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DEEP-SETS

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 テスラとノイトラが通う大学キャンパスは、郊外に広い敷地を持っている。構内にはグラウンドがあり、正式な大会に出場する部を主として所属する学生がコンスタントに使用している。特に陸上部は去年から力を入れている。高校時代に新記録を塗り替え続けたネリエルが特待生として入部したためだ。一年の時に複数の種目で大会記録を塗り替える、めざましい活躍でデビューして以来、大学から更なる実績を期待されている。学内でも五指に入る有名人だ。
 ネリエルはグラウンドのトラックを軽やかな動きで走っている。長距離特有の、一定のペースでよどみなく続くランニングスタイルは、パドックを闊歩する競走馬の美しさを宿している。トラック脇で、同じ部の後輩やマネージャーの女子学生たちが、残り周回数とタイムを読み上げる声が歓声のように響く。
 テスラは、グラウンドに併設されているひな壇型の観覧用ベンチに腰かけ、ネリエルの姿を遠巻きに眺めていた。テスラにしては珍しく講義をサボタージュした。鞄を脇に置いて、A5サイズの手帳を膝の上に開いたまま、両目は秋晴れのグラウンドを走るネリエルに向けられたまま、実際は何も見ていない。見ているのは、昨夜の自分たちの部屋、リビングの景色だった。
 昨夜、ノイトラが一日ぶりにルームシェアしている部屋に帰ってきた。人ひとり入れられそうなスーツケースを持って。
 彼はスーツケースの中にネリエルの死体が入っている、と告げた。
 大抵のことに動じないテスラだが、さすがに度肝を抜いた。
『何を言ってるんだ、ノイトラ』
『……ネリエルをぶっ殺した、これはその死体だ』
 ノイトラはそれだけ言うと、スーツケースをリビングのクローゼットにしまうと告げ、クローゼットにあるものを放り出して、空けたスペースにスーツケースを押し込んだ。唖然とするテスラにろくな説明をせず、
「疲れた、寝る」
 そう言い残して、寝室に引き上げていった。そして今朝、テスラが大学に行く時間になっても部屋から出てこず、寝室をノックして声を描けたが反応はなかった。玄関に靴があるので部屋にいるのは確からしかった。無理にドアを開けて寝室に入ることも出来たが、テスラはそうしなかった。
 テスラはいつも、ノイトラのテリトリーに自ら踏み込む真似をしない。
 テスラは、昨夜のうちにクローゼットに押し込まれたスーツケースを確認した。持ち上げてみると、死体一人分を押し込んだと納得できる重量をしていた。スーツケースは鍵で施錠するタイプで、鍵はおそらくノイトラが持っている。
 テスラは中身を改めるのを諦めた。その判断は正しかった、遠景となった走るネリエルの姿を見て確信した。
 あの重たいスーツケースに、本当に彼女の死体が収められているとは考えにくかった。ネリエルは成人女性としては大柄で、折りたたんだだけではスーツケースに収まらないと思われる。然るべき「処置」が必要だ。ノイトラの態度からは、何か――口にするのも憚られる――大がかりな作業を済ませた疲労感や倦怠感が、微塵も感じられなかった。
 何かの喩えなのか。それとも。
 いずれにしても、ネリエルは生きている。多分、ノイトラにあの姿を見せて「どういうことか」と問うても、冷ややかに一瞥されるだけで説明はないだろう。いや、「ネリエルを殺した」と同じ答えを唱えるかもしれない。
 グラウンドの一番向こう側を走っていたネリエルは、いつの間にかコーナーを回り、まっすぐこちらに向かっていた。全身を伸びやかに弾ませ、規則正しく手足を動かし、無心にタイムを計る。暴力や狂気や加害性とまったく無縁の姿。
 初秋の気持ち良い風が、走るネリエルの全身と、ベンチから観覧するテスラの背中を撫でていく。
 ネリエルは長距離走、棒高跳び、槍投げを得意とする、異色の選手だ。特に槍投げについては、天才の評価をほしいままにしている。選手として筋肉量が不足しているとも言われる、細身の体から繰り出される投擲は、下半身の強靭なバネの力を乗せているからか、孤を描いてどこまでも飛ぶかに見えるという。テスラは競技を見ていないが、高校時代に貼り出された大会の総評を読み、彼女らしい、と納得していた。
 持久力、跳躍力、腕力に恵まれた肉体は、大学に入学して最初の大会で、大いに物議を醸した。ドーピング疑惑を始め、様々な嫌疑を掛けられたが、ネリエルはすべての疑問に丁寧に回答し、完璧な結果で沈黙させた。
