賭郎本部ビルの正面ホールに下りてくると、ちょうど別エレベーターから降りた門倉と鉢合わせた。
「おう」
「来とったんか」
珍しく、立会人制服を着ているのに黒服を連れず一人だ。立会がある時は、少なくとも一人か二人は連れ歩くのが門倉の流儀なのだが、まだ部下を招集する時間ではないらしい。
「これから、カイシャ戻るん?」
俺が立会人制服でなく、本庁に着ていくジャケットを着ているのを見て、門倉が訊いてくる。
「飯食うてからな」
「昼、食べとらんの」
ぽんぽんと言葉を投げ合いながら、ホールの自動ドアを前後して通り過ぎる。他の立会人の黒服が短く会釈してすれ違った。
「食う暇がのうてな」
「二足わらじの辛いとこやね~」
嫌味ではなく同情と思しき門倉の言葉に肩をすくめる。昼抜きくらいはよくあることだ。いつもなら隙を見て何か食べるのだが、今日はずっとタイミングを逸している。
外はすがすがしい春の夕暮れで、いっそう空腹が沁みた。ちょうど昼休みに賭郎に呼び出され、庁舎で食いそびれたまま、今に至る。戻ったら本業の残務がある、この分だと残業になるだろう。いい加減、何か腹に入れないときつい。
地下鉄の入り口方向に向かおうとした俺に、門倉が声を掛けた。
「夜に立会あるんで先に飯食うんやが、お前もどうじゃ?」
「行く」
そんなの、二つ返事に決まっている。俺の胃袋を手なずけた門倉は、得意げに先陣切って歩き出した。店は、本部の徒歩圏内にあるらしい。
本部のビルは、都内に林立するオフィスビルをまるごと一つ買い上げた物件で、中には賭郎と直接関わりない企業も入っている。建物と土地自体は、能輪立会人の名義ということだった。能輪家は立会人の傍ら、人主相手の不動産賃貸業もやっているそうで、中に入っている企業は、賭郎勝負の観戦によく参加する連中の関連会社ばかりだ。もちろん、賭郎本部のひとつと突き止められないよう、カモフラージュの意味もある。
このあたりは、昔から証券や商社のビルが建ち並ぶ区画だったので、会社員には過ごしやすい造りになっている。ちょっと入った路地に点々と飲み屋があり、どの店も昼間はランチをやっていた。庁舎の周辺より本部の方が、昼飯のラインナップは充実していた。門倉とこうして本部で鉢合わせた時、特に夜は、しばしば近場の飲み屋に寄ることもある。門倉が好むのは、店主が一人でコツコツとやっている、日本酒が揃っていて飯の旨い、こぢんまりとした飲み屋だった。
今日の門倉は、居酒屋やリストランテが並ぶ通りと逆方向に向かっていた。こちら方面にはほとんど足を向けないなと思いつつ、前を行く背中に声を掛ける。
「こっちにも店あるんか?」
「あるよ。部下と、よう行く店でな」
「ふうん」
駅から離れる方向なので、まばらにいる通行人がどんどん減っていく。やがて、ひっそりと人も車もほとんど通らない道に出た。
周囲を見回しても、何の事務所かよく分からないビルばかりで、時間のせいもあって、まるで賑わいのない通りだ。単調な景色に、等間隔にあるコンビニの看板だけが彩りを添えている。よく見ると、近隣で暮らす人間が通っていそうな美容室、クリーニング店、まだ看板を出していないスナックやキャバクラのドア、貸し会議室で埋まったビル、住居用マンションと、内訳は様々なようだ。
よくある都内の雑多な通りを歩くこと数十分、乗るつもりだった地下鉄の沿線からはずれた一画まで来て、門倉が交差点で立ち止まった。形ばかりの信号で立ち止まった門倉に、俺は横顔を振り向く。
「あの店じゃ」
赤信号の横断歩道を、宅配業者のトラックがよたよたと通り過ぎる。対岸にあるのは、赤と黄色を基調にした看板を掲げる町中華だった。「桃園」と店名を太字であしらった暖簾がかかっている。食品サンプルを並べていただろうショーケースは空だ。かなり年季の入った店構えだった。
俺の抱いた不安を察知したのか、門倉が言う。
「なんでもええんじゃろ?」
「おう」
腹が膨れればこの際なんでも、と思いつつ、門倉の後について店に入る。外観はほったらかしの店だったが、店内は一見して整理整頓されて古びていながら清潔で、中華屋独特の香ばしい匂いに包まれていた。奥行きのある造りで、数席あるカウンターの奥は、すべて座敷になっていた。今時珍しい。時間的に客はいないが、昼時は繁盛しているに違いない。
