********
獣の心を内面の奥深くにねじ伏せたが、人としてあるべきこころを理解するにはまだ遠かった頃。
自分に加納アギトという名が与えられ、養育者である老人からは強くあることを望まれている、そして目の前の世界は取るに足りない弱者で溢れていたと知ってからしばらく。
当時、加納は滅堂が説く「強さ」の意味を表面的にしか理解できていなかった。強さとは戦う上での強さでしかなく、強者の反対は弱者であり、弱者はいずれ死に瀕する者、そういう理解で過ごしていた。自分を避けて通る年長者たちは生き延びたい弱者だし、自分に挑む弱者は死を厭わないか死にたがりのいずれかだと、思っていた。
加納の常人離れした格闘の業には、蠱毒という無惨な下地があったわけだが、事実を知る者は皆無だった。滅堂に考えがあって、裏の財界組織とも言うべき拳願会の関係者、日銀内の身内同然の部下のほとんどに、加納の出自を明かしていなかった。当時、滅堂の元で未来の闘技者や護衛者として養育されていた若者たちは、ある日突然、滅堂のお気に入りとして現れた少年を、目の敵にしていた。表情に乏しく、言葉が解っているかも定かでない加納は、ほとんどの若者たちに疎まれた。時に正面から、時には人目を避けて複数人で、加納に理不尽な制裁を加えようとしては、誰も彼も、返り討ちにあって再起不能に陥った。
加納の強さが本物で、正攻法ではとても太刀打ちできないと知れ渡った頃には、加納と親しく接しようとする同輩は一握りになっていた。そして、実力が及ばないと解っていながら挑む、無謀な挑戦者は鷹山ミノル一人になっていた。
なので、加納が私闘する時、相手は必ず鷹山だった。
その日も、同年代の若者たちが共同生活している寮で、ほとんど恒例になった二人の私闘が行われていた。鷹山が、仲間たちが止めたり冷やかしたりする声を背に、黙々と日課をこなす加納に難癖をつけ、無視され、殴りかかったのだ。
冷やかそうと罵倒しようと反応しない加納だが、殴りかかると俊敏に反応し、相手の顔を真正面から見る。目を合わせて話すにはまず殴らなければならない、理不尽な経験則を鷹山は導き出してしまっていた。話しかけられた時は相手の顔を見る、という常識が加納の中に定着しておらず、加納に悪気はなかったが、そうと解るまでにはまだ時間が必要だった。
なので、二人の会話は殴り合い抜きには始まらない。殴り合っているうち、鷹山は話しかけようとした事柄を忘れてしまう。
体格で、最も加納を凌駕していた時期だった。鷹山はつかみ合いから加納を引き倒すコツを掴み、加納の上に乗り上げて殴る喧嘩殺法を覚え始めたばかりだった。両脚で抑え込んだ加納に、遮二無二、拳を叩き込みながら鷹山は大声で怒鳴った。
「テメェの、その目が、ムカつくんだよっ!」
鷹山からやや離れた真後ろで、親友が「それは用件じゃないだろ、鷹!」と見当違いの声援だか忠告だかが飛んできて、鷹山の意識が加納から一瞬、逸れた。覆いかぶさるように両拳を叩き込んでいた姿勢を起こし、背後の友人を振り向いてなにか怒鳴り返した、その隙に加納はガードした腕を振り抜いて、鷹山の腕を引っ掻いた。
「ってえ!」
びっ、と皮膚の裂ける手応えと共に、加納の顔に僅かな血しぶきが飛び、馬乗りになっていた鷹山が飛び退いて、身を引いた。一歩でも引けば、あとは加納に押し込まれるだけだ。解っていたはずなのに、手刀の一撃を受けた鷹山は怜悧な技の冴えに、おそらく見とれたのだろう。遅れて反応した喉に、二撃目を叩き込むと、ゲァッ、と鈍い悲鳴を上げて仰向けに倒れ伏した。
普通なら呼吸困難でダウンしているところだ。だが、鷹山は呼吸できないまま、立ち上がった。気道に受けた衝撃から立ち直るために自分の心臓を殴りつけて、盛大に吐いた。
血まみれの片腕を構え直して、頬の傷跡を笑いの形に引きつらせる。新しく縫い直した古傷は、今付けた引っかき傷と同じ、匂い立つ生々しさで、加納の目に眩しく写った。
だが、加納が構えようとした途端、鷹山が構えを解いた。
「止めだ、止め」
鷹山はこれまで、挑んだ私闘を途中で投げ出す真似だけはしなかった。私闘の終わりは、誰かが制止するか、鷹山が気を失うかの二択だったのだ。リングの代わりとばかり、対峙する二人を輪になって取り囲んでいた仲間たちから、失望のブーイングが上がる。
