まだ夏の夕暮れが明るく空に広がる時間、花火が見える川沿いに連なる縁日は様々な人で賑わっていた。家族連れ、学生、カップル。
混み合う通りの中で、制服を着た鷹山たちが歩く周りだけそれとなく人が避けている。素性はともかく、年頃の学生の風体ではない。外見も顔つきも、露天の脇にたむろする不良と変わりない。だが、素性の点ではどこの誰よりちゃんとしているのは、商工会も露天商も誘導に出ている巡査たちも心得ている。
関係者が警戒していないと解ると、一瞬ぎょっとした大人も、なんとなく受け入れてしまうものだ。同年代の学生たちは、普段自分たちの活動圏内で見かけない候補生たちに、遠巻きながらも好奇心が隠せない。特に、テキ屋の周りに客とは別に群れている学生は、いつ難癖で絡みに行ってやろうかと様子を伺い、不穏に笑い合っている。
鷹山たちの先輩にあたる候補生が、毎年毎年、丁寧に相手をしてやるせいで、妙な因習になってしまっているのだ。だが、今年は例年と事情が違う。
「加納が何するか解らねえから、挑発に乗るなら余所でやれよ」
祭りに行く前、寮の出入り口で待ち合わせた仲間たち──Jや鷹山と同輩の仲間たちに、鷹山は行動方針をひとつ立てた。馬鹿馬鹿しい因習に冷めた気持ちがあるのと、言葉通り、加納が予期せぬ動きをした際に自分たちでは止められない事実から、シンプルに逆算して決定したのだ。
待ち合わせの場に加納が来ていないうちに決めたので、鷹山の脳裏にはちらっと「陰口」の単語がちらついた。
「加納もお祭り行くの初めてだって聞いたし、無難に過ごすのが一番だろ」
鷹山の微かな罪悪感を汲み取ったのか、Jが言い添えた。闘争心剥き出しな同期の間で唯一の良心めいたJから、加納と会話したかのような発言が飛び出して、鷹山はじめ仲間たちが、ぎょっとした顔で振り向く。誤解した仲間にJは手を振り、「寮監さんから又聞きしたんだよ」と説明した。
Jの説明で、誰も加納と会話した経験がないと判明すると、全員の視線が鷹山に向いた。その流れで、集合時間を遅れて伝えられていた加納がやって来たので、加納の面倒を見るのは鷹山と暗黙のうちに決定した。
とはいえ、別に手を繋いで案内する場所でもない。少なくとも鷹山にとってはそうだ。
最寄り駅からしばらくは、一行の最後尾についてくる加納の姿をちらちら振り返って確認していたが、いざ縁日の列に紛れると、一緒だった仲間もより気の合うメンツごとにまとまって、雑踏にまぎれて散ってしまう。
鷹山も、一番気の合うJと並んで屋台を冷やかしていたが、ふと振り向いた視線の先に加納が見当たらず、派手に舌打ちした。
「どうした?タカ」
「加納がいねえ」
「ああー、はぐれちゃったか」
二人してあたりを見回すが、目に付く場所に加納の姿は見当たらない。一緒に来た仲間の姿も、すでに先行く人混みの中だ。鷹山は歯噛みして立ち止まり、もう一度目の届く範囲を見回す。見回していなければ、はぐれた事にして有耶無耶にしよう、そんな浅はかな考えがよぎる。
だが隣で同じように見回していたJの視線を感じて、拳を握りしめる。
「うるせえなっ、探すって!」
「俺まだ何も言ってないぞ?」
食ってかかられたJが、鷹山の怒声から片手で耳を庇う。苦々しい顔で振り向く親友の視線に、鷹山は再び舌打ちする。鷹山は人混みの中でも大人ほどの背丈がある、だが鷹山が大人の視界でもアギトが年相応よりやや高い程の背丈なので、見つけるのは難しそうだった。何より、アギトの服装は制服だった。変哲のない白シャツに黒ズボンの没個性で、他の制服で来ている年かさの高校生と、ぱっと見で見分けがつかない。
