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torch song

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 ヘクトールは、木製のドアの前に佇んでいた。特に不審がる態度もみせずに開けると、そこはまずまずの広さがある部屋だった。いくつかのテーブル席、不在が佇むカウンターと据え付けの椅子が並ぶ、人を招集するために創られた、無人の空間。誰もいない──多分、誰がいてもいいのだろうが、今は何者も「いない」と定義付けられた部屋に、ヘクトールは臆することなく入った。
 比較する対象物がないので、時間の経過、空気の流れの有無は定かではない。あるいは、「在る」こと自体が成立していない。「空で有る」概念そのものを、見聞き出来る形象に落とし込んだ場所。──概念の点を、場所と呼ぶのが正確か知らない。しかし、ドアもあり、座る席がある以上、ここは場所だ。定まった点であれば、滞在することも可能だろう。
 ヘクトールは後ろ手にドアを閉める。
 いつの間にか、空であったはずの場所に、くっきりした輪郭が顕れていた。物音ひとつしないが、ドアを閉めた音もしなかったので、ここでは音が音としては響かないようだ。
 相手は、窓側の席──空間の一側面、比較的明るいと瞼に感じる側に並ぶテーブルを、窓側、と呼ぶのは妥当だ──に深く腰掛け、背もたれに身を預けている。呼吸音は聞こえない。死んでいるか、昏睡したように寝入っている。
 空であるはずの場所に、あまりにも不釣り合いな重量で、その席だけ窪んで見える。
 ヘクトールは背もたれを挟んで隣の席に近づくと、静かに項垂れている相手に遠慮せず、腰を下ろして景気よく後ろにもたれた。木製の椅子とテーブルから物音はしなかったが、誰かが座ったと認識されたらしい、その証に、椅子の背は音もなく振動している。
 じいんと振動が収まるのを待ってから、ヘクトールは喉奥で笑った。
「ひでぇ有様だ」
 揶揄めいた口調に、返事はない。ぴたぴたと床に滴る鮮血が、じっとりと血だまりを作るのが床材を通じて感じ取れた。
 戦場の土埃、敵味方の血臭、絶命した兵士の手応え。そうした情報が、血痕や砂埃というノイズとなって、空間に微々たる振動を与えている。
 絶息した戦士は、鼓動のない体に誇り高い執念で魂の核をねじ込ませていた。肩に触れただけで崩れてしまいそうだった。しかし、削り取られた切っ先で相手を引き裂く、金鉱石の輝きを湛えている。英霊の座に半ば還りながら、いまだ、端末たる霊基の肉体で劣勢に抗っている。血の滲んだ冷や汗から、絶句する激痛に苛まれているのだと解る。
 解るのだ。ヘクトールには、解るのだ。あえて向き合わず、背中合わせに坐して、音も時間経過もない揺蕩う場所で、相手の絶命する息遣いを聞いている。
「頼みがある」
 弱々しい掠れ声だが、空間は大いに振動した。声を発した者の意志の強さで、ドアがたわみ、窓が軋む。空の中で、戦士の概念は響きすぎた。是空の部屋を訪れるには、戦士はあまりにも持ちすぎていた。誇り、責任、憤怒、悲哀。どれも、是空の内に留めておける彩度明度ではない。
 静謐な明るい室内で、満身創痍の男だけが、過剰だった。男はあまりに多くを魂の切れ端に結わえている。
 ヘクトールは相手が大音声でこれ以上怒鳴らぬようにと祈りつつ、沈黙して続きを促した。
「お前の力で、月女神の矢からあいつらを守ってくれ」
「また豪儀な敵だな、何をしでかしたのやら」
「行ってくれるか」
「…護れと言われたなら、どこへでも馳せ参じ、何からでも護りぬくとも。それがオジサンの売りだからねぇ」
「なら、いい」
 戦士が鎧の胸当てを大きく膨らませて深呼吸し、血反吐にむせた。戦士の座る席を中心に、血泥のノイズに侵食された場所は、虫食い穴を生じさせはじめている。戦士の存在が、空の座という概念を危うくしている。
 本来ここには、何者もとどまらず、どのような意志も持ち込まれない。抑止の輪の「外」に在るものの世界だ。
 「たかが」英霊同士が語らい、取引するなど、あってはならないイレギュラーだ。
 間もなく、概念の力場は消失し、どちらの英霊も己の座に引き戻されるだろう。
 椅子から立ち上がったヘクトールは、煌めき崩れ砕ける手前の、金鉱石の輝きに手を伸ばした。触れれば崩れるだろう──しかし、砕けねば星にもなれない。
「その姿、できれば生前に見たかったよ」
「はっ、抜かせ」
 せせら笑いがちゃんと音として聞こえて、ヘクトールは可笑しかった。せっかちな男だ、座に還る前から約束を取り付け呼んでおかねば気が済まないのだろうか。
「でもオジサンはマイペースでね。その『時』は、こっちで見極めさせてもらう」
 ドアを閉める前に振り向くと、傷だらけの英雄は砕けた星になり、空の座に散り散りになっていた。次に顔を合わせたときには何も覚えていない、一個の英霊に還っていることだろう。
 空の部屋が無に還ると、同化し、今語らった相手の灼けつく記憶も体験もどんな輪郭も残さず、雲散霧消していく。
 熱も消えて、温度も明るさもない場所に戻る。
 ただ一人、ヘクトールだけ、ぽつんとした明かりとなって残っている。それは、輝き砕けた戦士から預かった炉の熱だ。世界にも干渉し得ない、一粒の灯し火だ。
 上も下も、前も後もない、限りなく零に等しい地平に佇むヘクトールは、英霊の座からちょろまかして来た煙草の記録を取り出した。生前に馴染みないのに、何故なかったのだろうと思うほど、しっくりくる嗜好品を堪能する。
 誰が乞うても護り手になる覚悟は出来ている。
 だが、彼に頼まれるとなれば、違う。
 不退転の覚悟も、堅守の誓いも、携えた槍の名の通り、不毀の強さであらねばならない。
 二呼吸。それで、覚悟が決まり、意気が昂った。ヘクトールは己を焚き付ける炉の熱に導かれて、一縷の希望となり、伸ばされた誰か手に手を伸ばす。
 無窮の地平に、誰もいなくなった。紫煙の匂いひとつ、残っていない。

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