ノウム・カルデアのシミュレーターのデータが更新されて以来、朝のラウンジで朝食を摂るサーヴァントの姿がめっきり減った。
ラウンジ自体、本来十一名のスタッフが衣食住の一部として利用する目的で設けられたもので、サーヴァントの娯楽施設ではない。いわゆるカロリー摂取としての食事が一切必要ないサーヴァントが、キッチン担当が厚意で用意した古今東西の様々な料理を堪能しにやって来るのは、まあまあ、問題があった。
物資についてはそこまで切迫していない。緩やかに崩壊を始めたとは言え、今日明日に消滅するわけではない異聞帯の資源、特異点だからこそカルデアの機能さえ生きていれば永続的に接続できる特異点、そうした場所から、十一名が日々生き永らえるのに十分すぎる食糧を回収可能であった。サーヴァントに限れば、高密度のマナ、毒素、異質なナニカを含んだ材料でも吸収しないので問題なく、贅を尽くした料理が欲しければそれこそデータの再現でも事足りる。
一部、神秘に繋がる由来を持つ者らは別として、多くのサーヴァントが、現界し、寝て起きて暮らすことを望む。死者の影として生者を模倣する以上は、生前の記憶をなぞる行為は不可欠なのだ。だが、今この瞬間に立ちはだかる問題点が解決されていなかった。カルデアの、物理的面積の限界である。
職員が優先されるとは言え、さして広くないラウンジに朝からモーニングメニューを求めて英雄たちが行列を作る、おなじみの光景は、カルデアのシステム担当であるダ・ヴィンチから「非効率・非合理」との指摘を受けた。
「だってさ~いつ行っても、パンプティングもライスコロッケも跡形もないんだもの。私だって食べたいのに!」
そんなに食道楽漫遊記したいなら、とダ・ヴィンチがリソースをかき集めてグレードアップしたシミュレーターは、まさに「英雄たちの故郷」とでもいうべき、最大公約数の幸福(主に食の)を追求した仕上がりになっていた。
他にも、動植物の再現、建物、時代の折衷具合、遠景ではあるが大陸や海洋の手応えがある空、それらの疑似データに霊基の根幹にある「記憶」が刺激されるのか、再構築されたシミュレーター内にとどまるサーヴァントが増えていった。比例して、ラウンジの朝の賑わいはずっと慎ましくなり、テーブルの数に見合うだけの客が訪れる場所へと落ち着きを取り戻した。
シミュレーターは、今までダ・ヴィンチが記録してきたレイシフトでのデータを元に組み上げられているため、召喚されて日の浅い者には、それほど馴染みがない。他人の土産話を微に入り細を穿ち、立体で見せつけられているのに近い感覚だという。
ここが一番落ち着きます、とキッチンの手伝いに参加したシャルロットコルデーは、マスターやスタッフたちに笑顔で告げた。他にも、ハサンたち、近代の碩学たちも、朝のラウンジに姿を見せた。
パリスは、来て日が浅いことと、子供の霊基で顕現してしまったために、子供サーヴァントの一人として天草の元に預けられる話に一時はまとまりかけたが、アキレウスの「一英雄として尊重してやれ」の一言で、アポロンの端末と共に自由行動を許された。
「仇に恩を売られちゃったね」
「あいつが勝手にやっただけだから、いいんです。無視です」
「でも助かっちゃっただろ?お礼した方があとくされなくていいんじゃないー?」
頭に載せた羊形の依り代がとぼけた調子で話しかけるたび、パリスは片頬を膨らませて言い返した。ラウンジにスタッフはおらず、マスターとマシュもいない。今朝のパリスは寝坊したのだ。今日のキッチン担当のブーティカがにこにこと、保温プレートに乗った料理を皿やボウルに盛り付けた。
「珍しいね、寝坊なんて」
「は、はいっ、すみません、ブーティカさん」
「いいんだよ。寝る子は育つっていうからね。たくさん食べて、しっかり鍛錬しておいで」
「はい……」
卵とベーコン、芋と豆を包み揚げにしたもの、具だくさんのスープ、新鮮なフルーツサラダ。ブーティカの慈愛をこめた配膳で、料理が次々とトレイに乗せられていく。最後に大麦パンを乗せると、トレイの上は玩具の城塞めいた様相を呈した。
慎重にトレイを持ち上げて歩きだす。が、見た目よりもずっと重く、パリスは思わずよろめいた。
