夏期休暇が終わりに近づき、昼間の暑さは真夏から残暑の厳しさに移り変わっていた。
昼休み、食事の後は一番の自由時間で、板張りの道場へ涼みに行くもの、涼しさを求めて午後は図書館へ外出する者、自習室にたむろする者と、寮生たちは好きに過ごしている。学科が危うい連中が騒ぎ始めるのには、まだ数日ある。夏休みの最後の自由時間といった趣だった。
鷹山は、寮とグラウンド代わりの中庭の間にある水飲み場にいた。寮生が野外の鍛錬で泥まみれになったとき、シャワー室の代わりに使っている古びた水道だ。学校の日陰にある痛んだ手洗い場とよく似た間取りをしている。
寮の玄関からわらわら出てきた一団が、水飲み場にいる鷹山に気づいて、手を振った。親友が手を振り回してから、呼びかけてくる。
「タカー。アイス買いに行かないかー」
「俺はいい」
大声で答える。怒鳴ったように聞こえたかもしれない。実際、鷹山はやや不機嫌だった。
こんな昼間、ここに来る寮生はいない。鷹山は大きな虫かご用のプラスチックケースに張った水を日陰に置き、金魚鉢を洗っていた。カルキ抜きした大きな水槽で、黒い金魚はゆらゆらと上下にたゆたっている。
鷹山の態度が気になったのか、Jが小走りに歩み寄ってくる。他の仲間も後からついてきたが、Jと違って鷹山を気遣ってではない。今やっている作業を冷やかしたいのだ。解っているので、鷹山は忌々しげに舌打ちした。
「ああ、金魚の水替えしてんのか。偉いなあ」
「鷹山、見かけによらず生き物に優しいよなあ~」
「うるせーよ。構うな、とっとと行っちまえ」
鷹山は顔上げずに、低く凄んだ声で追い払う。親友の善意にも、じゃれあい未満の冷やかしにも応じない鷹山の態度に、同期たちはつまらなそうに肩をすくめた。行こうぜ、と言い合って正門に向かう。ひとり残ったJが「気にすんなよ」と声を掛けた。
「タカが優しいヤツだってこと、みんな解ってないんだよな」
「別に……優しいとかじゃねえ」
「だってその金魚、加納が育てられないからって引き取ったんだろ?」
Jに訊かれた鷹山は、黙って額の汗を拭った。
加納が飼えないと金魚鉢を寮に持ってきたのは確かだ。飼えない理由を、鷹山は聞かなかった。掬ったのは自分なのだ、自分にだって責任はある。受け取った金魚鉢は重たく、多分高級な金魚鉢なんだろうと勝手に想像した。
幾らするかわからない金魚鉢にいる、百円の金魚。
不釣り合い。不均衡。誰かが手を差し伸べなくては生きられない。
金魚鉢でゆうゆうと過ごす金魚を見るたび、あの日の加納の面差しを思い出してしまう。
「俺だって面倒みたかねえよ。だからって、放っておいたら死んじまうだろうが」
Jに言うつもりで呟いた文句は、自分に言い聞かせているように聞こえた。Jは怒ったような鷹山の口調に、「だからタカは優しいって話だろ」と取りなす口調で言い返し来る。
綺麗にした金魚鉢に、洗っておいた敷石を並べて水を入れ、水草を並べていく。避けてあった金魚の前に屈むと、人の気配がわかるのか、金魚は水面にゆっくり浮き上がってきた。
鷹山は口先を浮かせる金魚を大きな手で掬って綺麗な鉢に移し替えると、誰に言うでもなく口の中で呟いた。
「コイツは、自分から助けてくれとか、言えねえんだからさ」
[了]