「なんでやめてんだよ、血が出て怖気づいたのか?鷹山」
ひときわ声の大きい誰かが、冷やかす口調で訊いてくる。鷹山は声のした方をじろりと一瞥すると、
「じゃあ、テメェが俺の代わりに加納とやるか?」
と言い返す。取り囲んでいた同輩たちのどよめきや不満の呟きが止んで、やがてつまらなそうにガヤガヤと解散していった。一人、鷹山の同期で親友のJだけは、鷹山の怪我を案じて駆け寄ろうとした。
すると、その場を離れようとした青年たちがどよめき、わらわらと脇に避け始めた。監督官役の大人が来たのかと振り向いた鷹山は、ぎょっとして、すぐさまその場に正座する。片原滅堂が現れたのだ。
普段、あらかじめ知らせてから訪れる滅堂が、抜き打ち同然にやってくるのはこの場の誰もが知る限りで、初めてだった。黒服の護衛を数人引き連れて、着物に帽子、銀製の柄がついた紳士杖をついた出で立ちは、外出の途中に見える。出かけるついでに、寮の様子を見に立ち寄ったと思しき滅堂は、砂砂利に正座した鷹山と棒立ちの加納を見てから、帽子をつばをちょっと上げた。
「アギト。また喧嘩しとるのか。私闘は厳禁と言うたろうに」
「……罰は受けます」
「鷹山も。喧嘩するほど仲が良いのならいいが、それにしては、ちと血生臭すぎるのう」
「も、申し訳、ありません、御前」
こわばった声で謝罪した鷹山は、他に何も言わなかった。二人のどちらも抗弁しようとしないのを見て、滅堂は深々とため息をついた。そして、おもむろに杖を持ち上げて、先端で加納を指した。
「アギトは罰として、鷹山の傷の手当をせい。完治するまでじゃぞ」
「はい」
無機質な即答に、隣で正座していた鷹山が固唾をのんだ。加納への処罰は同時に鷹山に対する罰も兼ねている、と受け取れなくもない。ふざけんな、と言いたいのをぐっとこらえていると、加納以外、誰の目にも明らかだった。
滅堂の杖の先は、そのままついと横に動いて、こわばった顔をうつむかせている鷹山を指した。
「鷹山。お前は、アギトの面倒を見るように。怪我をしておるから、手当もしてやるのじゃ」
「えっ!?お、俺が、ですか、」
「お前がしでかした喧嘩なんじゃろが、片付けまで責任を持たんか」
「……はい。わかりました」
返事をした鷹山の声は、苦虫をすり潰して飲み下した後のように、へしゃげてひずんでいた。恩人の滅堂に対して、ここまで渋々の態度で返事をする鷹山は珍しかった。
加納の面倒を見ろと言われたのは、初めてではない。加納に対し、因縁浅からぬ仲になった鷹山の、くすぶる敵愾心を上手いこと利用して、加納の世話係を任せるのは仲間のみならず大人たちもだった。鷹山も鷹山で、世間知らずの加納を無視しきれず、手出し口出ししてしまう。文句を言いながら一方的に面倒を見る分には、どうにでもなった。
しかし、今回は加納も鷹山の手当をするように、と処罰がくだされている。双方向で干渉しあうとなると、だいぶ話が違う。
そういう不満を、滅堂はすべてお見通しだったのだろう。その場で裁決の行く末に聞き耳を立てている青年らに「お前たちは手出し口出ししてはならんぞ」としっかり釘を刺した。そして、「皆、しっかり精進せいよ」と言い残して立ち去っていった。
今度こそ、青年たちは神妙な態度で解散し、ほうぼうに散っていった。手出し口出しを禁じられたJは、どんより不機嫌な鷹山を見やると、仕方なさげに肩をすくめてから、同じく立ち去ってしまった。
入れ違いに、監督役が薬箱を持ってきて、加納に押し付けた。
「御前の命令だからな。二人とも反省してろ」
これ以上、加納に関わりあいたくない、と顔にも態度にも露骨に表れているのを、加納だけが気づかなかった。大人が立ち去るのも待たずに、鷹山は鼻を鳴らして加納から薬箱をひったくった。
砂砂利の上にどっかと座る。鷹山は自分の傷を雑に消毒してから、まだ棒立ちの加納を見上げた。
「手」
「……?」
「手、出せ。爪が、剥がれかけてんだろーが」
鷹山が仏頂面のまま顎をしゃくる。加納は、手刀を振り抜いた方の手を見て、中指と人差し指の爪が剥がれかけているのに気づいた。手首から先にある違和感の正体に気づき、加納は睨みあげている鷹山をまっすぐ見下ろした。鷹山が呼びかけてから、目を見てちゃんと話をしようとしたのは、この日、これが初めてだった。
「気づいたから止めたのか」