縁日の伸びていく方向に人混みはどんどん流れていく。押し流されないよう立ち止まる鷹山は、すれ違う花火の客から邪魔っ気に睨まれた。あるいは、中学生か高校生か見て解らない風体を、同年代の少年少女に物珍しげに振り返られる。悪目立ちしている自分に気づいた鷹山は、Jに顎をしゃくった。
「先行った奴らに合流しろよ。俺は加納を探す」
「俺も手伝う」
「花火見るんだろ。席取ってから迎えに来てくれりゃいい。もし合流できなかったら、俺のことは放っとけ」
加納とはぐれた連帯責任を問われるのは馬鹿馬鹿しい、と鷹山は思っていた。せっかくの夏休み、親友と仲間たちが楽しみにしていた花火。それを、無味無臭で心の無い加納に台無しにされるのはゴメンだ。面倒くささより、悔しさが勝っていた。
「そうか?じゃ、頼んだぞ」
鷹山の横顔から内心を汲み取ったJは、遠慮なく鷹山の言葉に甘えた。手を振りつつ、先に行ってしまった同期を探して、露店を冷やかす人混みの中へと消えていく。
鷹山はJの姿が見えなくなるのを見届けると、肩を怒らせて来た道を引き返していった。
川縁に向かう人々とすれ違うたび、体のどこかがぶつかったり、露骨に嫌な顔をして避けられたりする腹立たしさを、胃袋の下あたりにぎゅっと押し込んで溜め込む。苛立ちと怒りは、見つけた加納の横っ面を殴る力に代えるつもりだった。
Jと別れてから、増える一方の人混みを行きつ戻りつした挙げ句、露店が並びだす場所から少し進んだあたりで、人混みに飲まれてぽつねんと立ち尽くす加納を見つけた。
花火大会の賑わいが本格的になる前、催しの始まりくらいの場所から動かずにいる加納を見つけた時、鷹山は何故か無性に腹が立った。引き返した距離がそれなりだったことや、花火が始まる前に川縁の見晴らしがいい場所を陣取られてしまう確信が、損な役回りを押しつけられた事と相まって、鷹山の腹を怒りで重くしていく。
これからは混雑する一方だ。加納を連れて引き返し、仲間たちと合流するのは骨だろう。見つけられず、加納と花火を眺める羽目になるかもしれない。楽しい楽しくないより、どうすりゃいいんだ、と途方に暮れる気持ちに襲われる。
(だいたい、加納に花火が見たいだの縁日に行きたいだの、そういう感覚があんのか?)
ゆるやかにカーブする川沿いの道路に沿って続く露店の並びを振り向いて、棒立ちの加納に向き直る。そうしている間にも、上背ある鷹山を避けながら、時にぶつかりながら、遊びに来た人々は躊躇無く進んでいく。前に進む人の流れの中で立ち尽くす加納と鷹山は、渓流に据わる石のようだった。
加納は、金魚すくいの屋台を見つめたまま、身じろぎもしない。少し離れた場所から睨み付ける鷹山に気づいた様子もない。喜怒哀楽のすべてが抜け落ちた横顔からは、何の感情も読み取れない。
このまま放っておいていいんじゃないか、という考えが鷹山の頭をよぎった。一人で寮に帰れないほど子供でもなし、はぐれたと説明すれば済む話だ。実際、はぐれたのだから嘘ではない。
そうこうしているうち、人手はますます増えて、露店の並びよりもっと手前から道幅いっぱいに花火客が集まってきた。浴衣を着せられた子供たちが、親の手を振り切って歓声を上げて走り出す。目に付いた露店めがけてまっしぐらに走る小さな体が、棒立ちの加納にぶつかった。尻餅をついたのか、鷹山の視界からふっと消えた子供は、すぐに立ち上がった。
加納の視線が子供に向く。鷹山は思わず足を踏み出した。
通行人をかき分けて歩み寄っていくと、子供の頭を見下ろした加納の視線が、鷹山を捉えた。子供は加納のズボンを掴んであたりを見回してから、ぱっと露店に向かって駆け出す。ぶつかった加納を人と認識していない素振りに、鷹山は拍子抜けした。
