夏の真夜中は短い。宵の口の地平線は赤黒い明るさが残っていて、次に気がついた時、閉めたブラインド越しに薄明るい夜明けが迫ってきていた。夏の夜明け前の明るさは、無遠慮で、情緒がなく、慌ただしい。鷹山は、組み伏せた相手が両腕を投げ出してくったり目を閉じているのを見て、殺風景な部屋を見回した。時計がない。仕方なく、床に滑り落ちている自分のスマホを拾い上げる。
まだ四時だった。もう四時と言うべきかもしれない。リビングとも寝室ともつかない部屋に着いて、着衣の相手を特注の特大サイズのベッドに突き飛ばしたのが、二十時過ぎだった気がする。シャワーを浴びたいと言われて、一度、バスルームに向かった以外、ずっとこの部屋で、無心にお互いの情欲をぶつけ合っていた。鷹山の体感では、今日付が変わった頃くらいだったが、基底現実では倍近く過ぎていたことになる。
鷹山は改めて、腕の下であけすけに恍惚の余韻に浸る加納アギトの顔を眺めた。途中、無慈悲なくらい手荒い愛撫で、低くかすれたうめき声を上げさせるほど、苛んだ記憶がある。加納が好いからと強請るので、求められるままに責め立てたが、やりすぎた気がしなくもない。
忌々しいのは、そうして加納の無防備な心と馴染んだ肉体を征服しているかに思える瞬間を、舌なめずりして悦んでいた自分だ。本当に加納を屈服させたのではない、そうあれと王が望んだのでそのように振る舞ったに過ぎない、めくるめく夢から覚めれば否応無しに気付かされるのに、情事の間は攻め役に溺れて、けだもの同然になってしまう。
そして、加納は獣欲をぎらつかせている時の鷹山が好きだという。挑みかかる時のお前ほど、私を満たしてくれる存在はなかった。加納は言葉を変え面持ちを変え、そう告げて、鷹山を煽るのだ。
(だからここまでやっちまうんだろうが、わかってんのに煽りやがる)
加納は目を閉じたまま、分厚い胸を切なげに上下させている。まだ体の深いところから、官能の余韻が抜けないのだ。
「加納、平気か?」
目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返す加納に、鷹山が呼びかける。加納は重たい瞼をゆっくり開き、鷹山を見上げると、噛み締めた歯の痕が残る唇を小さくほころばせた。
「まだ、中に鷹山のものが挿っている感じがする」
「……悪かったな、デカくてよ」
「いや……この感覚は、好きだ」
音節をゆっくりと区切りながら話す加納は、肩を上下させる乱れた呼吸から徐々に落ち着き、弛緩した裸体をあられもなく投げ出して、リラックスしていった。汗で張り付いた前髪を指の腹で優しくなでつけてやり、鷹山はゆっくり体を離す。鈍く瞬きする加納の様子を見て、
「眠けりゃ寝ちまえ」
静かに言い含める。今日はお互い、夕方までこれといった予定がない。煉獄戦を終えた後で、加納の予定はまだまだ空きが多く、鷹山も仕事が一段落したところだった。二人それぞれ、誰かに呼び出される可能性はほぼない。無計画で無軌道な、ぽっかりとあいた休日だった。
久しぶりの休日で、鷹山は加納に呼び出されるまで、身の回りの用事をいろいろと済ませよう、とぼんやりした予定を立てていた。だが、生活感に乏しい真新しい部屋に自分を招いた加納の顔を見た途端、雄の本能に引きずられて、なにもかもご破算になってしまった。
身近な人間の変化は解りづらいというが、二年近く離れていた加納の変貌は、強さや戦い方、精神のあり方にとどまらなかった。前は、相手を誘うイロハも解っていないどころか、暗に濁した物言いでは何一つ正確に伝わらなかった加納が、直接的な言葉の合間合間に、軽口を挟んで鷹山を揶揄うようになっていた。
そもそも、舌戦では(でも、と言うべきか)鷹山は加納より分が悪かった。加納は、饒舌でないが言うべきことは濁さずはっきり言う性分で、対する鷹山は情緒的な話になると口下手で、上手い言葉が紡げず曖昧に濁しがちだ。外の世界で冗談や掛け合いを学んできた加納は、以前に増して口下手な鷹山にぐいぐい押してくるようになった。
加納の呼吸が穏やかに、深く、ゆっくりした感覚になるのを聞き届けてから、鷹山はベッドから立ち上がった。全裸のままキッチンの冷蔵庫を開ける。まだろくに食料を詰め込んでいない冷蔵庫に、ミネラルウォーターのペットボトルが整然と、何本も並べてある。空ける順番に決まりがあるかもしれない、と一瞬考えた鷹山だが、「んなもん知るか」と呟いて、ど真ん中に並んだ一本を抜き取った。