「逆になんで気づかねえんだよ。テメェは無痛症かなんかか?神経死んでんのか?」
「あのまま続けていれば、お前に勝ちの目があったかもしれない」
思ったままを口にした加納に、鷹山が無言で腰を浮かせると、爪の取れかけている手を掴んで引っ張り、ほとんど引き倒すのも同然に、加納を座らせた。傷跡が引き連れて激怒していると解る顔で、加納の眉間めがけて、額をぶつけてくる。したたかな頭突きの後、鷹山は悔しさと、一抹の悲しみがにじんだ声で吐き捨てた。
「俺が、そんな勝ちを拾って納得すると思ってんのか?」
語尾は問いかけになっていたが、答えは期待していない様子で、鷹山はすぐ視線を逸らした。ガーゼや消毒液、医療ハサミを準備すると、剥がれかけた加納の爪をひと思いにバチンと切り落とす。
「……!」
自分の一部を慎重に、かつ、ためらわず切り落とした鷹山の度胸に、加納は小さく肩をそびやかした。胸打たれた、といっても良かった。砂利の上に落ちた
爪の欠けた指をガーゼで巻いてサージカルテープで止めた鷹山は、掴んだ加納の手をまじまじと観察してから、いらだたしげに呟いた。
「爪が伸び過ぎだ、バカ野郎。そんなだから剥がれるんだろうが」
言い終えた鷹山が視線を上げて、加納を睨む。加納は、やや引っかかりがあると思っていた手を、握ったり開いたりしてから、鷹山の指先と見比べた。確かに鷹山より爪が長く、形も角が変に鋭角で、突きや手刀を繰り出した弾みで欠けそうな形をしている。
黙っている加納の表情をしばらく睨み付けていた鷹山は、くそ、と口の中で罵ってから、加納の手を改めて掴み直した。
「暴れるなよ。手元が狂うと指ごと切り落とすからな」
「どうする気だ」
「他の爪も切ってやるっつってんだよ」
医療ハサミを持ち直して、掴んだ加納の手を更に手元に引き寄せる。親指を握りしめてから、ハサミの刃を爪先に沿える。鋭利な刃の間でいびつに伸びた爪を切り取られる感覚に、加納は耳を澄ませた。さっき殴り合っていた時よりも真剣に集中する鷹山の気配が、加納の体にずっしりのしかかってくる。加納は鷹山と呼吸を合わせようとしたが、そもそも鷹山は呼吸してなかった。爪切りと違って切りづらいハサミで切る事に緊張してか、刃を沿える瞬間に息を止めて、一度切り終えると息をつく。その苦しい呼吸を、加納は真似した。すると、うつむいているはずの鷹山の表情が見える気がした。
「鷹山」
意味もなく相手の名前が口をついて出る。呼びかけた続きを何も思いつかなかったが、口走るのを止められなかった。
「……鷹山」
返事はない。小指の先をぎゅっと握りこまれる。呼びかけても顔を上げず、一瞥すら寄越さない鷹山に加納は落ち着かない気持ちがした。不快感、ときっぱり言い切れるほどではないが、じっとしてるのが辛くなるような心地だ。肩を掴んで揺さぶりこちらを向かせたい衝動が強くこみ上げて、身じろぎしてしまう。
「オイ、動くな」
顔を上げないまま鷹山に叱咤される。加納は無言で、鷹山のつむじあたりに目を落とした。自分の視線に気づいていないはずはない、と加納は傲慢な心で確信していたが、鷹山は顔を上げようとしなかった。切り終えると無造作に反対側の手を掴んで引き寄せ、また親指から順に、ぎこちなくハサミの先をあてがう。
手入れをされるのは快かった。これは嬉しさなのだろう、手に取っていつまでも眺めていたい気分がしていた。
同時に、呼びかけても答えない鷹山に、もやもやと晴れない感慨を抱いた。知らない形の感情だった。爪を切られている間、加納はそれを持て余して上手く呼吸ができなかった。
小指から手を離すと、鷹山が長々とため息をつく。医療ハサミを薬箱に投げ込むと、ようやく加納を振り向いた。胸元に指を突きつけて、とげとげしい声で言い含めてくる。
「次からテメェでやれよな」
ちゃんと視線を合わせて告げる鷹山に、加納はのしかかっていた鬱屈がぱっと晴れたのを感じた。そうして、これまで鷹山が話しかける時、絶対に顔を見て話していた事に気づいた。今、自分が味わった憂鬱を鷹山はしばしば──あるいは常に、この鬱屈を味わっていたのだ。殴りかかるのは道理だ、と加納は急に腑に落ちた。改めて鷹山の顔を見つめると、片頬の縫い跡を歪ませてあからさまに不機嫌な表情をしていた。嫌々そうに自分の面倒を見る時の顔に、浮き立つ感情が余計に疼いて、加納は口を開いた。