(確かに彼女の脚力、投擲力は才能だ。……夢での経験が肉体に影響するのなら、ズルをしていると言えるかもしれないが)
 テスラは手元のノートに視線を落とす。
 ノイトラと出会う少し前から、テスラはひと繋がりの夢を見てきた。
 白い砂漠。
 偽物の青空。
 黒い台風のような存在。
 切り伏せられた自分。
 異形の姿となり黒い影と戦うノイトラ。
 そして力及ばず斬り伏せられ、絶命するノイトラ。彼の死を見届けた自分も、静かに絶命していく。
 どこかの世界での、死から始まる夢。一定周期で、夢は過去へと遡っているらしかった。
 夢の中で、テスラはノイトラの従属官だった。他者を圧倒し、殺戮し、併呑してより強力になろうとするノイトラの元で、彼の行いを見届ける傍観者だった。テスラはノイトラの生き様にまったく関われず、彼の長い陰を踏んで後ろからついていくことしかできない、無意味な存在だった。
 そして、ネリエル。
 夢の世界には、彼女もいた。他にも面影に見覚えのある人物が登場したが、彼女の存在は現実世界同様、ノイトラとテスラに鮮烈な影を落としていた。
 ノイトラはネリエルの強さを凌ごうと必死だった。固執し続け、こだわり続け、吠え続けた。現実世界同様、ネリエルはまともにノイトラの相手をしなかった。弱肉強食が徹底する世界で彼女は強者の特権として、弱者をいたぶらないと決めていた――ノイトラは彼女にとって常に弱者だった。
 一度、決定的な決着を付けたあとは、何度となく噛みつくノイトラの相手をしてやっている、という態度で、ノイトラの蛮行に苦い軽蔑の表情を浮かべるだけで、ろくに口を利こうともしなかった。
 嫌悪、軽蔑、憐憫。それが、ノイトラに投げかけられた眼差しのすべてだ。
 テスラはノイトラの数歩後ろから、すべてを見ていた。いつまでも拘るノイトラに微かな苛立ちを感じていたのに、それすら摩耗して、いつかノイトラの精神がネリエルから自由になることをうっすら祈るようになった。
 女が上に立つのは許せないのだ、と憤るノイトラだが、彼が拘るのはネリエルだけだった。何故ネリエルに執着するのか、多分ノイトラ自身にも解っていなかったのだと、テスラは思う。現実世界のノイトラがそうであるように、破面のノイトラも自分の内面を把握していなかった。そうであってほしい、とテスラは思っている。
 夢の中のノイトラ――破面のノイトラは、死という避けられない終着に既に絶望していた。
 破面という存在は、戦い続け、他人を併呑し続け、最後に死ぬ道しか選べない。ネリエルの諦観は、ノイトラの絶望と通底していた。彼らはある一面では似たもの同士と言えた。
 破面のテスラは、すでに勝利や他人を圧倒することを諦めており、ノイトラの絶望の行く末を見届ける意志だけで生きている状態だった。
 現実のテスラもまた、破面のテスラの閉塞感に強く共感した。
 ノイトラの虚無に、何の手も尽くせず寄り添うことも叶わず、観察者でしかない自分。
 そして、そんな自分を無関心でもって受け容れているノイトラ。
 そして、ノイトラの執着に憐憫すら向けているネリエル。
 夢の中でも自分たちは、終点のない一方通行だった。
 テスラは、一昨年頃に見た夢を思い返して、膝の上の手帳を捲る。破面の夢を見るようになってからつけている夢日記だ。ページをめくる。
(破面のノイトラは、ネリエルを騙し討ちして殺した。殺せてはいなかったが、あの時点でノイトラは殺したに等しいと、確信していた……)
 騙し討ちに手を染めてから、ノイトラの絶望はより深くなったかに思える。
 スーツケースに隠したというネリエルの死体。なんの比喩だろうか。
 目を上げて走るネリエルを見る。グラウンドの直線コースを走るネリエルと、確かに目が合った。
(彼女も同じ夢を見ている、おそらく)
 そしてノイトラも。
 ノイトラと夢の話をしたことはない。だが、テスラが話しかけたとき、ノイトラは既にテスラを知っており、テスラにどう接するか決めていたらしかった。試すような会話の応酬があってから、ノイトラは破面のノイトラと同様、無関心のまま隣に付き従うのを善しとした。
 生活を共にする間に、テスラの中で、同じ夢を別の視点で見ているという確信は深まっていった。夢に顕れた些細な会話を、偶然そっくりなぞることも、一度や二度ではなかった。
 高校時代から周囲は、ノイトラの横暴に巻き込まれるテスラに、彼から離れた方がいいと忠告してきた。テスラからすると、自分が無理やりノイトラにつきまとっているのだ。ノイトラの横暴に理不尽さは感じていない。それくらい、現実の、そして破面のノイトラの絶望は深い。