「あっ」
「うーん、これはダメだ」
頭の上で傾いたアポロンが呑気に実況する。どうにか踏みとどまろうとトレイをまっすぐ持って、よたよたと数歩よろめいたパリスの、その後ろから屈強な腕がぬっと伸びてきて、ひっくり返しかけたトレイを拾い上げた。
「!兄さ…」
上背のある相手を兄と信じて疑わず笑顔で振り向いたパリスは、見上げた途端、あっと声を洩らした。
「アキレウス!」
「頭のソイツを下ろして歩いた方がいいんじゃねえか?」
普段見かける鎧姿と違い、ぴったり体に沿った鎧下着だけを纏い、逆立てて整えている髪もまだ雑にくしゃくしゃのままで、いかにも起き抜けの恰好をしていた。料理を山と盛られたトレイをパリスには渡さず「どこ座るんだ」とラウンジを見回す。
「朝ごはん、返せよ!」
「運んでやるよ。ついでに一緒に飯食うか?」
「うっ、親切にするなってば!…お前と一緒になんて食べないからな!」
「それならそれで、構わねえけど」
斃した英雄と斃された英雄の間柄にしては、気さくすぎるアキレウスの態度にパリスは口を引き結んで必死に突っかかってみせる。が、トレイを差し出されるとふと気を緩めて「ありがとう、助かった」と呟いた。アキレウスは目を細めて頭を撫でようとし、ふわふわした髪の上に鎮座する太陽神の依り代を一睨みする。
「汚い手でパリスちゃんに触るな、ペレウスの若造」
「血で汚れてない英雄なんているか」
「パリスちゃんがまさにそれなんだよなあ」
「パリスの、俺への一矢を馬鹿にするつもりか?」
ぴしゃりと言い返したアキレウスに、アポロンは挑発のつもりかパリスの頭上でほよんほよんと跳ねて見せる。アキレウスが目を細めると、剣呑な気配を察知したパリスが素早く跳ねるアポロンを両手で押さえて庇った。
「アポロン様に酷いことしたら許さないからな!」
「パリスちゃん~♡」
「アポロン様も、こいつの挑発に乗らないで!」
アポロンとアキレウスが醸し出した一触即発の空気を、パリスの元気いっぱいな牽制が台無しにする。アキレウスはパリスを見下ろして苦笑した。
パリスも、兄ヘクトールも、神に運命を弄ばれ、娯楽として消費されたはずだ。しかし、パリスにとっては、己に勝機をもたらした神に他ならない。寵愛さえ武器にしてアキレウスを討とうとした、あの時のパリスの射線は神の寵愛を抜きにしても、アキレウスを追い詰める力があった。
だから、アキレウスはパリスを認めている。認めているので、親しく接するのはアキレウスにとって当然のしぐさなのだ。そしてパリスも、頭の片隅ではちゃんとそれを解っていた。
「飯時のラウンジで暴れるほど行儀悪くなくてなあ、生憎」
アキレウスは、パリスが両手でしっかりトレイを受け取るのを見届けてから、手を離した。パリスは用心深い表情でアキレウスをじっと睨み上げていたが、湯気立つ料理の匂いに遠慮なく腹の虫が鳴ってしまい、慌てふためく。小さな体にしては盛大な虫の声に、アキレウスは呵々大笑した。
「どこでもいいから座って、早く食えよ」
「言われるまでもないっ」
ベーっと舌を出して背中を向け、パリスは慎重にトレイを捧げ持って、ラウンジの真ん中あたりに陣取った。
しばらくして、朝食を受け取ったアキレウスが迷わずパリスの対面の席に来て、なにも言わず腰を下ろす。置かれたトレイには、パリスが受け取ったのと代わらない量の卵やベーコンやサラダが乗っていた。料理の中に、ヨーグルトソースをかけた肉の包み蒸しがあるのを見て、パリスの口がはあー…と半開きになる。
「食うか?」
「……!い、いらないっ……」
「お前の故郷でも、似たような料理があるんだろ?キッチンによくいる赤い弓兵が説明してくれたぜ」
「……」
パリスは沈黙出来ない自分を戒めて、黙々とスープを掬って口に運んでいる。無視されても気にせず、アキレウスは続けて話しかけた。
「他のアーチャーとは喋らないのか?」
「……僕は、兄さんと、アポロン様と過ごしてるから」
「姐さん、…アタランテなら、優しくしてくれるだろ?」
「みんな優しい。話しかけてくれるし、稽古もつけてくれる。ケイローンさんなんて、僕は弟子の仇なのに、いろいろ教えてくれる。でも……、……」
