「梶。今日はランチミーティングにしようぜ」
対岸のホワイトボードをPDA端末のカメラで撮っていたフロイドが、振り向かずに声を掛ける。梶はまだノートPCに紙媒体資料を入力している途中だった。
二人は、賭郎が借りているオフィスビルの会議室で、次の計画に向けての下準備を進めていた。準備はそろそろ大詰めで、近日中に斑目貘を交えて最終確認をする。貘は別件で、用心棒にマルコを連れ、遠出している。
会議室テーブルに軽く腰掛け、腕組みして待機するフロイドに、梶はPCから目を上げず、言い返した。
「こっちはまだ終わってない、一人で行ってきなよ」
「作業はいいから行こうぜ。やる事はまだまだあるんだ。一昨日からまともな飯食ってねえだろ、俺ら」
フロイドの提案に、梶は怪訝な顔をした。
この準備作業が始まってから半月、ビルの会議室に「出社」するようになって二週間。大詰めが近くなってきた今週は、会議室から外に食べ歩く時間を惜しんで昼食はコンビニ飯だったが、朝は宿泊先のビジネスホテルで朝食を、夜はファミレスできちんと食べている。梶からすると相当「まともな飯」を三食食べている生活だった。
というか、フロイドと二人で作業が始まると、たびたび胃腸の具合が悪くなる。フロイドの食事量に付き合うと梶の並より弱い胃腸が悲鳴を上げるのだ。
斑目貘と出会ってから怒濤の一年と少しが過ぎて、梶は見違えるように成長した。それは精神的な話であって、肉体はパチンコで闇金に借金を作っていた頃の、青年の体のままだ。
斑目貘は桁外れの計算高さを持ちながら、ギャンブルに(本当の意味で)取り憑かれた異常者だった。精神力は強い弱いの尺度をかけ離れているが、肉体は虚弱寄りだ。激しい運動は出来ないし、食事量も梶と同じか、比べて少ない時さえある。
そのあと出会ったマルコは、逆のベクトルで常人ではなかった。成人男性にしてはよく食べ、子供の感覚で菓子類も別腹で山ほど食べ、凄まじく動く。マルコの食べっぷりを眺めていると、梶は半分くらい腹が膨れたような気になってしまう。
家族同然の仲間といるときは、小食と大食漢の間にいて、梶はどちらかというと自分がよく食べる方だと思い込んでいた。
フロイド・リーと組むようになってから、どうやら、外食で一人前をどうにか完食するのは成人男性として小食で、大盛りや特盛りは、高カロリーを必要とする職業人種に向けてのサービスとは限らない──そう気づいた。
賭郎の搦め手や仕掛けのために組んで仕事をするようになって何度目か、手っ取り早く飯だ、といって目に付いた定食チェーン店に入り、並盛りセットを頼んだ梶に、フロイドは大げさな呆れ顔で言いやった。
『オイオイ、勘弁してくれよ。ウサチャンのデザートか?』
牛丼並盛りがウサギのデザートか否かは置いておいて、梶の食事量を目の当たりにしたフロイトは、あからさまな不満をぶつけてきた。最初は「そういう時もあらぁな」と言いたげな態度で黙っていたが、それが毎回続き、常態だとはっきりして、とうとう耐えかねて口を挟んだのだ。
『もっといけるだろ。金に遠慮してんのか? だったら俺が奢ってやる』
『これで足りるんだってば』
フロイドは開いた口の口角を下げ、信じられないものを見る目で梶を見た。
以来、食事のたびに「もっと食え」と言ってくるようになった。フロイドから見ると、食事で虐待を受けていた児童の食事のままに見えるのだという。
かつて、その過去を揺さぶりの道具として口にしたフロイドだが、その場で詫びただけあって、梶が過去に受けた虐待に対しては他の人々よりも敏感なところがあった。さまざまな国の暗部を見てきたフロイドは、もっと劣悪な環境があるのも知っているし、もっと恵まれた環境があるのも知っている。
フロイド個人の感覚では、梶が母親から受けた仕打ちは惨い尊厳破壊なうえ、適切なケアを受けて立ち直ったわけでもないのが、引っかかっているのだ。梶はもう立ち直ったという。精神は親の影響下から抜け出し、自己確立の第一歩を踏み出したかもしれない。だが、肉体は立ち直るスタートラインに立ったばかりに見えた。なにより、梶本人がそれを自覚していない。
フロイドは、梶の見ている資料を取り上げて、パソコンをパタンと閉じる。
「ちょっ……、保存してないのに」
「いいから終わりだ。今日はとっておきの店に連れてってやる」
「えぇ……」
