アキレウスが食事を終えた頃には、ヘクトールはややうつらうつらし始めていた。アキレウスは皿を片付ける前に、ヘクトールに肩を貸して立ち上がらせると、寝室に連れて行った。
「ベッド、取っちゃって、悪いね……」
「いいんだ。おやすみ、ヘクトール」
「あぁ……」
おやすみを返そうとした唇が緩やかに解け、そのまますっと寝入ってしまう。ヘクトールが眠りに落ちたのを見届けたアキレウスは、エアコンの温度を調整し、ブランケットを掛けてやり、寝室を後にした。
ざっざっと手早く皿やグラスを洗い上げて、バスルームに向かう。手短にシャワーを浴び終えると、キッチンでビールを一缶調達しつつ、今夜の寝床になるソファベッドに腰を下ろした。
乾ききっていない髪をタオルで拭きつつ、ビール缶を開けて、一息で半分ほど飲み干す。そして、寝室のドアを見やった。
しばらくテレビの小さな騒音を聞きながら、缶ビールを飲んでいたアキレウスだが、飲み終えるとおもむろにソファから立ち上がった。
寝室のドアに歩み寄ると、そっと音をさせないようドアノブを回す。身幅ちょうどぐらいの隙間をあけて、足音をさせず寝室に忍び入る。アキレウスの顔は冷静で感情がなく、ただ金色の目が炯々と輝いていた。人好きする大らかな青年の目ではなく、得物を囲い込んだ獣の目をしている。
アキレウスはヘクトールの枕元で静かに膝をついて、寝顔を覗き込んだ。
ヘクトールが目覚める気配はない。
アキレウスが手の甲でヘクトールの頬を撫でる。ヘクトールは無防備な寝顔のまま、死んだように身じろぎ一つしない。上から覗き込むアキレウスの表情は、喜びと怒りと悲しみが等分に張り付き、強張り、今に憤怒しながら号泣するかに見えた。
アキレウスは強ばった表情のまま、ヘクトールの寝顔に鼻先を近づける。微かに口を開き、ヘクトールの力が抜けた唇を唇の間で押し包んだ。口腔を押し開くことはせずに、深い呼吸のすべてを奪い取っていく。ぴたりと執拗に寄り添う口づけの間、眠るヘクトールの閉じた瞼をじりじりと見つめ続け、やがて顔を離した。
「ヘクトール」
愛憎の入り混じった悲しみの声を、耳朶に低く囁きかける。ヘクトールが目覚めないことを確かめたアキレウスは、ヘクトールの胸元――心臓の上に耳を押しつける。鼓動を確かめ、目を閉じると、穏やかな脈動に囁きかけた。
「俺の臥所で眠ったな、ヘクトール。また昔のように同じ臥所で共に眠ろう。なぁ、ヘクトール」
待っていたんだ。囁くアキレウスの声が届いたのか、ヘクトールが身じろぎした。夢見るままに片手が彷徨い、胸元にそっと乗せられた重みを確かめる手つきで緩慢に触れて、鼓動に耳を寄せるアキレウスの後ろ髪をくしゃくしゃと、手癖じみた動きで撫でる。
「――……」
不明瞭な声が名前を呼ぶ。アキレウスではない名前。
アキレウスは目を閉じて、寝息交じりの優しいうわごとを紡ぐヘクトールの声に聞き入った。頭を撫でる手が脱力してまた無防備な眠りに落ちた手応えを感じると、その手を取り、胸に押しつけていた顔を離す。
掴んだ片手の甲に唇を押し当てながら、アキレウスはヘクトールを見つめる。執着の火が灯る目を暗い室内で輝かせながら、引導を渡す声色で囁いた。
「今は眠れ、ヘクトール。目覚めたら、俺のものになると言うんだ。必ず」
熱を帯びた甘やかな呪詛を振り払うように、ヘクトールは掴まれた手を振り払った。その手で喉元を鈍く掻きむしり、寝返りを打ってアキレウスに背を向ける。
アキレウスは傍らに膝をついたまま、死体のようにまた動かなくなったヘクトールの寝姿を、微動だにせず静かに見つめ続けるのだった。