「……あー。まあそうだよな」
アキレウスは自分の無粋を察して答えると、野菜を口に押し込んであっと言う間に飲み込んだ。パリスは気まずそうにスープボウルをスプーンでかき混ぜ、黙り込んでしまう。
小さな胸に去来しているだろう感情を、アキレウスは察せられない。ヘクトールもパリスも、家族、国、同胞に死ぬまで心を沿わせ、孤独ではなかった。生まれた時から最期の瞬間まで本当の意味で並び立つ者を得られなかった、そして、その生涯を是としたアキレウスには共感し得ない信条だった。とはいえ、信条に殉じる覚悟であればアキレウスにもはっきり理解る。自分に向けて矢をつがえたパリスは、己の信条に殉じる者だったのだ。
「やっぱり、お前と朝ご飯を向き合って食べるのは、変な気がする」
「そうか?」
「そうだよ。お前の強さは認めてるけど、同じ鍋の料理を分けあって食べるなんて、やっぱり出来ない」
「なら、それでもいい」
「なんだよ。平気なのかよ」
「そりゃあ、個々の意見てもんだろ。俺は、お前と食う飯も旨いと思うがな」
スプーンを下ろしたパリスは、アキレウスが見せる余裕の態度に、悔しさと納得を感じていた。アキレウスが自分の言動を受けて何か変わるなどあり得ない事だ。アキレウスの不死性は単に肉体に付与された加護だけではなく、魂の不変を示しているのだ。アキレウスは、不動にして無疵の英雄なのだ。
「……」
「パリスちゃん。ヘクトールのところに戻るかい?」
アキレウスを追い詰めた者という由来によって英霊となったはずの自分が、今でもアキレウスに届いていない実感に、パリスのあかるい表情が曇る。俯いたパリスにアポロンが声を掛け、テーブルの上で弾んだ。
「そうします」
小さく溜息をついて席を立つと、まだ料理が山と残っているトレイを持ち上げる。アキレウスはあまり気にした様子もなく、とぼとぼとその場を離れ行くパリスに声を掛けた。
「ヘクトールによろしくな」
振り向いたパリスは、むっと睨みつけてから思いきり舌を出して見せた。
ラウンジに向かうヘクトールは、トレイに朝食を満載してとぼとぼと歩くパリスと出くわした。普段、頭に乗っているアポロン神は巻き毛の上から下りて悄然とした足取りの側を弾みながらついてくる。明らかに普段とは様子の違う弟に、ヘクトールは穏やかに声を掛けた。
「ずいぶん豪勢な朝食だな、パリス」
「……ヘクトール兄さん!」
パリスは立ち止まり、ほっと息をつく。あからさまに安堵した表情を見せるパリスに、ヘクトールは事態のおおよそを察して小さく嘆息した。
両手の塞がったパリスは、胸で渦巻く複雑な気持ちをなんとか訴えたくて、歩み寄ってくるヘクトールをつぶらな瞳で見つめた。弟の眼差しに袖を引かれたヘクトールは立ち止まると、少し冷めかけた食べかけのスープボウルを手に取る。
「クラムチャウダーってやつだな。いいねぇ」
「……」
「あいつに絡まれても次は無視すると、言ってたじゃないか」
数日前、ヘクトールの側で過ごしていたパリスが突如思い立って宣言した言葉を、ヘクトールが丁寧に復唱する。パリスはぐっと口を噤んでから、視線を逸らした。
「そうです、でも、アキレウスが話しかけてきて……あと、ひっくり返しそうになったトレイも、拾ってくれて」
「あー…」
兄の仇である事実と、戦った者同士で認め合うことは、両立する。誰かに親切にされれば嬉しいと思う、相手の気さくな態度に適わないと悔しくなる、それも両立する。パリスは、自分に去来するあらゆる感情に対して実直だった。自分に嘘をつけないのだ。その善良さが結果的に故国を滅ぼしたが、ヘクトールはこの善良さを何より愛していた。
「で、悔しいまますごすご逃げてきたのか?」
「そ、……そうです」
「感心しないな」
ヘクトールの厳しい声にパリスの視線が俯いていく。パリスの足元で適当に跳ねていたアポロンがひょいと項垂れた頭に乗っかると、洞のような目を据えた顔面を向け、暢気に呟いた。
「ヘクトール、パリスちゃんに意地悪すぎない?」
「アポロン様と違って、俺は甘やかさない方針なので」
「冷ややか~」
神と兄との対話に、パリスは短く首を振った。