厨房から、いらっしゃい、とかけ声がかかる。門倉は、大将らしい老人に会釈した。
「奥、いい?」
「どうぞぉ」
親しげに間延びした返事が返ってくる。それだけで、門倉が常連だと察せられた。
ぱっと見たかんじ、従業員は店主夫婦と、バイトの店員一人しかいない。店の広さに対して、ずいぶんこぢんまりとした布陣だ。
「あんまり長居はできんぞ」
「早飯が身についとるのお。大将は仕事早いから、そがいに待たされんよ」
日に焼けた畳敷きの座敷に上がると、門倉はジャケットを脱いだ。今時珍しく喫煙可なのか、テーブルは古めかしいアルミ製の灰皿が置かれている。お互いにどっかりとあぐらをかいてすわる。俺たちが座っても十分余裕がある間取りなのが、ありがたい。お互いに脚を持て余すことなく寛ぐ。門倉はさっそく一服した。
店員が水を運んでくる。メニューを探していると、対岸の門倉がコツコツとテーブルを指で叩いた。
「?」
黙って壁に目配せする。定番の料理名がずらっと手書きで壁に貼りだしてあり、どうやらそれがメニューの代わりということらしい。
俺が貼り出されたメニューを目で追っている間に、門倉は何も見ず、ぱっぱと注文を始めた。
「豚もやしラーメンに、餃子、おつまみ盛り合わせ、ビール……は飲めんな。あとニラレバ、青菜炒め」
「そんなに食えるんか?」
「頼んだらどうせお前も食うじゃろ。あ、餃子は二人前ね」
「すまない、餃子は一人前でいい」
女子高生くらいのバイトが、門倉の暗唱したメニューをせっせと手書きで書き留めていく。最後、餃子2を1に訂正すると、さっと俺を見やった。早く決めてください、と顔に書いてある。
門倉が麺類だったからというわけでもないが、何か飯物が食べたい気分だった。定食にするか、チャーハンにしておくか、視線をうろうろさせていると、中華丼の隣に書かれた天津丼の文字が目に入る。
「天津丼、あと唐揚げ」
略さずメモしているのか、店員はきちんきちんと伝票に書き込む素振りのあと、復唱せず厨房に引き返していった。なんというか、大雑把だ。年季の入った店内の、さばさばした雰囲気によく似合っている。今時こういう店が生き残っている事実に感動さえ覚える。門倉は、日焼けとヤニ焼けで色の変わった壁紙や、メニュー表のないテーブルや、雑な接客といった店全体が居心地良いらしかった。他のどの店にいるときより、のんびり構えているように見える。
「餃子、旨いのに」
「ニンニク臭くなって庁舎に戻れんじゃろう」
「そんなん気にするんか? ワシの仕事で付き合いあるお巡りサンら、昼間っからニンニクやらの臭いさせて来るけどな。……ははぁ、オンナ受けか?」
「アホ。所轄と違うて、外面の良さが求められる立場なんじゃ。お偉いさんに呼び出されて、ニンニク臭いなりで行けんじゃろうが」
「外面かよ。いや、そういうのが一番お得意やったねえ、恭次クンはぁ~」
ニタニタと笑いながらわざとらしく揶揄う門倉をスルーする。水はセルフサービスらしく、卓上に置かれたピッチャーからコップに注いで、一つを門倉の前に押しやった。無視していると、門倉が貼り出したメニューをふと顧みて、煙草の煙を吐きかけてくる。
「ここの飯はなんでも旨いけど、天津丼は東のやつじゃから、出てくるのはにせもんのやつじゃ。残念やったねえ」
「偽物?」
本物も偽物もあるか? と思い首をひねる。すると、門倉は吸おうとした煙草から口を離し、俺を見やった。
「こっち来て、食うたことないん?」
「いや、あるが。ああー……味付けが違う話か? そんなもん、ただの地方差じゃろ。本物も偽物もない」
大げさな、と鼻で笑う。すると、門倉は胸を突かれたように目を丸くしてから、眉間に皺を寄せた。
「……ほうか、そんならそれでもええのと違う」
低いトーンで答えると、急に素っ気ない態度になる。俺を無視するかのように、ジャケットから携帯を取り出して弄りだした。
なにかおかしなことを言っただろうか。訝りつつ表情を探っているうち、次々に料理が運ばれてきた。門倉の言ったとおり、とんでもなく仕事が速い。
門倉が勧めるだけあって、どれもボリュームがあり、美味そうだ。気が利かないと思われたバイトの子だが、心得たように取り皿やら取り箸やらを並べていく。最後に、門倉の横顔を見てニッコリしてみせた。なるほどと納得する。門倉の料理があらかた並んだ後に、俺の分が運ばれてきて、最後に迷わずこちらの席に伝票が置かれた。もちろん、笑顔のサービスもない。
