を掻く。本当に途方に暮れているようで、自分の部屋とつながる壁を振り向き、苦い表情を浮かべた。
「今日から休みか?」
 アキレウスが両手を組み合わせ、前のめり気味になって確認する。ヘクトールは壁の向こう、自室を見つめたまま応えた。
「今週末は休めるはずだったんだけど、まいったな……」
「じゃあ、エアコン直るまで俺の家にいたらいい。大の男二人で、ちょいと狭いかもしれねえが」
「いやいや悪いよさすがに〜」
 ヘクトールがギョッとしてから、慌てて首を振る。隣人の厚意で納得するには踏み込んだ提案に戸惑っていると、アキレウスはおおらかに笑い、肩をすくめてみせた。
「いいって。俺は昼間、先生の研究室に行ってて留守してる。気にせず寝るなりくつろぐなりしててくれ」
 ヘクトールは改めて壁向こうと睨み合った。真夏のマンションで、エアコン無しの生活は現実的ではない。ビジネスホテルに連泊したとして、着替えや生活用品で細々と不便が起きそうなのは想像に難くない。アキレウスの部屋なら隣室なので、何かあってもすぐ部屋に戻れるし、物を取ってくるのも楽だ。
 今時期、電器店は繁忙期で、すぐ修理に来てくれるか分からない。逆に、すぐ済めば二、三日でお暇できる。
「うーん、じゃあとりあえず今週末だけ。それでどうだい」
「よし、決まりだ」
 アキレウスがハイボールの缶を掲げる。まるで共同生活の幸先を祝すかのような仕草に、ヘクトールは複雑な顔をした。
「あのさぁ、君。それオジサンのハイボールだよね?」
「今夜のアンタは飲酒厳禁だ、熱中症だったら引きずるからな。飲みたきゃ水か炭酸水にしときな」
「えぇー……」
 不満げなヘクトールの答えに、アキレウスはさも愉快そうに口を開けて笑う。ハイボールを飲み干すと、ソファから立ち上がった。
「食欲あるか?」
「それなりに」
「簡単に作ってやるから、座ってテレビでも見てな」
 対面キッチンに向かうアキレウスは、立ち尽くしているヘクトールに座るよう促した。ここまで来たら遠慮する方が失礼というものだ、と思い、ヘクトールは居座る覚悟を決める。ソファに腰を下ろすと、急にどっと疲れが押し寄せてきた。
「いいソファだ」
「だろ。今日、俺はそこで寝るから、アンタはベッドな」
「君の体格でソファは窮屈だろうに」
「今夜はベッドで寝た方がいいだろ」
 野菜を洗ってちぎりながら、アキレウスが険しい顔で睨み付けてくる。絶対に安眠させるぞ、という意気込みを感じる視線に、ヘクトールは「それじゃあ」と提案を受け入れた。
 ヘクトールはテレビをつけると、映った深夜番組を見る気はなしに眺めながら、時々キッチンのアキレウスを盗み見する。
 顔を合わせれば明朗に挨拶し、隣人づきあいを大事にしたいと言っては、研究室で貰ったとか実家から送られてきたとかで、季節の果物や野菜をお裾分けしに訪ねてくる。ヘクトールの多忙を知ると、野菜は調理され、果物は切り分けてタッパーに詰めた形で渡されるようになった。
 異国人同士、隣近所になる確率は珍しい。研究室に出入りしている学生か院生と思しき若者の、面倒見の良さと距離を詰める速さに最初は警戒したヘクトールだったが、所謂いい家の一人息子だと解ると、育ちの良さと経済的余裕からくる人の良さと判り、安心した。
 生活に余裕のある人間の善意は、他意のないことが多い。
 アキレウスはヘクトールの仕事やプライベートに、無理やり踏み込む真似はしなかった。ヘクトール個人に関心はあるが、周辺を嗅ぎ回る無礼は働かなかった。それが、ヘクトールの心をほどいたともいえる。ヘクトールは今の勤め先に来る前に、妻と子を亡くしていた。仕事の忙しさに溺れることで、どうにか立ち直ろうとしているところだった。
 あれこれ手を差し伸べてくるが、過去や生い立ちに過干渉すぎないアキレウスの付き合いに、ヘクトールは知らず知らずのうちに寄りかかっていた。本人は自覚していないが、今日アキレウスの世話を受け入れたのも、心身の見えない部分に蓄積した痛みと疲れを手放して、誰かに寄りかかりたい願望が無意識に募っていた故だった。