「いいんです、兄さんの言う通りです。僕、……僕、どうしてもアキレウスを憎みきれない、大っ嫌いだって叫んで突き飛ばせない、だって、あいつもヘクトール兄さんを知っている、英雄だから」
ヘクトールとアポロンが目を見合わせ、項垂れてしまったパリスを共に見下ろした。
「お前はサーヴァントになってまで、そうなんだな。やれやれ……」
仕方なさそうに呟いたヘクトールは、手にしていたスープボウルをトレイに戻す。アポロン神を両手で恭しく持ち上げてパリスの足元に下ろすと、弟の柔らかな巻き毛を広い手のひらで軽く叩いた。
「明日は、一緒に食べてやるから」
「ヘクトール兄さん…」
兄の慈しみの声にパリスが顔を上げ、輝く笑顔を浮かべた。ヘクトールは厳粛な兄の面持ちを崩さず、大きな手のひらで部屋に戻るよう促し、背中を叩いた。伝わるぬくもりに、パリスの笑顔はますます明るく輝く。
「はー、パリスちゃん尊い~」
すっかり気持ちの立ち直ったパリスの気配に、嬉々としてか膨らみ、宙に浮かぶアポロンの様子を、ヘクトールがじっとりした目で見やった。
「アポロン様、頼みますよ」
「君も、あんな野郎に構わなければいいのにねえ。無理な相談か」
アポロンの口調はどこまでも暢気だったが、ヘクトールの目には、神威顕わな神そのものの姿でもって目前に立ち、嘲笑にも見える悪辣な表情を浮かべて全てを見透かす太陽神の佇まいが、見えるようだった。だが今、歪な寵愛は弟が一身に「引き受けて」いる。
明日の約束を無邪気に喜んでいるパリスを残して、ヘクトールは足早にラウンジを目指した。
キッチンは、遅すぎる朝食を取りにきたスタッフやサーヴァントのために、いくつかのセットを作り置きして店じまいしていた。ブーティカの丁寧でぎこちない英語のメモが置かれている。『お腹を空かせた誰でも食べて』。メモを一瞥し、保温プレートに乗せられた皿を一つ受け取るとトレイに乗せた。グラスに並々と牛乳も注ぐ。
ラウンジにいる客は一人だけだった。
ヘクトールは迷わず対岸の席に向かうと、カタンとトレイを置いて椅子を引く。
「パリスに会わなかったか?」
「会ったよ」
腰を下ろしたヘクトールに、ほとんど食事を終えかけたアキレウスが声を掛ける。視線は合わせず、ヘクトールは静かな口調で答えた。用意された皿の料理にさっそく手をつけ始める。
「お前のところで飯食う、って出て行ったぞ。一緒に食わないのか」
「いいんだ。いい加減、兄離れしてもらわないと困る」
「へぇ」
答えるヘクトールの声は柔らかい愛情に溢れている。兄として弟を突き放そうとする男の声ではなかった。アキレウスは揶揄せずに聞き流し、残っていたパンの欠片で、スクランブルエッグの卵液を皿から綺麗に拭い取る。口に運んで咀嚼するアキレウスをヘクトールはちらりと見やり、パンに手をつけた。
向き合って黙々と食事を始めたヘクトールに、アキレウスが一瞥を寄越す。強い視線は、わざわざ対面に陣取り向き合って朝食を摂る、ヘクトールの意図を問うていた。普段ならはっきり言葉にして切り込んでくるアキレウスだが、今この場だけは勝手が違うのだ。
特別な事故や不具合でもない限り、アキレウスの前に座すヘクトールは、つい数時間前まで、アキレウスの逞しい肢体に組み敷かれ、融け合うより密に繋がっていたのと同じ霊基のはずだ。魔力を供給する、補填し合う、サーヴァント同士のそうした関係の言い換えは何通りかあるが、アキレウスとヘクトールの間にあるのは、そのいずれでもなかった。アキレウスは、自分とヘクトールの存在を世界に証明し、見せつける行為だと自認していたし、ヘクトールはもっと淡泊に「成り行きのセックスだ」と評した。サーヴァントとしての立場からではなくヘクトール個人の立場で捉えた結論であるなら、アキレウスもさほど不満はない。言い方は気に入らないが、魔力供給などというつまらない建前で誤魔化されるより、ずっとマシだ。
アキレウスの指は、ヘクトールの汗で湿った髪の感触をまざまざと思い出せた。ヘクトールも、アキレウスの美しい鼻梁から滴る汗の熱さをまだ覚えているはずだ。が、対面のヘクトールは佇まいの一切から余韻を拭い去っていた。