「どうした、鷹山」
目の前に現れた鷹山を、加納はしげしげと見つめた。まるで、迷子になったのが鷹山の方だと言わんばかりの態度に、鷹山がくわっと口を開けようとし、拳を握りしめる。
「テメェがはぐれたから、探しに来たんだよ」
幼稚な怒りをぶつけまいと怒鳴り声を飲み込んで、抑えた声で言い返す。加納の無表情に微かなゆがみがよぎって、抑揚の薄い落ち着いた声が尋ね返してきた。
「はぐれる?」
「……っ、そうだよ。テメェ一人で、こんなとこ突っ立って、はぐれてんだろうが」
「私はお前たちと群れになった覚えはない」
淡々と答える加納に、鷹山は思わず胸ぐらを掴みそうになる。左手で右手の手首を握りしめて堪えると、殴る代わりに怒りを眼光に乗せて睨み据えた。
「言われてんだよ、寮監に。お前の面倒を見ろって。俺らだってなあ、得体の知れないヤツを仲間扱いしたくねえよ。でも仕方ないだろ」
寮監の指示は、つまり、滅堂の命令だ。加納の世話をするようにと滅堂が指示して、寮監から伝えられたのなら、心底嫌だと思っても、恩義ある鷹山に否はない。加納を嫌う心と恩に報いたい心なら、断然、後者が勝る。
滅堂が何を意図しているのか、少年の年頃を脱するかどうかの鷹山にもなんとなく察せられた。加納が、常識知らずでおよそ普通の感覚を持たないのは、数えるほどしか接触のなかった鷹山でも、十分理解できた。今の加納は、あらゆる面で人間離れしている。当たり前の人間に近づけなくては、滅堂の役立つ大人にはなれない、そんな想像が鷹山の中にあった。規格外の強さがあれば、常識や社会性など関係ないかもしれない──加納が規格外になる可能性を鷹山も頭の片隅で予感しているが、それでも、まず会話が成立する程度には「ちゃんと」していなくては困るだろう、と思う。
それに、と鷹山は考える。
(御前はひょっとすると、こいつを怪物にしておきたくないとお考えなのかもしれない)
滅堂の元で養育される若者は多い。直接、滅堂と話す機会は滅多にない。年始の挨拶、滅堂の誕生日を祝う内々の催し、夏期休暇の期間中にたまたま訪れる時、滅堂は自分の財産で養育する若者を眺めては、近況を尋ねたり昔語りをする。鷹山がよく覚えているのは年始の挨拶で、「衣食足りて礼節を知る」の訓話だった。衣食を与え、雨露しのぐ場所も与えた、その先はお主ら次第じゃ。
当時、礼節の意味を知らなかった鷹山だが、今は滅堂の訓話を理解できている。今の自分にあって、加納にないものがあるとしたら「礼節」だ。礼節とは額面の礼儀正しさや上っ面の行儀良さではない、社会性を指す。
加納は人として群れる以前に、「人」未満な部分が多い。怪物じみた強さを持ちながら、同年代の鷹山たちに備わっているある部分が、ごっそり欠けている。
欠けているのは解るが、埋める方法はさっぱり解らない。鷹山も仲間意識やちゃんとした社会性を本当のところ、理解しているとは言いがたい。第一、加納に手取り足取り教えるのを想像するだけで、腹立たしさで鳥肌が立つのだ。そんなことはもっと出来た大人がやれよ、鷹山の本音はそんなところだった。
加納は、鷹山をしばらく視界の中心に据えていたが、話の続きが無さそうだと見ると、再び露店の方に視線を戻してしまった。鷹山はぐうと喉を鳴らし、加納の手を掴む。
「お前に群れる意志があるとかないとか、関係ねえ。ともかく来い。今日は、俺らと足並み揃えてもらうからな」
そう吐き捨てて、ぐいと引っ張った。が、加納の体はびくともしない。恐ろしい体幹で、地面に貼り付いている。踏ん張って抵抗しているつもりもなさそうな横顔に、鷹山が怒鳴った。
「来いっつってんだろ!」
