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DEEP-SETS

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 まだ残暑の残る快晴の夕暮れだった。テスラは大学のレポートを終わらせるために、一日エアコンの効いた部屋に閉じこもって過ごしていた。
 机には哲学書や心理学に関する書籍と論文が積みあがっている。三年になり消去法で選択して入ったゼミは課題が多く、テスラは毎月レポートに追われていた。
 同居人のノイトラは今日も一日留守している。彼がどこで何をしているか、テスラは知らない。
 高校時代から始めたノイトラとのルームシェアは、大学三年になっても続いていた。もともと、不便な安アパートで独り暮らしをしていたノイトラに、テスラが声をかけて始まった生活だ。ノイトラは別に住まいに不便を感じていなかったようだが、地方都市の中心部に近く、学校も繁華街も近い立地には心引かれたらしかった。ルームシェア当初から、ノイトラは寝に帰ってくるだけの生活で、外で誰と何をしているのか解らない生活をしていた。高校時代は、学校という閉鎖空間にある程度縛り付けられており、テスラもノイトラの後ろに付き従って過ごすことで、彼の動静を把握できた。
 だが、大学に入ってからは、生活サイクルの縛りが緩やかになり、テスラ自身も受ける講義を抱える身で、高校時代に増して奔放になったノイトラを捕捉できなくなった。最近は、大学でほぼ見かけないノイトラが、服を汚し傷を負って帰ってくるのを、沈鬱な面持ちで出迎えることしかできていない。
 テスラは机から立ち上がった。そろそろ夕飯の支度をしたい。起きた時には出かけていた(あるいは、昨日から帰っていないのかもしれない)ノイトラに、朝と昼、メールで連絡をしたが返信はない。
(夕飯がまた無駄になるかもな)
 ノイトラが食べない日は、テスラも食べる必要性を感じなくなりがちだ。キッチンに立ってみたものの、冷蔵庫を開ける気になれない。そのまま呆然と流し台の縁に手を突いたまま呆然と宙空を見ていると、ポケットの携帯が震えた。
 ノイトラからの着信だ。テスラは慌てて応答ボタンを押す。
「ノイトラ? 今どこにいるんだ?」
『すぐ帰る。メシの支度しとけ』
 ノイトラの背後は静かで、人通りの気配がない。車両の音も、人の歩く音も聞こえない代わり、虫の音がした。草木がそよぐ自然音も聞こえてくる。このあたりには公園もなく、人の気配がなく、虫の鳴く音ばかり聞こえてくるような場所はない。マンションからだいぶ離れた場所にいるのは間違いなかった。
「ノイトラ、どこにいるんだ?」
 テスラが同じ質問を繰り返す。だが、答えはなく電話は一方的に切られた。
 まだ何も準備を始めていないキッチンで、テスラは通話の切れた携帯を見つめる。
 ノイトラの声には聞いて解るほどの疲労感が滲んでいた。ノトイラがバテるのは珍しくないが、どんよりとくぐもった声からは不吉な手触りを感じた。
 おそらく、昨日から帰っていないのだろう。遠出した先で、トラブルがあったのかもしれない。
(……ともかく、帰ってきてから話を聞くしかない。話してくれるか、解らないが)
 テスラは気持ちを切り替え、再び冷蔵庫を開く。食材を取り出しながら、夕食が冷めるまでにノイトラは帰ってくるだろうか、とうっすら疑問に思った。
 テスラたちが住むマンションは、テスラの親の資産で家賃なし、光熱費も親が支払っている。子供には物か金さえ与えておけば良いという教育方針は、立派な育児放棄だった。しかし、テスラは変に拗けることなくコツコツと勉強に励む優等生として生きてきた。あてどない虚無がテスラの内面を蝕んでいたが、テスラ自身にもどうしようもなく、目的も目標もないまま、親や教師やクラスメイトが唱える「良い」態度、成績、生活を写し取りながら、辛抱強く寿命を消費していた。
 そんな最中に、ノイトラと出会った。