深い場所で繋がりあったヘクトールが、性愛の歓喜にしゃがれた悲鳴を上げる間、アキレウスは自分のあらゆる感情が鮮明に写るのを見た。己の喜怒哀楽すべてが、ヘクトールの瞳の中にあった。見返したヘクトールはうわごとで、俺がいる、と呟いていた。君の目の中に、俺が息づいている、知っていたけど、苦しい。苦しいと笑うヘクトールに、アキレウスは夢中で口づけた。その苦しみは、アキレウスにとって至上の悦びだった。
ヘクトールが嫌味な含み笑いを洩らした。数時間前の一時をぼんやり反芻してしまっていたアキレウスは、笑い声に突かれて我に返る。
「だらしない顔しないでくれ、幻滅する」
「してねえ」
「してたよ」
言い返すヘクトールが、席について初めてアキレウスと目を合わせた。視線を会わせたままで悠々とサラダを口に運び、ゆっくり咀嚼してから口を開く。
「今日はパリスじゃなく、君の我が儘を聞いてやりたい気分なのさ」
「我が儘?」
「オジサンにしてほしい事、なにかあるかい?」
アキレウスが、ガチャ、とセラミックの皿にフォークを取り落とした。落とした食器を手早く持ち直したアキレウスは、ヘクトールが実弟パリスではなく自分を選んだ理由が見当も付かず、じろじろとヘクトールを凝視した。
「唐突に、どうしたんだ。お前、気持ち悪いぞ」
「ひでぇな。若造の無茶につきあってやるって言ってるんだろ」
へらへらと軽く笑ってから、ヘクトールはゆっくり瞬きした。
アキレウスは今朝、起き出した時に同じ光景を見ていた。まだ夢うつつの半覚醒だったヘクトールは、隣で起き出したアキレウスを気だるく振り向き、眩い景色でも見るようゆっくり瞬きしてみせた。ふ、とついた溜息には、英雄アキレウスに対する感嘆があった。まるで、改めて見直し、勇士として、男として、惚れ直したとでもいいたげな表情をしていた。淡い衝動がアキレウスの喉からこみ上げたが、ヘクトールはそのまま二度寝してしまったので、アキレウスは諦めて起き出した。
やり過ごした、あの衝動がくっきりした鮮やかさで蘇ってきて、アキレウスを突き動かす。
席から腰を浮かせ、テーブルに手を突いたアキレウスは体を伸ばして、ヘクトールの唇に緩く噛みついた。そのまま啄むと、ヘクトールはゆるりと歯の間を開く。口づけは短かった。お互いの、食事の後味が入り交じる口づけに、アキレウスの瞳の底が一瞬、ぎらつく。
ヘクトールがやんわりと手を上げて、アキレウスを押し返した。
「クソガキめ、口より先に手が出やがる」
「うるせえな。……なあ。俺は、お前と昨夜の続きがしたい」
「終わったんだと思ったのに」
「俺とお前に、終わりなんてないだろ。終わりから始まってるんだ」
──自分たちは世界の両端に立ち、けして分かたれない標だ。
言葉にしないアキレウスの情感を、ヘクトールも感じているに違いなかった。
アキレウスの視線に、ヘクトールは親指で唇を軽く拭うと、何もかも飲み込んだ、曖昧な微笑を浮かべてみせる。席に着くように目顔で促してから、食事を再開した。アキレウスは渋々、腰を下ろす。もう食欲は消し飛んでしまった。今はただ、ひたすら、目の前の宿敵を求めて、飢え渇いている。
ヘクトールは悠長に、卵料理と野菜を何度か交互に口に運んでから、フォークを下ろす。
「あとで部屋に行く」
閉じた部屋の鍵を渡されるのに似た、密やかな了承。相手が受け取ろうが受け取るまいが関係ない、と言いたげな態度のヘクトールだが、アキレウスが受け取らないはずはないと確信した顔をしている。これは信頼なのだろうか、理解なのだろうか、とアキレウスは一瞬、思案した。
(いや、信頼でも理解でもないな。事実だ。俺たちの間にはただ、結ばれた因縁だけが、確かにある)
アキレウスは、残っていた最後の果物のひとかけを素早く口に運ぶと、トレイを片手に立ち上がる。返事の代わりに、食事を続けるヘクトールの頭を掴んで、つむじに短くキスをした。そして、さばさばとした足取りでラウンジを後にする。
まだまだ食事に時間をかけるつもりのヘクトールは、肘をついてスープをかき混ぜる。しんとしたラウンジには、寛いだ長い時間が横たわり、逆にヘクトールを急かす。ヘクトールはスープを啜ると、嘆息してからうっすら笑い、呟いた。
「労ってやろうと思ったが、早まったかもねえ」