「行かない。私はここにいる」
「ハァ!?」
今度こそ胸ぐらを掴んでやるとばかり、鷹山が肩を怒らせた。が、加納は鷹山の怒りを振り向きもせず、平淡な声で続けた。
「ここで、あの子供を見ている」
「なに?子供?……ってさっきの、ぶつかってきたガキか?」
加納の視線の先を辿ると、露店の前にしゃがみ込んだ子供達に行き着いた。加納にぶつかって転んだ子供もいる。姉弟なのか、桃色と水色の、同じちりめん柄の浴衣を着ている。二人が夢中になっている後ろ姿と、露店の垂れ幕を見て、鷹山は呟いた。
「金魚すくいか」
掴んでいた加納の腕がふいに動いて、軽く引っ張られる。鷹山が視線を向けると振り向いた加納の黒い目とぶつかった。
「金魚すくいとはなんだ」
「はぁ?んなの、見りゃ解るだろ。なにって、……」
鷹山はほとんど反射で吠え返してから、加納のまっすぐな眼差しを受けて口ごもった。問いかける眼差しには何の含みもない、純粋な疑問だけがある。こういう場所に来るのも初めてだろう加納が、金魚すくいの露店を見るのも初めてだと気づいて、鷹山は当惑した。金魚を掬う遊戯と説明して、加納に状況が想像できるのか自信がない。加納と相対して、意思疎通できない事に苛立つより不安が勝るのは、初めてだった。何なら知っていて、何を知らないのか。
(コイツのこと、なんもわかんねえ……)
奇妙な焦りが鷹山の中に生じた。
今の今まで、加納を人間として欠けている怪物だ、鷹山はそう思い込んでいた。負けたあの日以来、端から怪物と見放し、勝手に造りあげた型を通して見てきた。決まった型に押し込めて見ていれば、見えるものも見えない。加納の表情も態度も、くりぬいた鍵穴から見たように、実際の姿と一致しない、不明瞭な像だったと気づいた。
人間は、不明を恐れる。不可解を恐れる。加納を恐れるのは解らないからだ。鷹山は、初めて自分に内在する恐れに気づいた。恐れていたと自覚した途端、悔しさが憤怒の温度で鷹山の喉を焼き、顔を火照らせた。
「ァ、」
怒鳴ろうとした喉に力をこめる。頭に血が上るまま殴りかかれば、加納にあっけなく倒されるのは経験済みだ。それに、今日は殴り合うために来たのでは無い。
鷹山の怒りを堪える表情を読み取れているだろうに、加納は眉ひとつ動かさずに見つめている。加納の静かな目をにらみ返しているうちに、カンカンに焼け上がった敵愾心が冷やされていく。鷹山は深呼吸して、握りしめた手を解いた。怒りで歪んだ視界が、正しい広さを取り戻す。
改めて見ると、加納の顔は白く、半袖から伸びる腕も白い。あまりに日に当たらず過ごしてきたのか、健康的に見えない白さだった。鷹山の同輩にも、日焼けしない男子がいる。なまっちろい筋肉を仲間内でからかうが、活動すれば血色が変わるし、打ち身の青あざなど悲惨な色になる。紛れもなく、生きている人間の皮膚だ。しかし、加納の肌色はどことなく置物めいていた。繊細な磁器ではない。硬質なセラミックの淡々とした手触りを思わせる。その白い顔で、底の無い黒い目が前に在るものを捉えている。この瞬間は、鷹山を。
言葉の続きを待っているのだと気づいた鷹山は、傷跡の凹凸を掻きながら、露店に目配せした。
「もしかしてお前、やってみたいのか?」
加納は振り向き、しばらく間があって、小さく頷いた。
「……」
他愛ない理由で立ち止まっていたと知った途端、鷹山の中で黒と白で練り上げられた不気味な怪物が、同輩の少年の姿に変わっていく。鷹山の目の前にいるのは、花火大会ではぐれた同じ年頃の、いけ好かないヤツで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「やったことねえのか。……ねえか、こんなとこ出かけた事ないんだろ」