「お前の嫌そうな顔を見ていると、気分がいい」
「……アァ?」
鷹山のこめかみが引き攣れるのを見て、加納は言葉の選択を誤ったと把握したが、他にどう言えばいいか解らないので、黙っておいた。怒りを奥歯で噛みしめる音が聞こえる。また殴りかかられたなら、殴り返して応えるだけだ。それで会話はできている、と加納は勝手に一人で納得していた。
鷹山は、口をへの字に曲げたまま加納を睨み付けてしばらく──どうにか掴みかからず、怒りを自制した。言い様に一瞬カチンとしたが、ちゃんと顔を見て話していたので、加納の一言が挑発でないのはすぐ解った。ちゃんと選んで話して、あれなのだった。口下手かよ、と小さく呟いて加納の目をじっと見据える。
おもむろに加納が口を開く。鷹山の顔を見つめているうちに、その口に噛みつきたい衝動がこみ上げてきた。獣がする愛咬とは似て非なる、もっと単純な衝動──好物だから口に入れたい、という衝動で、加納は鷹山の口に噛みついた。口の端から端、そして鼻先を、痕が残らない程度に噛みしめる。
うわっ、と怒声のような悲鳴がした次の瞬間、加納は思い切り突き飛ばされていた。鷹山が鼻の頭を押さえ、目を丸くしている。
「なにしやがる!」
「……好物なら、口に入れるだろう。だから、そうした」
「ハァ?!テメェは、何言って……」
加納の返事をよく咀嚼せず、反射で言い返した鷹山だったが、何を言われたか理解した顔になった途端、口を噤んだ。うんともぐうとも無いまま、黙りの加納を見つめる。鷹山の混乱と戸惑いを見た加納が、今度は逆にうろたえた。
鷹山とは、拳をぶつけ合う形で会話が成り立っていた。少なくとも加納はそう思っていた。言葉で解らなくても血肉で触れれば解る、獣の言葉が通じる相手だと信じていた。獣の言葉でわめきながら人間として生きている──加納から見て一番自分に近いカタチをした人間が、鷹山だった。加納は鷹山に親愛の情を抱いていて、それは鷹山も同じだと無邪気に信じていたのだ。だが、思い違いなのかもしれない。加納の狼狽は、忘れて久しい不安の感覚を思い出させた。
加納は狼狽に身震いし、降ってわいた不安に視線を彷徨わせた。唇はいつも以上に強張り、名前を呼びかけるのもままならなくなった。
初めて加納の人間らしい心の動きを目の当たりにした鷹山は、呆気にとられてから、鼻白んだ。なんでそれをもっと早くに、と言いたげな顔をしたが、その言葉は飲み込んだ。数秒ためらってから、大きく口を開く。ハッと目を見開いた加納を睨み付けたまま、鼻から上唇のあたりめがけて、がぶりと噛みつく。加納がしたのと同じ、痕が残らない程度の甘噛みで、鼻先を唾液で濡らしてから、口を離す。そして、首裏に沿えた手で頭を引き寄せると、額をこつんとぶつけた。
「あのな。動物じゃねえんだ、他にやりようがあるだろ。すぐ殴る俺が言うのも、アレだけどよ」
「……?」
「あー……テメェにすぐ解れっつうのも酷か。ともかく、他人の顔を噛むんじゃねえ」
「鷹山も噛んだだろう」
「テメェが「噛め」って顔するからだろうがっ、……ともかく、もうあんな顔はするな。調子狂う」
「わかった」
加納は素直に頷いた。まさに、返事だけは良い、というやつだ。鷹山はため息をついて離れると、立ち上がり、加納に手を差し出した。掴んで立ち上がった加納が怪訝な様子で棒立ちのまま見つめてくるのに気づいて振り向くと、面倒くさそうに舌打ちする。
「医務室に行くんだよ。御前に怪我の面倒見ろって言われたろ」
「手当は今、してくれただろう」
「俺の手当が要るだろ!あとテメェも。適当な応急処置のせいで爪が生えなくなっても、知らねえぞ」
「それは、困る。爪を切ってもらえなくなる」
加納はきっぱりと言い返した。珍しくちゃんと会話がかみ合って、鷹山は拍子抜けした。困る、と繰り返す加納に、ついてこいと顎をしゃくって歩き出す。隣に並んだ加納は、今更のように鷹山に負わせた傷を見てから「痛むか」と尋ねた。足は止めずに振り向いた鷹山は、表情のない加納の顔をまじまじ見てから、言い返した。
「痛いに決まってんだろ。でもまあ、お前の爪二枚分なら、割に合ってる」
「そうか」
加納はふと息をついてから、狼狽で乱れた動機が鎮まっているのに気づいた。そして、鷹山に応急処置された指先がにわかに痛み出すのを感じた。
********