疑わしげな梶の眼差しに、フロイドはニヤリと笑った。
会議室からビルを出るには二階の受付を通る。二階受付の待合ソファには、弐號立会人・門倉雄大と、拾陸号立会人・南方恭次が向かい合って座っていた。片方は腕組みし俯き、片方はふんぞり返って足を組んでいる。普段は取り次ぎの受付嬢がいるはずだが、その席は無人だ。
(そりゃ、こんないかつい人らが鎮座してればね……)
門倉は梶の運転手兼護衛、南方はフロイド・リーの監視役である。
賭郎が、最初にフロイド・リーの担当に付けたのは、肆號立会人・間紙ボロだった。しかし、彼が賭郎勝負以外で立会人の仕事につくのは稀だ。賭郎勝負と関係のない監視や護衛はお屋形様直々の指示でなくては受けない。
間紙も含め、上位號数の立会人数名で人事を決めたのだが、その場には珍しく門倉も参加していた。弐號ながら、人事や事務方にはあまり積極的ではない男である。
『御大に二度もお手間を取らせるわけにはいきません』
門倉はこう強弁した。古参立会人の中でも、門倉にとって間紙はメンターの一人といっていい、強く尊敬を抱く人物である。逆に言えば、常に良いところを見せたいと気を張る相手でもある。立会や取立ならともかく、お屋形様──というより嘘喰いとして斑目貘が動く、その前準備にあたるささいな仕事に師匠が立ち会うのは、心苦しい──もっというと、窮屈だった。
『そういう役なら、もっと適任がおりましょう。どう思われます? 判事』
フロイドを監視するなら秩序維持組織が適役、というのである。
『お前が当人と交渉するなら、私に異論はない』
棟耶の態度は淡泊──というか、だいぶ投げやりだった。南方立会人のメンターは、棟耶が引き受けている。南方が一人前になってからは擬似的な上司部下の関係におさまり、南方が基本的に指示を仰ぐのは棟耶と決まっている。たとえ棟耶より號数が上だったとしても、門倉に指示を仰ぐのだけは、いまだに業腹だと態度に表れている。
そのあたり、門倉もよく知っている。知っているので、白羽の矢を立てたのだ。上司の棟耶から異論が出なかったので、監視担当は南方立会人となった。
門倉から降ってわいた監視命令を聞いた南方は、さすがに目くじらを立てた。
『筋を通して仕事振らんか、おどれは!』
いくらなんでも、本職の勤務とフロイドの監視を一人では並行できない。南方は警視庁にいなくてはならないし、フロイドと関連があると搦手の届かない部署や人物に気取られるのも、立場上まずい。賭郎の搦手も万能ではない。
『どうせ毎日毎日、愚にもつかん会議しとるだけじゃろ』
『おどれに政治の何が解るんじゃ、ヤンキーあがりの半グレがのお』
『あ?』
『おぉん?』
すでにリーゼントでもソフトモヒカンでもない二人が、凄みながら角を突きあわせる図は、ヤクザと組対刑事のそれ、やはり相容れない場ではそうなるのだなあ……と、これはすべて、門倉の黒服たちが梶に伝えた、臨場感溢れる再現実況および感想である。
仲がいいのか悪いのか(間違いなく、喧嘩するほど仲が良い、であっていると梶は思っている)、揉めた結果どうなったのか聞くと、黒服たちは人の悪い笑みを浮かべて仲間同士でニヤニヤ見交わし、答えてくれた。
『雄大クンが、あのダボの南方に負けると思うんか?』
喧嘩で決着したんだ、と梶は苦笑いで応じつつ、内心納得した。あの二人が話し合いで揉め事を解決するイメージがない。というか、門倉が要求を突っぱねた相手に、はいそうですかと着席する図が浮かばない。
門倉の暴の凄まじさは知っている。南方の実力を見たことはないが、アレに晒されたなら、ひどい目にあったに違いない。
梶は、フロイドと顔を合わせる初日、フロイドの側に佇む南方の悲惨な姿を想像していた。が、期待というか杞憂に反して、当日梶を出迎えたのは門倉のところの黒服で、フロイドの監視も見たことのない、黒服ですらない壮年の男性二人組がついてきていた。
「雄大くん、今日は用事があるので」
「で、俺の後ろのおっさんたちが、今日の監視当番だそうだ。南方立会人はお偉いさんと一日、会合だとさ」
梶は拍子抜けした。そして、自分が賭郎内で優先される存在だと自惚れていたと気づいて、恥ずかしくなった。貘の片腕だからといって、必ず優先されるとは限らない。梶は会員の一人、かつ、賭郎の関係者の一人──黒服ですらない。名目上はお屋形様の知り合い、くらいなのだ。