「ない」
はっきり回答できる事柄への反応は素早い。鷹山は露店に近づこうとしない加納に、仕方なく背中を軽く叩いた。
いきなり強く叩かれ、加納がびくりと体をそびやかす。鷹山を振り向いた、その目は不愉快や不機嫌ではなく、当惑に見開かれていた。背中を叩かれた意味が理解できず弁明を待つ加納に、鷹山は叩いた手を握りしめて、うぐ、と歯噛みする。こんなもの、仲間同士では当たり前のスキンシップだ。敵意どころか何も考えていない。やりづらい加納の反応に、鷹山は思い切って手首を掴んだ。
「来いっ」
加納の応えを待たず、手を引いて人混みを押しのけていく。
上背のある少年二人が、手を繋いで露店に近づく様は、他人から見ると剣呑な空気だったろう。すれ違う大人が不審げに視線を寄越し、金魚すくいで遊ぶ子供達の保護者が露骨に警戒する。露店をやっているのは、この地域のテキ屋だろう、愛想に乏しい老人は鷹山と加納をジロリと一瞥すると、水槽の一番端を指さした。鷹山は解っていると目顔で応える。もめているわけじゃないと意思表示する代わりに、はきはきと声をかけた。
「いくら?」
「一回百円」
鷹山がポケットから千円札を引っ張り出し、二本指を立てつつ渡す。ポイを二つ受け取ると、子供達から距離を取って端っこに屈んだ。突っ立っている加納を見上げ、座るよう目配せする。
「これで、泳いでる金魚を掬う。掬った金魚はもらえる。そういう遊びだ」
「……」
鷹山にポイを渡された加納は、薄紙を貼った輪っかを不思議そうに眺めた。向こう側で歓声を上げながら水槽にポイを突っ込む子供たちを見ると、そのまま真似るように握りしめたポイを勢いよく水に浸ける。
バチャッと水音がして、集まっていた金魚がふらふらと散ってしまう。
「……?」
鷹山が説明してやるかどうか迷っている間に、さっそく百円分を駄目にした加納に、鷹山が舌打ちした。
「人が説明する前に無駄にしてんじゃねえよ。紙が薄いからそっと浸けて、弱ってる金魚を狙って掬うんだよ。ほら」
鷹山が自分の持っているポイを渡す。加納がじっと見つめてくるので、「もっぺんやれ」と顎をしゃくる。
「お前は、やらないのか」
「金魚すくいする歳じゃねえし」
せせら笑う調子で答えた鷹山に、加納は掬えた金魚を貰っている子供を顧みた。納得したのか、加納はもう一度水槽を覗き込む。
掬うにはコツがいる、それは身体能力よりポイの扱い方なので、加納の強さと関係ない話だ。隣に屈んだ鷹山は加納の失敗を心待ちにしていた。
かなり長い時間じっと金魚たちを観察していた加納は、さっと水槽にポイをくぐらせた。が、勢いが強すぎたのか和紙はあっけなく破れ、金魚たちはふわふわと散っていく。加納は、破れたポイと遠ざかってしまった金魚をじっと見つめた。
屈んでいた鷹山が立ち上がる。まだ屈んだままの加納を見下ろし、鼻先で笑って、加納の脚を靴先で軽く突く。
「解ったろ。コツが掴めりゃ掬えるが、お前には無理だ」
最初は笑っていた鷹山だが、すぐさま憮然として不機嫌なしかめ面になった。こんな子供の遊びに失敗した加納を見て得意げになっている自分の、卑しい心に自分で腹が立ったし、当たり前のように失敗した加納にも八つ当たりめいた腹立たしさを覚えた。
鷹山は、愚連隊と馴れ合っている連中を通じて、こうしたテキ屋稼業のあれこれを聞いたことがある。小さな子供には掬いやすいポイを渡すが、鷹山たちくらいの若者には、紙の弱い扱いづらいポイを渡すのだとか。本当の子供以外は勝ちの目が薄い、店が得する仕掛けになっているのだ。
「オイ、加納。もう行くぞ」