 ヘクトールはいつの間にか、テレビではなく料理するアキレウスの姿をじっと見つめていた。
「何食べさせてくれるんだい?」
「サラダうどん」
 湯がいたうどんを水で締めながら、アキレウスは目を上げずに呟く。
「アンタは、しっかり食ってぐっすり寝て、何もかも忘れた方がいい」
 ヘクトールがぴくりと瞬きする。まるで、自分の過去を知っているかのような労りの言葉だ。茹で上げたうどんと生野菜を盛り付けるアキレウスを観察しながら、ヘクトールは話したはずのない過去を思う。
 ――いつか君には、昔の話ができるかもしれないね。
「よし、できた」
「はいはい、取りに行きますよ」
「いいから座ってろって」
 立ち上がろうとしたヘクトールに、アキレウスが声をかけて押しとどめる。サラダうどんの他に、作り置きの副菜を別の皿に盛り付けると、手と腕を使って四枚の皿を器用に運んできた。
「ウェイターのバイトでもやってたのかい?」
「まあな」
 ローテーブルの上に、所狭しと大皿が四つ並べられる。サラダうどんには濃いめの胡麻ドレッシングがかかっており、副菜にはピクルスと鶏ハム、ゆで卵が並んだ。グラスと、冷えた麦茶が用意される。
 真夏らしい食卓に、ヘクトールが「へえ」と感嘆をもらす。
「料理できるんだねえ」
「これくらい料理のうちに入らないだろ」
「耳が痛いなあ」
 箸とフォークが置かれ、ヘクトールは微かに相好を崩した。今では箸にも慣れたが、妻の前で麺類を美味く掴めず四苦八苦したことを思い出す。別にいいじゃない、と妻は笑ってフォークを用意してくれた。
(彼女のこと、しばらく思い出さなかったのにな)
 ヘクトールは遠慮なくフォークを手に取ると、いただきます、と手を合わせて、うどんを食べ始めた。アキレウスも倣うようにフォークで料理を口に頬張っていく。
 ドレッシングの濃い味とさっぱりした生野菜のみずみずしさ、喉ごしの良いうどんの食感。副菜のピクルスの酸味と、鶏ハムの自然な塩味。サラダにゆで卵を追加して、ヘクトールは瞬く間に料理を平らげた。
(よく考えたら、何年かぶりに、人と手料理を囲んだな)
 心身の充足感を、冷えた麦茶と共にゆっくり飲み干していく。対岸のアキレウスより早く食べ終えたヘクトールは、自分の健啖さにはにかみつつ、ごちそうちま、と挨拶した。
「食べ足りたか?」
「ああ、腹八分目でちょうど良かったよ。君こそ、足りるのかい?」
「夜遅くは、あまり食わないようにしてる」
 さっぱりと答えるアキレウスを見て、ヘクトールは納得する。美しく均整の取れた体格は日頃の管理によるものなのだ。思わず、自分の鳩尾あたりをさすってしまった。忙しさに没頭して、最近体を絞れていないな、などと思う。
 ヘクトールが点けたテレビからは、深夜の騒がしいバラエティ番組の音が流れていた。ボリュームを絞ってあるおかげで、遠く聞こえる人々の喧噪めいて、快く空気をざわつかせる。
「君さ。どうしてオジサンに良くしてくれるんだい?」
「理由がいるか?」
「タダより高いものはないって言うだろ」
「あー……」
 アキレウスは食事の手を止めて、ヘクトールを見やる。照れ隠しなのか視線を逸らすと、ピクルスを突きながら、訥々と答え始めた。
「前にも話した通り、隣近所と良好な関係でいたいっつうがあって、あとはそうだな……。アンタ、見てて放っておけない感じがしたんだよ。なんつうんだ。どこか投げやりっつうか、捨て鉢っつうか」
「……」
「見当違いだったら悪ィ。でも実際、自分のことあんま構わねえだろ? だから熱中症にもなる」
「はは、違いない」
 アキレウスが逸らした目を戻した。ヘクトールをまっすぐ見つめて尋ねる。
「……余計なお世話すぎたか?」
「いいや」
 ヘクトールは頭を振って即答した。うっすら微笑み、アキレウスの真剣な面差しを見つめ返して答えた。
「君に親切にしてもらって、嬉しいよ。アキレウス」

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