いざフロイドと二人で準備作業に入ると、日々の運転係や監視役はもっぱら、立会人たちの部下が引き受けていた。
門倉は、姿を見せる時と見せない時があり、南方は滅多に現れない代わりに、梶が見ても「多分そう」と解る、ベテラン私服警官が必ず二人組で訪れた。まだ門倉の方が予定に都合がつく雰囲気があった。南方〝警視正〟は、本当に忙しいのだ。
一度、門倉が来たとき、梶はこっそり尋ねてみた。
「南方さんはやはり、来られないんですか?」
「梶様がご所望ならお呼びしますよ」
「いや、そうじゃなくて……」
「ああ、本人が来ないのが不義理とお思いで? これが警察として一番適切な対応です。職務に適した人材を、良好な状態で割り当てする。指揮系統のトップは奴一人なので、現場の連携も取れている。疲労と慣れによるヒューマンエラーも防げる。……立会では少々頼りにならないところもありますが、奴の本職はあちら側ですから。フロイド・リーに関して心配は不要です」
そうなんだ、と梶は答えた。門倉の回答は警察側の人間かのように明瞭で、不思議と腑に落ちた。
確かに、南方が毎日一人で見張るのは理に適わない。門倉だって、梶たちの行動予定が単調な日は、信頼できる部下数名に任せている。
組織立って人材を率いるとはこういう事なんだ、と発見した梶は、妙に昂揚した気分でフロイドにもそれを話した。だが、話を聞いたフロイドは冷静で、一瞥もせず頷き返した。
「日本の警察官は愚直で優秀だ。間抜けな上層部がやらかす事はあるみたいだがな。俺は監視役が南方立会人になって、うんざりしてるぜ」
「そうなんだ?」
「確かに、俺は賭郎の情報に釣り出されて身分所在を明かしたが、それだけで俺を追いかけ回すまで至った国は、そうそうない。あの組織のお偉いさんやってるんだ、立会人としてはどうか知らんが、警察の人間としちゃ、相当出来る部類だろ」
「へぇ」
梶は、今の話をいつか門倉に伝えてみようと心に決めた。梶には、付き合いの長い気を許せる友人という関係が解らない。だが普通、誰かが友人を褒めれば誇らしく思うものだという。梶も、マルコが褒められれば嬉しいし、プロトポロスでチャンプやりゅうせいが伽羅の人となりを良く言ってくれるのを聞いたときは、嬉しかった。
門倉もそれとなく喜ぶに違いない。──これはとんでもない思い違いなのだが、門倉と知り合ってまだ歴の浅い、なおかつ任侠の文法を知らない梶が推測するのはだいぶ難しい。
二人がエレベーター室から受付に入ると、俯いていた南方が顔を上げて、短く首を振った。仮眠していたらしい。だが、上げた顔に寝起きの緩みはまるでない。
門倉は二人を見やると立ち上がった。フロイドが外出の用件を伝える。
「俺の車で昼飯に出かける。あんたらはどうする」
「お前の車で?」
「行き先は共有する。ただのバーガーショップだよ」
フロイドがカードケースからショップカードを抜いて、門倉に手渡した。門倉が表裏を見て住所を確認し、南方に手渡す。
「梶にまともな飯を食わせたい」
目的を告げると、門倉は視線を上げて「いいだろう」と応じ、カードを返した。向かいの南方は携帯でどこかに電話し、手短に用件を伝える。行き先が管区の所轄に、監視要員の段取りを伝えたようだ。
「南方。どう?」
「……ああ、問題ない」
準備できた二人を見て、フロイトは梶の頭にぽんと手を置いた。
「じゃ、行くか」
「待て」
梶と二人で退館手続きをして出て行こうとすると、門倉と南方がゆらりと立ち上がって呼び止とめた。
「なんだよ。出かけるのはいいんだろ? あんたらも後ろから車でついてくれば……」
「お前の車に我々も乗る。そうしたら護衛も監視も一度で済むからな」
フロイドの顔が引き攣った。梶と二人で気さくなドライブのつもりだったのに、とんでもないコブが二つもついてきた、と顔に書いている。
梶はフロイドを見やり、人の悪い笑いで端整な顔を台無しにしている門倉と、単に人相の悪い男になっているうす笑いの南方とを見てから、ふうと鼻先で溜息をついた。
梶以外は、惚れ惚れするほどガタイの良い男たちだ。フロイドが乗り回している外車は高級車だったが、いわゆるセダンで、車高も車幅もそれなりだ。
この面子で乗り込んだら、どういう席順でもぎゅうぎゅう詰めになる。
「酸素薄そう……」
梶の独り言は、長身三人の耳には届かなかった。