鷹山がもう一度、少し強めに加納の脚を蹴る。何なら、肩を掴んで揺さぶってやろうかと思った。加納の純然たる興味を百円で買い叩くカラクリを知っているので、これ以上遊ばせる気になれなかった。鷹山は自分でも気づかないうちに、加納の好奇心をつまらない現実から庇おうとしているのだった。
「どういうもんか解ったんだ、もう気が済んだろ」
強めに促された加納が立ち上がる。無言のままポケットに手を入れると、五百円玉を店主に差し出した。
「店主。もう一回分払う」
「はっ、負けず嫌いかよ」
自分の気持ちなど知らぬげに新しいポイを買う加納に、鷹山が吠える。商売の邪魔をするなと一瞥した老人に、鷹山は凄んだ目つきでにらみ返した。加納は気にとめていないが、渡してきたポイは、さっきより少し大きく見える。大きいほど扱いが難しい。不気味な客を追い払ってしまいたい、店主の心情が露骨に出ているやり口だった。
鷹山は別に、金魚すくいに一喜一憂していない。初めて金魚すくいの露店を見ただろう加納が、どう感じているか解らないが、向こうで遊んでいる子供と大差ないのだ。そんなのは見ていれば解るはずだ。なのに、意地悪いやり口で応対する老人に、素直に怒りが沸いた。
この年頃の男子にありがちな仲間意識が、加納をつまらない悪意から庇ってやらねば、と錯覚させていた。はぐれたといって放り出し、知らぬフリでやり過ごしてやると考えていた鷹山と、露店の親父のしょうもない嫌がらせで滅多に無い機会を棒に振るのは哀れだと思いやる鷹山は、同じ直線上にいる。矛盾する心の根幹にどんな感情が埋もれているのか、鷹山自身もまだ気づいていない。
そして、鷹山のめまぐるしく荒れる心情を、加納は一つも汲み取れていなかった。加納に解っているのは、鷹山が遊ぶべき一回分を自分に譲った、その事実だけだ。
「鷹山」
加納は、受け取ったポイを鷹山に差し出した。てっきり加納がやるものだと思い込んでいた鷹山は、きょとんと呆気にとられる。
「お前の分だ」
「お前なぁ!俺はやらねえよ、お前が買ったんだろ」
受け取らずにそっぽを向いて、腕組みまでする。金魚すくいの明るい水槽の側で、静かに言い争っている学生服の二人組は、あからさまに目立っていた。通り過ぎる客がちらちら遠巻きに見ては、露店から距離を取る。あからさまな営業妨害に、店の主人が不機嫌な咳払いをする。
鷹山は主人をジロリと睥睨してから、加納の差し出すポイを見やった。お前がやれよ、と突き返す台詞を口にするのが、どういうわけか、ひどく気恥ずかしい。
(なんだよ、この馴れ合いはよ。テメェは俺を弱者と見下したんだろうが。俺が嫌ってんのも知ってんだろうが。それを……)
無視して黙殺する鷹山に、加納はふと視線を俯かせた。目線以外、ほとんど表情の変わらない加納だが、逸らした視線の先で考えを言葉にまとめようとしているのは伝わってくる。何を言い返すのかと鷹山が視線だけ振り向くと、加納はもう一度手にした紙ポイを差し出して、短く告げた。
「鷹山がこの遊びをするところを見たい」
「……」
鷹山は、鼻白んだ顔で押し黙ってしまった。まさか、あの加納から頼み事をされるとは、完全に予想外だ。想像の範疇外すぎた。買い与えられた事に義理や恩義を感じているのかいないのか、好奇心だけで動いているのか、何か含みがあって口走ったのか、無表情な白い顔からは何も読み取れない。
不可解への恐怖は、もはや無い。代わりに、こいつは何なんだ、と強さ以外への関心が膨れ上がる。
(こいつには俺がどう見えてんだ)
何を考えているのかさっぱり解らない。ただ、悪意がないことだけははっきりしている。