 強さを求めて邁進し、荒れた生活を荒れたままに、傷つけば傷ついたままに、己を顧みず無謀な真似ばかり繰り返す粗暴な男。どれだけ踏みにじられても傷を負わない無欠の心身を持ち、他者と常に相容れず、傲慢で暴力的、常に加害者である男。だが、何故か野卑野蛮の類ではない佇まいがあった。彼は生に倦いていた。いずれ死に収束するのならば、束の間の生をどう浪費していくのか――ノイトラは、即物的で不健全な弱さと深い思索の両方に、答えを求めているように見えた。
 テスラが初めて話しかけたとき、ノイトラは教室にいて、高さの合わない机の上に突っ伏して居眠りしていた。顔を上げたノイトラはテスラを一瞥し、一瞬関心を示してから、すぐ興味なさそうに机に突っ伏した。
『お前がこの間、喧嘩している相手に怒鳴っていたのを聞いた』
『家に寄りつくな、と言っていたな。自宅にまで押しかけられているのか?』
 突っ伏していたノイトラが再び顔を上げ、体を起こす。テスラを雑に見上げると、座ったままテスラの胸ぐらを掴んだ。図抜けて背丈があるノイトラにとって、座ったままテスラの胸ぐらを掴むのは容易だった。
 机に引き据える勢いでテスラを引き寄せたノイトラは、唇を捲って歯を剥き出し、「ごちゃごちゃうるせえ」と低く凄んだ。テスラは慌てず冷静に、抱えている提案を差し出した。
『俺のマンションはオートロックで、そういう連中が近寄れない。空き部屋があるんだ。お前が望むなら、ルームシェアできる』
『は? テメェと一緒に暮らせってほざいてんのか』
『生活を共にしろなんて、言ってない。部屋を好きに使っていい、と言ってるだけだ』
 ノイトラは無言でテスラを突き飛ばし、さらに足蹴にした。思いきり脛を蹴られたテスラはその場に這いつくばる羽目になったが、その上から降ってきたノイトラの声は、反応と真逆の答えだった。
『で、お前の部屋っつうのはどこにあんだよ』
 ――……結局、ノイトラも自分から買った喧嘩のツケが堪りすぎて、生活に支障を来していたのだろう。テスラの提案を受け入れて、翌週には大きなバックパック一つ分の私物を担いで、テスラの部屋にやって来た。ノイトラの私物は、着替えといくらかの現金、制服と学生証と免許証以外、何もなかった。驚くほど身軽なノイトラは、いつ世間から消えても不思議ない雰囲気を纏っていた。学校という重石がつなぎ止めている事実に、テスラは奇跡を感じたほどだ。
 ほどなくして、ノイトラが学生という身分につなぎ止められている理由を知って、テスラは納得した。学生の身分は、卒業生ネリエルとノイトラを繋ぐ唯一のよすがだったのだ。
 ノイトラがネリエルに因縁を吹っかけるも武道の心得があったネリエル相手に負けた、という話をテスラが知ったのは、ルームシェアを始めてすぐ後のことだった。
 ノイトラがつるむ不良集団の一人、ザエルアポロから聞いたのだ。
『ああ見えて出席日数も卒業要件も満たしてるのは関心するねえ。志望校も提出して、教師どもが驚いたらしいじゃないか』
『大学のか?』
『ああ。ネリエルが在籍してる大学だよ。端から見て恋心と誤解されても仕方ない執着だろう?』
 ネリエル。生徒会長で、陸上部のエースだった、卒業生。テスラは優等生を絵に描いたようなネリエルとノイトラに因縁があることにも、その因縁にノイトラが拘っていることにも、心底驚いた。
 卒業まで続いたルームシェアは、二人が同じ大学――ネリエルの在籍する大学に入ったことで解消することなく続いている。
 ネリエルの件をノイトラに直接尋ねたことはない。
 ノイトラにとって不可侵の部分だと、テスラは一歩も二歩も引いた気持ちになる。第三者から何があったのか事実情報は聞き出したが、ノイトラの中でどんな認識なのか、テスラには窺い知れない。
 二人の個人が生活空間を共有するこの部屋には、常にネリエルという三番目の人物が佇んでいる。テスラにはそう思えてならない。ノイトラの、何者にも無関心な横顔をまっすぐ見るには、ネリエルという存在が淡いノイズとなって常に被っているのだ。
 温め直しやすいように具だくさんのミネストローネを作り、パン、サラダと準備したテスラは、リビングテーブルに座ったまま携帯の時計を見つめていた。電話のあと、ノイトラから連絡はない。