空調をつけているとはいえ、相手の呼吸と熱以外なにも解らなくなるまでほしいまま欲をぶつけ、お互いにつま先まで相手の汗と己の汗でしとどに濡れたのだ。運動量を考えれば、普通ならどちらかが根を上げていそうなものだった。だが、鷹山と加納の間にそんな隙は一分もない。情熱的に睦み合っているのではない、情事は殴り合いと同義なのだ。根を上げるのは負けを認めるに等しい。鷹山はずっとそう思って加納を抱いているし、加納も鷹山に抱き潰されるのを良しとしない。真剣に求め合うほど、セックスのボルテージは真剣勝負の抜き差しならなさで、二人を駆り立てる。
とはいえ、途中で一滴の水分も摂らずにいた事実に気づいて、鷹山は誰もいないのに顔が熱くなるのを感じた。加納の肉に歯を立てている間、汗で喉を潤しているかのように錯覚していたが、限界まで渇いている。あっと言う間に一リットルのペットボトルが空になり、鷹山はもう一本、と手を伸ばした。あと、加納の分も要る。
両手にミネラルウォーターを提げて戻ってくると、加納はブランケットも羽織らず、汗や精液の乾きかけた素肌のまま、うたた寝しそうになっていた。
「加納、水摂っとけ。脱水症状になるぞ」
「……」
「加納」
寝入り端の静かな顔に、冷えたペットボトルを押しつける。ひんやりした感触に、加納が目を開いた。
「……あぁ、そうだな」
横たわったまま渡されたボトルを抱き留めるのを見届け、やれやれと肩をすくめる。背中を向けてキャップを開けると、背後で加納の、苦い呻き声が聞こえた。うぐ、と喉で音をさせた加納は、寛いでいた体を起こそうともじもじ身じろぎ始める。
「んだよ」
「鷹山。すまん」
「なに?」
加納が黙って、部屋の隅に据えてある大型の全身鏡に目配せした。振り向いて、珍しくはっきりしない加納の態度を睨んだ鷹山だが、はたと思い当たって、鏡に向かう。背中を写して確かめると、遮光された薄明るい外の光でも見て解る、赤いひっかき傷がいくつも刻まれている。肩越し、肩甲骨あたりに触れた鷹山は、「加納、テメェなあ」とベッドを振り返った。
ベッドに起き上がった加納は、真面目に反省した態度で鷹山を見つめている。
「夢中になっていて、気づかなかった」
「そ……れは、いいけどよ。つか、テメェ、こんなになるって事は、爪を切ってねえな?」
鷹山がぎろりとまなじりをつり上げると、加納は殊勝な顔でこくりと頷いた。
呆れるというより拍子抜けした面持ちでベッドに戻ってきた鷹山は、ベッド下収納の引き出しを片っ端から開けていく。だだっ広い部屋の数少ない収納場所は、このベッドの下と、ベッドに備え付けのサイドボード、連結している横の引き出しだけだ。掴んだ瞬間、空と解る引き出しをいくつか空けて、鷹山がぼやく。
「薬箱もねえのか」
「ある」
加納は勝手知ったる手つきで、サイドボードの中段から簡素な薬箱を取り出した。拳願会の会員でもある大手製薬会社が、日銀のスタッフや護衛関係者に毎年配っている、標準的な置き薬だ。ないにこした事はないが、加納のような裏の格闘技界でしか活躍しないような人間には、たいして役に立たない薬箱だった。
加納が軟膏の瓶を取り出すのを見て、鷹山がひょいと取り上げる。
「どうした。私が塗ってやるぞ」
「その前に、爪の始末だろ」
言われて、加納は軟膏を取り返そうとするのをやめる。自分の両手の爪をまじまじと見つめたまま、黙り込んでしまう。そんな加納を放っておいて、鷹山は再び、すっからかんの収納を漁り始めた。無駄と思いつつ、爪切りや爪やすりを探す。普通の身丈身幅の人間からすると広大なベッドは、収納スペースも尋常な大きさではない。だが結局、収納スペースの一画にまとめてしまってある着替えがあっただけで、生活雑貨的なものは見当たらなかった。
うつ伏せでベッド下と格闘していた鷹山が、短くため息をつきつつ体を起こす。
「鷹山」
加納の声と共に、横からほぼ新品の爪切りが差し出される。
「って、持ってんのかよ……」
鷹山がやれやれと言いたげに呟く。加納は鷹山の手に持ち出した爪切りを握らせた。普通サイズの爪切りが、鷹山の手のひらではこぢんまりした大きさに見える。尺寸の狂った、折りたたまれている爪切りをじっと見つめてから、加納はおもむろに両手を差し出した。