「お前のファン、態度が露骨じゃのお~」
「常連に優しゅうしとるだけじゃ。あと、お前の方が羽振りよく見えるんじゃろ、エリート警視正」
女子高生にモテている門倉を冷やかすつもりで言いやったが、門倉の反応はつまらないほど素っ気ない。急に不機嫌になった門倉にどうしたのか訊こうとしたが、「いただきます」と行儀良く食べ始めるのを見て、口を挟めなくなった。
長い髪を髪ゴムで雑にくくって、湯気の立つラーメンを勢いよく啜る。皿料理は一.五人前はありそうだが、俺たちの体格だと一人前くらいのものだ。分けて食べれば大した量ではない。
取り皿に自分の分を取り分けて、残りを突き返す。ラーメンとタイマンしている門倉は、こっちをまったく一瞥もしないうえ、押しやった皿から直箸で料理を取っていった。門倉のシマも同然の店だ、好きなようにしたらいいと放っておく。
天津飯は丸いかに玉に甘酢あんがかかっていて、つるりとした見た目が陶器の蓋のようだ。レンゲを差し込むと、下は白飯だった。唐揚げの濃い味にちょうど良い。青菜炒めだけもうひと掴みお代わりすると、すでにラーメンを半分腹に収めた門倉が、俺の手元をじっと見ている。
「なに」
「白飯旨い?」
「? 旨いけど」
「ほうか」
それきり、門倉は黙々と料理を腹に詰め始めた。
門倉は健啖家だ。大食らいともいう。俺たちくらいの体格にしてみると適量なのだが、世間一般でお出しされる料理と比較すると、なんでも大盛りにしないと食い足らなくなる。
それを差し引いても、印象として「よく食べる」。特に、俺や古参の部下と飲み食いするときは、美貌に似合わぬ大口で迷いなく食べる。そのせいか、よく食うな、という印象があるのだ。文字通り、一口が大きい。だが、口いっぱい頬張る真似はしないし、味わって食べていると見るからに伝わってくる。咀嚼の合間に、美味いとか好きな味だとか、感想が挟まることもよくある。誰かと食事する空間そのものを、口の中に放りこむような食べ方だった。一緒に飲み食いして楽しいタイプなのだ。
門倉と顔をつきあわせて飯を食う機会が増えてから、俺は少し体重が増えた。飯の時間が充実するせいだ。
仕事柄、ながら食いや早飯が癖になっているのと、接待の席は飲み食いの場でないため、食事という場そのものから乖離して久しかった。門倉と飯を食うようになって、食事がどんな行為だったのかを徐々に思い出していった。これは多分、幸福な現象なんだろう。
それが、今の門倉は、無感動に、ただひたすら腹に詰める食べ方をしている。急いでいるにしても、好物をかき込む勢いみたいなものがあるコイツにしては珍しい。なんというか、冷ややかな食事だった。
「立会、夜じゃなかったのか?」
急いどるんか、と訊くが門倉の返事はない。ラーメン鉢にれんげを戻すと、縛った髪を解いておしぼりで額をひと拭いする。コップに注いだ水を何杯も飲み干し、半分残した餃子の皿をこちらに押しやった。
「用事思い出した。ワシはもう行くけぇ、お前払っとけ。羽振りええんじゃろ」
「それは構わんが。どうかしたんか?」
「別に」
本当に急いでいるのか、寛ぐつもりで出しただろう煙草を回収してジャケットを羽織り、手ぐしで髪を整えて立ち上がる。丼の飯半分と門倉から託された餃子を前に動くに動けない俺は、靴を履く丸めた背中を見送ることしかできない。門倉はこっちを一度も振り向かず、出口に向かった。
「大将、ごちそうさん~。代金は連れが払うよ」
「あいよ。また来てな、雄大君」
大将の親しげな挨拶に、ありがとうございました~とバイトの黄色い声が重なる。引き戸をぴしゃりと閉める音がして、俺は門倉のホームともいうべき店内にぽつねんと残された。昼時には遅すぎ、晩飯には早すぎる時間の町中華の一人客など、常連でもなければのんびり寛げやしない。食べ終えた皿やどんぶりが並ぶ対面の空間が、門倉の抜け殻じみて見えて、余計に所在なかった。
結局、せっかくの料理をろくに味わいもせず腹に押し込んで、店を出る羽目になった。
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