「どこまで出かけたんだ……」
 電車で遠出したのだとして、帰る気があるのだ。そこまで遠方ではないだろう。そもそも、ノイトラが街の外に出ること自体考えづらい。あれこれと憶測しながら待ちぼうけしていたテスラだが、やがて待ちくたびれ、リビングのテーブルに伏せて居眠りしてしまっていた。
 疲れていたのか、眠りに落ちてから目覚めるまではほとんど一瞬だった。
「おい。……居眠ってんじゃねえぞ」
 しゃがれた低い声が遠くに聞こえる。続いて、座っている椅子を蹴っ飛ばされる衝撃で、テスラは目が覚めた。
「……っ!」
 不機嫌な表情のノイトラが、テーブルの脇に突っ立っている。急な覚醒でついてこない頭を横に振り、眠気を払いのけながら、テスラは掠れた声で「おかえり」と告げた。
「夕食、温め直そうか」
「いらねえ」
 ノイトラはテスラの対面に容易された食事を一瞥し、椅子を引いた。ノイトラが腰かけたのを見て、テスラも座り直して食卓につく。ノイトラと向き合って食事をするのは数日ぶりだった。
 ノイトラは何も言わず、器にかけられたラップを引き剥がすと、スープボウルを掴んで口を付ける。ずぞぞ、と啜り、スプーンで中身を掬って口に押し込んでいく。この部屋のテーブルでテスラと食事するときのノイトラは、総じて行儀が悪い。行儀を知らないわけではなさそうだが、テスラの前では悪い意味で遠慮がなかった。用意された食事をがっつくように食べ、パンを直接かじり、握りしめたフォークをサラダボウルに突き刺す。テスラの用意した料理の何もかもが気に入らないかのような食べ方だったが、テスラは気にしなかった。
 そんなことより、気になることがある。
「ノイトラ、どこに行ってたんだ? いや、どこまで行ってたんだと言うべきか」
「……」
 ミネストローネを啜ったノイトラは、テスラを睨んだままパンをかじる。テスラを無視して料理を腹に収めてしまうと、空の食器を置いて椅子を引いた。食器を置いたままリビングを離れる。食事を終えていないテスラは、結局何も話さないまま立ち去るノイトラが、玄関やバスルームのある方へ向かうのを見届けた。
(怪我はなかった、どこかで揉めてたわけじゃないらしい)
 高校という限定された庭先から、大学生活でより広い社会に出て、ノイトラが揉める相手も客層・・が変わってきている。テスラの知らないうちに、見知らぬ相手とつるんでいるのかもしれない。テスラは、ノイトラがこの部屋をふらっと出て行く未来を予感している。学生という身分で繋がっている間は手の届く場所にいるだろう、だが。
 それはノイトラも同じだった。ネリエルが社会に出てしまったら、彼の執念は終着するしかない。ノイトラは恐らく、広いようで狭い箱庭にいるうちに、ネリエルと決着をつけたいのだ。決着がどんな形になるのかは、テスラには想像もできない。
 はっきりしているのは、ノイトラとネリエルの繋がりが終わりに近づくにつれ、テスラとノイトラの繋がりも終わりに近づいている。
(あと二年か……)
 夕食を終えて、テスラは手に着いたパン屑をボウルの上で払い、席を立って食器をまとめはじめた。
 ノイトラはシャワーを浴びに行ったのだろうか。バスルームの方から戻らないノイトラの様子を窺いつつ、まとめた食器をキッチンに下げる。そのまま片付けてしまおうと水道の蛇口を捻ると、ざあっと水音を立て始めた。黙々と食器を洗っている背後で、ゴトンと重たいものを雑に下ろす音が響く。
 テスラは洗剤をつけたスポンジを片手に振り向く。フローリングに傷がつきそうなほど、衝撃のある音だった。一体何が、そう思って振り向いたテスラの目にノイトラの腰あたりまである巨大なスーツケースが飛び込んできた。
「ノイトラ、それは」
 テスラが蛇口を閉めて向き直る。ノイトラは片脚でスーツケースを軽く蹴っ飛ばすと、苦々しく口元を歪めて吐き捨てた。
「死体だ。ネリエルのな」

 

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