 テスラは立ち上がる。ネリエルの無事を確かめた以上、ここにいる必要はなかった。時計を確認すると、午後の講義には間に合いそうだった。
 ネリエルの美しいフォームも、彼女を取り巻く後輩達の歓声も、テスラには関係ないことだ。
 テスラがひな壇ベンチを下りていくと、ネリエルがグラウンドからこちらに駆け寄ってくるのが見えた。テスラは無視して、グラウンドの脇を横切ろうとする。
「テスラ」
 呼び止められ、テスラは仕方なく視線だけ上げる。ネリエルは小走りに回り込んできてテスラの行く手を阻み、立ち止まる。スクイズボトル片手に息を弾ませ、タオルで汗を拭いながら、社交的な笑顔を一応浮かべてみせた。
「今日は一人なのね」
「何か用かい」
「ベンチで、私のこと見てたでしょう。ノイトラと何かあったのかと思って」
 ネリエルは尋ねたいことだけ告げ、額から滴る汗をしきりにタオルで押さえた。はー、と大きく深呼吸すると、瞬く間に呼吸が整っていく。相当な肺活量と筋肉に支えられた体は、ごく自然に、羚羊の下半身を持つ姿を想像させた。
「ノイトラはどうしてる?」
「どうも。部屋に帰ってきたり、来なかったりだ」
「相変わらず、テスラに甘えてるのね。貴方も、そろそろノイトラの面倒を見るのやめた方がいいわよ」
「君に言われる筋合いはない」
 冷ややかに突き放すテスラの口調に、ネリエルは虚を突かれた顔になった。だが、すぐに曖昧な笑みを浮かべると、キャンパスを見やる。
「午後、心理学の講義に出るんでしょう」
「……」
「途中まで一緒に行くわ」
 グラウンドからキャンパスに向かう方向には、陸上部をはじめとした部活用の更衣室棟がある。勝手についてくるネリエルを振り払うのは難しいと判断して、テスラは無言で受け入れた。
 まったく会話のないままテスラとネリエルは並んで歩く。更衣室のドアがもう数メートル先に迫ってきてから、ネリエルが口を開いた。
「まだ夢は見ている?」
 汗に濡れてボリュームダウンした髪をかき上げ、後ろでまとめながら、ネリエルの視線はテスラが持つ夢日記を見やった。
「……」
「この間、ドンドチャッカとペッシェに会ったの。今度迎えに行くわ」
「……君の従属官」
 ネリエルが立ち止まる。更衣室のドアの前に来ていた。ネリエルはテスラを振り向くと、化粧っ気のない健やかな顔に憐憫の滲んだ苦い表情を浮かべ、そうね、と呟く。
「犬よ」
「犬?」
「友達の紹介で保護犬の譲渡会に行ってみたの。子犬なんだけど兄弟でもないのに仲良しで、大きくてのんびりしたドンドチャッカと、小柄で細身なペッシェ。いい名前だと思わない?」
 現実のネリエルが現実の話をしている・・・・・・・・・・・・・・・・・。テスラは目の前にいるのが破面のネリエルではなく現実のネリエルなのだと、突然思い出すように気づいた。
 陸上の才能に恵まれた年上の女性で、ただの大学生だという現実。
 彼女には異形の従属官はいない。
 ネリエルはひた隠しにしていた夢物語を打ち明けるように、はにかんだ表情で呟く。
「夢で見るあの二人に結局会えないなら、会いに行こうと思ったの。前から、犬を飼いたいと思っていたし……」
 テスラは無言だった。そうか、と答えるのも、良かったと答えるのも、違う気がした。同じ夢を見ながら現実を生きるネリエルからは、夢の世界の自分に対する辛辣なほどの諦念を感じた。ネリエルの夢はどんな顛末を迎えたのか、テスラには知るよしもない。だが、今生きる現実に真摯に向き合わせるだけの何かが、あったのかもしれない。
 そもそも、ネリエルは夢に囚われていなかった。それだけの話かもしれない。
 更衣室のドアを開けたネリエルは、無言で立ち尽くすテスラを振り向いた。
「テスラ、私はね。大学を卒業したら、陸上を辞めるわ。普通に就職して、一護みたいな旦那様を見つけて、結婚して、ドンドチャッカとペッシェと一緒に、楽しく暮らすの。そこには、夢の私が入る余地も、貴方たちが入る余地もない。夢には終わりがあるものよ」
 ネリエルは、優しく残酷に告げた。テスラは視線を逸らす。
「……やっぱり。貴方ももう解っていると、思ってたわ」
 指摘されたテスラは、黙って背を向ける。
「終わりがない夢の方が、残酷だと思わないの?」
 問いかける声。テスラの答えを待たず、更衣室のドアが閉まる。水色のペンキで塗られたスチール製のドアを振り向いたテスラは、手にしていた夢日記を提げていた鞄にしまうと、キャンパスに向かって急ぎ足で歩き出した。講義までもう、残り十分もない。

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