「あ゛?」
「切ってくれ」
「お前なあ……」
微睡みは何処へやら、きちんと正座して両手を差し出す加納の、凝っと見つめる二つの黒目。数十分前まで快楽に濡れて煙っていた目は、濁った悦びを拭い去って冴え冴えとして期待を点し、鷹山のスカーフェイスを写している。鷹山はあぐらを掻いたまま顎先を小さく掻いた。ブラインドを通り抜けて注ぐ薄明かりに白く閃く加納の指先には、微かに血の汚れがこびりついている。わずかな自分の血糊で爪の端を紅くした加納の指に、鷹山は目を閉じた。ひとしきり、暴れ回って寝静まったけたものが身震いする気配を予感してしまう。
鷹山はわざと、忌々しげな舌打ちをして呟いた。
「先に、左手だ」
促されて、加納は鷹山の差し出した手に左手を乗せる。鷹山は爪切りを逆さに折りたたむと、まず親指から掴んだ。深爪すぎず、切り残しすぎず。頑強な加納の一部分に刃を食い込ませていく。パチリ、と最初のひと切りで、切り飛ばされた爪がマット上で行方不明になる。
「この爪切り、ストッパーついてねえのか」
「らしいな。向こうでは、そういう形のものは売っていなかった」
飛んでいった爪のかけらを探して、鷹山の分厚い手のひらがシーツ上を雑に這い回る。が、加納から切り離された一欠片はにわかに見つけられそうになかった。仕方なく、爪が飛び散らないように指先を掴む手で覆うようにして、外国製の爪切りで綺麗に切りそろえていく。加納の強さは爪一枚ごときで左右されはしないが、勝敗は指先の違和感一つで決まることもある。鷹山は慎重に、真剣に、加納の指先をあるべき形に剪定する。
「爪やすりもある」
「なんだ。小洒落たモン覚えてきやがって。それとも、お嬢の入れ知恵か?」
「いいや。向こうで教えてもらった」
加納の答えに鷹山の手が止まる。が、躊躇したのは一瞬で、鷹山はすぐ視線を手元に戻し、「そりゃあ重畳だ」と適当に答えた。鷹山の興味なさそうな素振りに構わず、加納は淡々と話を続ける。
「向こうで何度か試してみたが、上手く使えなかった。教えてくれた人物には、『ティーン・エイジャーみたいに下手くそ』だと言われた」
「そりゃあな」
見知らぬ誰かが下した加納の評価に、鷹山は鼻を鳴らしてせせら笑う。
加納が滅堂の牙になった際、主人の片原滅堂が加納に望みがないか訊くと、王森と鷹山を介添人にほしい、と即答した。滅多に要求を口にしない加納が即答したとあって、滅堂は絶対の命令として、鷹山に挑戦者兼介添人という表裏一体の役目を負わせたのだ。
加納が君臨し勝利し続ける間、鷹山は挑戦者であると同時に加納の介添人でなくてはならなかった。
拳願試合で加納にセコンドが必要な場面は存在しなかったが、試合以外の、着替えや試合までの外部との調整や、相手企業との連絡・交渉など、あらゆる手続きを、王森と共に受け持たなくてはならなかった。加納のフィジカル管理の一端も担わされた。敵を知り己を知れば──と最初は堪えていた鷹山だが、元々の性格だったのか、敵愾心をこじらせすぎた結果か、加納の面倒見係として定着してしまった。
その点は、鷹山も未だに納得がいっていない。滅堂の絶対命令を厳守した結果、加納のフィジカル管理にまで首を突っ込み、細々としたケアをしていただけなのだ。
例えば、爪切りだとか。
「てめーが、後先考えずに深爪にしやがるから、俺がやる羽目になったんだぞ」
「鷹山は最初から、私の爪を切るのが上手かった」
「んなわけあるか」
パチン。鷹山の血糊がついた爪先は、今度はシーツの間に紛れ込まず、ちゃんと鷹山の手のひらの中にとどまった。角を落とし過ぎず、深く切り込み過ぎず、無骨な手から意外なほど慎重に、丁寧に、加納の爪を切りそろえる。
うつむき、無心な鷹山の額から鼻筋を、加納は正座を崩さずに見つめていた。頑強な四肢と拳を得て、今や爪先に至るまで「かつて」からほど遠いはずなのに、あの頃が昨日だった気がしてくる。
鷹山の肩や頭が、掴んだ手の向きを変えさせようと動くたび、うつむいて見えないはずの表情や、集中した息づかいが、掴まれた手の先からありありと伝わってくる。ひたむきさを、もっと近くで観察したくて加納は体を傾げる。すると、捕まえた手が動いて、鷹山がジロリと睨んでくる。
「じっとしてろ」
全部、あの時と同じだ。加納は口に出さず、胸の内で唱えていた。