二人がにらみ合っている間に、小さな子供に引っ張られた父親が、反対側の端にかがみ込んだ。二人の様子を気にせずに金を払い、父親の方がポイを手にする。赤いコが欲しい、とはしゃぐ子供の期待に応えるべく、水槽を覗き込む。父親は慣れた手つきでひょいとポイを水にくぐらせ、金魚を二匹、ボウルに掬い上げてみせた。
「お父さん、このコじゃないよお」
「どの金魚でも一緒だろ。はい、これ持ち帰りで」
店の主人がビニールの提げ袋に金魚を移し替えて、子供に手渡す。
一連の様子を加納はじっと見つめていた。その横顔を見た鷹山は、腕組みを解いて小さく首を振る。
加納は金魚が欲しいのかも知れない。
まさか、とか、そんなわけあるか、とか、内心の自問自答は収まらなかったが、他に想像がつかなかった。自力では無理だと悟って、経験があるだろう鷹山にやらせようとしている。さっきの子供が父親に掬ってもらったように。もしそうだとしたら。鷹山の中の加納アギトは、もはや怪物の姿をしていない。不可解な敵でもない。年不相応の強さを宿した体、年不相応に未成熟な精神。不均衡な心身に怪物の強さを抱える、あまりにちぐはぐな成り立ちの少年だ。
鷹山は口の中で毒づいて、加納の手から輪っかをひったくった。
「で。どの金魚だ」
「……?」
「獲りたい金魚があるんだろ」
加納はじっと鷹山を見つめてから、さっきと同じ姿勢でかがみ込んで水槽を見つめる。群れに寄りつけない弱った黒い金魚を指さすと、鷹山を顧みた。加納の視線を一瞥した鷹山は、腰を据え直して姿勢を正す。
「掬えなくても文句言うなよ」
言い置いて、鷹山は水槽を覗き込んだ。たくましい腕に似つかわしくない、静かな動作でポイを水に浸けてから、紙の面を水平にしてすうっと金魚の下をくぐらせる。水を切って持ち上げて素早くボウルに移すのと、跳ねた金魚がポイを破るのは同時だった。
ボウルに収まった金魚がよたよたと身をよじる。どこか痛ましい様を見下ろした鷹山は、立ち上がると隣で見ていた加納に金魚入りのボウルを渡した。
「取れたぜ。これでいいんだろ」
「……ああ」
加納は手品でも見るように鷹山の手と破れたポイを見つめてから、ボウルの金魚を見下ろす。
鷹山は妙に照れくさくなって、後ろの沿道を振り向いた。
いつの間にか完全に日が落ちて、花火大会の開始までほとんど間がなさそうな雰囲気になっていた。沿道を進む人混みは、ますます膨れ上がっている。川縁はすでにあちこち、陣取られているに違いない。鷹山はJたちと合流するのを諦めた。加納を連れて適当にぶらつき、花火を見て、帰るしかなさそうだ。
「んなとこで時間食ったから、もうJたちに追いつけねえだろ。テメェの気が済まなくても、俺が飽きたら帰るからな」
乱暴に言い放ちながら振り返ると、加納はまだボウルの中を覗き込んだまま、聞いていない様子だった。店主の視線を感じ、鷹山は加納の手からボウルを取り上げて店主に渡すと、ビニールの提げ袋を受け取った。やりとりをじっと見つめていた加納に、黙って差し出す。
加納の手が受け取る時に、欲しがる子供のせわしない動きをした気がして、つい小馬鹿にした笑いを浮かべてしまった。
「こんなもんにこだわるなんて、ガキかよ」
加納は、せせら笑う鷹山に気づいていない様子で、袋の中で寛ぐ金魚を目の高さに持ち上げて観察している。鷹山は、返事がない加納の態度に口を歪めて背を向けた。今度こそ、はぐれたら置いていくつもりでいた。
その背中に、ぽつりと声が投げかけられる。
「私と同じだ」
「あ?」
鷹山が振り返る。金魚を掲げ持った加納は、これだ、と言いたげに鷹山に向かって突き出して見せ、静かに告げた。
「私もこんなふうに、すくわれた」
